愛の形
彼女が家を出ていったのは、まだ春が来る前の灰色の朝だった。空気は湿っていて、風もないのに、そこに立っているだけで全てが終わりに向かっているのを肌で感じた。雨が降るわけでもない。ただ、空も、家も、心の中も、何もかもが淡く濁っていた。
玄関のドアが静かに閉まる音だけが、部屋の中に残った。足音はなかった。彼女は振り返らなかったし、何も言わなかった。けれど、そこに確かにあった「終わり」は、言葉よりも重く、静かで、優しかった。まるで、誰かの幸せを祈るような別れ方だった。
きっと、彼女は気づいていたのだ。僕の中で彼女が少しずつ形を失っていくことに。手を伸ばしても触れられないような距離が、僕たちの間にできてしまったことに。話していても、笑っていても、心が別の場所を向いていることに、彼女の方が先に気づいていた。
彼女は、僕にとって特別な人だった。いや、今もそうだ。今も名前を呼べば、耳の奥にあの声が響く。笑い方も、泣き顔も、夕暮れの光の中で目を細める仕草も、全部思い出せる。それなのに、彼女はそのすべてを置いて、何も言わずに出ていった。
「一緒にいられないなら意味がない」とか、「もう愛されていない」とか、そういう言葉を残して消える人もいる。でも彼女は違った。彼女はただ、僕の中にある美しい記憶だけを残そうとしていた。傷ついたり、壊れたり、歪んでしまう前に。僕が、彼女を思い出すときに、まだ優しかった頃の彼女であれるように。そういう別れ方を選んだ。
それがどれほど強いことか、今になってやっとわかる。失うことでしか守れないものがある。彼女は、僕にとっての「美しい記憶」でいようとした。だから、彼女の名前を思い出すたびに、胸が締めつけられるほど切なくて、それでも不思議とあたたかい。
僕たちは、ひとつの未来を描いていた。それは家であったり、旅であったり、朝ごはんのメニューであったり、些細だけれど確かな、共有した夢だった。でも、もうそれらは実現しない。それは「二人で」描いたものだったからだ。どちらか一人が欠けた時点で、その夢は形を失ってしまう。
彼女はそのことを理解していた。だから、自分の幸せを僕に託さなかった。「あなたがあなたの手で掴まないなら、それは本当の幸せじゃない」と、きっと心の中でそう言っていたんだろう。僕の未来を、自分の存在に縛らないために、彼女はそっと僕の人生から消えた。
今でも思う。もし彼女がもっとわがままだったら、もっと甘えてくれたら、僕たちは別れずに済んだのかもしれない。でも、それはきっと違った。彼女がどれだけ愛していたか、どれだけ僕を大切にしていたかは、あの沈黙と、あの背中がすべて物語っていた。
愛していた。間違いなく。今でもそうだと思う。だけど、愛は時に、手放すことを選ばなければならない。近くにいることだけが愛じゃない。記憶の中で、優しいままであり続ける愛も、確かに存在する。
彼女がどこでどんな日々を送っているのか、今はわからない。でも、それでいいと思う。僕の中では、彼女はいつまでもあのときのまま、優しい声で、夕暮れの光に包まれて笑っている。
さよならは悲しい。でも、これは彼女なりの愛の形だった。そう思えるようになるまでに、少し時間がかかったけれど。今なら、わかる。彼女は僕のために消えたんだ。僕の中で、ずっと綺麗なままでいるために。