♯6-2
恭助はゼロに言われたとおり、4階を目指した。
しかし、彼の言っていた“資料室”がどこにあるのかまでは見当がつかない。なにしろ、情報屋の内部はただでさえ複雑なのだ。恭助は蝋燭に映しだされた廊下を歩きながら、不安に思っていた。長い。果てしなく長い廊下だ。先ほどから、同じ場所を行ったり来たりしているような気がした。扉ひとつ、見あたらない。深紅の絨毯や、地味な色合いの壁。一定の間隔にかけられた燭台が、延々とそれらを浮かびあがらせるばかりだ。
恭助はふいに寒気を感じた。
耳の奥でざわざわ、心地の悪い音がする。地の底から響くような重い耳鳴りは、しだいに大きく鼓膜を揺らし、音に形を変えていく――恭助は首を横にふって、足早に歩いた。しかし、歩いても歩いても、いっこうに終わらない。それどころか、幻聴はしだいに大きくなっていく。確かな言葉に変わっていく。まるで、その空間に永遠に存在するかのように思わせる、途方もない廊下。不安に思えば思うほど、耳の奥で大きくなるざわめき。やがて、それは彼にはっきりとした言葉を囁いた。
(……コロシテヤル)
恭助は思わず駆けだした。
何者かが勢いよく迫ってくるような、恐怖――背後には誰もいない。しかし、彼は逃げるように走っていた。ふり返らずにひたすら走った。もし、一度でも顧みれば、その場を動けなくなってしまう気がした。恭助はうつむきながら、長い廊下を全速力で駆け抜けた。叫びたくなる衝動を、必死で押し堪えながら――それがいけなかった。前方不注意だ。恭助は、廊下の角をまがろうとした誰かと、勢いよくぶつかってしまったのである。
床にしりもちをつかされた恭助は、思わず表情を歪めた。顔面を打ってしまったのだ。ぶつかられた相手は、小さくため息をもらしたあと、「――大丈夫ですか?」さりげなく手をさしのべた。恭助がはっとして顔をあげると、そこにはシュヴァルツの姿があった。かっちりとしたスーツ、蝶ネクタイを身に纏った彼は、困ったように苦笑を浮かべていた。恭助は慌てて立ち上がりながら、「す、すみません」
「よろしいのですよ。それより、お怪我などはございませんか?」
「あ、だ、大丈夫です。あの……」
「わたくしのことは、どうかお気になさらないでください。なにか、お急ぎの用事でも?」
「資料室を探してたんですけど……ちょっと、迷っちゃって」
恭助は自信なさそうにうつむいた。
シュヴァルツは一瞬、驚いたような顔をしたあと、「資料室はこちらでございます」そう言って、傍らにある扉を手でさした。うやうやしくお辞儀をする姿は、まるで執事だ。恭助が思わず呆気にとられていると、彼は「ああ、そうそう」と思い出したように呟いた。
「ひとつ、注意事項がございます」
「ちゅういじこう?」
「ええ。中にある書類は、基本的にご自由になさってかまいませんが――“閲覧禁止”の棚だけは、ご覧いただくことができません。あなた様は死神ではいらっしゃいませんので……どうか、ご承知おきのほどを」
「は、はあ……」
恭助は首をかしげたが、シュヴァルツはひとり満足げにうなずいて、「では、ごゆっくり……」そう言って会釈をしたあと、反対側にある扉の向こうへ姿を消した。
資料室には、すでに蝋燭の炎が灯されていた。広々とした空間の中に無数の棚が並んでいる。全体的に埃っぽいが、ところどころに椅子や机が置かれており、資料室というよりは大都市にある図書館を思わせた。本棚には、小さくアルファベットや数字が刻まれている。数宇は、年号だとすぐにわかった。しかし、どこに【死神くずれ】ついての書類があるのだろう。辿りついたはよいものの、そこはあまりにも広すぎた。
恭助は本棚のあいだを歩きながら、ふと、シュヴァルツの言っていたことを思い出した。“閲覧禁止”の棚。それは、いったいどのようなものだろう。
「……あれ?」
恭助は唐突に足をとめた。
彼の足もとに、一匹の猫がちょこんと背中を向けて座っている。それは、神宮司が飼っている猫によく似ていた。恭助が思わず、「公爵さま?」と首をかしげると、猫はとたんに身を翻した。しなやかな足取りで、本棚のあいだを駆けていく。恭助は慌ててその姿を追いかけた。猫は、しなやかな足取りで、暗がりになっている方へと向かっていく。二、三度、本棚の角をまがったところで、恭助はその姿を見失った。
行き止まり、だ。
蝋燭の光も届かない場所で、恭助は小さくため息をもらした。目の前には古びた本棚がある。薄暗い闇のなかで彼はじっと目をこらした。その棚には、“閲覧禁止”の文字が刻まれている――シュヴァルツの言っていた、あの棚だ。そこには分厚い本がいくつかと、書類の束がまとめて置かれていた。
恭助は少し考えたあと、そっと手をのばした。
書類は、どれをとっても難しい文字の羅列で、彼には今ひとつ理解しがたい内容のものばかりだ。年代別死者管理表、転生名簿、査問会の記録……恭助はその中のひとつに気になる名前を発見した。ゼロ、だ。それは、彼の査問会の内容が綴られた書類だった。
19XX年12月24日……(中略)……同日、ゼロは死神局において、死者名簿および報告書の改ざんを行ったとして、査問会にかけられる。また、彼には【死神くずれ】の疑いもあるとして……(中略)……以上のことから、彼を上層部より除名、および死神局から半永久的に追放することとし……(後略)
恭助は思わず息を飲んだ。
ゼロは以前、【死神くずれ】の疑いをかけられたことがあるのだ――恭助は茫然としながら、小さく首を横にふった。まさか、そんなはずはない。もし、彼がそうだとしたら……。
