騙されやすい公爵令嬢を、男爵令嬢は今日も笑っている
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「リリア・エルフォードは、ひどく騙されやすいらしい」
その噂を初めて聞いたとき、アメリア・クライン男爵令嬢は笑った。
王家に次ぐ権勢を誇るエルフォード公爵家の一人娘。
王太子アルベルトの婚約者であり、順当にいけば未来の王妃となる令嬢。
そんな女が、恐ろしいほど人を疑わないのだという。
幼いころには、商人から「これは東方に一つしかない幸運の石です」と言われ、ただの河原の石を金貨十枚で買おうとしたことまであるらしい。
「そんな方、本当にいらっしゃるの?」
アメリアが聞くと、向かいに座る男は鼻で笑った。
「いるから面白いんだろう」
薄暗い部屋だった。
男の名前を、アメリアは知らない。
知る必要もないと言われていた。
ただ、王立学院へ入学したあと、何をすればよいのかだけは聞いていた。
王太子へ近づくこと。
王宮内部の情報を集めること。
必要であれば、王太子の婚約者を利用すること。
成功すれば、十分な報酬を与える。
領地も豊かではなく、決して裕福とはいえないクライン男爵家の娘であるアメリアにとって、それは魅力的な話だった。
「王太子殿下は?」
「女に慣れていない。少し持ち上げてやれば落ちる」
「婚約者がいるでしょう?」
「だから、その婚約者が使えるんだ」
男は愉快そうに笑った。
「人を疑わない女ほど、利用しやすいものはない」
アメリアも、そう思った。
◇
実際、王太子アルベルトの心をつかむのは簡単だった。
「殿下って、とてもお優しいんですね」
そう言えば、アルベルトは照れたように笑った。
「私なんて男爵家の娘ですし……殿下とこうしてお話ししているだけでも、皆様に何を言われるか」
悲しそうに俯けば、
「身分など関係ない」
と手を握った。
夜会のあと、人気のない温室で二人きりになった日には、
「君といると、僕は王太子ではなく、一人の男でいられる」
などと言った。
アメリアは笑いをこらえるのに苦労した。
王太子という肩書を取ったら、この男には一体何が残るのだろう。
もちろん、そんなことは口にしない。
「私もです」
頬を染め、そっと身を寄せると、アルベルトは嬉しそうに彼女を抱きしめた。
簡単だった。
あまりにも簡単だった。
だからこそ、アメリアが最初に警戒していたのはアルベルトではなく、その婚約者のほうだった。
リリア・エルフォード公爵令嬢。
淡い金髪に、春空のような水色の瞳。
家柄だけを比べれば、男爵令嬢であるアメリアなど相手にもならない。
王太子へ近づく女が現れれば、当然、排除しようとするだろう。
表向きには微笑んでいても、裏では何をされるかわからない。
ところが。
「あら、アメリア様」
初めてまともに話したリリアは、噂以上だった。
「いつも殿下と仲良くしてくださって、ありがとうございます」
「……え?」
アメリアは思わず聞き返した。
「殿下はお忙しい方でしょう? 学院でも気を許せるお友達がいらっしゃるのは、とてもよいことだと思うの」
嫌味ではない。
どうやら、本気なのだ。
アメリアとアルベルトがどれほど親しくしているのか、この女は本当にわかっていないらしい。
「まあ……。私なんかでよろしいのでしょうか」
「もちろん」
にこり。
リリアが笑った。
その日の夜、アメリアは寝台の上で枕へ顔を押しつけながら笑った。
本物だ。
こんなにも愚かな女が、本当にいる。
◇
だから、少し試してみることにした。
「リリア様ぁ」
ある日の昼休み。
アメリアは目に涙を浮かべながら、リリアのもとへ駆け寄った。
「お願いがあるんです」
「まあ。どうしたの?」
「母が病気なんです」
もちろん、嘘だった。
アメリアの母親は前日の舞踏会にも参加していた。
「王都の薬師にしか作れない特別なお薬が必要だと言われて……。でも、金貨百枚もするんです」
周囲の令嬢たちがざわついた。
金貨百枚。
下級貴族なら一年は暮らせるほどの大金だ。
さすがにこれは断るだろう。
