家出
河越夜戦にて北条軍合計11000の軍勢が75000の上杉・足利連合軍を打ち破ったという、戦国時代屈指の驚くべき一報は各地にすぐさま伝わった。
「北条氏康がまさかそこまでの武将とは…。」
この一報を聞き、今川義元はかつてないほど狼狽えた。名君である北条氏綱に苦しめられた彼は、暗君と評された氏康の当主就任を心から祝福した。これで北条は終わりだと確信したものだ。
しかし、第二次河東の乱でもほとんど今川の敗北に近い戦を見せつけられ、河越夜戦では鮮やかな勝利を得た彼を他者がいくら暗君と言っても、義元にはそれすらも“能ある鷹は爪を隠す”というような行為にしか思えなかった。
「太守様、ここは一つ、北条と同盟なさるということも視野にお入れください。
元々今川と北条は従属関係が終わった後も縁深い家です。家臣の中には北条と戦いたくないと申す者も多いですし、血縁関係のある者もおります。
これから、西方の松平や織田を倒すとなれば後顧の憂いはなくすべきでしょう。そういった面からも北条との同盟は価値がありまする。」
側近の雪斎は義元にそう提案した。義元は数ヶ月前まで、上杉と北条領をいかに分割するかというような話し合いまでしていたので、獲物を取り逃した気分であった。
「取らぬ狸の皮算用とはこのことかの…。」
義元にとって、状況は悪くなる一方だ。
武田晴信はこの頃、本格的な信濃攻めをしようと画策していた。そんな時に舞い込んだ河越夜戦での北条勝利の報は、武田家を喜ばせた。
「御屋形様、これで上杉は弱体化致しました。信濃への支援も少なくなるでしょうし、いずれ上野を取れるやもしれません。」
「うむ、そうだと良いな。だが、もし敵対することを想定したら、この戦の勝者は北条より上杉の方が良かったかもしれんな。北条の方が厄介だろう。」
この20年後、本当に武田と北条が敵対することになるとは誰も予想していなかったが、彼の予測通り、北条は武田の前に立ち塞がる障害となるのだった。
〜〜〜〜〜
「お前、また帰ってきたのか。で、どうだったんだ。」
父上は寝床に横たわりながら、俺に偉そうに話しかけてくる。彼は先に帰った部下から、戦争の顛末については聞かされていたはずだ。だから、端折って戦争のことは話した上で、
「父上、私は御屋形様から領土をいただきました。」
と、話題を変えた。
「どれだけもらった?せいぜい1000石ぐらいか?」
「いえ、武蔵に2万5000石をいただきました。直臣からはこれで外れますが、私も城持ちということになります。」
「な、なんだと!?」
領地の話をすると、途端に彼は取り乱した。そして不機嫌になった。普通、子がたいそうな褒美をもらったのだから、それを認めて喜ぶべきだと思うのだが、どうやら彼はそれが出来ない人間らしい。そこら辺こそ俺が彼を尊敬できない理由になっている。
「いいか、俺はこの領地を手放さないからな。御屋形様には申し訳ないが、急いで領地を返却してこい。この家の主は俺だ!お前が俺をこの愛する領地から追い出すなんて許されないからな。」
彼は少し考えたあと、追い打ちをするかのように意味不明なことを言い出した。言っていることは武士として失格だ。氏康の粋な計らいがなければ、俺は危うく大領を失うところであった。
「心配には及びませぬ。この領地は父上の物として扱われます。私への褒美は杉浦家としてではなく、私個人への褒美ございます。従って、私はあなたの杉浦家とは独立した新しい杉浦家を設立するのでございます。何卒、干渉なさらぬよう。」
俺は怒り混じりにそう言い残して、彼の部屋を後にした。母上や通泰たちは父上を宥めたようだが、彼らが宥めたからと言って自分の意見や感情を穏やかにするような人ではない。
この軋轢は一生続くのだろう。だが、俺はそれでいい。あのような人に屈しない生き方を戦国時代ではしてみたいのだ。
というのも、父上は現世の父に似ていた。俺は一度、勉強をしたくないと言ってみたことがあった。部活をして友達と遊ぶ。そういった普通のことをしてみたかった。
しかし、彼はそう言った瞬間に俺を殴り、暴言を吐き、訳のわからない理屈を押し付けられた。以後、俺は勉強に精を出すことになったが、彼への反抗心は死なないまま俺の中に残っていた。
そういうわけで、父上との関係に後悔はない。やりたいことをやってやったし、実は氏康に彼との関係について説明もし、もしかしたら俺が喧嘩別れをするかもしれないとも伝えた。氏康も父上に関しては思うところがあるようで、それを承認してくれた。怖いものはない。
一つ不安はある。通泰たちは父上につくかもしれないということだ。これは当然なのだが、通泰、知泰、信明は俺よりも父上に長く仕えていて、忠誠は彼に対して誓っているのだろう。父上と俺を天秤にかけたら父上を取ると予測するのが妥当だろう。
