第一話 夜廻り
――いっそ、夢で在れば良かったのに。
目が覚めた時には、既に辺りは暗く。自室内にも、夜の帳が訪れていた。
電気を点けていなかったのは、幸いしたのかどうかは判らぬが。
不用心にもカーテンが開けっ放しで在ったにも拘らず、暗がりの中へと溶け込んでいたこの部屋ならば、例え外から見ても目立つような点は無かっただろう。
兎にも角にも、目が覚めて家中のカーテンを全て締め切り、小さな小さな灯りだけを燈した室内であっても、はっきりと――己の手の甲へと刻まれた咎人の証の如き痣により、今日起こり得た惨劇が全て現実のものであるということを嫌でも理解させられていたのであった。
いずれにせよ。仮に災害が起きたならば、助けを求める必要があるだろう。
しかしながら、如何したことやら。電話もネットも繋がらず、窓の外からは未だ喧騒と各地から上った黒煙が止まない様子が見受けられた。
止めとばかりに――自宅アパートより少し離れた所ではパトカーが引っ繰り返っているようであり、その下には認めがたいことに赤く――と言うよりも、黒くなった広がる染みがあるようで、暗がりの中へと制服姿の身体の一部がはみ出ていたのである。
地震や何かで転がったと言うよりも、考えにくい話だが――宛ら、怪力を有した巨大な生物からの被害に遭ったかのように、転がる車両の至る所がボコボコに変形しているようであった。
あの様子では、この辺りだけでなくとも未曽有の災害による途轍もない被害は広がっていることであろう。
例え電波や回線が機能していたとしても、アレでは何時自分が助けて貰えるかも不明で在ろう。
結局、隕石なのかミサイルなのか自身なのか――はたまた、別の想像にも及ばぬような事態が生じているのかと考えれば止めどない不安が溢れて来るが、どちらにしても今の自分に出来ることなど限られている。
つまりは、まず自分自身の安全と食い扶持の確保である。
何時まで持つかは心許無いけれど、現時点におけるリソースにはある程度の余裕がある。
買い置きのカップ麺や水は独り身であれば節約次第で数日は持つことであろうし、ガスはプロパン故に問題無く使用できる。
そして何より、古ぼけたアパートの分際ながらも――此処の屋根にはソーラーパネルが張ってあり、小規模ながらも自家発電装置まで備わっているのだから。
これであれば湯も湧かせるし、調理も可能となる。電気が何時止まっても、多少の猶予が生まれることだろう。
が、しかしながら――この快適さが何時まで続くかなどは判らぬ上、食料についてもいずれは必ず尽きる。
したがって、有事で在ろうと暴徒と成り下がる訳にはいかないけれど、近隣のコンビニやらスーパーマーケットを廻って、如何にか生活に必要な品々を調達する必要もあるのであった。
災害時であっても営業が為されているのであれば、普段通りに銭を払って購入すれば良い。
もしも店として機能していなければ、申し訳ないが後で支払うのだと心へ留めつつも――可能な限り、其処で物資を拝借する他ない。
そうと決まれば、話は早い。と言うか、さっさと動く必要性が出て来るだろう。
卑しい話だが、物には何であっても限りがあるのだ。
自分程度が思いつくことなど、きっとこの災害化において動くことの出来る人間で在れば、誰でも容易に辿り着く結論でしかない。
取り敢えずは睡眠によりある程度の体力も回復していたようで――寝ぼけ眼を奮い立たせ我が身へと鞭を打ちながら、ザックを背負って出かけることにする。
一般的な大学生として平時より武器など所持していないが故に、台所より果物ナイフの一本だけを懐へと忍ばせておくことにする。
職務質問のリスクを考えれば、このようなものを裸で持ち歩く真似などするはずも無いけれど、今は有事も有事なのだ。
使わないに越したことは無いけれど、イザと云う時に身を守る術の一つも持ち合わせて居ないとなれば、とても不安でこの状況下の表など歩けるはずも無いのであった。
そして錆び付いて軋んだ音を立てる階段を降り、敷地より一歩出たアスファルトの街路へと佇むと――此処が最早、己の知る街では無いのだと思わざるを得ない、と。
初夏の生温い夜風が、今は嫌な感触となって肌を舐めるように感じられる程なのだから。
こうして外へと出た次第であったが、やはり如何して見える範囲だけでも途轍もなく酷い有様へと変わり果てているではないか。
公園に居た時のような街中へと比べれば、建物自体が倒壊している姿はほとんど見られない。
されども、何処からか焼け焦げた臭いが漂っており、夜の空ながらも至る所で黒煙が未だ昇るのだ。
家屋の石壁などは罅割れている様が見受けられ、車庫や個人商店のシャッターなぞはほぼ降ろされているのではなかろうか。
此処は既に、残骸と化した都市なのだろう。安穏と流れていた、平穏の搾り滓のに等しいのだ。
そして、ふと――少々不謹慎にも思われたが、先程自室窓の先より見つけたパトカーを思い出し、其方へと足を運んでみる。
近くへ向かうと、スクラップとなった車両の周りでは嫌な臭いが漂っていた。
死者を辱めるような真似はしたく無いけれど、警官の其れであるならば己の生存に役立つものがあるかもしれない――と。
出来得る限り心を無にして辺りを漁って見ると、やはりと言うべきだろうか。
今はもう、生命の鼓動を止めてしまった警察官の持ち物で在ったらしき、警棒と拳銃を見つけることが出来たのだった。
進んで法律を破るのは好ましくないとは言え、物言わぬ彼がこの武器を使うことは二度とないのだ。
もしかしたら。彼の死体を見つけた与太者がこれらを拾い、それを元手に犯罪行為にいそしむことになるかもしれない――だからこの拾得行為はある意味でまだ見ぬ犯罪への予防策なのだ、なんて。
少々自身へと都合の良い解釈を捏ね繰り回した末、やはり現状何が起こるか解らないという不安が無断使用の罪悪感へと打ち勝ち、武器を懐へと忍ばせる次第となったのである。
――加えて、と言うべきだろうか。
警察の標準装備など知る由も無いのだが、ひっくり返った車内からは幾らかの銃弾をも小振りなケースごと発見するに至ったのだ。
彼らは本体に装填されている弾だけでは無く、こうして呼びの弾薬も持ち歩くものなのだろうか。
それは、さて置き――思案の時間は、必要以上に残されてはいないということを忘れてはならない。
最悪別の警察官に見咎められれば、此処で拾ったと言うことにするしかないだろう。
警官の死体は、間違いなく変形したパトカーの下敷きとなっているのだ。
まさか――己が車両を引っ繰り返して警官殺しを行った上で強奪したなどと言う疑いは、まず掛けられることもないと思われた。
確かに気分は非常に宜しくないけれど、何時までも死体の傍で立ち往生している姿を第三者に見られる方が問題である。
故にこのまま入手した武器と銃弾をも確認した後、足早に奇怪に壊された車両の下より離れることにしたのであった。
本当に――一体全体、この街は如何なってしまったのだろうか。
武器の一つが手に入ろうとも、まるで焦燥感は拭えないというのも決して可笑しな話では無いだろう。
街頭すらも所々怪しくなった街路をひっそりと進みながら、己の内ではまだ見ぬ災厄への畏怖が渦巻いているのであった。
信じたくは無い日常よりの逸脱が、我が身へと鉛の様に重く圧し掛かる。