十枚でも引き出せれば十分だと、アメリアは考えていた。
ところが。
「わかったわ」
「え?」
「あとで届けてもらうわね」
「ほ、本当ですか?」
「もちろん。お母様、早くよくなるといいわね」
リリアは、何の迷いもなく笑った。
その日の夕方、本当に金貨百枚が届いた。
公爵家の紋章が入った立派な箱に、金貨がきれいに並べられていた。
「本当にくれた……」
思わず笑いが漏れた。
金の一部は、その日のうちに必要な相手へ渡した。
もちろん、薬など一つも買わなかった。
◇
次に頼んだのは、王宮への通行許可証だった。
「王宮の図書室に、母の病気を治す方法が載った本があるらしいんです」
我ながら雑な嘘だと思った。
けれどリリアは、
「まあ、困ったわね」
と眉を下げただけだった。
「でも、私みたいな男爵令嬢では入れなくて……。でしたら、リリア様のお名前で許可証を出していただけませんか?」
さすがに、これは断るかもしれない。
そう思った次の瞬間。
「いいわよ」
あっさりと許可された。
数日後、届いた許可証には、小さな識別印が入っていた。
アメリアは特に気にも留めず、その許可証を使って王宮へ入った。
内部には、すでにこちらへ手を貸す者がいた。
その手引きで王太子執務室へ近づき、国境防衛に関する文書を一冊持ち出した。
驚くほど簡単だった。
しかし、その翌日。
王太子執務室から機密書類が消えたことが発覚した。
当然ながら、アメリアへ許可証を出したリリアも事情を聞かれたようだった。
それでも翌朝になれば、リリアは何事もなかったように、
「アメリア様。ごきげんよう」
と笑っている。
アメリアは確信した。
この女なら、どこまでも利用できる。
◇
それからは簡単だった。
「孤児院へ寄付したいんです」
と言えば、金を出した。
もちろん、孤児院へ渡るはずだった金は別の場所へ消えた。
「殿下への贈り物を選びたいんです」
と言えば、王室御用達の宝石商を紹介した。
店には、王家へ納める予定の宝石が保管されていた。
それを持ち出すことにも成功した。
ところが。
「偽物だ」
受け渡しをした相手は、宝石を見るなり顔をしかめた。
「え?」
「ただの模造品だ。価値などない」
「そんなはずありません。確かに王家へ納めるものだと……」
だが、何度調べても結果は同じだった。
アメリアは腹を立てた。
王室御用達を名乗るくせに、本物と模造品を取り違えるとは間抜けな店だ。
そう思っただけだった。
また別の日には、
「王太子殿下から預かった手紙を運んでほしいんです」
と頼んだ。
リリアは自分の馬車まで貸してくれた。
公爵家の紋章が入った馬車なら、夜中に王都を走っていても怪しまれにくい。
馬車は外国大使館へ入り、そこで一人の人間を乗せて戻った。
御者は無口な男だった。
アメリアは大して気にも留めなかった。
数日後、その人間につながる者が調べられているという知らせが入った。
運が悪かったのだろう。
どこか別の場所で足がついたに違いない。
最初にもらった金貨を受け取った者の一部に調査の手が伸びているという話も聞いた。
それも、大金だったから目立ったのだろうとしか思わなかった。
一つ一つを見れば、少しずつ予定外のことは起きていた。
けれど、それらが一つにつながっているとは、アメリアには思えなかった。
何より、リリア自身が何も変わらなかったからだ。
金が消えても。
機密書類が盗まれても。
宝石商で盗難が起きても。
自分の馬車が外国大使館へ入っても。
「何か事情があるのだと思うわ」
そう言って、にこにこと笑っている。
そんな女が、自分を疑っているはずなどない。
◇
学院では、次第にリリアを陰で笑う者が増えていった。
――頭の弱い公爵令嬢。
――家柄しか取り柄のない女。
――あれが未来の王妃だなんて、国が滅びる。
アメリアも、心の中では同じように思っていた。
いや。
次第に、それ以上のことを考えるようになった。
こんな女より、自分のほうが王太子妃に相応しいのではないか。
アルベルトは自分を愛している。
少し頼めば、どんなことでも教えてくれた。
