邪でふざけきった必要悪と届きそうで届かない何か(三十と一夜の短篇第84回)
アララギは自分の顔が細長いことは知っていた。目はいつも眠そうに見えるし(本当に眠いわけではない)、その割に顎が四角く固そうで、唇が白人並みに薄かった。ほぼないと言っていい。口髭を生やしてみたら面白いかもしれないと思って、伸ばしてみたら、予想通り滑稽なので、以来、そのままにしている。
自分の過去しでかしたことを考えると、滑稽なマヌケに見えることは非常に大切だった。もちろん、自分以外にも滑稽なマヌケを演じるべき、官僚や政治家はいたが、彼らはアララギほど深入りしていなかったから、マヌケになる必要はなかった。マヌケを演じて困ることはマヌケは人間の意志の最も深いところに浸透し、最初は演技だったのが、気づけば本当にマヌケになってしまいそうなところだ。あるいは人類すべて基盤はマヌケであり、そのことに気づいた唯一のマヌケになることか。ともあれマヌケであることは非常に心地よく、誘惑もある。このまま彼が本物のマヌケになってしまえば、〈キツネとブドウ〉が復興することはなかったし、逃げた妻も戻ってくるかもしれない。
しかし、人類の需要はアララギが本物のマヌケになることを許さなかった。アララギが酒屋からニコロ・マキャベリ・グリーンの人工林にある公園管理局に戻ると、ミス・ロスがお客さまが来ていますと告げてきた。
「お客さま? また子ども用ドローンが木にひっかかったんかな」
「クレームではありません。ミスタ・アララギ。執行局の方です」
「まさか、ミーガーとムスタファじゃないよね」
「そのまさかです。あと、見たことのない若い方も」
公園管理局長室に入ると、すでに三人の役人が中古センターで買った応接セットのソファーに腰かけていた。そのうち、ふたりはマヌケを演じるべきだった人間で血のつながりはないはずだが白髪だの冷ややかな態度と顔つきだののせいで双子のように似ていた。最後のひとり、若い男は初めて見た。ブロンドの白人、頭がよさそうで。だが、どこかで見た覚えがある。思い出せないが。
「やあ、ミーガー。ムスタファ。なんか飲む?」
「いや、結構だ」
アララギはミーガーとムスタファとは長いこと一緒に仕事をした。〈キツネとブドウ〉絡みで。ふたりの責任はアララギほど重大ではなかったので、マヌケのふりをせずに済んだ。クールなマキャベリストでいることが許された。しかし、長い期間、酒を勧めても一杯くれと言ってきたことはない。それについてマキャベリが何を言ったかは知らないが、〈キツネとブドウ〉に関するゴタゴタ解任騒ぎで学んだ。勧めた酒を一度も飲まないやつは信用するな。
アララギはオレンジジュースなどを飲むのに使う、ありふれたグラスに、さっき買ったジョニーウォーカーのレインボーラベルをドプドプと注いで、半分以上あおった。
「そっちの若いのは?」
「少しいただけますか?」
ドプドプ。注いで渡す。見た感じ、クールなエリート官僚だが、飲みっぷりがいい。このふたりよりは、ジョニーウォーカーの色物ツーフィンガー一杯分は信用ができそうだ。〈キツネとブドウ〉スキャンダルのときにミーガーとムスタファがしたことはなかなかえぐかった。
三人のエリートは下級管理職の低価格応接セットが珍しいのかなかなか話を切り出そうとしない。それでいて、話し始めるときは単刀直入に言おう、なんて言ってくる。
「単刀直入に言う」ムスタファが言った。「〈キツネとブドウ〉を復活させる」
「戦況はそんなにヤバイわけだ。倫理的な問題は?」
「実務レベルで判断される」
「つまり、あどけない少年少女たちを殺戮サイボーグに変えまくる許可が出たわけだ」
「あんたの言葉で言うなら、そうなる」
「誰の言葉で言っても、本質は変わらないだろ。しかし、そんな話をどうしておれにしてくる? 分かってると思うが、〈キツネとブドウ〉には大っぴらだろうが、こっそりだろうが、おれが関わることはコロニーじゅうの人間が許さない。それはあんたたちだって、同じだろ。こんなこと言いたくないけど、アララギ、ムスタファ、ミーガー。この名前はめっちゃ呪われた名前だ。〈キツネとブドウ〉のトップにこの名前のどれかひとつが記載されたら最後、袋叩きにされる」
