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気まぐれな親友は牛丼屋に入る感覚で性転換するか

作者: 佐橋博打

 麗しき高校生活。

 友人と、あるいは恋人との華々しく貴重な毎日。

 それを順当に謳歌できる者がいる一方で、他者と関りを持つことのない空虚なだけの日々を過ごす者もいる。


 少年、氷月(ひづき)ナガレもその一人であった。


 お昼休み。

 他の者が教室や食堂でお昼を囲んでいる中、ナガレは人気(ひとけ)のない校庭にポツンと置いてあるベンチに腰かけていた。


 勿論、ここにいる理由は一つ。

 昼食を済ませるためだ。

 昨日の夕飯のおかずを雑に詰め込んだものが、今日の彼にとっての昼食である。


 だが、開封早々にナガレは悶絶する。


「げっ……腐ってる」


 食べようと思えば食べられるが、食べたいかと聞かれれば食べたくないと返答するであろう残飯がそこにはあった。

 もう夏も間近に迫り、教室の温度は幾ばくか高くなっている。

 素直に冷房を付ければいいものを、謎のやせ我慢を美徳とする空気がクラスを漂った結果の惨劇である。


 弁当を閉じ、ぼーっと学校の時計を眺める。

 彼のかけている眼鏡を通して映った時計の秒針の動きは、やけに遅く感じた。


「あいつ……随分と旅行に行って長いな。まぁいいけど」


 ナガレには()()()友人も恋人もいなかった。

 だが、友人らしき存在は一人だけいた。

 かれこれ小学校の頃から一緒にここまできた。


 彼が海外旅行に行くと言って、もう数か月経つ。

 流石に日数が長いのもあって、時折なんでもない時に考えてしまうのだった。


 その時である。

 突如として視界の隅から手が差し込まれたのは。


「よっ!!」


「うわッ!」


 いきなりの出来事に、ナガレはベンチから転げ落ちそうになる。

 間一髪のところで体勢を立て直し、その乱入してきた手の主を確認した。


「……えっと」


 黒いメッシュの入った、金髪ショートカットの女がいた。

 服装を見ると、どうやらナガレと同じこの高校の制服を着ているようだ。


 戸惑う彼に、女子高生は再び笑いながら手をかざす。


「よっっ!!!」


 その姿、この感じ。

 紛れもなくナガレとは住む世界の違う人間である。


「あ……えー。誰?」


 もう少し言い方ってものがあったのではないかと自省するナガレだが、今の彼にはこれが精いっぱいの言葉だった。


「なんだよ他人行儀だな」


「え……?」


 女子高生は近づいてくる。


「オイ! 忘れちゃったのか? お前の親友だよ」


「親友? あー……多分人違いだ。俺、女友達いないから、うん」


 非常に惨めなこと、この上ない返答である。

 だが事実だ。


「あー! そっかそっか」


 彼女はそう言うと、耳に髪をかけてみせる。


「じゃあこれでわかるかー?」


 そこにはナガレにとって見覚えのあるものがあった。


「そのピアス……エトの……?」


「そう! ボクだよ! 茜空(せんくう)エトだ」


 耳を疑う。

 目の前の女子高生が、彼が唯一交流のあったあの男だと自称している。


