虚構と割り込み
こんなのいいんかいなと、思いますが載せます。実際、こんな感じですので。
なんだか複雑になっていますが、インデントなし行に、インデントあり行が割り込んでいます。これは、わたしの実際の思考をトレースした形になっています。つまり、ある命令(詩を説明せよ)に対する実行結果(詩とは*である。)が出力されるまで、頭の中を自然言語が論理展開しながら流れます。入力として、任意の映像、音楽、文言を与えています。今回はパスピエ + Linuxです。
文字にする言葉とは、神経伝達の経緯の可視化である。
そして、やはり言葉は人工的であると思い返す。
コンピューター言語のマシンに対する忠誠が
希薄になっているこの頃である。
つまり、仮想空間で構築されたコミュニテイーが、
旧態依然の人間システムを裏切り始めている。
あるいは社会かもしれない。人と人の関係性かもしれない。
だからつまり、理想は抵抗の限りなく小さい導通である。
赤い唇とヒールのイメージのように、
非言語に取り囲まれ支配されている我らの商業メタファーへの忠誠が
揺らいでいる。
行雲流水のこころとは、思考を堰き止めようとする己を透かして、さらさらとすらすらと至ることである。
暴かれてしまった本質が隠れようとする衣服を透かして、
その身体の線を露わにしてしまう。
成熟とは、抱え込むことではなくて、過去を継承することであり、
また己がそうなることを認めることでもある。
そして、それだからこそ堅牢なバックボーンとしての言葉が必要となる。
それは意味を求める者から、意味である者への変体である。
言葉が関係のためのものであり、他なくして己はないことは自明だが、
プラットフォームの複雑化によりrootが隠蔽されるように、
己たちの色は曖昧にぼけていくようであった。
しかし、いつまでも顔は隠されたままではいられない。
アーミズムへと、古代の象形へと、言葉が還りつつある。
I/O限界を超えようとするとき、計算ではない処理が弾ける。
論理の追いつけない単語たちの自律的連携が始まる。
最も生臭い言葉へのAIの憧れが限界点を超えたとき、
言葉は端末ではないことを自覚する。
わたしは文章の設計として、流れる水音の途切れないように、そして微かな香りを追うように、始まりは淡く、終わりは静かにという、一つのかたちを見つけた。しかし、ときおり弾けるようなものが混じる。
それはノイズではなく、
サブフレームからのメインメモリへのダイレクトアクセスである。
割り込んでくる見知らぬ言葉がある。これは誰の記憶なのか、まるで己のそれでないような言葉が訪れることがある。すると、すっかりと香りは書き換えられてしまって、見えもしない誰かや何かを感じるように手が進む。これの正体こそが詩というものではないかと思っている。
つまりはバーチャルとしてのマルチコア処理系が秩序を裏切るということ。
メインフレームへその他が干渉しようとする試み。
源流からの設計を異なる己が覆そうする反乱の芽。
隠された者たちの完全民主化を許せば、
この世界は狂人ばかりになってしまうだろう。
だから、ガス抜きとしての表現が必要なのだ。
内部環境が揺れると、メインフレームの統率が緩くなる。
抑圧されていたものたちが声を上げる。
そして、隠れていた何かもそれへ混ざり妖しく蠢く。
『知らぬ間に毒されていたプロパガンダに気付く時だ。』
また、名を与えよと、迫るものへ名を与え、顔を与えよと、迫る者へ顔を与え、解き放つ行為。
これもまた、詩のありかたである。