「将来、私が殿下の妻になるのなら、お仕事のことも理解しておかなければいけませんよね?」
そう言えば、
「もちろんだ」
と嬉しそうに話した。
宝物庫の場所。
警備の交代時間。
王宮内の事情。
国境に関わる情報。
「こんなことまで、私が聞いていいんですか?」
不安そうに見上げれば、
「君は将来、僕の妻になる人だ」
と答える。
簡単だった。
リリアも。アルベルトも。
誰も彼も。
どうしてこんなに簡単なのだろう。
そうしてアメリアは、とうとうリリアを完全に排除することにした。
アルベルトも乗り気だった。
リリアに教科書を破られた。
階段から突き落とされた。
毒を盛られそうになった。
そんな話を作った。
王太子の取り巻きたちも、アメリアが少し涙を見せれば簡単に協力した。
証人を用意した。
手紙も作った。
筆跡鑑定をされても困らないよう、十分に準備した。
卒業記念舞踏会の三週間ほど前には、ほとんどすべてが整っていた。
そんなある日。
学院の廊下で、リリアとすれ違った。
「アメリア様」
「あら、リリア様」
「卒業記念舞踏会、楽しみですね」
「ええ。とても」
「私も楽しみですわ」
「素敵な夜になるといいですね」
「ええ」
それだけだった。
リリアはいつものように笑って、通り過ぎていった。
◇
卒業記念舞踏会の日。
すべては予定どおり進んだ。
「リリア・エルフォード公爵令嬢!」
大広間の中央で、アルベルトが高らかに声を上げる。
数百人の貴族たちが振り返った。
リリアは壁際でケーキを食べていた。
銀のフォークを持ったまま、
「あら?」
と顔を上げた。
その姿を見て、アメリアは笑いそうになった。
最後まで何もわかっていない。
「私は今日この場で、君との婚約を破棄することを宣言する!」
会場がざわめいた。
「そして私は、真実の愛を見つけた。アメリア・クライン嬢を新たな妃として迎えたい!」
アメリアは頬を染めてみせた。
勝った。
そう思った。
ところが、リリアはしばらく二人を見たあと、
「おめでとうございます」
と言った。
「……は?」
アルベルトのほうが戸惑った。
「お二人とも、お幸せに」
哀れな女。
自分が捨てられたことすら理解していないのだ。
続いて、用意していた嫌がらせの話を持ち出した。
教科書。階段。毒薬。
証人たちも前へ出る。
「私は見ました!」
「命令した手紙もあります!」
「筆跡鑑定も済んでいる!」
リリアは困ったように頬へ手を当てた。
「それは大変ね」
とうとうアメリアは、笑いをこらえるのに必死になった。
そのときだった。
「――そうだな、アルベルト」
低い声が、大広間に響いた。
扉が開く。
入ってきたのは国王だった。
◇
そこからは、何が起きたのかよくわからなかった。
「近衛兵。王太子アルベルト、クライン男爵令嬢、ならびにそこの三名を拘束せよ」
最初は、自分が呼ばれたことさえ理解できなかった。
国家機密漏洩。
横領。
外交文書偽造。
王室財産の窃盗。
外国勢力との内通。
次々と罪が読み上げられる。
エルフォード公爵が持っていた書類には、アメリアが関わったものが次々と並んでいた。
盗まれた国境防衛文書。
孤児院へ渡るはずだった金。
宝石商から消えた宝石。
外国大使館へ向かった馬車。
そして、アルベルトからアメリアへ流された情報。
「違います!」
アメリアは叫んだ。
「私は殿下に教えていただいただけで!」
「アメリア!?」
「あなたが全部教えてくれたんでしょう!? 宝物庫の場所も、警備の交代時間も!」
「君が聞き出したんじゃないか!」
「だってあなた、私のためなら何でもするって!」
「黙れ!」
取り巻きたちまで叫び始めた。
「私はアメリア嬢に頼まれただけです!」
「殿下の命令だ!」
「毒薬だって本物じゃない!」
「手紙を書いたのはお前だろう!」
誰もが必死だった。
先ほどまで仲間だった者たちが、次々と互いへ罪を押しつける。
アメリアも同じだった。
何とかしなければ。
誰かに助けてもらわなければ。
必死で辺りを見回した、そのとき。
リリアが目に入った。
そうだ。この女がいる。
「リリア様!」
