第三十九話 無垢なる拳
◇毒耐性【どく-たいせい】
意能/耐性強化系
生命活動に不調をきたす物質に耐性を得る意能。
毒の種類を問わず抵抗するが、この意能では自然由来に限られ、
意能等に起因する毒に抗するには、さらに上位の意能が必要となる。
毒などの搦手を使ってくる相手に耐性強化系意能は必須であるが、
習得するには、それに身を蝕まれた経験が強く影響するという。
つまり、毒を喰らい、毒を制するのである。
――魔物か!
気配の方を振り向くも……そこには恐ろしい怪物も得体の知れない化物もいない。
ただ、奥の見通せない森の闇があるだけだった。
皆が起きた様子はない。
今のアレを感じたのは俺だけなのだろうか……?
オルナッツォさんも見張りからまだ戻ってこない。
……もし、今俺が寝てしまったら。
忍び寄ってきた何かは、その鋭利な爪で一人ひとり手にかけていき――
そんな不吉な想像に襲われてしまい、もはや睡魔なんて吹き飛んでしまった。
あの悪寒の正体を確かめない限り、朝を迎えるまで休むこともままならないだろう。
俺は相棒の剣を手に取ると、ゆっくり、ゆっくりと、焚火から離れて木立の傍に寄り、闇の向こうに目を凝らす。
「…………」
森の闇は何も応えず、それがいっそう不安を掻き立てる。
剣の柄を握りしめる手は、まるで強く握るほど切れ味が増すとでもいうかのように、無意識に力が入ってしまう。
焚火を背にした俺の影が、森の闇と融け合った瞬間、
――言葉にできない気持ち悪い感覚が背筋を走り抜ける。
決してそんな経験はないはずなのに、まるで背骨を直接触られているかのような、そういう感覚を覚えたのだ。
これは恐怖だ――自分の影と森の闇が触れ合い、境界線を失って融け合わさった光景を見たことで、自分の肉体も闇の中に捕らわれてしまったかのような未知の感覚を、俺の頭の中に詰まっているものが想像してしまったからだ。
ああ、なんて時にカレンの話を聞いてしまったんだ!
俺にとって有意義な内容であったことは間違いないけれど、頭が無駄に冴えたせいで、悪い方向にも想像力が発揮されている。
考えなければいい――という思考そのものが、逆に想像力を掻き立ててしまうのだ。
次の瞬間には闇の中から何かが飛び出してくるんじゃないかと、瞬きすらもしたくない極限の緊張感。
掌が剣の柄に吸い付いて離れない――
「…………ヨア‼」
「あアアアアアアアアア――ッ⁉⁉⁉」
いつの間にか近くにいた何かが俺の肩にポンと手を置く。
「オ――――オルナッツォさん、かよ……」
その姿を認めて、俺はゆっくりと安堵の息を吐いた。
もし俺の自制心があとほんの少し足りていなかったら、今頃アンタを頭から真っ二つにかち割っていたかもしれない……!
「吃驚させないでくださいよ‼」
「あまり大きい声を出すんじゃない! 魔物が寄って来るかもしれないだろう!」
「どの口が言うんですか……!」
というか、長々とどこに行っていたんだ!