 (たち)の悪い冗談だとして一蹴しようにも、そうはいかない。

 確かに言われてみれば、ナガレの知っているエトに見えなくもなかったのだから。


「ど、どういうことだ!? その恰好……女装趣味があったのか?」


 仮にエトに女装趣味があったとしても、それでどうこう思うことは無い。

 しかしそうは見えないからこそ、ナガレは自分に言い聞かせるように問うたのだ。


「女装? 女装っちゃ女装か。うーん厳密には……」


 ナガレの隣に座り、微笑む。

 そして――


「ボク、女になったから!」


「……は?」


 意外な返答、だが想定もできてしまったことでもある。

 男が女装した姿というには、(いささ)か無理のある完成度だったからだ。


 女性特有の雰囲気。

 それは女性と接点のないナガレにだってわかっていた。


 思考をぐるぐると巡らせている彼に、彼女は続ける。


「だから、女になったんだって!」


「いやいや待てよ。そんな、はいそうですかってなるかよ。本気で言ってんのか?」


 女であることは最早疑ってはいなかった。

 ただ単純に状況を飲み込めないでいたのだ。


 そんなナガレを見て、エトはほくそ笑む。


「うん。まずこの声が証明だろ?」


「確かに……高いな。元から低いってわけじゃなかった気がするが」


 エトは元から中性的な美形だった。

 それでも声は低くはないが高くもない。

 ましてや女声ではなかった。


 声の変化、それはエトが女性になったことを証明するのには十分なものである。


「海外旅行に行ってくるって言っただろ? そのついでに!」


「ついでってなんだよ!? あれか、またいつもの気まぐれか?」


「そう! それ」


 これまでにもエトの気まぐれな行動はあった。


 例えば高校の進学だ。

 成績優秀なエトはナガレとは別の有名高校に進学するはずだったが、直前で同じ高校に進学することになった。

 それはナガレにとっては嬉しくもあり、また素直に喜べないことでもあった。


 他には髪型や髪色を一日おきぐらいのハイペースで変えたり、必要もないのに高い眼鏡を買ってナガレに感想を聞いてきたりしていた。

 それらは彼にとっては、全て気まぐれとして映っていたのだ。


「お前なぁ……流石に性別変えちまうのはワケが違うだろ」


「そうかな? あんまり変わんないと思うけど」


 進学先云々も人生を変えうるものだが、性別を変えるのはそれ以上の変化だ。

 それを変わらないと言い捨てるあたり、エトは変わり者だ。


「いや変わるぞ。親御さんには言ったのか?」


「言うも何も、家族旅行だったからな」


「え?」


「行きの飛行機でさ、なんとなく見たパンフレットに性転換の紹介があったんだよ。それで牛丼屋に行くような感覚で『あ、行ってみようかな』って思って親に言ったんだよ。そうしたら『まぁいいんじゃないの? 安いし』って返ってきてさ! あはは」


 滅茶苦茶な経緯に、思わず口が開いて塞がらない。


「正気かよ……お前んとこの親御さんって結構厳しかったイメージあるけど……そんな二つ返事で息子が娘になること許可しちゃうのか。てか牛丼屋に行くのと一緒にするお前もお前だぞ」