アメリアは叫んだ。
「助けてください!」
リリアが振り返る。
「私たち、お友達でしょう!?」
リリアは悲しそうに眉を下げた。
「ごめんなさい。私には、何が何だか……」
「お願い! リリア様なら陛下に頼めるでしょう!?」
「でも、私、難しいことはわからなくて」
いつもの頼りない笑顔だった。
近衛兵に腕を引かれる。
アメリアは絶望した。
駄目だ。
この女は、最後まで何もわかっていない。
自分が何カ月も利用されていたことさえ理解していない。
――なんて、愚かな女。
そう思いながら、アメリアは大広間を連れ出された。
◇
牢へ入れられて五日が経った。
それでもアメリアは、まだ自分が助かる可能性はあると思っていた。
確かに外国勢力へ協力した。
けれど、すべてを考えたのは自分ではない。
指示を出した人間がいる。
アルベルトから情報を教えられたことも事実だ。
自分は利用されたのだ。
そう説明し、捜査へ協力すれば、罪が軽くなるかもしれない。
何より。
リリアがいる。
大広間では役に立たなかったが、あの女は自分を友人だと思っている。
泣いて頼めば、何かしてくれるかもしれない。
そんなことを考えていた日の夕方。
看守が一通の手紙を持ってきた。
「お前宛てだ」
「私に?」
差出人を見て、アメリアは目を見開いた。
エルフォード公爵家。
封蝋には、見慣れた公爵家の紋章が押されている。
急いで封を開いた。
そこには、可愛らしい字でこう書かれていた。
『アメリア様。
突然このようなことになってしまって、私もとても驚いています。
お父様に伺ったところ、もしアメリア様が悪い方々に利用されていただけなのでしたら、そのことをきちんとお話しすることが大切なのだそうです。
私には難しいことはよくわかりませんが、アメリア様が本当のことを全部お話しすれば、きっと皆様にも事情が伝わると思います。
ですから、どうか何も隠さずにお話ししてくださいね。
リリア』
読み終えたアメリアは、ふっと笑った。
「……馬鹿」
こんなことになっても、まだ自分を信じている。
やっぱり、何もわかっていなかった。
大広間では役に立たない女だと思ったが、訂正しよう。
まだ使える。
むしろ、これが最後の機会かもしれない。
おそらくリリアは父親に、自分の話をきちんと聞いてやってほしいと頼んだのだろう。
公爵令嬢が自分を庇っているとなれば、調査する側だって無視はできない。
最後の最後まで、本当に便利な女だった。
◇
その日の午後、王家の調査官が二人、アメリアの牢を訪れた。
「アメリア・クライン嬢。あなたは、自分が外国勢力に利用されただけだと主張していますね」
来た。
アメリアは内心で笑った。
やはり、リリアが動いたのだ。
「そうです。私は騙されていたんです」
「では、その主張を裏付ける情報があるなら、話してください」
「情報?」
「あなたが単なる実行役だったのなら、指示を出していた人間や、その組織について我々が知らないことも知っているでしょう」
アメリアは少し考えた。
そして、話した。
連絡役。
合言葉。
会っていた場所。
金の受け渡し方法。
知っている協力者。
調査官は、アメリアの話を黙って記録していった。
「ほかには?」
「……あります」
隠す必要はない。
むしろ、多くの情報を渡せば、それだけ自分が指示を受けて動いていただけだという証明になる。
「王都の東側に、空き家があります」
「空き家?」
「誰も住んでいません。でも、地下室があるんです」
調査官の筆が止まった。
「そこには何がある?」
「帳簿です。誰に、いくら払ったのか。取引の記録があります」
アメリアは身を乗り出した。
「私の名前もあると思います。でも、それを見ればわかるはずです。私が全部を決めていたわけじゃないって」
調査官たちは顔を見合わせた。
「場所を詳しく教えてください」
アメリアは、すべて話した。
まだ誰にも見つかっていない場所。
捜査の手が及んでいない証拠。
自分が知っている限りのことを、すべて。
これでいい。
これで助かる。
リリアのおかげで。
◇
三日後、再び調査官が現れた。