「それよりも、異常はなかったか⁉」と俺の文句をさらりと無視するオルナッツォさん。
その異常がないか貴方は見張りに行ってたんじゃ……。
「……まあ、異常と言えば異常のような……」
「何があったんだ⁉」
「俺の気のせいかもしれないんですけど……さっき森の奥から何かの気配を感じたような――」
オルナッツォさんの反応は劇的だった。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、
まるで泣き出す手前のように顔面を壮絶に歪め、直後、片手で顔面を覆った。
俺から隠すように。
「お、オルナッツォさん……?」
常に元気の塊のようだった人は今、くるりと背を向けて、空いている方の手で木の幹に手をついてもたれかかり、広くて大きな背中を小さく震わせていた。
明らかに尋常の様子じゃない。
「ヨア」
日頃の姿が嘘のような、かすれた声。
「その、姿を、見たりしてないか……? そいつは、御伽噺に出てくる死神のような……格好をしていたか……?」
不安にたじろぐ俺に、オルナッツォさんは意図の読めない質問を口にする。
「死、神……? ごめん、俺、その死神って奴の姿を知らなくて」
「黒い……とにかく黒い。全身が黒くて、大きな鎌を持ってる。人間の首なんて簡単に落とせそうなほど大きいんだ……」
「いや、俺は気配を感じた気がしただけで、何も見てないですよ。それに、そんな特徴的な存在、視界に入ったらさすがに気づきますよ」
「そうか……そうだよな。気のせいだよな。絶対そうだよな」
何かが砕ける音が鳴る。
木に手をついたオルナッツォさんの五指が、幹に喰い込むほど力が込められている。
「あ、あの、言いにくいんですけど、もしかして……」
ぎょろり。
そんな擬音が相応しくなるほど、顔を覆った指の隙間から覗くオルナッツォさんの目が、別の生き物のように動き、俺を捉える。
「なんだ。言ってみろ」
心に湧き上がった疑問を、好奇心のまま考えなしに訊ねようとしたことを、俺は後悔した。
「ヨア」
名前を呼ばれる。それだけなのに、言わないという選択肢を選べば、次の瞬間には殺されていそうな凄味があった。
俺は観念して、オルナッツォさんに問うてみた。
「――オルナッツォさんって……お化けとか、怖いんです……か……?」
「……………………、……ク」
ク?
「クハ、ハハハハハハハハハハ‼」
俺の質問に、オルナッツォさんは場違いな大笑いで応えた。
まさか、狂暴な魔物と戦う屈強な探索者に、子供が怖がる迷信のようなお化けが怖いか――なんて訊いたら怒られると思って身構えていたけど……笑うなんてどういうことだ?
見ている方が心配になるほど腹を抱えて笑ったオルナッツォさんは、目元を拭ってから俺に向き直る。
「ああ……そうだな、ヨア。お前の言うとおりだ。いもしない影に怯えて、俺はまるで子供同然だった。そうだよ、俺は化物が怖い。でも、お前のお陰で俺は探索者として生き永らえた。だから、今目の前に現実に向き合っていかないといけないんだったな。サアラのためにも……」
大きな籠手に包まれた手が、俺の頭を痛くないよう優しく撫でる。
「ありがとうな! 目が覚めたよ!」
「どういたしまし――いや、これから寝るのに覚ましちゃだめだったか……?」
「ハハハハ! 言葉どおりの意味じゃないさ! むしろ今夜は快眠だろう!」
どこか吹っ切れたその表情は……むしろ、俺に不安を抱かせた。
焚火の光にあてられて、夜の闇が色濃く見えるように。
俺はオルナッツォさんと見張り番を替わり、次のギルに交代するまで、魔物が近づいていないか見回りを続けた。
見張り番は苦にならなかった。
今日の夜だけで考えることが多すぎた。
◆◆◆◆◆
◆〝外域〟中層、ヨア
人外探索、三日目。
それは一切の予兆なく始まった。
「……いるな」
森の獣道を歩いている時、ギルが言った。
誰も返事を返しはしなかったが、代わりに各々が持つ得物にそっと触れる。
よく耳を澄ませば、後ろの雑木林から何かが身じろいで枝葉が擦れる音がする。
音源は俺たちの進む速さに併せて一定の距離を保っている。そして、それは徐々に数を増やしつつあった。
さて、まず行うべきは、今の情報から何が読み取れ、推測できるか整理する……というのをメリジュナ教官には叩き込まれている。無策で動くことは賢い振る舞いではない。
音源は付かず離れず俺たちを追っている。機を窺っているのか、それとも侵入者が縄張りから出て行くまで警戒しているのか。どちらにしろ、見境なく相手を襲わない程度の知性はある。
複数の音源は、群れる習性を持つことを意味していた。加えて、人間を見て逃げ出さないということは、人間を獲物と見做せるほどの強さ、あるいは凶暴性があるのか。
「どうするよ?」
「こちらから手を出すことはない……何もしないなら放っておけ……!」
オルナッツォさんの指示にギルが頷く。だが油断なく、槍に手はかけたまま。
こちらの緊張を感じ取ったのか、背後の音が一斉に騒がしくなる。
「オルナッツォさん……!」
「チッ……戦闘用意!」
事態は不可避であることを察し、全員が武器を抜き放った瞬間、林から何かが飛んでくる。狙いは――俺だ!
