瘤
その瘤はいつからかそこにあった。
初めは気にもとめなかったが次第にそれは大きくなり、あるところで止まった。ちょうど耳の裏、右下あたり、髪に隠れるところにそれはある。自分からは見えないので、触ったことしかない。触った感じ、縦に1センチ、横はその半分あり、楕円のように思える。しかし往々にして、見えないものを手で触ると大きく感じられるもので、あるいはもっと小さいのかもしれない。
瘤に気づく数日前の夜に、変な虫を見た。それは寝入りばなで、夢か現実かもよくわからなかったのだが、その虫はもぞもぞと枕元を歩いていた。不気味な虫だった。今までに見たことの無い、それこそ本やテレビでだって見たことのない虫だった。一見、あげは蝶の幼虫に似ているが、小さな羽根のようなものが、呆れるほど適当な箇所についていた。左右対称にすらなっておらず、小さな体に5つほどある。羽根と言っても、白く薄い皮膚のような質感で、赤と青の血管が透けて見えた。それは見るからに飛ぶためのものではなかった。
頭は、胴よりも少し大きく、複眼と言おうか、小さな赤いものが、間をあけて、千個ほど張り付いていた。口は角度的に見えないが、透明な触手が1本、時折むちのようにしなった。足は胴の後ろにしかなく、10本ほどがばらばらにせわしなく動いていた。関節が二つほどあり、蟻のそれに酷似している。後ろの足に押されるようにして、上半身はただ地面を這って進んでいる。虫の進んだあとには、粘液が残された。おそらく上半身は粘液により摩擦を減らしている、という構造なのだろう。さらに尻のような穴からは臓器とも取れる、青黒いものがずるずると引きずられていた。それは黒く濡れていてやわらかく、指で押さえればすぐに潰れてしまいそうなものだ。
体のあらゆる部分がその生物にとって無意味であるように見えるが、地を這う、という点においてはそれほど不便というようではなかった。
そいつは無遠慮にも、右を向いて寝ている私の顔に近づいてきた。そして、耳の裏辺りをチクリと2回ほど射すとどっかに行ってしまった。私はその間ずっと体が動かなかった。今考えると動けなかったというよりも動かなかったような気がする。異形の虫を前に別段の恐怖も無かったのだ。刺されてからも特に興味も湧かず、そちらを見なかったので、虫がどこに行ったのかもわからないという訳だ。
こうして聞くとそいつは夢のように思えるが、チクリとした痛みはあったのだ。だから私はこれを夢とは思い込めないでいる。かといって現実であるようにも思えない。しかしその数日後にかゆみと共にその瘤に気がついたのだ。
結局のところいまだにその瘤の正体をつかめずにいるのだが、その虫を見たこともあってか私は不安でしょうがないのだ。虫が私に卵を産みつけたのではないか、とかそんな風に考える。そうすると、確かに何か生き物のような感触もする。卵なら今の内に殺しておいた方がいいだろうと強く押してみたが、それは硬くて、期待したものは得られなかった。
私は暇があればその瘤を触った。それこそ、朝新聞を読みながら、通勤の電車、もちろん会社ではことさら多く触った。家に帰ってもそれをしばしば触った。誰か人に言おうかとも思ったが、いざ虫でも這い出てみろ、どんなことを言われるかわかったもんじゃない。
しかしそんなことが1ヶ月も続くといよいよそれが何なのかが気になり始めた。何も起きないから余計に不審なのだ。そうして一大決心、ついに病院に行くことにした。病院の先生は、眼鏡をかけた初老の男だったが、これこれこうだと伝えると迷いも無く耳の裏に手を回した。私は彼が触る瞬間にそれが潰れやしないかとドキドキした。なんたって人の体から見たことも無い虫が這い出るのだから、間違いなく一大事になろう。私は人々の奇異の目にさらされることになる。やはりやめておくと言おうとしたが、もう既に先生は指をそこに押し付けていた。先生の指はいやに冷たかった。私はその感触があることを知ると、いよいよその虫の卵が自分の神経にまで影響を与えているのかと不安になった。