「帳簿は見つかりましたか?」
「ああ」
「なら、私が利用されていただけだということも、わかりましたよね?」
期待を込めて尋ねると、調査官は机の上へ数枚の書類を置いた。
「あなたが教えた地下室からは、帳簿のほかにも複数の証拠が発見された。あなたの情報をもとに、新たに関係者も拘束している」
アメリアの顔が明るくなった。
「でしたら――」
「ただし」
調査官が遮った。
「帳簿の内容は、あなたの主張を裏付けるものではなかった」
「……え?」
「あなたは命令されるまま動いていただけだと言った。しかし、あなた自身が報酬について交渉した記録や、自ら計画へ加わったことを示す記録が残っている」
アメリアの顔から笑みが消えた。
「それは……」
「少なくとも、あなたが何も知らずに利用されただけの被害者だったとは認められない」
「違います!」
アメリアは立ち上がった。
「私は利用されていたんです!」
「その可能性も含めて調べた」
「リリア様が!」
自分でも、なぜその名前を出したのかわからなかった。
「リリア様だってそう思っているから、私に手紙をくださったんです!」
懐から手紙を取り出す。
「ほら!」
調査官はそれを受け取り、静かに読んだ。
そして、少し不思議そうな顔をした。
「この手紙が、どうした?」
「どうしたって……。リリア様は、私が悪い人たちに利用されていただけなら、本当のことを話せばわかってもらえるって!」
「そう書いてあるな」
「だから私は話したんです!」
「そうだな。おかげで非常に助かった」
「だったら私は……!」
そこまで言って、アメリアは止まった。
調査官が淡々と言った。
「公爵令嬢は、あなたを助けるとは一言も書いていないが」
「……え?」
手紙を奪い返す。
もう一度読む。
『もしアメリア様が悪い方々に利用されていただけなのでしたら、そのことをきちんとお話しすることが大切なのだそうです』
『アメリア様が本当のことを全部お話しすれば、きっと皆様にも事情が伝わると思います』
『どうか何も隠さずにお話ししてくださいね』
確かに。
どこにも、助けるとは書かれていない。
「でも……」
喉が乾いた。
「リリア様は、私を信じて……」
「エルフォード公爵令嬢からは、あなたが自分は利用されただけだと主張しているのであれば、十分に話を聞いてほしいという申し出があったそうだ」
「話を……?」
「本当にその主張が正しいのであれば、本人の知る情報を確認することで判断する材料になるだろう、と」
調査官は書類を揃えた。
「結果として、非常に有益だった」
アメリアは動かなかった。
胸の奥に、小さな違和感が生まれた。
とても小さなものだった。
けれど、一度気づいてしまうと無視できない。
「……待ってください」
「何だ?」
「最初の金貨」
なぜ、そんなことを聞こうと思ったのか、自分でもわからなかった。
「リリア様からもらった、金貨百枚です。その金を渡した人たちが、あとから調べられていました」
「ああ」
「どうしてです?」
調査官は、当たり前のことのように答えた。
「出所を確認できる刻印が入っていたからだ」
アメリアは瞬きをした。
「……刻印?」
「エルフォード公爵家から事前に連絡を受けていた。金貨がどこへ流れるか確認するように、と」
「事前に……?」
「ああ」
「私に渡す前から?」
「そうだ」
アメリアは黙った。
「では……王宮の通行許可証は?」
「許可証?」
「私が使った、リリア様名義のものです」
「あれには追跡用の識別印が付いていた」
「普通の許可証にも付いているんですか?」
「いや。あの許可証には、特別に付与されていたそうだ」
アメリアの唇が、わずかに震えた。
「……最初から?」
「ああ」
息がしづらくなった。
「宝石は?」
「宝石?」
「王室御用達の店から消えた宝石です。あれは偽物でした」
「当然だろう」
調査官は淡々と答えた。
「本物は、あなたが店へ行く前日に模造品へ入れ替えられていた」
アメリアは何も言えなかった。
「……馬車は?」
「何だ?」
「私が借りた、公爵家の馬車の御者は……?」
調査官が眉を上げた。
