答えによっては、いろいろと面倒なことになりますよ。
とっさに手を振り払って逃げようとしたら、肘のあたりに親指を押し込まれて、激痛が走った。顔が苦痛に歪む。逃れたくても何もできない。
「昨日もコンビニから、私の後をずっと付けてましたよね」
どうやら昨日の尾行もバレていたようだ。
女が俺のことを睨みつけている。その眼光の強さに威圧された。
怖い。痛みと恐怖でパニックになった。一瞬で全身から汗が噴き出す。額から冷や汗が流れ落ちる。身体のありとあらゆる場所から水分が漏れていく気がする。
「答えによっては、いろいろと面倒なことになりますよ」
女はスーツの胸元に右手を入れた。胸ポケットにある何かを探している。スーツがめくれて拳銃を収めるホルスターのようなものがちらりと見えた。まさかこいつが人殺しの犯人だったのか。
やばい殺される。こんなところで俺は死ぬのか。蹴り飛ばしてでも逃げるべきか。いや逃げたら背中から撃たれる。どうすれば。
「何してるんだ」
スーツ姿の男がやってきた。短髪で精悍な顔つきをしている。背も高い。絶対に180cmはある。胸板も厚い。強そうだ。仲間だろうか。
もしかしてこれは、事態がさらに悪化したということなのか。俺はこいつらに捕まって東京湾に浮かぶのか。それとも自殺に見せかけて拳銃で殺されるのか。
こんなことになるなら、録画していたドラマの最終回を昨日見ておくんだった。楽しみすぎてもったいなくて、ずっと見るのを先延ばしになんかしておくんじゃなかった。
いつもそうだ。好きなおかずを最後に残しておいたら、皿をかたずけられたり、嫌いなのかと勘違いされて、他人に横取りされたり。
実はなんだかんだで学生時代も含めて、本気で好きになった女を、自分から誘えたことは一度もない。
仕事ならいくらでも女を口説けるし、来るものは拒まずで気軽に付き合ったりはするくせに、本気で好きになる女は、毎回きまって真面目そうでお堅い女ばかりだった。
チャラい自分とは釣り合わないと考えて、勇気が出ずに先延ばしにして、いつか告白しようと思っているうちに、もっとチャラい男に横取りされたことすらある。
俺の人生はいつも後悔ばっかりだった。
女は男に向かって顎で指示を出す。
「ああ、いいところに来た。変なもん持ってないか、こいつの身体調べてくれ」
ようやく女の腕から解放されたが、自分より強そうな二人に囲まれていては逃げようもない。
万事休すだ。男は俺の体を頭から足元まで見ている。もう一度、顔を見てため息をついた。
「ご迷惑をおかけしたようで。すみません。ちょっとこいつ頭がおかしいんで」
男は女の頭に手をのせると、無理やり謝らせた。
「離せよ。頭がおかしいとはなんだ。おかしいのはこの男のほうだ。こいつは私の後をつけ回してたんだぞ」
「だからって、相手が泣くほど威嚇するなよ。後でまた恐喝だなんだとクレームが来たら、謝るのは俺なんだからな」
俺は頬に手を当てた。涙でたっぷり濡れている。さきほどの男の視線と、ため息の意味がわかった。
「べつに威嚇はしてないよ。ただ手帳出そうとしたら、胸ポケットにひっかかってなかなか出せなかっただけだ。このスーツのポケット、小さすぎるんだよ、もう」
女はまだ胸ポケットに手を突っ込んで、必死に手帳とやらを出そうとしていたが諦めたようだ。
「だいたい私は基本的な質問をしただけだ。勝手にビビって泣いたのは、この男だろ。私のせいじゃない」
いくら怖かったからといって、大人が人前で泣くなんてみっともなさすぎる。こいつらが殺し屋なら、いっそのこと、もう殺してくれ。
そう思っていた俺の目の前に、男は黒い手帳を出した。黄金色に輝くエンブレムが付いている。縦に開くと顔写真もある。男が見せたのは警察手帳だった。つまり男も女も刑事だったということか。
どうやら殺人事件の犯人に、殺されるような運命は避けられたようだ。
だが別の意味で嫌な予感しかしない。
「一応念のためにちょっと身体、あらためさせていただけますか。すぐ済みますから。では失礼します」
男は俺のダッフルコートと、ジーンズのポケットの中身を確認する。スマートフォンが入っているぐらいで何もない。
「ご協力ありがとうございます。では荷物のほうを」
おとなしくリュックサックを渡すと、男は手前のチャックを開けて、小さなポケットの中身を確認している。財布とミネラルウォーターのペットボトルぐらいしか入っていないはずだ。いや違う。
「あっ」
「なんですか」
「いえ、なんでも」
いつもなら問題なかったが、今日はまずい。よりによって今日は、衣装を洗濯するために、すべて持ち帰ってきたのだ。しかもブラジャーを一番上に入れたのを思い出した。
リュックサック上部のチャックを開けた男が、一瞬ひるむのがわかった。気持ちはわかる。俺だって見ず知らずの男のリュックサックから、ブラジャーが出てきたら、同じような顔をしただろう。
「これは……あなたのものですか」
「そうです」
「誰かのものではなく?」
「そういう仕事なんです」
「失礼ですが、ご職業は」
男はじっと俺の目を見ている。嘘をつかないか見張られているみたいだ。
「……占い師です」
「占い師?」
男は怪訝そうな顔をしている。
「あぁーっ」
女が叫んだ。まじまじと顔を見つめている。少し首を傾げていたと思ったら、急に眼鏡を取り上げられた。さらにじっと眺めてから、頷いてから眼鏡を戻してきた。