俺は飛来するソレを剣で打ち払おうと――
「――は……?」
見下ろすと、胸の中心に矢が突き立っていた。
尖った石を加工した鏃は、俺の血とは別に、何かの汁が付着している。
俺は確かに反応できていた。何を飛ばされたかまでは分からなかったが、叩き落すことなんて雑作もなかったはずなのに。
剣を振ろうとした瞬間――腕が、動かなかった。
「が、あ、あ」
体が、痺れる。
「ヨアッ!」
俺が倒れ込むと同時に、林から大量の何かが飛び出してきた。
それを迎え撃とうとするも、
「な……⁉」「重い……⁉」「腕が上がらんのじゃぞ⁉」「おでの弓が……」
皆から困惑の声が上がる。
「オイどうしたお前たち‼」
唯一、オルナッツォさんだけが異変を感じていないようだった。
俺たちの混乱を見逃すわけもなく、いや、獲物の隙を待っていたと言わんばかりに奴らは跳びかかる。
「クソッ! オラァ!」
相棒の槍が使えないと分かったギルが、代わりに回し蹴りを繰り出す。
跳びかかった時以上の速さで吹っ飛んだソレが、横たわる俺の視界に転がり込んでくる。
小さな身長。泥に汚れた皮膚は生白く、そしてたるんでいる。口は縦に割け、細かい歯が鑢のように並んでいる。きっとあれで肉を刮いで喰うのだろう。
今は血を吐いてピクリとも動かない。ただの蹴りであっても高進値探索者の力は凄まじく、一撃で絶命したのだろう。
ギルドの魔物図鑑で見たことがある。醜鬼だ。
でも、コイツらは沼地みたいな、湿気の多い場所を好んで生息すると書かれてあった。なんで森の中に……。
「ギニョル、ヨアを引きずって下がれ! 全員後退するぞ! ギルは殿を!」
オルナッツォさんの命令に従い、警戒しながら後退する。俺も襟首を掴まれて引きずられていく。俺の手元から零れた剣はギルが回収してくれた。おそらく、森を抜けて開けた場所に出るつもりだろう。ここは身を隠せる障害物が多い、醜鬼に有利だ。
視界に日の光が差す。森を抜けたのだ。
「これは……」
誰かが慄くように呟いた。
「ぎ、ギニョ、ル……もう、大丈夫、だから」
いつの間にか、体の痺れは消えていた。
俺は歯を食いしばって突き刺さった矢を引き抜く。返しの付いてない粗末な鏃だったから容易く抜けた。
右腕の熱を感じ、袖を捲ると、新たな意能の痣が現れていた。【毒耐性】……脳裏にそう言葉が浮かんでくる。
足に力を込めて何とか立ち上がった俺の視界に飛び込んできたのは、緊張と警戒を最高潮にさせるに相応しい光景だった。
森の中に、巨大な擂り鉢状の空間が出現していた。
草木は薙ぎ倒されて久しく、代わりのように幾つもの死体が転がっている。全て人間の死体だ。身包みはあちこちに散乱し、骨もバラバラに、無造作に横たわっている。いや、打ち捨てられていた。
ちょうど、俺たちが肉を喰い終わった骨を屑籠に放り捨てるように、一つとして死者の尊厳を保たれたものはなかった。
――擂り鉢の底、円の中心に立っていたのは、紛れもない漆黒の異形。
二本の足で立ち、二本の腕を持つ人型……だが、一部分を除いて、あまりにも体が細すぎる。骨だけを残し、筋肉と臓腑を取り払ったらああなるのかもしれないが、生物とは決定的にかけ離れている。
そして、まさしく線のような肉体の中で――不釣り合いなほど巨大な拳。