先生はなんともないように、脂肪の塊なので気にしなくてもいい、いぼのようなもんだと言って笑った。それでも気になるようなら切除しましょうとも言った。その顔は明らかに切除した方がいいという風だったので、どうしてそんな遠まわしなことを言うのだろうかと考えて、余命いくばくもない患者に宣告がないことを思い出し憂鬱になった。そうしてとにかく構わないでくれといそいそと引き上げてきてしまった。
あまりに不安になったので、母親に相談したら、そりゃ病院も会社みたいなもんで手術をして収入を増やしたいのさ、と笑いながら言った。確かにそうなのかもしれんとその夜はそれで久々にぐっすり寝た。しかし次の日起きると、また不安になった。それも知らず知らずにインターネットなどで、虫について調べるからいけない。こんな便利なものを自分の近くに置いておくと、また後々なにか不都合が生じるだろうと、その日のうちに業者に頼んでケーブルを全部抜いてもらい、パソコンも閉じてやった。それが終わるとより不安になった。何でも人間に寄生する虫はたくさんあるというのだ。どこの誰とも分からんような奴の言うことではあるが、なんとも嫌な話だ。人の嫌がるのを見て喜ぶような輩がよくあるがきっとこれもそのような者のしわざだろう。とは言ってもあるいは医者が忠告のために書いたとも考えられるので、どうしようもなく心細く、かと言って話す相手も特にいないので、コンビニで酒を買って一升分飲んでやった。生来酒などあまり飲まないのだから、やはり便利なものがあるのはいけない。一升分というのは一生という意味なのかもしれぬと真剣に考えてみたが、では酒飲みの立つ瀬無きと思って考え直した。
次の日も瘤は変わらずそこにあった。よほど居心地がよいと見える。その瘤の中で、そろそろ孵化する虫がおるかも知れないと思い、ぞっとした。会社に行って、とうとう先輩にその話をすると、やはり君は心配性だなと言うので、のんきなもんです、と言ってやった。先輩は少し不機嫌そうに、君は騒ぎすぎだと言った。それは大いに結構だ。心配性は人に迷惑をかけない。どんなに心配しても、心労がたたるだけで、周囲には何の害もない。それよりも、あんなに適当な見積をつくるあんたの方がよっぽどではないかと思ったが、言わなかったのは、我ながら偉かった。
相談する相手の悪かったことを反省して、次に頗る思慮深い先輩に相談してみた。先輩はいつものように難しそうにうんうん首をひねって、そいつは分からんな。脂肪というなら、出来た理由は何なのだろうか。お前は食べすぎなのか、と言われた。勿論そんなことは無いので、首を振ると、では他の原因として、虫に食われたのじゃないか、と言った。食われたのではなく、刺されたのです、と言うと、はて原因は分かっているのかい、と言うので、私は耳を赤くして、いいや、やはり分からんままです、と言った。先輩は怪訝そうな顔をしてまたしてもうんうんと言い、眼をつむった。夢の話をして、それはお前の幻だと言われるのを恐れて、それだけはとうとう誰にも言わなかった。先輩は少し黙って、わからんな。しかし医者が大丈夫と言うものは大丈夫だと言って、前髪をかきあげた。そんなに邪魔なら切ってしまえばよかろう。私なんていつも、短く切りそろえて、ほら、横もと思ったが、瘤が目立つのではないかと思い、控えた。
先輩に聞いても分からないなら、次は同い年に聞いてみようと思った。同い年には、いやにふけた男と、その逆で頗る童顔のと、のっぽと、何の特徴もないのがいた。女は話したこともないが、ただ3人いるというのだけ知っている。
