久遠と久音のフロンティア
「そうですか、久遠が死にましたか……残念です」
静かに、顔を伏せた久音さん。まだ言葉も知らない娘を抱いて、よしよしとあやしながらあっさりと呟いた。
「反応、薄いんですね……」
「職業柄慣れてしまうのですよ、貴方も経験がおありでしょうに?」
「まあ、そうですけど」
「割り切れない場合もある、ケースバイケースとでも言いたげですね? 人の値踏みは良くないですよ、一喜憂さん」
互いに、自分のテーブルから紅茶を手に取る。いつかに皆と約束したカフェ、カルデラ近くの喫茶店に僕らは居た。
口中に広がる甘さ、香り高く洗練された茶葉の香り。うちに秘めたほろ苦さが、良いアクセントとして顔を時折覗かせる。
そして、仄かなる余韻に渇いた喉と涙枯れた肉体はもう一口、もう一口とそれを求めた。
半分まで飲んだ紅茶、それにイチゴジャムを溶かして久音さんは呟く。
「まぁ……無理ですよね、酷ですもの。私だってそんな具合ですし、今は泣いてて下さい」
「……どういう意味だ?」
「この子にまで、泣きつかないで下さいよって事です。あなたは老いるだけ、しかし片親です。この子を育てる義務が有りますからね」
「そうだな。ならば、泣くなとでも言う事か?」
すると、銀のスプーンを置いて久音さんは答えた。ティーカップへと指を掛け、それを口に運ぶようにしながら呟く。
「そうですよ。子供だって大変なんです、貴方もですけどね。覚えがありませんか? 『家族の絵を描きましょう』、そんな先生の言葉を」
そう言って、彼女は紅茶を口につける。コクリと喉を鳴らし、僕が見ていると恥ずかしそうにして身を縮めた。
「ああ、あれは辛いな。絵が苦手とか、それ以前に描く事が無くなる。もう、側には居なかったからな」
「そうでしょう? だーかーらー、貴方には笑顔で居て欲しい訳です。いつか聞かれますよ?」
「『私のお母さんは何処?』ってか」
確かに、考えなければいけないなと思った。そして、泣いてばかりは居られないとも思った。まあ、それほど人前では泣かない筈だが。
僕の答えに、久音さんが寂しそうに答える。確か、彼女の家系も複雑だった様な記憶もある。
「ご名答、賢いですね貴方は」
「……よせやい」
僕が言うと、遂に久音さんは鞄を手に取る。白にブラウンの小洒落たハンドバッグだった。
そして、2人の手が伝票に重なる。涼しい位には冷たい手、その指が僕の手のひらに割り込む。
「…………」
気まずい沈黙、それを裂くように僕と彼女は言い放つ。奨学金で進学した僕はその後、教授の厚意で大学助手をしていた。なにかと、生計を立てるのには苦労しているが、それでも譲れないプライド――男の意地――は存在していた。
「払いますよ!」
「いいえ私が払いますよ!? 先に席を立ちましたし!」
「気まずいじゃあないですか、一人でスタスタ出ていくの!」
「そ、それは私も一緒ですからね?」
ふと、訪れた静寂。幸いにも、周りに客は居なかったが気まずい雰囲気が流れる。店主の妻が、何故か瞳を輝かせて此方を見ていた。
『若いって良いわね』
と、そんな風に言いたげな眼差し。それを見た僕達は、互いに手を引く事で決着した。僕らの口から言葉が溢れる。
「「折半で……」」
まだ、店主の奥さんは微笑んでいた。
テーブルの上に硬貨を置いて、久音さんは立ち上がった。僕と店主夫妻に一礼した彼女は、去り際に振り替えって微笑む。
「鳩なら飛ばして置きました。何かありましたらまた御呼びくださいね?」
「ああ、此方も世話になった。助かったよ」
「ええ、お互い様です。紅茶、美味しかったですよ? ではまた、逢いましょうね?」
去り際も、やはり彼女に似ていた。蝶の様に織られたリボン、噛み合わされた3つのそれが御髪の上で揺れた。
綺麗な彼女、それを見ていた僕に店主が微笑む。にっこりと笑い、僕に向かって訊ねてきた。
「コーヒーなら、お代わりサービス致しますよ?」
「いや、良いよ。夢みたいな、素敵な時間をありがとうございました」
「いえいえ、またのご来店を」
目を細めて笑った紳士な店主。そんな彼を前に荷造りをしていた僕は、まだまだ若いのに忘れていた事をひとつ思い出した。
「あ、お会計は?」
「確かに頂きました。女性、あの方が置いていきましたよ。ありがとうございました」
「……やられたか」
「ええ、小銭までピッタリ」
後日、本当にベランダには鳩が居た。白くて美しい鳩、それが僕へと首をかしげたのだった。
後程、いぇいいぇいいぇい!!
P.S.また明日にでも、逢いましょう……ね?




