言葉に必要な強く綺麗な網の目
断片的ですが、載せます。
インプット(MVなどの刺激からが多いが、ひっそりとした時から生まれることもある)から導かれた、断片的な思考たちを組み合わせているうちに、テーマが立ち上がって来る。追いかけると暫く並んで走ってくれることもある。そうするとしめたもので、言葉が流れ込んでくる。まずは速やかに書き留めて置いて、後ほど校正する。未熟な文なので、磨く必要がある。そうして磨いてみて、果たしてどれほどの輝きが含まれていたのかを眺めてみる。
詩文は短い。大抵は。長いものもあるが、散文詩は結局、詩情を飽和限界まで含んだ物語ではないものである故に、テーマの寿命が尽きるまでしか文章を続けることが出来ないはずだ。だから、長編の詩はテーマが複数現れ、消えて、また現れるといったような、物語性を持つはずである。
だから、そこには激情を受け止めることの出来る言葉の強靭さが必要であり、かつ機微を逃すことのない細やかな言葉の網が必要である。そしていつもノイズのないように、綺麗にされた網の目が見えるように透明であるべきだ。
経験を語りたいということ。これはもしかすると、伝播の本能ではないか。辛いことを分かってほしいと切実に訴えても、伝わらない経験が邪魔をするが、そうではない。美しさを持ち得たならば、それこそを共有したいと思う事は、共存への本能がそうさせるのではないか。そして、危機を共有するべく不幸を伝播しようとするのではないか。これはやはり、群れとしての性質である。言葉は群れてこそ踊る。複合体となって複雑に発達する生体が、中央からシンメトリックに手足を伸ばす。末端に宿るものこそが、最も鋭敏な言葉である。