ふけ顔に聞くと、神経質だなと言われたきりさっさと行ってしまった。老けていても、中身はどうだかわからんものだと思った。もう10年近く一緒の会社にいても何にも知らないとは悲しいが、話しても下らないようなので、敬遠している自分に気付いて割り切った。次に童顔に聞くと、自分も子供の頃よくなったと言う。何とも有益そうだ。この童顔は同い年の中でも、まだ仲のいいほうで、暗いやつだと思っていたが、他の人が言うにはよく笑う、頗る明朗な奴だそうだ。仕事も出来るので頭はいいことだろうし、期待したが、何のことはない、おできのようなものだと言うのだ。おできのようなもので、人はここまで心配になるものか、と言うと、そりゃあ君が心配性だからさ。気にしなけりゃそのうち治るし、治らなくても何もなけりゃ、それでいいじゃないか。痛くでもなりだしたら、また病院に行けばいい、今度は先生もよく診てくれるはずさ。そう言って、またパソコンに向き直ったので、それ以上、何も聞けなかった。
私は次にのっぽに聞いてみたが、こいつは無口な奴で、うん、それは大変だろうと言っただけで、忙しい忙しいと言ってハンカチで額をふいた。この男は大して忙しくも無いのに、いつも寝不足な顔をして忙しそうにしているもんだから、会社の人は皆こいつを仕事の出来る人と思っている。しかし、私が知る限り、この男は残業をよくしてはいるが、昼には上の階でのんびりマッサージなどをしているのだ。私はこの男がめっぽう嫌いだったので、私の方も、結構だと言ってすぐに歩いていった。のっぽはまだ忙しいとつぶやいていたので、天井に頭でもぶつけてしまえ、と心の中でつぶやいた。
このときにはもう面倒になっていたが、ここまで聞いた手前、あとでひがむといけないので、念の為、無特徴にも聞いてみた。しかし、徒労に終わった。いつも一般論しか言わない男なので、もとより期待などしてはいないのだが、こうまで期待を裏切らないと逆に拍子抜けだ。
結局誰に聞いても何も得られず、もしやこれは前例の無い病気なのではないかと考えた。帰りに本屋によって4,5冊の本を買った。これにも何も載っていなかったので、ますます焦った。
いつ何の前触れもなく、肢体が不能になるのではないかとすら思った。血管に何か出来たのかもしれぬ。耳の辺りは肉が薄いので、それが膨れて表面に出てしまったという考えだ。もしくは脳の腫瘍が肥大し、一つの影響のとして、このような瘤が出来たか。または皮膚癌によるものかもしれない。
私は息苦しくなって、また酒を買って飲み始めた。今日は一升どころの騒ぎでは無い。私はそのまんまそこでぐっすり寝入ってしまった。朝、肩の辺りが痛くて、酔って寝てしまったことを後悔した。酒が人をこんなところで寝かせるなら、風邪薬を作る会社と提携したらさぞ儲かることだろう。
頭痛もあり、立つとめまいがした。会社に着くと、のっぽが忙しそうに前を通った。おい、お前はいつでも忙しいんだな、まるでコンビニだ、24時間営業というわけだ。最近の精神衰弱のせいでいらいらしていたので、そんな風にからかうと、お前はいつも暇そうだが、仕事が無いんじゃないか、と言った。そんな馬鹿なことがあるか。私は毎日計画立てて仕事を進めているんだ、と語勢を強くすると、のっぽは俺だって、そうだよと弱々しく言うので、マッサージも計画の内かね、と返すと、気まずそうに小走りして向こうへ行ってしまった。
私は気分が少し晴れたので、勢いよく椅子に座ると、どうやら腰が痛い。腰にまで腫瘍が転移したのだろうかと不安になった。幸い数日後に腰の痛みはひいたが、瘤は変化を見せない。そろそろそこにあるのも飽きてしまってもいいようなものだが、とため息をこぼしてみたが、それにすら反応しない。
