♯3-1
午前9時32分。
昨日の雪がまるで嘘のように、晴れ渡った空。
情報屋をあとにした彼らは、喫茶店【memento mori】の入り口までやってきた。恭助の伯父・神宮司の経営する店だ。大通りからは目立たない場所に建てられているが、駅からそう遠くはなく、普段は、平日でもそれなりに客の姿があった。しかし、今日はいつもとようすがちがう。西洋アンティークの扉には、“本日休業” の札がかかっており、人の気配はまるでない。
恭助は不安げに、窓の向こうに目をやった。レースのカーテンに遮られているが、おぼろげに店内のようすが窺える――そこに、伯父の姿はない。
「入らないのか?」
恭助の背後に立っていた死神が、じれったそうに口をひらいた。
「だって……」
いざ、実際に目の当たりにしてみると、その扉の向こうへ行く決心がつかない。もし、神宮司に会えたとしても、彼には恭助の姿が見えないのだ。彼はその事実を受け入れることが、今さらになって、怖くなったのかも知れない。
いつまで立っても動こうとしない恭助に、死神はしびれを切らしたのか、「来い」と彼の腕を強くつかんだ。恭助は、半ば死神に引っぱられるようにして、見慣れた店内へと足を踏み入れる――扉を開けずに、身体ごとすりぬける感覚は、何度それを経験しても不思議なものだ。恭助は、まるで、この世界がすべて夢であるかのような、そんな奇妙な気持ちになった。
あたりには、わずかにコーヒーの薫りが漂っている。神宮司がいれたのだろう。カウンターの上には、飲みかけのコーヒーと、ガラス製の灰皿が置かれたままになっていた。やはり、店内には誰もいない。
茫然と立ち尽くす恭助をよそに、死神は、店の奥に飾られた一枚の絵を見つめていた。銀色の額縁にはめこまれたそれは、朝の光を浴びて、幻想的な色彩を浮かびあがらせている――【死神】――その題名を裏切るように、白く彩られたキャンバス。中心に描かれた天使を思わせる人物は、やわらかい微笑みを浮かべている。幾重にも重なる、光の輪。それらを眺めながら、死神はため息をもらした。
「…………美しい」
恭助は驚いてふり返った。
まさか、死神の口からそんな言葉がもれるとは夢にも思わない。
「それ……」
僕が描いたんだ――恭助がそう言いかけた時、背後で勢いよく扉の開く音がした。
神宮司、ではない。
そこには制服姿の女の子が立っていた。
前髪をぱっつんに切りそろえた、ショート・ボブ。まだ幼さを感じさせる顔立ちをした彼女は、大きな瞳を潤ませながら、まだ整わない呼吸のままに、「店長!」と今にも泣きそうな声を店内に響かせた。
彼女は、小林 ちえ。高校生である。恭助のバイト仲間であり、後輩にあたる人物だ。華奢な身体をしているが、典型的な体育会系女子。スポーツ万能で男勝りな彼女は、ひ弱な恭助のことを、ことあるごとに “ヘタレ” とからかっていた。
喫茶店の二階は居住スペースになっており、神宮司はそこで生活をしている。きっと、今まで眠っていたのだろう。ようやく、その場に姿をあらわした神宮司は、目もとにひどい隈をつくっていた。その格好は、昨日のままだ。普段ならば整えられた短髪も、今はぼさぼさである。髭もそっていない。恭助は、そんな彼の姿を今まで見たことがなかった。
「ああ、小林さん――学校は?」
「だ、だって、恭ちゃんが……恭ちゃんがっ」
彼女は、とたんに声を詰まらせた。
(…………恭ちゃん?)
恭助は、ひとり首をかしげていた。
小林が彼のことをそう呼んだのは、初めてのことである。むしろ、今までは名前ですら呼んでくれなかった。ことあるごとに、“ヘタレ先輩” だの “ひょろひょろ” だのと奇妙なあだ名をつけられたものだ。それゆえに、恭助は彼女に対して苦手意識をもっていた。
小林はついに堪えきれなくなった涙を、ぼろぼろとこぼしながら、
「恭、ちゃんが……自殺、したって」
「え?」
誰よりも驚いたのは死んだ本人だった。恭助が思わず死神のほうをふり返ると、彼も同様に、目を丸くしていた。
「あ、ああ……」
神宮司は、何ともいえない苦い表情を浮かべながら、「とりあえず、適当に腰かけて」と、カウンターの奥に行き、やかんをコンロの火にかけた。彼は手際よく、コーヒーの豆を挽きはじめる。こうばしい薫りが漂う中、小林は通学鞄から取りだしたタオルで涙を拭いながら、近くのテーブル席に腰をおろした。
「――昨日、刑事さんから聞いたんだけどね」
神宮司はカウンターの奥で背を向けたまま、おもむろに語りはじめた。
「交差点にいきなり、飛びだしたんだってさ……目撃者もいるし、状況からみて “自殺” としか考えられないって。オレも、最初は信じられなかったけど……」
「ウソ、だよね」
小林は縋るような目を、神宮司の背中に向けた。しかし、彼は「いや」と首を横にふったきり、口をつぐんだ。
「そんなわけ、ないもん」
彼女は指を組み合わせ、うつむきながら、独り言のように言葉を並べ立てた。
「だって、恭ちゃん……手紙じゃあんな嬉しそうに、書いてたんだよ。最近は、悪夢も見なくなったって……ひさしぶりにいい絵が描けそうだって。そんな恭ちゃんが、自殺なんて……するはず、ないもん」
(手紙……?)