 ナガレはエトの両親とも顔見知りだ。

 エトと遊んだ時に何度か挨拶をしたことがあったのだ。


 エトの実家である茜空家は中々に由緒正しい家のようで、ここらでは知名度は高い。

 華道の家元という話であったが、詳しくは知らなかった。


「それから向こうに着いてさ、パパっと女になってから存分に観光してたってわけ」


「おいおい、そんな短期間でできるようなものなのか? 手続きとか手術で結構時間がかかるんじゃ……」


 性転換についてもナガレはよく知らなかった。

 まさか自身の周辺でそのようなことをする者が出てくるなんて考えてもみなかったからだ。

 とはいえ、それが手間暇のかかるものであることぐらいは知っている。


「ボクもそう思ってたんだけど、手術しなかったんだよな!」


 その言葉にナガレは唖然とする。


「……どういうことだ?」


「なんか注射を腕に射したら一時間ぐらいで女になっちゃったんだよ」


「えぇ!? んなバカな」


 いくらなんでも冗談が過ぎる。

 そんな話聞いたことがない。

 実在するのだとすれば、とんでもない話題になっているはずだ。


 ナガレは訝しげに腕を組んで彼女を見る。


「でも実際になってんだろ?」


 エトにずいっと寄られ、反射的に身を引くナガレ。

 ヘタレな彼にはそれ以上、言及する余裕がなかった。


「……そう言われると認めるしかねぇけどさぁ。で、どれぐらい金かかったんだ?」


「五百円」


「ご……え?」


「ワンコインだよワンコイン! 牛丼の大盛りぐらい?」


 これが全部夢だと言われた方がまだ納得できるだろう。

 何から何まで異次元の回答ばかりだ。


 ナガレは自身の心の安定のためにも、ツッコむのをやめた。


「わかった、もう疑うのはやめにする……しっかし怪しいにもほどがあるぞ。数日で戻るとか、そういうのじゃないのか?」


「二度と戻らないって言われたから、それはないな。これからはずっとこのまま」


 初めて見せたエトの真面目な表情に、ナガレは少し吸い込まれそうになる。


「そうか……あ、学校はどうするんだ? 制服着てるけどさ。エトは退学で、親戚とかそういう設定で編入とかか?」


「いいや、ボクはボクのままだ! 性別が変わるだけ」


「マジか……他の奴も絶対びっくりするぞ」


「そうだろうな。でもまぁどうでもいいや、他のは」


 これまでの態度から一変、若干突き放すような言い草をする。

 その変わりようにナガレは少しばかり驚きを見せた。


 すると彼の様子を察したのか、エトが顔を覗き込んできた。


「で、感想聞いてなかったんだけど、どう?」


「どうって……まだ心の整理がついてねぇよ」


 目を合わせるのが怖いのか恥ずかしいのか、ナガレは視線をあちこちへ飛ばした。

 元から誰が相手であっても目を見て話すことはできなかった彼であったが、エトだけは例外だった。


 だがそれも男であった時の話。

 未だにエトを相手にしているというより、一人の美少女を相手に話をしている感覚が強すぎて、いつものように話すことができずにいた。


 そして、彼はその場に居続けることに限界を感じ始める。


「じゃあ俺、飯食いに行くから……」


 ナガレはそそくさと席を立つ。

 その途端、エトの表情が変わる。


「あ? 何言ってんだよ。ここに食べに来たんだろ?」


 明らかに彼女は怒っている。

 別にエトが怒ったからといって今更怖がることもなかったが、痛いところを突かれた気がしたのかナガレは動揺を見せる。


「め、飯が腐ってたんだよ。だから食堂に行こうかなって」


「ならボクのやるよ! 女になったから胃袋も小さくなった気がするし、全部食えない」


 そう言うと、彼女は自身の弁当を開けて差し出す。

 弁当の中は、卵やらハンバーグやらが挟まった分厚いサンドイッチがぎっしりと詰められていた。

 ナガレの好物ばかり並んでいるもので、つい彼の腹の虫も共鳴しそうになる。


「いや、いらねぇって。じゃあな」


 それでも彼はメガネをガチャガチャと慌ただしく上げながら、誤魔化して去ろうとする。

 すると、エトはナガレの手首を掴んで引き留めてきた。


「お前、なんでボクのことをそうやって時々避けるんだ? 前からずっとそうだよな?」


 怒っているような、それでいて悲しんでいるような表情で訴えかける。


「別に避けてなんか……」


「いいや絶対に避けてるぞ! ボクが話しかけるとどっかに行っちゃうことあったろ」


「それは……」


 避けている、そうエトは言った。

 実際のところ、そのように見えるのも無理はない。

 確かに距離は置いてしまうが、それが避けているかと言われればそうではないのだ。

 このニュアンスをどう伝えるのか、未だにナガレにはわからずにいた。


「ボクのことが嫌いなのか?」


「いや、嫌いってわけじゃ……ただ、場違いだろ? 俺」


 結局、口から出てきたのはこんな言葉だ。

 もっと的確な表現があるだろうに、ナガレにはそれができない。


「なんで?」


「なんつーか、俺は根暗だしこんな見てくれだろ。お前は明るい……というかヤンキーか。住む世界が違う」


 とことん卑屈に言ってしまう。