きっと、体重の半分以上は占めているだろう拳は、丸みを帯びた甲殻に鎧われ、指は見当たらない。
あれはきっと――鈍器だ。
殴るためだけの拳に、指は必要ないから。
そして、頭部にあたる部位には〝烙印〟が刻まれていた。
「人外……」
人外――名付けるなら、拳の人外は、現れた俺たちに特段の反応を示すことはなかった。
目も耳も鼻も見当たらない奴は、だがしかし、戦いの領域に踏み込んだ俺たちを認識している。そう確信させた。
その上で、待っているのだ。
この――闘技場で己に立ち向かう挑戦者を。
……万全を期すならば、ここで一旦引くべきだ――が、
「勿論、逃がす気はないよな……」
擂り鉢の縁を取り囲むように、夥しい数の醜鬼が湧いてきた。間違いない、俺たちを人外の方へ追い込んでいる。
「どうするんじゃあ⁉ 武器が使えんのじゃ⁉」
剣、槍、杖、弓、槌。
そのどれもが武器としての用を果たさず、ただの邪魔な重荷に成り下がっている。
「……は~ん。何となく読めてきたぜ」窮地にあっても不敵な笑みを浮かべるギル。「コイツら、数は多いが、渡りって感じでもねえ。……あの人外に敗けた死体の掃除屋ってとこか。良い餌場を見つけやがったもんだぜ」
「狩り場かもしれないぞ」カレンが油断なく周囲に目を走らせる。「武器が使えなくなって弱体化した探索者を、要領よく襲っているのだろう。醜鬼の本来の生息域から離れた場所にこれだけ群棲している理由は、それしか考えられない」
なるほど。疑問は氷解したが……。
ジリジリ、ジリジリと、醜鬼は包囲の輪を狭めてくる。
クソ、どうする……! 前と後ろ、どっちを選んでも窮地な未来が待ち受ける予感しかない。
六人で、醜鬼の包囲を無理矢理突破するか。
六人全員で人外に挑み、勝利を掴みに行くか。
……どちらも不確実要素が多すぎる。逃げようとする俺たちを人外が放っておく保証はないし、人外を倒しても、疲弊した俺たちで醜鬼を追い払えるだろうか。
「――諦めるな‼」
焦りと不安で思考を覆う霞を、力強い声が吹き飛ばす。
「ヨア! お前は進化石を手に入れるんだろう! だったら! この程度の状況に狼狽えるな! 活路の無い窮地はない‼」
「オルナッツォさん……」
「俺が、人外と戦う!」数多の敗者が屍を曝す死の闘技場へ、オルナッツォさんは降り立つ。「後ろは任せた!」
その背中は頼もしく、全員の恐怖を奪い、背負って、強敵へ挑まんとする。
ああ……彼こそが――一流の探索者だ。
「不思議に思っていた」待ち受ける敵へと歩みを進めるオルナッツォさん。「武器と言うならば、俺の籠手もそうだ。だが、俺だけが普通に武器を使える。そしてこの舞台。奴の姿。即ち――」
両の籠手を打ち合わせた激しい音が鳴る。
拳の人外が、オルナッツォさんを見据える。
「――殴り合いをお望みか……‼」
◇醜鬼【ろる-ごぶりん】
魔物/鬼目/小鬼科
鬼目に属する魔物。〝外域〟浅層の、特に沼地を好んで生息する。
推奨討伐等級は九等級以上。
小鬼が水場の環境に適応し、進化した種と考えられており、
指の間に水掻きが発達しているのが見て取れる。
水さえあるならば、小鬼科の魔物の中でも
比較的簡単に巣を移す習性がある。
川辺で見かけることもあるので、注意が必要だ。