「そうか、気がつかなかった。あそこの占い師さんだ」
「あそこ?」
男は首をかしげた。
「あの駅前の雑居ビル」
女が占いの館がある方角を指差した。
「よく当たるって噂のところなんだよ」
「そう……でもないですけど」
女に褒められて、俺は尻がむず痒くなる。男が女と俺の顔を見比べて、少し不機嫌そうな表情を浮かべた。
「で、なんで占い師さんが付け回したりしてたんですか」
俺は全力で否定をするように首を振る。
「違うんです。付け回したというわけではなくて、心配になったというか。占った結果がものすごく運勢が悪そうだったし、歩道橋に登ってからなかなか降りてこないし、もし自殺志願者だったら怖いなと思って。今にも死にそうな顔をして相談されてたので」
「今にも死にそうな顔……ですか」
男は女の顔をちらりと見て苦笑した。女が不服そうな顔で睨んでいる。
「それ地顔です。こいつ疲れてると、かなり人相悪くなるんです。しばらく仕事が立て込んでたんで、今が一番最悪な死神モードですね」
「死神とは失敬な」
女が男の尻を蹴る。いい音がした。
軸足がぶれない。かなり上質なキックだった。
「いってぇーっなもう」
蹴った女も、蹴られた男もびくともしない。二人とも体を鍛えていそうだ。さすがに刑事をやっているだけのことはあるようだ。
尻をさすりながら、男が苦笑いをする。
「この通り、こいつはタフですから。自殺なんてしませんよ。心配は無用です」
確かに自分より数段大きな男性に、キックを叩き込める女性が、自殺をするようなタイプとは考えにくい。
「です……よね。実は手相だとかなり強運の持ち主だって出てたんで。でも姓名判断とホロスコープだと、ものすごく運勢が悪くて。こんな結果が出る人は珍しいんです。それに彼女が名乗っていた、桐谷レイナという名前も気になって」
「桐谷レイナ?」
男は目を見開いた。心当たりがあるようだ。
「はい。その名前の人が、本当は殺されたのかもって昨日ニュースになってたから。顔も違うし、他人の運勢占うなんて変だし。もしかして、犯人か事件の関係者じゃないかと思って」
「おい、どういうことだ」
男が女を睨んでいる。女は困ったような顔をしてから答える。
「被害者のことを占ってもらってたんだ。少しは事件の解決に役立つかと思って」
「お前はまた変なことを」
「おかげでホシが絞れたじゃないか。本当にこの占い師さんの占い、当たるんだよ」
女が死者の名前を名乗っていた理由はそれか。だから姓名判断とホロスコープが最悪な運勢なのに、手相だけがやたらと最強な運勢だったようだ。
やはり別人の運勢だったのだ。ようやく謎が解けた。
男はため息をついた。
「そんなことを占ってもらうぐらいなら、自分の結婚運でも見てもらえばいいのに」
女はふてくされたような顔をした。
「結婚線自体が全然ないってさ」
男は苦笑いをする。
「やっぱ占いをしたぐらいで、結婚相手を見つけるのは無理か」
「でも殺しても死なないタイプらしいよ」
女がガッツポーズのような仕草をして、嬉しそうな表情を浮かべた。八重歯がちらりと見える。男はやれやれという表情をした。
「そんなことで喜ぶのは、お前ぐらいだよ」
「しかもさ、覇王線ってのがあって、仕事で大成功する運命なんだってさ」
「わかる。お前って他人の運勢も食っちまいそうだもん。お前の相手をまともにできるやつなんて、そうそういないしな」
「人を猛獣みたいに言うなよ」
男は菩薩のような笑みを浮かべ、女の肩をポンポンと叩いた。
「アフリカやサバンナにいる猛獣でも、自力でつがいになれるんだから、きっと大丈夫だよ。なんとかなる。自信持て」
「喧嘩売ってんのか。自分がうまくいってるからって、上から目線で偉そうに」
男の左の薬指に、結婚指輪があるのが見えた。どうやら男のほうは結婚しているようである。
「偉そうにしてないから」
女が男の胸ぐらを掴もうとしたが、さらりと男が慣れた手つきで払って逃げる。いつも繰り返されていることなのだろう。息のあったコンビのようだ。
なんで俺はこんなところで、男女の刑事がじゃれあっているところを、見ていなくてはならないのだろうか。
「あの、もう帰っていいですか」
二人は同時にこちらを見て、頭をさげる。
「あ、すみません」
「お手数おかけしました」
結局すべては、俺の勘違いだった。
自殺志願者かもしれないとか、事件の犯人かもしれないなんて、心配した俺が馬鹿みたいだ。あげくに不審者扱いまでされて、刑事の前で泣くなんて、どんな罰ゲームだ。
その日は家に帰って、三日目のカレーを食べた。一度は死ぬかもと思ったピンチの後に食べるカレーはうまかった。食事が終わると、ずっと見るのを先延ばしにして後悔していた、ドラマの最終回を見ることにした。
泣いた。感動したのではない。
あまりにしょっぱい終わり方だったから、心の中で泣いただけだ。
劇場版に続くということでお茶を濁され、消化不良に終わってしまったのだ。
別の意味で泣く羽目になった。
大事に残しておいたって、現実はこんなもんだ。期待しすぎると後悔する確率も上がる。もしうっかり明日死んでも、後悔する事柄が一つ減ったと思って、自分を納得させるしかなかった。
今日はいろんな意味で泣く羽目になって、実に散々な一日だった。
こういう日は、とっとと寝て忘れるに限る。