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共感の迷宮と、沈黙の厚底ブーツ

 その空間は、田町康介にとって、未知のウイルスが蔓延する実験室のようなものだった。

 都内の隠れ家的なイタリアンレストラン。テラコッタの床と暖色系の照明が演出する洗練された雰囲気の中で、四人の女性による「女子会」が開催されていた。

「本当、最近の糖質制限ダイエットって、結局リバウンドするだけだよね」

「わかるー。私も先週、サラダしか食べなかったのに、週末にケーキバイキング行っちゃって。でも、あれはメンタルケアだからノーカウントだよね」

「そうそう、心の栄養は別腹。わかるー」

 田町は、ウォータープルーフのファンデーションの下で、微かな引きつりを感じていた。

『ノーカウント』という概念を金融の世界に持ち込めば、その瞬間に破産が確定する。論理的に考えれば、摂取カロリーと消費カロリーの収支報告書を作成し、厳格な監査を行うべき案件だ。しかし、彼はその言葉を喉元で押しとどめた。

「……そうですね。わかります、その気持ち」

 練習した通りの、少し気だるげな「康子」のトーンで相槌を打つ。それが精一杯だった。

 彼の正面に座っているのは、工藤静江。田町の勤める銀行にとって、極めて重要な大口顧客である工藤建設の常務だ。普段、融資の折衝で見せる冷徹な眼差しは影を潜めているが、その鋭い観察眼がいつ自分に向けられるかと思うと、心臓の鼓動が不規則なリズムを刻んだ。

「康子さんも、あんまり食べないわね。お口に合わない?」

 工藤が、ワイングラスを傾けながらこちらを凝視した。

「いえ、少し……緊張していて。優香の友人として、こんな素敵な席に呼んでいただけて光栄で」

 横から優香が絶妙なタイミングで割って入る。

「康子、こう見えて人見知りなの。それに、今日は素敵なブーツを履いてきちゃったから、あんまり動きたくないみたいよ」

 優香の言葉はフォローであり、同時に警告だった。

 テーブルの下にある厚底ブーツ。それは田町にとって、もはや履物ではなく、地面との均衡を保つための「脆弱な支柱」だった。優香からは、店に到着した直後に厳命されていた。

『いい、康介。あなたの歩き方は、まだ重心の移動に男性的な「断定」が残っている。座っている限りは完璧よ。だから、トイレ以外で絶対に席を立つんじゃないわよ』

 田町は、借りてきた猫のように静止し、ただ頷きを繰り返した。

 会話の内容は、芸能人の不倫から最新の美容液、そして「何が正解かわからない悩み」へと、脈絡なく転換していく。ビジネスの会議であれば、開始十分でアジェンダの再定義を要求したくなるような時間の浪費だった。しかし、この非論理的な共感の連鎖こそが、彼女たちの構築する聖域のルールなのだ。

 一時間が経過した頃、田町の精神的な疲労は限界に達していた。

「……少し、お手洗いに」

 優香が目配せをし、二人で席を立った。

 厚底ブーツの重心を慎重に操作し、膝をわずかに内側へ入れながら、田町は「康子」としてパウダールームへと移動した。その数メートルの歩行に、融資審査一件分ほどの集中力を要した。

 パウダールームの鏡の前で、田町は深く息を吐いた。

「……優香、これが女子会なのか。論理的な着地点がどこにも見当たらない」

「着地点なんて探すから疲れるのよ。ただ漂っていればいいの」

 優香は鏡越しに彼のメイクをチェックした。

「でも、康子。工藤さん、全然気づいてないわ。あなたの変装、私の技術とあなたの自制心の勝利ね」

「だといいが。工藤常務は鋭い。仕事の話を振られたら、つい主任としての顔が出てしまいそうで……」

 その時だった。

 パウダールームの重厚なドアが、音もなく開いた。

 入ってきたのは、工藤静江だった。

 鏡越しに、三人の視線が交錯する。工藤は手を洗おうとして、ふと動きを止めた。

 田町は瞬時に「康子」の表情を作ろうとした。だが、直前まで発していた「男の低い声」の残響が、室内の冷たい空気の中にまだ漂っているような気がした。

 工藤は、田町の顔を、そして足元の厚底ブーツを、値踏みするようにじっくりと眺めた。

 彼女の目が、獲物を捉えた猛禽類のように細められる。

「……なるほど。どこかで聞いた声だと思ったわ」

 工藤の唇が、冷笑とも感嘆ともつかない形に歪んだ。

「田町主任。あなたの『融資計画』には、随分と大胆なオプションが含まれているのね」

 田町康介の脳内で、これまでの論理的なシミュレーションがすべて、音を立てて崩壊していった。


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