いっそ自分で刃でも入れてみようかとも思ったが、いよいよの時にそれは置いておいた。現状、激しい痛みやかゆみみたいな不愉快がある訳ではないのだ。私はまたその瘤を触った。表面は周囲の皮膚となんら変わらない感触であった。むしろ張っている分、少しばかりつやめいている。瘤は外見上、少し悪い色をしているそうだ。童顔が言うには、茶の少し薄い色ということだ。ふとそれが気になって鏡を2枚持ってきて、鏡面が向き合うようにして、何とか見ようと試みた。しかしそれは失敗に終わった。上手い具合に見えないのだ。一つに、瘤を隠すように伸ばした毛が、本当にしっかりとこれを隠していたのだ。私はとりあえず、それを輪ゴムで止めたが、やはり何本かは抗うものもあって、何となく邪魔をするのだ。それに、耳のせいで上手く瘤の部分が隠れるのだ。どちらかを少し動かすと、もう鏡の端が来てしまうのだ。1枚を机に置いて、手で耳を折ってみた。それでも瘤は見えない。私は改めて瘤を触ると、それが耳の本当に根本、そこに寄り添うような場所にあることに気が付いた。
瘤は次の日も、その次の日も、その次の月にもあった。いつも耳に寄り添っているので、瘤は耳のお嫁さんか何かではなかろうかと思ってすぐ、自分の神経衰弱ぶりに気を落とした。こんな小さな瘤だが、毎日少しずつ生きるために私から栄養を奪っているような気がしてならない。考えてみれば、こんなものでも慣れない場所に在るということは、それなりにエネルギーが必要なのだ。そしてこいつが光合成でもしていない限りは、その源は私だ。
こん畜生、と強く押してみたが相変わらずだ。次に爪で引っかいてみた。するとそれは思った以上に痛かったのだ。察するにそれは内部的な痛みであった。引っかかれた皮膚というよりは、瘤の中にある何かがこの痛みを生み出したのだ。血は出ていないかと、童顔に聞いてみたが、いいや何もと言うのでひとまず安心して、もう触らないでおこうと思った。
数時間たっても瘤が痛むので、童顔は嘘をついたんじゃなかろうかと思ったが、確かに触っても血は付かなかった。しかし、ふと童顔の言う瘤の外見も実は嘘かもしれぬと思い始めた。本当は紫に壊死したような色で、何か皮膚とは思えないような質感だったもんで、あいつはお茶を濁したのかもしれない。ただし、そういった優しさのせいで私が死んだら、果たしてあいつは優人だろうか。あるいはそれを見たことがあって、死ぬのを知りながら、それを隠し、私をはめようとしているのかもしれぬ。
なんという野郎だ。あのでくのぼうののっぽや、ふけ顔、無特徴よりもよっぽどたちの悪い男だ。こうはしておれない。この瘤をどうにかしなければあいつの思うように死んでしまう。この気味の悪い紫の瘤を切除してしまわなければならない。こいつのせいで近頃はめっきり仕事も上手くいかんし、体調も優れない。なんだか周りの私を見る目も少し違うように思われる。会社ですれ違っても挨拶だってしやしない。そんなとき決まって彼らは私が通り過ぎた後に振り返るのだ。そして瘤を見て、疎ましそうに、まるでそこに塵屑でもあるように、口を真一文字に結んで目をそらしていることだろう。
私は体調不良を理由に早退して、病院へ向かった。今度は違う先生が出てきたので、また一から説明せねばならなかった。先生はカルテを見ながら、難しそうに私の話を聞いていた。私はそのカルテを少し前のめりになってことあるごとに覗いた。そこにはドイツ語かなにか、外国語が走り書きしてあるだけであった。それなのに先生は私が覗き込むと、けげんそうに体を後ろにそらして、カルテを隠すのだった。
先生は瘤に触って、なんだか変な笑顔を作って、やはり問題ないね、と言ったが、そんな顔でいくら健康だと言われようとなかなか信用できるものではない。私は、とにかく早くこの瘤を切除してくれと懇願した。それはあまりの剣幕で、先生は何か事情があるのかとかんぐった程だ。先生が女だろうとか、医者にしては低俗なことを言うので、ただ切ってくれりゃいいんだ、と私はイライラして言った。先生はそれで自分の予想が当たったものと勝手に思い込んで、ニヤニヤしていた。私はもうすっかり呆れてしまったので、いつできるのかと聞いた。繁忙期でもないので、あなたの都合のよい時で構わないと言うので、では今からお願いしたいと言い、すぐに手術する運びとなった。手術は極めて短時間であった。麻酔が効くのを待って、メスで耳の裏をすっと切った。その後、液体窒素なるものをその箇所に当てて、細胞を完全に殺すそうだ。液体窒素は白い蒸気を当たりに撒き散らしていた。それが頬の近くを通ると、涼しげでなんとも心地よかった。最後にガーゼにアルコールを染み込ませて、患部を消毒した。
