第1話 時は満ちた
半田 祐貴は、ベッドから跳び起きた。
シーツは湿り、息は荒い。まるでマラソンをした後の様に、筋肉は硬直している。
――悪夢だ。最近は頻繁に見る。
もう記憶の奥底に埋もれたのだと思っていたのに、また出てきた。
――何故だ?
俺は忘れていた。忘れていた方が良かったからだ。今更俺に思い出せと?
――フン、下らない。
俺には父親の頼もしさも、母親の暖かさもいらない。
俺が欲しいのは安全だけだ。安全ならば安心する。それ以上は望まない。
――この世の中では、最早叶わないのかも知れないが。
ベッドから降り、窓へ近付く。そしてカーテンを開けると、眩しい光が部屋に入り込んだ。
今日の天気は、晴れ。雲一つ無い天気だ。
「学校、か……。」
“生きるために”学校へ行く。
“生きるために”が俺の全て。
この世の全ての者など、生きるだけで十分だ。
ここは東京の都心部。娯楽施設は充実しているが、同時に犯罪の件数も多い。
東京は楽しい所だと言う輩もいるが、弱い立場の俺に言わせれば、ここは超危険地帯だ。
この町にいて、笑顔で生活している輩の気が知れない。
気が滅入る。
高校に着いたら、まず必ず先輩達のパシリとして迎えられる。
それが弱い奴の運命。
「おい、ジュース買ってこいよ。」
ただ無言で買いに行く。
――良いんだ。
俺は痛いのは嫌だから、こうやって貢いで生きていくんだ。
どんなに惨めでも、生きれば良い。
ジュースを買い、パシリを終えると、次の試練が待っている。
「おっはよーう!昨日のテレビ、見たぁ?」
――果てしなく、ウザイ。
こいつは五十嵐 透。この高校に入ったときから、何故か俺に寄ってくる。見ての通り天然だ。
最近はホモ疑惑もかけられているが、本人は気にしていない。無論、それがまたホモ疑惑を深める事になっているとは、こいつは思う筈も無い。
だが、何故かいつも撒けない。
「あれぇ?なんか今日、心拍数早くない?」
時々妙に鋭い所を突くからだ。立ち去ろうとしても、こいつの言葉が足を止める。
――もしかすると、こいつは良い相談役になってくれるかも知れない。
そう思い、祐貴は口を開いた。
「実は……。」
が、その瞬間、教室中から寒気が浴びせられた。 こいつと話そうとした俺を、クラス一丸となって軽蔑しているのだ。もちろん、ホモ疑惑の仲間入りをするのはまっぴら御免だ。
祐貴はすぐに口を閉じ、机の中に教科書を収め始めた。
「……?今、何か言い欠けなかった?」
透の質問を無視して、机に教科書を突っ込んでいく。
透はもう一度口を開いたが、それと同時に教室の戸が開いて、先生が入って来た。
これで透もやっと退散してくれるだろう。
だが、透は席に着く前に祐貴の耳元に口を近付けて、ボソボソと呟いた。
「ナイトの魂が出たがってるよ祐貴君ー?もう時は満ちたってさぁ……。」
祐貴はバッと透の方を振り返る。
――笑っている。ニヤニヤと、企む様に。
こいつは何かを知っている。俺も知らない、俺自身の事を知っている。
でも、聞き出せない。周りの目があるから。くだらない世間体思想が、行動を邪魔する。
ならば、放課後に話を聞こう。
だが、祐貴はそこである問題に気付いた。
透は学校にいる間は祐貴に寄ってくるが、放課後になると姿を消すのだ。
後を着けても、角を曲がれば見失ってしまう。
待ち伏せしても、学校内でさえ同じ道を通らない。
まるで霞を捕まえようとしている様だ。
そして透を捕まえられないまま、一週間が過ぎた。
ここまで逃げ回られると、最早どうでも良くなってくる。 大体、何で透と追い掛けっこなんかしなきゃならないんだ。
――ナイトの魂が出たがってるよ祐貴君ー?もう時は満ちたってさぁ……。
うるさい!あんなの、空耳だ!第一、ナイトって何だ?何であいつが、そんな単語を発する!?
――ナイトの魂が出たがってるよ祐貴君ー?
消えろ!
――ナイトの魂が出たがってるよー?
消えろ!消えろ!
――ナイトの魂が……。
「消えろッ!!」
「えっ……。」
目の前に、透が居た。
「あ……。」
「う、ん……。そうだよ、ね……。」
透が教室から出ていき、戸が閉まる。
その途端、クラス中から歓声が揚がった。
「よくやったな!すっきりしたぜ!」
「俺、あいつの事嫌いだったんだよ!」
「いやぁ、まさかお前が言ってくれるとはなぁ。」
みんなが俺を誉め称える。それは、俺にとって初めての事だった。
――キタナイ。
人間は、キタナイ。
あいつが傷付いたのを無視して、自分達だけ喜んでる。
自分達だけ喜んで、あいつが傷付いたのを無視したのにも気付かない。
これも、人間の悪い所だ。
自分には非が無いと、都合良く責任逃れしている。
俺はそういうのが許せない。
こいつらは……。
そこで思い止まり、少し頭を冷やした。
――止めろ、構うな。別に良いだろう。
俺は力が無い癖に、昔から妙にこういう事に敏感だ。
それを個性と言うならば、しょうがない事だが。
だが、俺は生きていかなきゃならない。だからこんな所で不興を買うのは御免だ。
あれから数日経った。透は、まだ学校に顔を出していない。
自殺するのだろうか?
それとも社会から離れて、引き込もって生きていくのだろうか?
――透のあの時の顔が拭い切れない。
あの顔は、本当に心が傷付いた顔だった。そして人を傷付ける事は、俺の“許せない”に入る。
だから俺は、誰かをあんなに傷付けたのは初めてだ。
それが例え、ウザくて気持ち悪い奴でも、俺は許せない。