第三十二話 傲慢の代償
――融け逝くように。
叡躬璃より発せられた冷気は厳斉の身体を――宛ら、鎧の様に覆い尽くした。
煌めくほどに精巧な青白い氷のライダースーツに身を包まれながらも、その実は僅かにひんやりとするだけで身体への悪影響は無く――それどころか、見ての通り己を外敵から守り遮断すべく堅固なる要塞とすらかしたのだ。
更に其れだけに止まらず――厳斉の運転しているバイクのホイールはタイヤごと灼熱の如く燃え上がり、後方からはジェット機のような音と共に鮮やかな橙の焔が吹き上がっているでは無いか。
アスファルトは熱で溶かされ、己の通った後は浅い轍のような焦げ跡が残されているほどであった。
変貌は凄まじく。背にあった筈の彼女の感触も消えてしまい、一体全体如何云うことかと思ったところで――何処からともなく、己へと叡躬璃の声が届くのだから。
「取り敢えずは、此れで相手が妨害行為に走った所で問題無く対処出来ると思うよ」
「――此れって、本当に如何なってるんだ? と言うか、姿は見えないが叡躬璃は何処に居るんだよ」
「君を覆って、そしてバイクをちょっとだけ改造したガワが――今の僕ってだけだから、安心してよ」
「織渼衛と云いお前さんと云い……非実在系は、本当にとんでもない手段でやらかすよな」
「やらかすとは、失礼だね。君の身の安全を考慮して、今はこの形がベストだって思っただけさ――ほら、そろそろ仕掛けてくるんじゃない?」
此度のレースは、異能者同士故に――只の速さ比べなどでは、既に無くなっているのであった。
此方の変貌を見るや否や、走り屋兄弟は自分たちだけの優位性はなくなったと理解したのであろう。
「兄貴ッ! あの女、身体丸ごと作り替えやがったぜ!? バイクなんかロケットみたいにジェット噴いてるし、あんなのってアリかよォ!」
「――狼狽えるな、弟よ! 男の方は何を隠しているかは知らないが、走りの先で何であろうと俺たち兄弟の敵などいないだろう!」
「へ、ヘヘッ! そうだなァ! 最終的に――オレらが一番に為れれば、良いんだからなァ!」
兄に発破を空けられて持ち直したらしき北風の弟は、見目宛らに凍て付く様な冷気を此方へ向けて噴き荒らして来る。
初夏にも拘らず、まるで冬将軍が到来したかのような局所的な吹雪へと見舞われる次第であったが。
辺りは所構わず雪と氷で覆われ始め、巻き込まれるのを嫌った彼らの仲間たちは後方へと非難している程である。
――しかしながら、此度の厳斉の守護者と化した彼女には、微塵もその影響を与えられぬようなのだから。
「――く、クソッ! なんで、野郎のタイヤが凍り付かネェんだ!? あのジェットの所為でエンジンもダメにならねェ! コレでも最大ッ、出し惜しみなんてしてないんだぞ!」
「やれやれ、君の出力が弱いんだろう。その程度の北風では、僕の炎陽は凍えないさ」
「チクショォ! クソ女がァ!」
「品が無いね、お里が知れるよ。少しは家の彼を見習って、窮地で在ろうと紳士らしく振舞った方が良いんじゃないかな」
例え寒波に見舞われようと、吹雪に苛まれようと――。
舞い上がる紅蓮は、到達する前に冷気を塵の様に乾燥させて消し去るのだ。
灼熱を引き、炎暑を滾らせる叡躬璃の脚には、その程度の障害など到底届かず――正しく、無いに等しい微風である。
表情は見えずとも、叡躬璃の台詞にはうんざりとするような侮蔑の色がありありと滲んでいたのは気の所為では無いだろう。
そして選手交代とばかりに――暴風と化した銀髪弟が悔しそうに顔を歪ませる中で、逆側からは復讐の如く西風の兄が熱風を吹かせだしたのだ。
「どれだけマシンが優れていようと、乗り手がリタイヤしてしまえば勝負は終了だ!」
「此方はお前たちの乱痴気騒ぎに無理矢理付き合わされているだけなんだが……。レースって名目である以上、そう云うのって反則なんじゃないのか?」
「ははははははッ! 異能者同士のバイクレースであるならば、何でもアリに決まっているだろう! いざ――焦がし尽くせ!」
