第七話 これは契約
◇鉤狼【しゅらいかん】
魔物/魔犬目/袋犬科
魔犬目に属する狼型の魔物。〝外域〟浅層を主な生息域としている。
推奨討伐等級は八等級以上。
腹袋で子を育てる袋犬科の魔物だが、独自の進化を遂げたことにより、
腹の袋は、獲物に覆い被さった際に切り裂く鉤鎌へと変貌している。
***
◆自由都市グアド・レアルム、ユサーフィ
結局、彼は進化石を受け取らず、『終の黄昏』を後にした。
去りゆく背中を見送った私はその後、気取られないように彼を追うことにした。
ヨアは人混みを道端に寄って避けながら黙々と歩き続ける。
その表情は見えないけれど、初めて訪れた場所に心躍らせている雰囲気はない。
後ろをつけている誰かがいることにも気づいた様子はなく……と言うよりも、周りの全てに関心がないように見える。
誰かと擦れ違いながらも触れ合うことなく、彼は一人で歩き続ける。果たして、どこまで行くのだろうか。
街を抜けたこの先には魔物や人外が跋扈する〝外域〟が続く。その深奥には、さらに危険な存在が徘徊する人智の及ばぬ魔境――〝迷宮〟が鎮座する。
彼の目的はそこにあるのだろうか……まさかとは思うけれど今の状態で挑むのは自殺志願と言わざるを得ない。装備も整わず単身で踏破できるほど外の世界は易しくない。
――けれども、私は彼を一目見たときに感じた高揚を、確信にも似た胸の高鳴りを待っていた。
長く待ち望んだ可能性が彼なのか。
歩き続けた先に、その答えがある気がした。
***
◆〝外域〟浅層、ヨア
「ぐっ……うぅぅ!」
グアド・レアルムという大きな街から出た後、俺は魔物と戦っていた。
行く当てなんてない。ただ、あの燃え盛る翼を持った人外に出会えるなら、世界の果てまで歩き続けるつもりだ。
――その覚悟を嘲笑うように、俺は既に命の瀬戸際にいた。
狼の魔物の群。一匹だけなら、落ち着いて相手をすれば問題ない。
厄介なのは、仲間が数匹殺されたところで力の差を理解し、連携して攻め立ててくる狡猾さ。
獲物を取り囲み、死角を狙い、牽制を何度も入れながら、決して致命的にまで踏み込まず、だが休む間を与えず襲い掛かる。
こいつらは本当に魔物なのか。中に人間が入っていると言われても信じられる。そう思わせるほど統率された動き。
「はあ、はあ、はあ――」
全身に重りを着けているかのごとく体が重い。疲れが溜まっているのか、自分でも判断が鈍っている自覚がある。〝はぐれ街〟を出てからずっと、休んだ記憶が無い。気絶して倒れるまで歩き続ける、その繰り返しだったから。
こうなったら、一か八か――無理やりにでも状況を切り開くしかない……!
「ッ、オオオオオ‼」
吶喊。背後を無視して目の前の魔物を叩き斬る。
俺が突っ込んでくると思っていなかったのか、一匹があっさり斬り捨てられる。
そのまま前へ。ひたすら前へ。追いつけないぐらい早く、殺す。
新しい魔物が躍り出る。他の狼より一回り大きい。背中が異常に膨らんでいる。関係ない。剣を叩きつける。
魔物は避けなかった。
――斬られもしなかった。
「あっ⁉」
その魔物は勢いよく仰け反ったかと思うと、腹部に折りたたまれていた別の脚が俺の剣を掴んで受け止める。虫のような甲殻を持つ、刃を弾くほどの硬さがあった。
汚らしく濡れた牙が、無防備な首に喰い込む感触が――
***
◆〝外域〟浅層、ユサーフィ
――死んでしまった。
ヨア。何かを予感させた少年。
期待して見つめた視線の先。
その結末は――多勢に無勢で囲まれ、隙を突かれて殺されるという、実にありふれて、実にあっけない死だった。
他の狼が新鮮な餌に群がろうと集まる。
私は魔法で旋風を生み出し、一匹残らず切り刻み皆殺しにした。
一瞬でそこに生きているものはいなくなった。
血に汚れた地面を踏みしめ、少年の亡骸の傍らに立つ。
「……あーあ……」
