第十六話 安寧
「あ……は、はっ……」
声が、毀れる。
――崩れるように。
外装が剥がれ落ちた紅絽絵は、厳斉へと振り返った先で――色彩の薄らいだ顔色にて、泣き笑いのような表情を浮かべていた。
その瞳へと浮かぶのは、果たして怯えの色であろうか。
息が詰まるかのような嗚咽交じりの呼吸を携えながらも、彼女の様子は必死で瓦礫の最中へと立っている女の子の其れでしかない。
震えるような声色を以って、紅絽絵は己へと呟くように紡いだのであった。
「は、は……。ボク、ね……こんなのに、なっちゃったんだ……」
絶望に囚われたかの如く――潤みながらも、全力で雫が流れる様を堪えるようにしながらも、一つ一つ彼女は言葉を口唇より洩らして往く。
「昨日、さ……。あの災害の衝撃の所為で、街中で気を失った後に――気が付いたら、こんなことが出来るようになってたんだ……」
黙ったまま耳を傾ける厳斉へと、視線を絡ませるのが辛くなったのだろうか。
紅絽絵は俯きながら――それでも、ぽつぽつと。
消え入りそうな声を。アスファルトが捲れ上がり、下部が剥き出しとなった地面へと落とす様に呟き続ける。
「でも、こんなのってやっぱり変、なんだよね……。もう、ボクは……普通の人間じゃ、無いんだ……。あははっ……バケモノ、だって……さ」
彼女自身が口にした事実へと、話している内に遂に耐えられなくなってしまったのか。
ぽろぽろと水滴が地べたへと墜落し、ぽつりぽつりと乙女の涙が地表を濡らす。
「やだ、ゴメン……っ! こんなコト聞かされでも、厳斉も困るよね……。こんなの、キミも怖いって思――ちょっ! な、何ソレ!?」
「何って……簡易ブラックホール、的な?」
泣きじゃくり始めていた紅絽絵が俯いていた貌を上げた時には、端的に応えた厳斉は辺りへとお馴染みの黒玉を回しながら、周囲に散らばった瓦礫を削り――容易く掃除するかのような様を見せつけていた。
あまりの事態に驚きを隠せない様子の彼女であろうが、そんなことは大した問題ではないと言わんばかりに。
いっそ、随分と滑らかに動かせるようになったなぁと考えながらも――宛らラジコンのように、闇色の球体を膨張縮小を繰り返しながら操り廻していたのであった。
「まぁ、何と言うか……。自分だけが特別だなんてのは、世の中そんなに無いと云う事さ」
「――え、えぇっ!? なん……何て言うか、それ、もう……えぇっ、ホント何それ!?」
バチバチと紫電へと全身を変換させた織渼衛に至っては、驚愕に目が飛び出さんとばかりになっていた紅絽絵へと見せつけるように――稲妻の如き、否、そのものと化した体躯を以って瞬きの狭間へと飛び回っているではないか。
正しく人間の止めっぷりなぞでは引けを取らない様相に、紅絽絵も開いた口が塞がらないと言わんばかりの有様である。
こうしたお仲間の超常人間っぷりを見せつけ終わった時には、既に彼女の悲哀に塗れた涙は、驚きの彼方へと吹き飛んでしまっていたようでは無いか。
「……ははっ! 何だ……ボクだけが可笑しくなったわけじゃ……。皆と、離れなくちゃいけなくなったんじゃ、無かったんだ……っ」
ぱっ、と。
花開くように可憐な笑みを取り戻した頃には、紅絽絵の頬を伝う涙の跡も乾いていたのであった。
*
――そんなこんなで。
道中、諸々の障害はあったものの。
こうして無事、荒廃の最中であっても未だ落ち着くことの出来る自宅へと。
新たに再会を遂げた友人を引き連れて、如何にか帰還することが出来たのであった。
多少アクシデントには見舞われたが、割かし心身共に健全である現状はマシであると言えようか。
いずれにせよ。今も尚、こうして仲間と共に厳斉は生き延びているのだ。
「こんな世の中じゃ、ちょっと買い物に行くだけでも疲れるものだな」
「ふふっ。でも、此れで暫くは食うに困らなくなったと言えるじゃあないか」
相も変わらず勝手知ったるとばかりに、己に続いて織渼衛も靴を脱ぎ、そのままリビングへと直行するのだ。
