ここにいるのは、あなたのおかげかもしれない。
「どうして。そんな……でも」
慌てて立ち上がったせいで、スカートを踏みつけ、前につんのめってテーブルに肘を打ち付けた。肘をさすりながら、ようやく俺は彼女を見上げた。
「大丈夫ですか、占い師さん。驚きすぎて声が素に戻ってますよ」
吹き出すのを我慢しているように、彼女は言った。
「私、最近なんやかんやとありまして、今日から復帰したんです」
「てっきり死んだのかと」
「ひどいですね。人を生き返ったゾンビみたいに言わなくても」
彼女は、少しだけムッとした表情をした。
「ちょっと死に掛けまして、しばらく入院してました。医者から普通の人なら絶対に死んでる、とんでもない強運の持ち主だって言われたんですよね」
彼女は苦笑する。
そうだ。同僚の男は、彼女が死んだなんて一言も言ってなかった。きっと生死をさまよっている彼女の強運を信じたくて、祈るような気持ちで、彼はここに来たのだ。
「今日は自分のことを占ってほしいんですけどいいですか」
彼女はあっけらかんと笑っている。俺の心配なんか知りもせずに。
「どれだけ待ったと思ってるんですか」
「すみません。外出許可が出るまで時間がかかったんです」
「だったら連絡ぐらいしてください」
「もみ合ってる時に、スマホも壊れちゃいまして。番号覚えてなかったから」
まったくこの人は。
俺は我慢できずに彼女を抱きしめた。
「ちょ、ちょっと何を」
「幽霊なんかじゃないんですよね」
何度も彼女が、本当に存在していることを確かめるように、俺は強く抱きしめる。
「痛いです。病み上がりなんだから、もう少し優しくしてください」
「ご、ごめんなさい」
俺は慌てて彼女から離れた。手の平にはテーピングが、手首には包帯が巻かれている。スーツの下にはわき腹にコルセットのようなものが巻かれているのが見えた。
「もう二度と会えないかと思ってました」
彼女の手が俺の頬を撫でた。
「また泣いてますね。本当にあなたは泣き虫さんですね」
「あなたが悪いんです。泣かせるようなことばっかりするから」
「ごめんなさい。もう泣かないでください」
彼女は小さい子にするように、優しく俺の頭を何度も撫でた。余計に涙が止まらなくなった。
「ずっと……会いたかったです」
俺は泣きながら、無意識のうちに彼女の名前を呼んでいた。
「なんで私の名前を知ってるんですか」
「だって彼が」
「ああそうでした。ちゃんとここを探して、遺言を伝えに来てくれたんですね」
「遺言なんて、縁起の悪いこと二度と言わないでください。言霊というのは本当にあるんです。あなたのように危険な仕事をしている人が使うと、必要以上に悪いことを引き寄せる。よくありません」
「わかりましたから。そんなに怒らないでください」
彼女は面食らっている。少し言いすぎたかもしれないと俺は反省する。だがこれ以上彼女に、不運が降り掛かるのは絶対に阻止しなければならない。それぐらいしか俺にできることはない。
「あの人に頼まれて、あなたのことを勝手に占いました。とんでもない強運の持ち主だって結果が出ました」
「殺しても死なないってやつですよね。やっぱりあなたの占いは当たりますね」
彼女は笑う。
「これは死ぬかもって思った時、なぜだかわからないけど、あなたの顔が浮かんだんです。私があいつのこと諦めるって言った時、ものすごく悲しそうな顔をしたあなたの顔が。そういえば、この人に本名伝えてなかったなとか、食事に行く約束を果たしてもらえなかったなとか、恋愛運の悪い残念な女と思われたまま終わるのも悔しいなとか思ったら、このまま死ねないなと思って」
彼女は自分の手をじっと見た。
「あなたに初めて手相を見てもらった時に、殺しても死なないぐらいに強運だと言われましたよね。死の淵を彷徨っていた時、その言葉が、私をこの世につなぎとめていたような気がします」
