計算された偽装
金融機関の融資担当として十数年、田町康介が学んだのは「数字は嘘をつかないが、見せ方で印象はいくらでも操作できる」という真理だった。
しかし、今、目の前の鏡に映っている「操作」の結果は、彼の論理的な思考回路を激しく揺さぶっていた。
「どう? 康介。自分の理論が正しいって証明された気分は」
背後でブラシを弄びながら、田中優香が愉快そうに声をかけてきた。高校時代、美術室で共に油絵を描いていた頃から変わらない、人を食ったような笑みだ。
田町は無言で、鏡の中の自分を注視した。
そこにいるのは、グレーのスーツに身を包んだ疲弊した主任ではない。きめ細やかな肌の質感を湛え、知的な光を宿した瞳を持つ、一人の「女」だった。
田町はこの一ヶ月、優香の指導のもと、徹底した準備を重ねてきた。
大腿四頭筋ではなく内転筋を意識した筋トレを課し、骨盤の傾きを矯正し、さらには「女性らしい歩容」を物理学的に解析した。男性特有の直線的な動作を排除し、重心をわずかに落とすことで、シルエットに曲線を生み出す。それは彼にとって、困難なプロジェクトを完遂させるための「業務」に近い感覚だった。
「驚いたな。……皮膚の凹凸が、完全に消失している」
「最新のウォータープルーフ・ファンデーションの力よ」
優香が指先で彼の頬を軽く叩く。
「密着度は、あなたの銀行の定期預金より固いから。多少の冷汗をかいても、ボロは出ないわ」
田町は立ち上がり、足元を確認した。そこには、今回のために用意された厚底のショートブーツがある。
身長を底上げしつつ、足首のラインを細く見せるための戦略的選択だ。しかし、実際に履いてみると、地面との間に一枚の不確かな膜が張られたような、奇妙な浮遊感があった。金融マンとして常に「地に足をつける」ことを信条としてきた彼にとって、この不安定さは、これから足を踏み入れる未知の領域を象徴しているようだった。
「これから行く『女子会』には、あるルールがある」
優香が耳元で囁く。
「結論を急がないこと。解決策を提示しないこと。そして、相手の言葉がどれほど非論理的であっても、ただ『わかる』という同意の符牒を返すこと。……できる?」
田町は、脳内でシミュレーションを繰り返した。
彼の辞書に「共感のみを目的とした会話」という項目はない。ビジネスの世界では、結論のない会話は資源の浪費だ。だが、この「潜入」が彼に未知の視点をもたらすであろうという好奇心が、慎重な理性を上回っていた。
「論理的な帰結が予測できないからこそ、挑戦する価値がある」
田町康介、あるいは「田町康子」は、裏声の練習で鍛えた滑らかな声で答えた。
鏡の中の女が、自信に満ちた微笑を浮かべる。
その直後、スマホに妻からのLINEが入った。〈今日の夕飯、いるの?〉という、あまりに現実的な問いかけだ。
田町は一瞬だけ逡巡し、〈接待で遅くなる〉と打ち込んだ。
嘘ではない、と彼は自分に言い聞かせた。
これから向かうのは、人生で最も過酷で、そしておそらく最も魅力的な「接待」の場なのだから。
厚底ブーツがフロアを叩く。その音は、これまでの彼の人生では決して鳴ることのなかった、軽やかなリズムを刻んでいた。