 こんなだから周りから人がいなくなるということもナガレにはわかっている。

 彼自身も仮にそんな卑屈なことばかり言う奴がいたのだとすれば、そんな奴の傍には居たいと思わないのだから。


「……なんだよ」


 眉をひそめるエト。

 何かを言いたそうに口をもごもごしている。


 そして彼女は目をカッと開いた。


「間違ってるぞ……ボクはヤンキーじゃない!」


「いや、その見た目でヤンキーじゃないって無理があるだろ」


 金髪にピアス、少しだけ着崩した制服が余計にそう思わせる。

 タバコが似合いそうな雰囲気だが、その類はエトの嫌いなものだった。


 彼女はギャルではない。

 ヤンキーと表現する方がナガレには相応しく感じたのだ。


「確かに見た目は……結果的にこうなっただけだ! 色んな髪の色とかスタイル試したけど、これが一番しっくり来たってだけ」


「じゃあ中身は違うってか? 他のヤンキーとつるんだり彼女とか作りまくってるんだろ?」


 そう口にした瞬間、ナガレは気まずく俯いた。

 思っていても言う必要のない言葉を言ってしまったと、言った後になってから気が付いたからだ。

 彼はいつもそうだった。


「見たのかよ? お前」


 エトは彼の目をじっと見つめる。


「え?」


 明らかに怒りの感情が向けられているのに、目をまじまじと見つめられて狼狽する。


「ボクがそういう付き合いしてるの見たことあるのかって」


「……知らねぇけど、そうじゃねぇのかよ」


 いつもより大きく視線を外すその姿が、彼の発言の根拠の無さを物語っていた。


「はぁ……思い込みってのは恐ろしいな。そもそもヤンキー自体、この学校で見たことあるか?」


「言われてみれば……ないな」


 ナガレのレベルに合う学校だ、当然頭のいい名門校には適わない。

 だからといってヤンキーやら不良と呼ばれる存在がいるわけでもなかった。

 ごくごく普通の、ごくごく平和な高校だ。


 ヤンキーのようなシルエットをしている人間をこの学校で見たのは、エトぐらいのものだったのだ。


「あと彼女も作りまくるどころか、作ったこともない。一応言っておくと彼氏もない」


「嘘だろ?」


 少し早口めにエトは衝撃的な事実を漏らした。

 成績は優秀で運動神経もいい、おまけに顔も一級品の美少年だったのだ。

 モテないはずがない。

 実際、ナガレが教室で突っ伏して寝ているフリをしているときに、女子生徒たちがエトの美少年ぶりを鼻息荒く談議していたのはよく耳にしていた。


 しかし改めて思い起こすと、確かにエトが彼女を連れている姿を彼は見たことが無かったのである。


「なんというか、彼女作るよりも学校でバカやってる方が楽しいような気がしてさ。あーでも男だった時に一回は作っておいてもよかったかもなぁ」


「もったいねぇ……」


 これが選べる側の人間の余裕か、そうナガレは羨んだ。

 そしてため息を吐きながら続ける。


「……どっちにしろ、だ。俺は運動もダメなら勉強もからっきしの無能で、お前はどっちもできる有能だ。一緒にいると、どうしてもさ。だからその――」


 だから、なんだ。

 その後に続く言葉は彼自身、上手く出てこなかった。

 ナガレのまとまりきらない言葉を聞くと、エトは少し考えたのちに口を開く。


「じゃあボクに勝てるなにかがあればいいってことか?」


「なんでそうなるんだ……ていうかお前に勝てるとこあるのか?」


「うーん、ない!」


 きっぱりと宣言される。


「……ないのかよ。お世辞でもいいから優しいとか言うだろ普通」


「だってナガレって別に優しいってわけでもないし」


「な……まぁ、そうなるか」


 しばしば無個性で面白みのない人間のことを優しい人と呼ぶことがある。

 ナガレもこの例に従うのなら優しい人と評されることであろう。


 つまり、エトからすればそうではなかったということだ。


「今のところ、ナガレがボクに勝てるところは一つもない! だったら勝てそうなところを作ってやればいい」


「……というと?」


 ナガレがエトに勝る部分を作る。

 それはナガレにとっては、無理やりハンデを付けてもらっているように感じたのか、少しばかり不服そうな表情を浮かべた。


 それに対し、エトは口ごもっていた。

 ナガレが聞き取れずに首を傾げたことに気が付いたのか、彼女は小さく咳払いをして意を決する。


「ボクがお前の彼女になってやる!」


 本日二度目の衝撃的な一言。

 ナガレは彼女が何を言っているのかをスムーズに脳に処理させることができずに、口以外の部分が固まってしまっている。


「……は?」


 その口を動かして辛うじて出た一言がこれだ。


「ありがたいだろ? 自分で言うのもなんだけど、ボク結構美人だと思うんだけど」


 美少年が女になったのだ。

 美人という言葉に偽りはない。

 思わずナガレは頷いてしまう。


「あぁ……いや、そうじゃなくてだな。なんでそうなるんだよ」


「さっき言っただろ? ボクには彼女ができたことがないって。つまりナガレが彼女を作ればボクを超えられるってわけ。でもナガレに彼女とか何年待てばできるかわかったもんじゃないし、じゃあボクがなってやろっかなってこと」