「正直に話せば」ミーガーはそう言ったが、本当に正直に話したことは一度もない。「もし、執政府が我々のような合理的思考の持ち主なら、とっくに我々はこの手に地球を取り戻していた」
このときは本音だった。
「分かった、分かった。〈キツネとブドウ〉は復活する。子どもはサイボーグにする。そして、地球を取り戻す。そうしたら、あんたたちは地球大統領か地球皇帝にでもしてもらえばいい。問題はその話をなぜおれに持ち込むかだ。新しい木を植えたい。花壇を増やしたい。いまのおれはそういう仕事をしている」
「きみは〈キツネとブドウ〉の最高責任者だった。だから、全てを知っている」
「ムスタファ。それは買いかぶりだ。現在のおれはなぜ女房がおれを捨てて逃げたのか分からないし、このレインボーラベルの中身のうち、本物の原酒がコンマ何パーセント使われているのかも知らない。どちらも非常に重要なことだ」
「〈キツネとブドウ〉の代表には彼がなる」
そこで第三の、謎の若者が話に参加した。ふむ。アララギは腕を組む。〈キツネとブドウ〉の執行役員をやるのに若すぎることも年寄り過ぎることもない。ナノテクノロジーをふんだんに使った手術である程度までの明晰さは手に入れられる世界だ。
「えーと、あんたの名前、なんてーの?」
「ジェンキンスです」
「ミスタ・ジェンキンス。このふたりがあんたを引きずり込もうとしているアリジゴクがどんなものかは教えてもらってるんだよな? 〈キツネとブドウ〉に関わって、ましてやその最高責任者にされたら、運がよければ殺されるけど、ついてなかったら、おれになっちゃうよ?」
ムスタファが吹いた。このクソッタレ。
ジェンキンスも笑ったが、それはゴシック・リバイバルの天使像のように見えた。
「ミスタ・アララギ。わたしもそれについては考えました。でも、自分の年齢から次のステップへと大きく進むには多少リスクを取らなければいけません」
「おお、いいねえ。出世が目当て。分かりやすくて好きだよ。でも、リスクを覚悟するのと軽視するのは似ているが違う。ここにいる三人はそれを勘違いした。地球を人類の手に取り戻せるのはおれたち三人だけだとうぬぼれて、その結果、今がある。かつての栄光が忘れられず(まあ、あれを栄光にカウントするありえないのが前提だけど)、こうやって死んだものを蘇らせようとする。まずいことになったら、ムスタファもミーガーもあんたを切り捨てる。もちろん、その逆もありうるが」
そうだよな、とアララギはふたりにたずねるが、ふたりは言葉も表情も返さなかった。
「もちろん、おれはあんたを捨てたりしない。なぜなら、おれはいつだって捨てられる立場だからだ。そんな楽しい〈キツネとブドウ〉を復活させる。その細々とした実務をおれが担当しろ。あんたが代表になり、最高責任者になる。その目的は出世だ。いいんじゃないか。問題はなぜ、おれが関わるか? いまのおれはなかなかの暮らしをしている。おもちゃのドローンが引っかかった枝を切り落とせとクレームを受けてチェーンソーを手に走り回る面白おかしい毎日だ。それに女房は逃げた。おれは自由だ」
「ボードレールですか?」
「人殺しの酒。そうそう。それを忘れてた。ここから酒屋は近い」
ジェンキンスの灰青色の目はアララギのデスクに置かれたジョニーウォーカーの、中華街みたいに派手なラベルを透視した。その向こうに見えるのは空の壜をふりまわして踊る、アル中のマヌケがひとりだ。
「まあ、とにかくだ。あんたたちをやきもきさせるのが楽しいから、明確な返答はしない。やるかもしれんし、やらんかもしれん。諸君には、そのへんのもやもやを胸に抱いて、公園局の建物を後にしてもらいたい。ドローンがリンデンバウムの枝に引っかかったら、来てくれ。ミス・ロス! お客さまがお帰りだよ!」