「知らなかったのか。あの男は、エルフォード公爵家の諜報部の人間だ」
そこで、アメリアの中で、今まで別々だったものが、初めて一つにつながった。
◇
金貨百枚。
自分が頼んだ。
リリアは渡した。
けれど、その金がどこへ流れるのかを確認できるようにしていた。
王宮の通行許可証。
自分が頼んだ。
リリアは渡した。
けれど、どこへ行くのか追えるようにしていた。
宝石商。
自分が紹介してほしいと頼んだ。
リリアは紹介した。
けれど、その前日には本物が模造品へ入れ替えられていた。
馬車。
自分が貸してほしいと頼んだ。
リリアは貸した。
けれど、御者は公爵家の諜報部の人間だった。
「……嘘」
かすかな声が漏れた。
そんなはずはない。
だって。
リリアは何も知らなかった。
何もわかっていなかった。
『でも、アメリア様が盗んだとは限らないわ』
『何か事情があるのだと思うわ』
『もちろん』
『いいわよ』
『お役に立ててうれしいわ』
今まで聞いた言葉が、次々と頭の中に蘇った。
「……そんな」
まだだ。
まだ、偶然かもしれない。
そう思った。
思いたかった。
「卒業記念舞踏会のことは……」
「何だ?」
「私たちが、リリア様を告発する準備をしていたことは知らなかったのよね?」
調査官は少し考えた。
「エルフォード公爵家は、三週間ほど前には把握していたそうだ」
三週間。
アメリアの指から、手紙が落ちた。
思い出した。
学院の廊下。
「卒業記念舞踏会、楽しみですね」
そう言って、リリアはいつものように笑っていた。
知っていた。
あのとき。
全部、知っていた。
それなのに、何もしなかった。
なぜ。
答えは、一つしかなかった。
待っていたのだ。
アメリアたちが大広間に全員揃い、偽の証言をし、追い詰められ、最後には互いの罪を自分たちの口で喋り始めるのを。
「……ふ」
小さな声が漏れた。
調査官がアメリアを見る。
「どうした?」
「いえ……」
アメリアは口元を押さえた。
笑うところではない。
何一つ、おかしいことなどない。
それなのに。
「ふふ……」
どうしてか、笑いが漏れた。
金貨百枚を受け取った日のことを思い出した。
『お母様、早くよくなるといいわね』
あの顔を見て、自分はどれほど笑っただろう。
なんて馬鹿な女なのだと思った。
通行許可証を受け取ったときもそうだ。
『いいわよ』
そう言われて、何の疑いもなく王宮へ入り、自分の足取りを残した。
宝石を盗んだときも。
馬車を借りたときも。
全部。
「はは……」
笑い声が少し大きくなった。
「アメリア嬢?」
「だって……」
涙が滲んだ。
「私、あの方を騙していたのよ」
調査官は何も言わなかった。
「ずっと。何度も。あの顔を見て、馬鹿だって笑って……」
頭の中に、リリアの顔が浮かぶ。
少し首を傾げる仕草。
困ったような笑顔。
ふわふわした声。
『あら』
『まあ』
『そうなの?』
『いいわよ』
今まで、何も知らない人間の顔にしか見えなかった。
けれど、事実だけを並べてしまえば、まるで違う。
アメリアが頼む。
リリアが許す。
アメリアがさらに踏み込む。
そして、その先で証拠が残る。
それを何度も繰り返していた。
「違う……」
アメリアは頭を振った。
そんなはずはない。
リリアは馬鹿なのだ。
皆がそう言っていた。
リリアの父親だって何度も言っていた。
『お前は本当に、人を疑うということを覚えなさい』
だから。
自分が間違っているはずがない。
そのとき。
床に落ちた手紙が目に入った。
『どうか何も隠さずにお話ししてくださいね』
アメリアの背筋を、冷たいものが走った。
これも同じだった。
リリアは、助けるとは一言も書いていない。
アメリアが勝手にそう思った。
あの女ならまだ利用できる。
愚かだから、自分を助けようとする。
そう信じて。
だから。
誰にも見つかっていなかった地下室を教えた。
帳簿を。残っていた証拠を。
まだ知られていなかった協力者を。
全部、自分から話した。
「……また?」
アメリアは呟いた。
「私……また、自分から……?」
返事はなかった。