金髪の兄の意気込みと共に――突風を通り越して、いっそ放射の如き火炎の渦へと包まれる厳斉であったが、
「叡躬璃――このスーツ凄いな。全然冷たくも無いけど、あれだけの焔に捲かれてるってのに微塵の火傷すら負う気配が無いぞ」
「まぁ、異能を使って僕自身で厳斉を包んでるに等しいからね。あんなドライヤー程度じゃ、雫の一滴すらも垂れないさ」
「此れだけ火に強いんなら、消防士にでもなれば食い逸れることもないんじゃないのか」
「雪山の山岳救助隊何かでも、余裕で熟せるんじゃないかなって自分でもちょっと思ったくらいだよ」
「どっちにしても、ヒーローならぬヒロイン誕生だな」
「こんな異能が、一般社会に受け入れられればの話だけどね。そうなったら、君のことも此れで養ってあげるよ」
「このお嬢さんったら、俺に一生おさんどん係させる気なのか……」
熱気が肌を焼き焦がす前に――絶対零度の結界が、暖気の初動で無に帰すんのだろう。
最早、全くの無傷に言葉すらも失っているらしい金髪兄を尻目に――厳斉と叡躬璃は、まるでドライブ中の雑談のような会話をもする余裕がある程なのだから。
事実として。レース勝負だなどと嘯き乍ら分が悪いと知るや否や、こうした妨害行為を行われたところで微塵の損害も生じない。
「クソッ! クソクソクソォォオオオオオオ! 何でだよォ! オレたち兄弟は、無敵のハズだろォ!? 最速なんじゃねェのかよォォォオオオオオオオ!?」
「あぁ! 全くだ! 今日に限って、まるでエンジンが止まっているような感覚じゃないかァァァアアアアアア――!」
縋るような北風も吹き飛ばし、絡み着く西風をも足蹴に跳ばす。
そんな負け犬の叫びを遥か後方へと置き去りにして、そのまま厳斉はロケットと化した特製バイクにて――終着点である、高架の切れ端まで余裕で辿り着いたのであった。
後輪をロックし、半円を描くように地べたへと高熱の後を刻んで、向かい合うように来た道へと視線を向ける。
そうして少しした後に遠くよりエンジン音が響き渡り、やっとのことにて厳斉たちの下へと負け犬となった爆走兄弟が到着したのだから。
やや遅れて、信じがたいかのような台詞を口々に溢す彼らの仲間も集い来るが――最早、勝負前のテンションなど欠片も存在してはいないのであった。
仲間の若者たちが声を掛けるが、如何にも反応も無いようで。
バイクから下りて呆然と佇む双子を尻目――元の姿に戻った叡躬璃と共に、崩れ去ってしまった高架を眺めるのだ。
されど、も――。
やはり道の断裂は本当であったようで――寧ろ、部分的にではなく。
この先がずっと、崩れ去ってしまっていると表現した方が正しい光景なのであろう。
故に、ちょいとばかし飛び越えて……なんてことは出来ず、此れでは別のルートを使う他無いということは明白である。
「と、なると……。解ってはいたけど、高速道路で脱出ってのは無理みたいだね」
「あぁ、この様子なら――如何したって、県外からの救助にも来ることが出来ないと云う点にも納得出来るな」
「電車も止まってるし、下の道もグチャグチャな所が多いけど、やっぱりそっちから探すしかないのかな」
「そうだな。一先ず今回は、此の事が判っただけでも収穫があったと考えて帰るとするか」
――こうして。
用は済んだとばかりに、叡躬璃を載せてバイクに跨り直そうとした厳斉であったが、
「……許せねェぜ、兄貴」
「……赦せんな、弟よ」
そんな呟きと共に。
消沈より一転して――彼方からは、噴きあがるような怒気が巻き起こっているでは無いか。
「――まぁ、そんな展開になるとは思っていたよ」
「なんでああ云う輩は、無駄に諦めが悪いんだろうね……」
其れを見て、先の展開を幻視したかのように面倒臭そうな声を上げてしまった厳斉は、きっと悪くないだろう。
実際、隣の叡躬璃も心底怠そうに溢していたのだから。
高架のレースは、未だ終わりを見せてはくれないようであった。