彼女は小さく笑った。八重歯がちらりと覗く。俺の大好きな笑顔だ。
「信じるものは救われる。これが言霊の力ということなんでしょうかね。もしかしたらここにいるのは、あなたのおかげかもしれない。命の恩人ですね。ありがとう」
彼女が俺の手を包み込むように握る。指先がとても冷たい。俺が中年男性に襲われて震えている時に、ぎゅっと握ってくれた、冷たくて優しい手と同じだった。
「そんな大げさなものでは。自分はただ占いをしただけです」
彼女はニコリと笑って、手の平を俺に見せるように差し出す。テーピングが巻かれた指が痛々しい。
「じゃあ占い師さん。ナイフを手で防いだ時に新しい傷ができたんですけど、見てもらえますか。ちょうど結婚線のあたりなんです」
差し出された手を見ると、小指の付け根付近に結婚線が新しくできている。傷跡が少し赤みを帯びていた。
「上向きにカーブしてます。良い結婚線ですよ。近々幸せな結婚ができるかもしれません」
「何歳ぐらいですか」
新しい結婚線は、小指の付け根と感情線の真ん中から少し下のあたりにある。
「二十七、八歳というところですかね」
「明日二十七になるからもうすぐですね。よかった。これで結婚線すらまともにない、恋愛運の悪い残念な女という、汚名は返上できそうです。怪我した甲斐があったってもんですね」
彼女は嬉しそうに笑う。やはり彼女は強い。死にそうな目にあっても、前を向いて笑い飛ばす。俺には真似できない。また惚れてしまいそうだ。
彼女が今度は、俺の手の平をじっと見ている。小指の下あたりの手相を確認しているようだ。
「同じような結婚線がありますよね」
「そうですね。自分の場合は三十前後というところですね」
「あなたは何歳ですか」
「二十九です。明日三十になります」
「奇遇ですね」
彼女が俺の目をじっと見た。
「ちなみにいつになったら、あなたは食事に誘ってくれるのでしょうか」
俺の心臓が跳ねる。
「まさか……今日会えるとは思ってなかったので、予約とか全然してなくて」
「安いお店でいいって言ったじゃないですか。忘れたんですか」
「そう……でした」
慌てている俺を見て、彼女がいたずらっ子のように笑っている。
「食事に行く日は、また魔法をかけてくださいね」
彼女は微笑んだ。
「もちろん。腕によりをかけて、できるだけ十二時に解けない魔法をかけますよ」
「あと、あなたの本当の名前を教えてもらえますか」
「俺の名前は……」
ようやくお互いに正しい名前を呼びあった夜に、俺たちは恋人同士になった。
占いに従ったというわけではないが、その後しばらくして結婚もした。それからずっと幸せに暮らしている。
俺は今も、しがない占い師を続けている。
そういえば、あの同僚の刑事が、占いに来た時は気が動転していて、彼女の入院先を教えるのを忘れていたことを、あとから謝られた。
ただ、彼女が死にかけているときに、自分より俺のことを口にしたのが、ムカついたとも言われた。体は大きいが、案外、器の小さい男だったようだ。
けれど、正直なやつは嫌いじゃない。今では、そいつとも、いい友達だ。
彼女は妻になった後も、時々この占いの館に来て殺人事件の被害者のことを占う。殺された被害者を少しでも理解するために。事件が解決する糸口を、少しでも掴むために。
強くて優しい彼女は、今日もまた誰かの心配をしている。そんな彼女が、無事に戻って来ることを祈りながら俺は今日も誰かの未来を占っている。
当たるも八卦当たらぬも八卦。ほんの少しの言葉が、誰かの人生を左右することがある。誰かを救えるかなんてわからない。
だがいつかは、その人が運命の人と出会えるかもしれない。それだけを信じて、俺は今日も占いを続けている。