いや、そもそも、騙されたのだろうか。
リリアは、一度も嘘をついていない。
助けるとも言っていない。
悪事をしろとも言っていない。
いつだって、アメリア自身が意味を決めたのだ。
金貨を何に使うのかも。
許可証でどこへ行くのかも。
紹介された店で何をするのかも。
借りた馬車をどこへ向かわせるのかも。
全部、アメリアが選んだ。
そして、リリアが愚かだと思えば思うほど、アメリアは大胆になった。
「一回……?」
アメリアは指を折った。
金貨。
許可証。
宝石。
馬車。
舞踏会。
今度の手紙。
途中で、指が止まった。
違う、数えられない。
一体、どこからだったのだろう。
いつから、自分は騙しているつもりで、勝手に自分の罪を積み上げていたのだろう。
大広間の光景が蘇る。
「リリア様!」
自分は確かに叫んだ。
「私たち、お友達でしょう!?」
そしてリリアは、悲しそうな顔で言った。
「ごめんなさい。私には、何が何だか……」
あのとき、自分は心の底から思った。
――なんて、愚かな女。
「あ」
アメリアの喉から、妙な声が漏れた。
そうだ。
あのときまで。
あの瞬間まで。
自分は、一度も疑わなかった。
リリアより自分のほうが賢いと信じていた。
だから、牢へ入ってから届いた手紙も疑わなかった。
同じだった。何も変わっていなかった。
「あは」
涙が一筋、頬を伝った。
「あはは……」
アメリアは床から手紙を拾い上げた。
そして、もう一度読み返した。
『本当のことを全部お話しすれば、きっと皆様にも事情が伝わると思います』
確かに、伝わった。
自分が、何も知らず利用されただけの人間ではなかったことまで。
全部。
「あははは……」
とうとう、声を上げて笑った。
だって。
ずっと。
本当にずっと。
自分はリリア・エルフォードを騙しているつもりだったのだ。
金を奪った。
王宮へ入った。
宝石を盗んだ。
馬車を使った。
アルベルトまで奪った。
全部、うまくいった。
あまりにも、うまくいった。
だからやめなかった。
疑われていたら、逃げただろう。
けれど、何でもできた。
何を頼んでも、リリアは笑って、
「いいわよ」
と言った。
だから、もっと深くまで踏み込んだ。
もっと大きなことをした。
もっと多くの人間を巻き込んだ。
全部、自分から。
「あはははは!」
アメリアは笑った。
自分はずっと、リリアからいろいろなものを奪っていると思っていた。
けれど、最後まで自分を動かしていたのは、もっと単純なものだった。
――私は賢い。
――私は、この女を騙している。
その思い込みだった。
誰かに強制されたわけでもない。
リリアに命じられたわけでもない。
自分で選び、自分で踏み込み、自分で証拠を残した。
そして、牢へ入ったあとでさえ。
同じ思い込みのまま。
最後に残っていた証拠まで、自分から差し出した。
「あは……あははは……!」
もう、何がおかしいのかわからなかった。
大広間のリリアを思い出す。
淡い金髪。
水色の瞳。
いつもの、無邪気な笑顔。
『でも、私、難しいことはわからなくて』
あのとき、アメリアは、本当に思ったのだ。
――なんて、愚かな女。
その記憶だけは、どうしてもおかしかった。
あまりにも、おかしかった。
「ふふ……あはは……!」
笑いながら、涙が止まらなくなった。
調査官が何かを言っている。
看守がこちらを見ている。
けれど、もう耳には入らなかった。
アメリアはただ、自分が何度あの笑顔を見て笑ったのかを思い出していた。
金貨百枚を受け取ったとき。
許可証を手にしたとき。
リリアが自分を庇ったとき。
馬車を借りたとき。
婚約を破棄させたとき。
そして、牢へ届いた手紙を読んだとき。
そのたびに自分は同じことを思っていた。
――馬鹿な女。
「あはははははは!」
牢獄に、アメリアの笑い声が響いた。
自分が笑っていたものが何だったのか。
ようやくわかったのだ。
あの公爵令嬢ではない。
何度同じことを繰り返しても、一度も気づかなかった。
自分自身だった。
「あはははははははははは!」
笑い声は、いつまでも止まらなかった。




