越境する美学
静寂がパウダールームを支配した。
田町康介の脳裏には、明日付の解雇通知と、住宅ローンの残高、そして妻への謝罪の言葉が、走馬灯のように駆け抜けていた。
工藤静江は、微動だにせず田町を見つめている。その鋭い眼光は、融資の担保物件を査定する時のそれよりも厳格だった。
やがて、彼女はゆっくりと一歩踏み出した。厚底ブーツが鳴らす音とは違う、冷徹なヒールの音が床に響く。
「……見事ね」
低く、重みのある声だった。
「は……?」
田町は裏声を出すことさえ忘れ、地声で間抜けな返点を打った。
「その肌の質感よ。さっきから、どうしてあれほど至近距離で見ても毛穴一つ見えないのか不思議だったの。……これ、どこのファンデーション?」
事態は、田町の予測していた「破滅」とは全く異なるベクトルへ動き出した。
工藤は怒るどころか、獲物を観察する研究者のような熱量を帯びた目で、田町の頬を指先でなぞった。
「驚いたわ。私の知っている田町主任は、いつもネクタイが微妙に曲がっている、清潔感だけが取り柄の男だった。でも、今のあなたは……計算され尽くした美しさを持っている。このウォータープルーフの定着率、信じられないわ」
傍らで凍りついていた優香が、プロとしての本能を取り戻した。
「……お目が高いです、工藤常務。彼の肌質に合わせて、三種類のコンシーラーを配合しました。男性特有の肌の凹凸を、光の屈折理論で相殺しているんです」
「光の屈折理論、ね……」
工藤は感嘆の溜息をついた。
「素晴らしいわ。ビジネスも変装も、徹底した準備が成果を生む。田町さん、あなたのプロ意識を完全に見くびっていたようね」
その夜、女子会は奇妙な「美容セミナー」へと変貌した。
工藤は田町を「康子さん」と呼び続け、アイラインの引き方や、厚底ブーツを履きこなすための体幹トレーニングについて、熱心にメモを取っていた。田町は困惑しながらも、自らが構築した「女装の論理」を披露した。共感の嵐に翻弄されていた一時間前とは違い、技術的な議論であれば、彼は誰よりも雄弁だった。
数日後。
田町は、いつものように窮屈な紺のスーツに身を包み、工藤建設の会議室で一人、彼女を待っていた。
正体が露呈したあの日以来、初めての面談だ。融資の打ち切りを宣告されるのではないかという不安が、胃のあたりを重く沈ませていた。
ドアが開いた。入ってきた工藤静江は、心なしかいつもよりメイクのノリが良いように見えた。
彼女は資料をテーブルに置くと、真っ直ぐに田町を見た。
「融資の件だけど、予定通り進めてちょうだい。あなたの仕事の緻密さは、あの夜の変装で十分に証明されたわ」
「……ありがとうございます。寛大なご処置に感謝します」
田町が深く頭を下げると、工藤はフッと口角を上げた。
「勘違いしないで。これはビジネスよ。でもね、田町さん……一つ条件があるの」
「条件、でしょうか」
「今後も定期的に、あのお店で会いましょう。もちろん、あなたは『康子さん』として」
工藤は、かつてないほど柔らかな、しかし断固とした笑みを浮かべた。
「あなたのメイク理論は、私の経営戦略にも通じるものがあるわ。それに何より……正直に言うけれど、康子さんの時のあなた、かなり可愛かったわよ。私の相談役にぴったりだわ」
田町は、自身の眼鏡のブリッジを押し上げた。
金融マンとしてのキャリアと、女装という秘密の領域が、不条理な形でリンクし始めたことを悟った。
論理的に考えれば、これは職権乱用に近い要求かもしれない。しかし、同時に彼は、自分の中に芽生えた奇妙な高揚感を否定できなかった。
「……承知いたしました。次回は、最新のチークのグラデーション手法について、資料を用意しておきます」
「期待しているわ、康子さん」
会議室を出る田町の足取りは、革靴であるにもかかわらず、どこかあの厚底ブーツを履いている時のような、不安定で、それでいて軽やかな浮遊感に満ちていた。