首の半分を嚙み切られ、腹が裂かれて内臓が漏れ出している。切れ味の悪い牙で無理矢理刻まれた切創は数えきれない。
命の使い方としては実に粗末。
この程度の魔物に殺されていて、いったい何に期待しろというのか。
手負いとはいえ人外を一人で倒したという報告と、どうにも強さが噛み合わない。
「……君じゃなかったのかな」
――漏れ出た呟きに抗うように、ヨアの右腕に刻まれた意能が光を放つ。
「え――」
獣によって無惨に荒らされた肉体、その傷跡が再生していく。
肉体だけではない。身に着けている服や防具までもが、壊される前の状態に復元されていく。
服が元に戻る間際、破れた布の隙間から見えていた彼の進値が減少した。
12 → 6
全てが完了したとき――そこには魔物に殺される前の状態の少年が横たわっていた。
「【捧命】……」
光り輝いた意能。
その名前の意味と、もたらした効果を理解して、
「あは……ハハ、アハハハ、アハハハハハハ‼」
私は歓喜に打ち震えた。
死んでから発動する力、それだけでも規格外と言える――けど、
「進値を捧げて、肉体と装備を再生し、復活する……それが君の力なんだね」
――私の予感は、間違っていなかった。
――彼こそが永らく私が待ち続けた人だったのだ。
「……人類の黄昏を終わらせる時がきたよ、ヨア」
目の前で眠りにつく運命の少年に、私はそう語りかけた。
***
◆〝外域〟???、ヨア
夢を見ている。
燃え盛る街。建物の残骸が、瓦礫が、松明のように燃え上がっている。夜の闇の中でここだけが鮮明だ。
周りを見渡しても誰も見つからない。
魔物の咆哮が反響する。
炎の隙間から巨大な顎が現れては消える。
そして炎が一斉に鎮火して――一人分の燃え殻が残された。
ゆっくりと近づき、燃え殻の傍に膝を突く。
壊れ物のように、そっと触れた。
何が起きるのか、どんな言葉を言われるのか、もう知っているはずなのに。
――だけど、
燃え殻に触れる前、俺の手に誰かの手が重ねられる。
もう安心していいんだと、手から伝わる温かさが教えてくれる。
言葉にはできないずっと欲しかった何かで――俺は満たされた気がした。
「ん……」
目を開けると誰かの顔があった。その向こう側に、雲の広がる青空が見える。
「ユサーフィ、さん……?」
「さっきぶりだね」
頭の後ろが柔らかいものに包まれて、気持ちが良い。視線だけ動かして状況を確認する。どうやらユサーフィさんの太腿に頭を乗せているらしい。
「起きた?」
「なんで、ここに……」
「ごめんね。こっそり後をつけてきちゃったの」
「え……」
「でも、私がいなかったら君、危なかったよ」
そうだ……俺、魔物と戦って、
……戦って。
魔物に群がられたところまでは覚えている。
それにしては体はなんともなく、服も防具もそのままだ。けれど、今居る場所に覚えはない。
魔物と戦っていた岩と砂礫ばかりの大地と違って、植物が一面に生えていた。
「俺、また知らない場所にいる……」
「レアルムの近くにある花園だよ。私が種から植えて育てたの」
「花……」
花は……知っている。
綺麗で、鮮やかで、好い香りがする。
〝はぐれ街〟で見かけたことはない。
――じゃあ、なんで俺は花を知っているんだろう?
分からない。
頭の中に靄がかかったように思考が曖昧になる。
ユサーフィさんが俺の前髪を指で優しく梳いてくれた。
それがとても心地良く、途端に眠気が襲ってくる。
やがて耐え切れず、瞼が落ちて――
「――ホントはね、君は一回死んでるんだ」
驚きのあまり、一瞬で目が覚めた。
「じゃあ俺って今、死んでるっ……⁉」
慌てて自分の体を確かめるようにまさぐる。
死んだ人は別の世界に行って、そこには美しい花が一面に広がっているとライカが言ってた。
今、花園にいるってことは……!
「違うよ。それじゃあ私も死んでることになっちゃうけど、それはありえないから」
「……?」
死んだのに、死んでいない?