瘤を除去した場所には、新しいガーゼがテープで止めてあるため、瘤が本当に無くなったのかは分からないが、少なくとも小さな銀皿の上に、茶色いものが置いてある。ちょうど自分の乳首と同じくらいの大きさであった。こんなものが私を苦しめていたのかと思うと、どうにもこれが本当にそこにあったものか疑わしく思った。お料理番組のように、はいこれが取れた瘤ですと、違うところから出してきたように思えるのだ。
私は恐る恐るそれに触れた。その感触は紛れも無く、私の耳の裏にあったものであった。触れた手に関してはその後、充分に消毒しておいた。今までは触った後でも平気で飯を食っていたのに、取れた瘤を触るとどうも悪菌などいそうで嫌なのだ。
私は先生に礼を言うと、スキップしながら家に帰った。頗る機嫌がよかった。あの童顔の言うことに間違いはなかったのだ。あいつの言うままのものを俺は見たのだから。ちょっとナアヴァスになり過ぎていたのだ。後で、何となく童顔に謝らなければならない。私はそう思いながら、まだ10時だというのに、布団に入り込むと、すぐに眠った。
その晩、夢を見た。いつか見た虫が、ずるずるとまたこちらに這い近づいてきた。私はまた刺されてはかなわないので、その虫を殺そうとむくっと立ち上がった。枕元に付箋だらけの医学書が置かれていたので、それを手に取ると、虫を潰してやろうと虫を見下ろした。虫は相変わらずのろのろとして、黒い臓器のようなものをぬるぬると後ろに引きずっていた。しかし、その先端に見慣れぬものがくっ付いているので、おやと思いよく見るとそれは、今日取ったはずの瘤であった。虫は体長2,3センチくらいのものなので、瘤はやや大きく見えた。やはりこの虫の仕業だったかと思い、何となくそれに触れると、ぷちりと縦に裂け目が入り、中から、さらに小さな虫が何千と這い出してきた。それは形状から見ておそらくその虫の幼虫なのだろうが、ざざっと一息に指を伝って登ってきたものだから、私は後ろに飛びのいた。しかし幼虫はそれぞれ自由に、しかし確実にある場所を目指して進んでいる。私は急いで耳の裏に手を回してそこを隠したが、遅かった。彼らはちりぢりに先端の触手でそこを嘗め回した。成虫はというと、羽を無駄にばたつかせ、私の目の前をぶんぶん飛び回っていた。幼虫はその内、一匹残らず消えてしまった。それがどこにいったのかはわからないが、巣に戻ったのだろうか。自分たちがもといた場所に。
成虫はしばらくぶんぶんと飛び回っていたが、やがて、どろっと溶けて、布団の上にぐちゃりと落ちた。それは少しすると、暗い紫の染みになってしまった。
私はすっかり動転してしまって、そのまま1時間くらいそこで呆けていた。気が付くと、私は布団もかぶらずに、横たわっていた。もうすっかり朝になっている。布団を見ると、昨晩の夢で見た不気味な染みは無かった。なんだ夢だったのかと思い、会社へ向かった。耳の裏を触るのは習慣になっていたので、会社に着くまでに何度も触ってしまった。触ってもガーゼがあるので、直接は触れなくなっている。
会社に着くと、私の一つ下の後輩で、会社でも頗る評判の悪い男が、青い顔で私に尋ねてきた。背中にあるできもののせいで仕事に集中できません。最近そのせいで、成績もよくないし、なんだか全てが上手くいかないのです。私は、出来物のせいで仕事が出来ないなんて話は聞いたことが無いと笑った。後輩はなんとも怪訝そうに私を見て、去って行った。
私はそれから一年の間に、何度か虫の夢を見た。その度に私は決まって、また刺してくれないかと頼んだ。虫は恭しく耳の裏に回ると、それきりどこかに消えてしまった。