命を超えて選ばれる言葉
わたしは己惚れている。きっと。そうでなければ、文章など人前に出せるはずもない。まして現代詩などは。それでも、私の中にはその愚かさを内部より食い破るように躍り出る言葉たちがいる。これは確かなことであり、どうしようもない日常である。だから、わたしは書く。出力された詩が読むに堪えないものであることは、わたしの未熟さの故でしかない。言葉たちに咎はないのだから。
幼いころから聞こえていた風景の美しさを、わたしは声にしたかった。音にしたかったが、音楽の才はなく、ただ見ていただけであった。しかし、言葉がそこにあり、わたしを導くように前にあった。生きているという今という光り。そして痛切な痛み。そして震えるような喜びがあった。これこそが詩であった。わたしは詩に選ばれたと思った。
しかし、元素たちの理のように表出することと、評価されることは別のものであった。どうして炭素の純化であるダイヤモンドが水晶よりも秀でているのか。どうしてコランダムの赤が純鉄の赤に勝っているのか。どちらも互いに比較したりはしないというのに、価値と意味という言葉がそこにあった。これは闘いではない。ただあるというそのままであるという、ありたさへの挑戦であった。
言葉は残酷である。それは、人間のそうであるように。そして、生きているという矛盾が時を限って理を曲げようとするように。このかけがえのないもどかしさこそが、言葉をもって詩に変える。幾億年の圧力が輝石を生み出すように、時の矛盾こそが言葉を輝かせる。
それは生み出されるのではなく、生まれるのだ。我らの言葉は、吐き出すのではなく、導かれるのだ。言葉が言葉を連れてくる。音が音を導き出す。矛盾こそが矛盾の源となり、遠い失われた面影たちが語り出す。我らは未だ言葉を知らない。すべてへ届く本当の言葉を。だからつまり求めてやまないのだ。
未だ無かったころからの言葉たちがわたしを通り抜けていく。まだ生まれていない彼らへと届けるための言葉が過ぎる。その尻尾を先人たちは閃きと呼び、テクノロジーは電子速度と呼ぶ。
テキストよ。テキストよ。これは記憶となるか。それとも風化していく碑となるか。そこには運が左右するだろう。しかし、もしも。失われることのない言葉があるのなら、それは命を超えて選ばれるものだろう。
超える。その時が常にある。