言葉遊びか、謎かけなのか。
確かなことは、俺の頭では理解できないということだ。
唸っていると、ユサーフィさんが答えを教えてくれた。
「君は死んで、生き返ったの――その右腕の、【捧命】の意能の力で」
【捧命】――最初から己の右腕にあった謎の意能。
発動しようとして色々意識してみたものの、結局何の効果か分からず、存在も忘れかけていた。
この意能が俺を生き返らせてくれたのか。
まさか死ななければ発動しないなんて確かめようがなかった。
――いや、本当は気づくべきだった。
俺は〝はぐれ街〟を飛び出してからずっと、魔物だらけの荒野をたった一人で進み続けた。
その間、何日経過したかは覚えていない。覚えていないほど歩き続けたから。
けど、さっきもあえなく死んでしまうような俺が生きてここにたどり着くことが本当にできるのか。
それは、この【捧命】の意能の力があったからだ。
歩いて、殺して、死んで、蘇り、歩き続け、殺し続けたから。
「この意能を使いこなせたなら、君はとてつもなく大きな事を成し遂げられるかもしれないね」
「大きな事を、成し遂げる……」
ユサーフィさんを、空を見上げながら、俺は俺の成し遂げたい事を考える。
この意能の力があれば、奴を倒して、ライカの仇を――
「俺は、復讐を……」
――燃え盛る炎。
――手に残る燃え殻の感触。
――空を覆う炎の翼。
――俺を見る灰の化物。
――俺を刺し貫いた、絶対の恐怖。
「復讐――を――」
だんだんと視界が滲んでいく。
目から溢れ出た涙が頬を伝い、ユサーフィさんの足を濡らしていく。
「俺……ライカのために、あいつを殺さないといけないのに……こんなところで簡単に殺されて……俺なんかが本当にライカの仇がとれるのか分からなくなった……。そんなことをずっと考えてると、不安で、悔しくて……」
唇を嚙みしめても、目を閉じても、それをこじ開けて嗚咽と涙が出続ける。
「――我慢しなくていいの」
でも、
ユサーフィさんは俺の涙を指で拭ってくれた。
「どんなに尊い祈りでも、どんなに卑俗な願望でも、それに向かってずっと走り続ける辛さは同じだもの。分かるよ、君が一人でずっと背負って苦しんできたことが」
その言葉が胸の中に染み込んで、全身が満たされていった。
「聞かせて、君の物語を」
俺は――
俺は泣きじゃくりながら、今までのことを喋り続けた。
溜まりに溜まっていたものをすべて吐き出した。
悲しくなって、怒って、また悲しくなって、激しく移り変わる感情に振り回されながら、思いついたことをそのまま言葉に換え続ける。
それでもユサーフィさんは優しく微笑みながら、ずっと話を聞いてくれていた。
すべてを言い終えて、俺は喋るのを止めた。
ユサーフィさんは俺の願いを口にする。
「君は、その女の子の仇を取りたいんだね」
俺は鼻を啜りながら頷く。
「なら、私と君は協力し合える」
「協、力……?」
「私もね、殺したい存在がいる。でも、私では無理なの。でも、君になら――」
ユサーフィさんの願い。
彼女が口にした言葉は、乾いた土に水が染み込んでいくように、俺の頭の中へと響き渡った。
「君にしかできない。特別な人外を――王たちの人外を殺してほしい」
特別な人外。
王たちの、人外。
「この世界に残された強力な八体の人外を殺す――普通なら殺しきる前に進値の限界に到達して人外になってしまうだろうけど、【捧命】の力で進値を下げることができる君なら、君だけなら、最後まで成し遂げられる」
暖かい両手が頬を包み込む。
「君の話を聞く限り、おそらく君の仇は、私が今言った王たちの人外……そのうちの一体だよ」
「あいつが……」
「灰の人外。この世界の外縁を飛び回り、世界の外に進出しようとする生命全てを焼き滅ぼす者。人類の生息圏を閉じる焔。君の仇で、私の敵」
強く吹いた風が花を巻き上げて空を彩った。嘘のように綺麗な光景だった。
「私は、君の仇を探し出して殺すのを手伝う。君は、私の敵を全て殺す。どうかな?」
ユサーフィさんの問いかけに、俺はすぐに答えることができなかった。
迷っていたわけじゃない。答えはもう決まっていた。
今、気持ち良いくらい胸が高鳴っている。体の芯が熱くなって、走り出したいとすら思う衝動が全身を突き動かそうとしている。
答えを口にする前に、何かが始まりそうな高揚をもう少しだけ噛み締めた。
「……それって要するにさ」俺は自然と笑いながら応えた。「俺が殺すのが、一体から八体に変わるだけってことだよな?」
「……フフ」
――多分、俺は死ぬまで絶対に忘れないだろう。
――この時見たユサーフィさんの笑顔は、この花園の中で、一番綺麗だった。
「これは契約よ」
***
――全ての人間は蝕業を持って生まれ落ちる。
それのもたらす進値、魔法、意能という尋常ならざる力によって、人々は限りない繁栄を享受した。
だが、人智を超えた力の代償、進値が上昇したその果てに、人間は人外というおぞましい怪物に変貌していく。
さらにはどこからか、魔物と呼ばれる狂暴な生物も現れ、人類の領土を蝕んでいった。
大地には人外と魔物が蔓延り、また、世界中を巻き込んだ三度の戦争によって、栄華を極めた古代王国は滅び去り、人類は永きに渡る斜陽へと突入したのだった……。
そして今、黄昏の時代。
ただ一人、死を超克する少年と、王たちの死を望まんとする女の邂逅によって、世界は転換を迎えようとしていた。
◇黄昏の時代【たそがれ-の-じだい】
歴史/現代
現在の時代を表現する俗称。
古代王国の滅亡を機に衰微し続けた人類の今を言う。
かつての繁栄は遠い過去となった。
太陽が地平線へ沈み、いつか輝きを失っていくように、
人もまた、滅びつつある種であった。