こうしてマヌケになり損ねたエリートたちを追い出したアララギだが、胸のなかのもやもやを与えたはずが、自分の胸のなかがもやもやした。アルコールが肺にまわって、小さな細胞をぷちぷち潰しているのかもしれない。以前から肺には『やめろ! これ以上飲むな! 飲んだらお前を殺すぞ!』と言われてきた。肺がそんな自己主張をするのだから、肝臓は相当なことになっているはずだ。ただ肝臓は自己主張しない。沈黙の臓器だ。ずっとだんまりを決め込み、ある日、突然言う。『あんた、明日死ぬぜ』
そういえば、あの三人は壁に立てかけてあるショットガンについて何も言わなかった。生きることの惨めさに我慢がならなくなったら使おうと思って準備したものだ。案外、あの三人も同じ理由からショットガンを常備しているのかもしれない。
〈キツネとブドウ〉がまだ現役の機関として、地球奪還の旗のもと、罪深いことをしていたころ、あるエンジニアが我慢できなくなり、ショットガンで自分の頭を吹き飛ばした。その引き金には糸が結ばれ、もう一方には犬用ビスケット、そして、あまりきちんと躾けられていない意地汚いテリアが一匹。当時、司令と呼ばれていたアララギはそんなユーモアを持ちながら、自ら死を選んだエンジニア氏に哀悼の意を表すべく、全員三分間の黙とうをささげ、それから仕事を頑張って、七人の少年と十人の少女を殺戮サイボーグに改造した。
「ミス・ロス。ちょっと酒屋に行ってくる」
しばらく森を歩くと、視界が開け、人間はけた外れにデカい筒の裏側にへばりついて生きていることを思い出させる。宇宙コロニーにおいて、重力は遠心力に脱皮したのだ。ニコロ・マキャベリ・グリーンはマイナスイオンを貯金したくなったら訪れる市民の憩いの場だが、なぜか酒屋が一軒ある。アントン・リカー・アンド・シガー。度数八十六の現品限りの殺人ラム、ブラッディメアリーに使うトマトジュースとブラッディブラッディメアリーに使うグアテマラ・ゾーン謹製チリソース、それに白いキラキラしたエナメル材質の棚になじんでいるクリアなジン。販売ロボットのアントンは大きなふたつのトレイを上下三十枚も配していた元給仕型ロボットだが、ウェイター時代に貯めたチップで自由を買い取り、こうして公園にたった一軒の酒屋として一本立ちした。
アントンから安いトカイワインを二本と安い葉巻を一本買い、煙突みたいな煙をふかしながら戻る途中で子どもを殺戮サイボーグに改造することでどのくらいの業者が潤うか考えてみた。培養モジュールを水槽から有機センサーまで二十セットくらい注文したら、納品業者は舌を出して尻尾をふりながらおれを神と崇めるだろう。薬品やら設計やらエンジニアやらも尻尾をふって喜ぶだろうと。懺悔室のセットも。もちろん、このセットには神父も含まれる。神父がいないのに懺悔しても気は晴れないことは前回の〈キツネとブドウ〉で証明済みだ。ムスタファたちは、こういうことに頭がまわらないからアララギを必要とするのだ。
お断りしますの電話を入れるのは二日後にしよう。エリートをじらすことは楽しいが、そうそう機会は転がっていない。だから、幸運をもう少し味わってからにしようと思ったとき、ジェンキンスが誰だったかを思い出した。あのときは泣きながら、ガラスをたたき、なかでサイボーグに生まれ変わっていく兄貴はそんな弟にゴシック・リバイバルの天使のような微笑みをたたえ、大丈夫だから、いつかきっとまた会えるから、と言い聞かせていたが、そのとき、手術アームが兄貴の脊椎液をちゅうちゅう吸い出して、特注の戦闘用伝達モジュールに入れ替えていたわけで、大切なお兄ちゃんは脊椎動物の範疇外に置かれていったわけで……。
困ったことに〈キツネとブドウ〉に関するデータにはアクセス権限がない。当然だ。あれは情報公開法の埒外に置かれている。だが、あのジェンキンスは間違いなく、あのときの少年だ。〈キツネとブドウ〉に兄を殺戮サイボーグに変えられた少年が、〈キツネとブドウ〉の復活に司令として関わろうとしている……。
「こりゃ、たまんねえや」