数時間後、俺は自分の部屋の荷物をまとめ、誰を連れて行こうかと迷っていた。俺のお世話係や教育係を務めている者たち3人は父上に直属する武士というわけではないので、確実についてくる。
それ以外にも若くてほとんど父上のことは知らず、俺に懐いている部下が10名ほどいる。彼らは連れて行くべきだろう。
で、杉浦家の重臣たちを一応誘おうか迷っていた。誘ったら馬鹿な知泰は戦に出る確率が高まりそうな俺の部下に喜んでなりそうだが、ほかは無理だろう。だったら彼らをあえて誘わずに、いずれ父上が死んだら引き取りに来る方が良いとも思う。
彼らとしても、誘われて断った相手に仕えるのは気まずくて嫌だろう。ならばいっそ誘わず、そういったわだかまりを作らない方法を取るのも優しさだ。
「若衆10人には明日出立すると伝えてくれ。他のものになるべく勘付かれぬように頼むぞ。」
俺は世話をしてくれているばあやにそう伝えて夜空を見ながら酒をあおいだ。すると、庭からひょっこりと通泰たち三人が現れた。
「どうやら、我々の知らないところで慌ただしくしておられるようですが、何をしておられるのですか?」
思わず心臓がドキッとした。もう彼らを誘わないと決めたので、明日出立することは隠し通さねばならない。
「いや、ちょっと鷹狩にでも行こうかとな。8ヶ月は行っておらんしな。」
「この時期に鷹狩でござるか。春先ですからなくはないでしょうが…。
お部屋を拝見したところ、物がなくなっておりますな。これも鷹狩で?」
「いや…、部屋を変えようと思ってな…。」
だんだんと苦しくなってくる。というか、通泰はもはや俺のことをお見通しなのだろう。
「…殿、なぜ我らを連れて行っていただけないのでしょうか。」
しばしの沈黙の後、通泰は俺に涙を浮かべながらそう言ってきた。意外な反応に驚きを隠せない。
「我らは死地に殿とともに入り申した。確かに足りないところはありましたが、精一杯武芸やご命令していただいたことに努めて参りました。我らをお捨てなさるのはあんまりではごさらぬか!」
三人とも涙を流し始めた。ここでわかったが、彼らは大きな誤解をしているようだった。
「すまん。俺はお前たちが父上につくものと勘違いしていたんだ。お前たちは父上と付き合いも長いし、そうだと思ったんだ。本当は俺についてきてくれるつもりだったのか?」
俺の言葉に、彼ら三人はきょとんとして顔を見合わせたあと、
「もちろん、ついていくつもりでした。」
と返答した。その後、俺はなぜ隠して出ていこうとしたかなどのことについて彼らに説明すると、納得してくれたようで、
「にしても何も言わず行こうとするなんて酷いではありませんか!!」
と泣きながら通泰は俺に抗議していた。俺としては、彼らが父上と俺を天秤にかけて俺を取るのはなぜかということが引っかかり、
「なぜ俺についてくる?父上ではないのか?」
と尋ねると、
「確かにあのお方を我々一同は尊敬しております。采配の腕は素晴らしいものがありますし、私や知泰と信明の父を拾っていただいた恩もございます。
されど、それ以上に我々は殿を尊敬しております。殿は策を立てる天才ですし、戦も若いのにお上手です。実行こそされなかったですが、治世の策も素晴らしいと思っております。
それに、殿はどんな身分の者に対しても優しく接し、我々家臣のことを第一に考えておられます。今回も我々のことを勘違いしたせいでこんなことになりましたが、この行動の原理は紛れもなく我らを思ってのことです。こんなに素晴らしい武士は私が知る限り存在しません。」
と熱弁。俺が少し恥ずかしくなるほど熱く語っていた。ここまで言われると、俺も嬉しくなるし、彼らをより連れて行きたくなった。
「よしわかった。それじゃ、俺と一緒に来てくれ。お前らの部下にも明日の昼頃に出立すると知らせてくれ。」
結局、翌日の昼頃に集まった人数は40人を裕に超えており、これだけ来るなら食料なども追加で抑えなければならないということで少し延期になり、翌々日に出立した。
俺って意外と慕われていたんだな、と改めて思う。戦国時代という時代柄もあるだろうが、何十人もの人が引っ越ししてでもともに働きたいと言ってくれているのだ。現代に生きていてここまで慕われることはないだろう。
こういう時に自分の生きた証のような物を得られるし、やり甲斐も覚える。
「ありがとな通泰。」
ふと、隣で馬に乗っている通泰に礼を言いたくなった。
「なんですか殿、急に。」
きっと上司が部下に感謝するという構図は戦国時代には珍しいのだろう。恥ずかしそうに彼はそう答えた。
「俺はお前がいてくれたから、河越での大戦にも臨めた。お前が丁寧に戦術について教えてくれたからだ。武芸ももちろんな。感謝している。」
「終わったみたいな言い方をなされるな。私はまだまだあなたに夢を抱いていますよ。」