恭助は、はっとした。
半年前に始めた文通――きっかけは、神宮司だったのだ。“ちいちゃん” という女性から手紙を預かっている、と。まさか、その相手が小林だったとは。最後に手紙を書いたのは、もう一ヶ月も前のことである。
神宮司は、彼女の手前にコーヒー・カップを置き、自分もその向かいの席に腰をおろした。小林は小声で「すみません」と口にしながら、タオルでそっと涙を拭った。
「あたし、電話したんですよ……昨日、何度も電話したのに。全然、つながらなくて」
「ごめん……それは、オレのせいだ」
「え?」
神宮司は、ことの一部始終を彼女に話した。いつになく、恭助に元気がなかったこと。帰り際、彼を引き止めようとしたこと。何度も、電話をかけつづけていたことを――その話を聞いた小林は、少しばかり安堵したように、小さく息をもらした。
「でも、あの時、オレがちゃんと引き止めてやっていれば……こんなことには、ならなかったかも知れない。あの時、オレが…………申し訳、ない」
神宮司は深々と頭を下げた。
「て、店長のせいじゃないですよ!」
小林は慌てて否定した。彼女は、落ち込んだ神宮司を励(はげ)まさねば、と言葉を探したが、とっさに何も思い浮かばなかった。しばらくのあいだ、秒針の音だけが時を刻んだ。言葉にならない感情が、二人のあいだを交錯する。
その空間から逃れようとするように、彼女は勢いよく席を立ち上がった。
「あ、あたし、学校に行ってきます。あの、……あんまり思い詰めちゃ、ダメですよ」
「ああ、ありがとう。行っておいで」
神宮司は、小さく微笑みを浮かべながら、足早に去っていく彼女の後ろ姿に声をかけた。
「どういうことだ?」
神宮司がその場から姿を消すのと同時に、死神は、恭助に訝しげな表情を向けた。
「ぼ、僕だってわからないよ」
「しかし、お前の死が “自殺” として処理されているのは、まちがいないようだ」
たしかに、そのとおりだ。
彼らは恭助の死に戸惑いを隠せないようすだったが、自殺であるという可能性を、完全に否定しなかった。しかし、恭助には納得がいかなかった。あの時、交差点に飛びだしたのは、横断歩道で立ち往生している老人を助けようとしたためだ。けっして、自殺を試みたわけではない。
だけど、と恭助はうつむいた。
彼には、それを試みたことがある。もう10年も前のことだが、あの光景を忘れたことは一度もない。脳裏に焼き付いて離れないのだ――どしゃぶりの雨の日。冷えきった身体に、錆ついた心。そして、今もなお感じている、“あの人” への罪悪感……。
「しかし、妙だな」
死神は腕を組みながら、ふと首をかしげた。
「何が?」
「――【死神】は普通、“自殺” には関わらない。担当の局がちがうのだ。それなのに、お前は」
「ち、ちがうんだ!」
恭助は、唇を震わせた。
「僕は、ただ……助けようとした、だけなんだ……あの、おじいさんを」
死神は、「幻覚だったのでは?」と恭助に冷ややかな視線を向けた。たしかに、昨日は雪で視界が悪かった。恭助自身、極度の寝不足で意識が朦朧としていた。そうだといわれても、仕方がない状況ではある。しかし、恭助は首を横にふった。
「まあ、私がこうして関わっている以上、“自殺” はありえないはずなのだが……」
恭助は、その言葉を聞いて安堵する反面、焦りを感じていた。世間では、恭助の死を自殺として扱われている。それは、変えようのない事実である。しかし、せめて神宮司や小林だけには、真実を知ってもらいたい――彼は、何とかして誤解をとく方法がないだろうか、と頭を抱える。そのとなりで死神は腕を組み、じっと考え込んでいるようすだったが、やがて首を横にふった。
「こうしていても埒があかない。いったん、【情報屋】へ戻るぞ」