「いけませんね」
突如として発せられた言葉に、恭助は背筋の凍る思いがした。シュヴァルツ、だ。彼は燭台を片手に困ったような表情を浮かべていた。「そこは、“閲覧禁止”の棚ですよ……お気づきになりませんでしたか?」彼はやんわりとした口調で言いながら、手にしていた燭台で棚に刻まれた文字を照らし、小さく首をかしげる。恭助はとっさに「し、知りませんでした……よく、見えなくて」と懸命に取り繕いながら、慌てて書類を元に戻した。シュヴァルツはじっと恭助を見つめながら、「まあ、それならよろしいでしょう」とにっこり微笑んだ。
「あ、あの、どうしてここに?」
恭助は、誤摩化すように質問をした。
「ああ……あなた様のことが心配になりましてね。なにしろ、資料室は広いですから。もし、わたくしでよろしければ、お手伝いしてさしあげようかと」
「お、お願いします。実は、全然見つからなくて……」
シュヴァルツはその言葉を聞いて、嬉しそうにうなづいたあと、「なにをお探しですか?」と首をかしげた。「ええと……死神くずれ、について」恭助がそう言うや否や、シュヴァルツは驚いたように目を見開いたあと、小さく首を横にふった。
「まことに残念ながら……死神くずれについての資料は、こちらにはございません」
「ど、どうしてですか?」
「諸事情により詳しくは申し上げられませんが、死神局に移されたのです」
「移された?」
「どうしてあなた様は、そのことをお調べに?」
「そ、それは……」
恭助は少し躊躇ったあと、「本当のことを知りたいんです」と、うつむきがちに言った。
「どうして、僕が狙われたのか……理由が、知りたいんです」
恭助の言葉を聞いて、シュヴァルツは考え込むように顎に手をやっていたが、やがて「そういうことでしたら、おそれながら、わたくしがお力になりましょう」とにっこり微笑んだ。
「ほ、ほんとですか?」
「ええ。嘘は申しません。ご質問は、どうしてあなた様が狙われたのか、とのことですが…………それは、あなた様の魂が美しいことに他なりません」
「ウツクシイ?」
恭助は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。
「ええ。ご自分ではお気づきになっていらっしゃらないかも知れませんが、あなた様の魂はお美しいのです。つまり、純粋でいらっしゃる、ということです……しかしながら、これだけでは完全とは申し上げられません」
シュヴァルツは、うっとりするような目で恭助を見つめながら、「あなた様は、“負の経験”を多くなさっている、ということです」そう言って、小さく息をもらした。負の経験。たしか、ゼロもそんなことを言っていたような――恭助はそれを思い出しながら、静かに耳を傾けた。
「ネガティヴな感情のエネルギーというのは、それはもう、絶大な影響力を誇るのですよ。とりわけ、恐怖といった感情は、ですね。死神くずれは、それらを吸収して自らの力を増大させていると言われております……おそらく、普通の死神では、太刀打ちできないでしょうね」
恭助は少し考えたあと、「何のために、そんなことを?」と首をかしげた。シュヴァルツは、「具体的な目的については、わかりかねますね……」そう言って、顎に手をやりながら、
「これはあくまで、わたくしの推測にございますが……おそらく、死神くずれなる者には、何らかの“計画”があるのではないかと存じます」
「計画?」
「ええ。何か、よからぬことを企んでいるのかも知れません」
「あの……たとえば?」
「――たとえば、“死神局のシステムの破壊”です。本来ならば、死者の魂は、死神によって“あの世”へと送られます。それは【カラス便】や依頼、あの世への【扉】、そして【死神】の派遣が的確に出来てこそ、成り立つものです。しかし、それらのシステムが破壊されるようなことがあれば、どうなると思われますか?」
「え、えっと……」
恭助は、少し考え込むようなそぶりを見せたあと、小さく首を横にふった。「つまり、死神局の運営が完全に止まるということです」シュヴァルツはそう言って、恭助に背を向けた。
「そうなれば、現世には、あの世に行けない者達があふれ返ることになります……死神くずれにとってみれば、それほど都合のよいことはないでしょう。片っ端から、死者の魂を……そして、世界中の魂が彼によって喰らい尽くされるような、“最悪の事態”が起こりかねません」
「あ、あの……」
恭助はおずおずと口をひらいた。
「どうして、そんなことがわかるんですか?」
シュヴァルツは、しばらく恭助に背を向けたまま、じっと黙りこくった。彼が手に持った燭台の炎が、不規則に揺れる。やがて、シュヴァルツは小さくため息をもらしたあと、「これは、あくまでわたくしの推測です。あまり深くお考えになりませんよう」と恭助をふり返った。蝋燭に映しだされた彼の顔は、にっこりと微笑んでいた。
「あ、あの……僕、ちょっと書斎に戻ってみます。もしかしたら、ゼロが戻ってるかも知れないから」
「さようでございますか」
シュヴァルツはやはり微笑んでいた。
「じ、じゃあ……色々と教えてくれて、ありがとうございました」
「とんでもございません。あなた様のお役に立てたのでしたら何よりです。また機会がありましたら、どこかで」
「はい、失礼します」
恭助は慌てて頭をさげると、シュヴァルツの脇を通り過ぎ、足早に書庫の出入り口へ向かった。背後に視線を感じる。しかし、恭助はふり返らずに歩いた。心なしか、小走りになる。彼は言い知れぬ恐怖を感じていた。