「たっだいまー。厳斉ん家も久々……では、全然無いね」
「――あぁ。お前さんもいつも通り、数日前に泊まって往ったばっかだろ。と言うか、俺の家に来てただいまはおかしくないか?」
「まぁまぁ、私も含めて此処には入り浸り組なのだから――実質的に、自分の家みたいなものだろう」
「そーそー! だから喜んで、お世話になります! なってますっ! 今までも、これからも!」
「いや、その理屈は可笑し――もう良いわ。好きにしてくれ……」
今泣いた烏がもう笑った、と。
流石に其れを口に出さぬだけのデリカシーは持ち合わせて居ると自負する厳斉としては、一先ず紅絽絵も立ち直ったのであれば――その他の部分には今は目を瞑ろう、と。
明るさを取り戻して女同士で盛り上がっている彼女たちを放置して、異能の渦へと仕舞い込んでいた戦利品を整理の為に幾つか並べ出す。
食料、生活用品、医薬品などなど……。
流石に全て吐き出せば部屋が埋まってしまう為、この部屋の者であれば、何時でも誰でも使うことの出来るように用意しておく。
すると――厳斉の行っていた作業へと、関心を抱いたのか。
紅絽絵が興味深そうに、その様子を眺めながら言うのである。
「へぇー、厳斉のは随分便利なんだねー」
「お蔭様で、名誉荷物運びの称号を獲得したからな」
「実際、こんな状況だからこそ――出し入れの手間は必要だけど、一度にどれ程多い荷物があろうとも苦も無く運べるというのは、本当に他にはない強みなのだよ」
「確かに、アレもコレも限りが無いから、持ってく物の選別もしなくて良いんだもんね」
その様子へと、織渼衛もまた災害時における優位性を指摘するのだ。
感嘆するように息を吐いた紅絽絵は、己の左手に刻まれた――異常性の証へと、興味深そうに視線を落とす。
「そう言えば、なんだけどさ。その紋様の位置や形って、皆一緒じゃないんだね?」
「あぁ、俺は左手の甲だけど、同じように二人の手には無いからな」
「ふふっ。厳斉は、私の見せた時には齧り付きだったものねぇ」
「誤解を招く様な事を言うな。事実を捏造するのは止せ」
くすくすと笑いながら、紅絽絵へと織渼衛は自分のブラウスのボタンを開け――その左胸に刻まれた、雷華の存在を確認させていた。
「おぉ……! やっぱり、場所もデザインも違うんだね――でも、こんなトコに刻まれてんのを見せつけられたら、厳斉もむしゃぶりつきたく……なっちゃった?」
「その質問だと、如何答えても確実に揶揄われるだろ……」
織渼衛なぞは、ニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべたままシャツを開けている以上―此処で―何を言っても、己は弄られる側であることに間違いなさそうである。
故に沈黙を貫こうとしていた矢先――紅絽絵は紅絽絵で、またしてもはしたない行動へと移るのであった。
「――コレ、見て見て! ドラッグストアに避難してた時にさ。こんな時だから余計に怪我とかしてないなかって、トイレの鏡で全身確認してた時に見つけたんだけど……!」
「おやおや……! 今年も実りは、実に順調じゃあないか――ねぇ、厳斉?」
「あぁ、たわわに実ってもぎたてフレッシュ――って、やかましいわ! お嬢さん、はよズボンを履きなさい」
止める間も無く――突如。
その大きな果実を納めていたスキニーを脱いで、此方へと見事な桃尻を向ける紅絽絵の其処には、紛う事無き件の紋様が刻み込まれているのだから。
鉄仮面からヴェールが伸びるかのような――堅牢な力強さと、無垢な乙女の願いを併せたような感触を抱く。
未曽有の災害の最中――麗人が此方へと生尻を向けているという、何とも言えない光景へと目を瞑れば。
今だけは日常の中に存在していた、この部屋の中はだけは何時も通りの代り映えのしない空間が広がっているのかもしれなかったのであった。