 エトらしさのあるぶっ飛んだ理屈。

 しかし、納得できないかと言われればそうではない。

 少なくともナガレにとってはそうだった。


「さらっと失礼なことを……まぁ事実か。てかお前はいいのかよ? こんなヤケクソで」


「今思いついたっていうのはそうだけど、ヤケクソじゃないぞ」


 エトは笑いながらも、その目は冗談を言っているようなものではなかった。


「そうか。でもまぁアレだろ、これもいつもの気まぐれってやつ」


「そう!」


「気まぐれなら、まぁいいか……飽きたら他のイケメンとでも――」


 言葉を言い終えるのを待たずに、凍えるような怒りのオーラを隣から感じる。

 ナガレは顔は正面を向いたまま、目だけをエトにスライドさせた。


「だからさっきから他の他のってなんだよ。 他はどうでもいいって言ってるだろ、しつこいな」


「ど、どうしたんだよ」


 声を張り上げて怒鳴るタイプの怒りではなく、淡々とした怒り。

 それはナガレの苦手な部類に入る怒り方であり、心臓が嫌にドクドクと脈打つのを彼は感じた。


「ナガレだろ? ボクに『他の奴なんか気にすんな』って言ってくれたの。忘れたのかよ」


「いや、忘れてねぇけど……お前、よく覚えてたな」


 確かにその言葉を彼はエトにかけたことがある。

 小学生の頃からエトは人の目を引くような恰好、つまり不良のような恰好を好んでしていた。

 何故そのようなことをするのかはナガレは知らない。

 だが、彼にとってエトがどんな恰好をしていようとどうだってよかったのだ。


 だからそう言ったのだ、深い意味もなく。

 エトが同級生やその親、延いては教師から外見のせいで煙たがられているのを感じていたから。

 ナガレにとっては、それがどうにも(しゃく)(さわ)った。


「ナガレがそう言ってくれたから、ボクは好き勝手にやろうって気持ちが楽になったんだ。だから覚えてる」


 そう目を細めながら語る彼女の横顔を見て、ナガレは猛烈な罪悪感と自己嫌悪に駆られた。

 いつの間にか、幼い頃に不愉快で不愉快で仕方のなかった奴らと同じような色眼鏡でエトを見てしまうようになっていたのだから。


「……悪かった、無神経なこと言って」


 ずっとこの繰り返しをしている。

 いつも何か余計なことを口からこぼして、後になって気が付いて後悔をする。

 自分に自信がなく他人と比べてしまうあまりに出てしまう、このねちっこい卑屈さが。

 大人になるにつれ、自分が劣っていることを自覚して、嫌でも周りとの差を見せつけられてきたから。

 ここままでは、なりたくなかった大人になってしまう。


 気を塞いでいる彼に、エトは話しかける。


「まったく……で、彼氏になるの?」


 いつもならきっと突っぱねていたかもしれない。

 だが、今日の彼は違った。

 昔の自分を覚えていてくれたエトの存在が、あの頃の自分を取り戻してくれるかもしれないと思えたから。


「あぁ。お前の気まぐれに付き合ってやる」


「はは、そうこなくっちゃ!」


 エトは今日一番の笑顔を見せる。

 それにつられて、ナガレも小さく笑った。


「っつても今までとどう変わるかってのはわかんねぇけどな」


「まぁね。だけどそれでいいんだ、それで」


 恐らくはこれまで通りの友人に似た関係が続くのだろう。

 エトが女になったから変わるわけでもない。


 それでも彼女は満足げだったのだ。


「そうか」


 ナガレはエトの弁当に入っているサンドイッチをかじった。


「うま」


「だろ? ボク、料理に関しては結構自信あるんだ」


 エトの料理が上手だから、サンドイッチが美味しく感じられたのか。

 きっとそれだけではない。

 長い間、ずっと心に突き刺さっていた苛立ちのようなものがスッと消えたからだ。


 それが具体的に何を指すのかは、今の彼にとってはまだわからない。


 ナガレは最後のひとかけらを口に放り込み、ベンチから立つ。


「喉乾いたから、飲み物だけ買ってくるわ。エトはなんかいるか?」


「いいや。待ってる」


 そう答えた彼女の顔もまた、晴れやかなものだった。


「あぁ」


 ナガレはいつもの俯きがちな歩き方ではなく、背筋をしゃんと伸ばしながら購買へ向かった。



 彼が遠ざかって、完全に視界から消え去ったのを確認したエトは、大きく息を吐きだした。


「ふぅー……」


 これまでずっと息を止め続けていたのではないかと疑ってしまうぐらいに、長い長い吐息。


「オッケーしてくれんだよな……」


 未だに彼の承諾が下りたことに現実味を感じていないのか、自分自身に改めて確認する。

 すると、見る見るうちに顔を中心として体全体に熱が広がるのを感じた。


「あーキモイキモイ」


 エトは鏡で見なくてもわかるニヤケ面に対し、落ち着けと言わんばかりに悪態を吐いた。


「ナガレも相当バカだな。注射で性転換? 五百円? なんで信じられるんだよ、まったく。ふふ」


 そう、何もかもが嘘だったのだ。

 メルヘンのようなお話ではなかった。


 普通に大金を支払って、普通に手術をして、普通に女の身体になった。

 ずっと前から決めていた、彼にとっての人生を懸けた自分に正直になるための計画。


「父さんと母さんに一生分、頭下げてよかった……」


 父には勘当されかけるほど嫌悪され、母にはただ泣かれた。

 それでも両親は最終的にエトの背中を静かに押してくれた。


 エトの熱意はそれだけ揺るぎないものになっていたのだから。


「ボクはこれまで一回も気まぐれでなんて動いたことは無いよ。いい加減に気が付けっての、ばーか」


 少女は笑う。


 そして、そっと腕時計に目をやる。

 彼女の澄んだ瞳に映った秒針の動きを、うるさく(うち)に響く心音が急がせていた。


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