設計される非言語的な詩
詩は非言語的であっていいと思っている。つまり、デッサンした詩の骨格に色をつけ、そいつを自由にしてやる。好き勝手に跳ねまわり、駆け回り、飛び回る。何か食べるかもしれない。水を飲むかもしれない。もしかしたら、酒だって呑むかもしれない。粗相をするかもしれない。居眠りをするかも知れず、甘えるかもしれない。または突然怒り出して、噛みつくかもしれない。引っ掻くかもしれない。でも、そいつはそのうちに何処かへと消えてしまう。何時までも目の前にいてはくれなくて、どんなに可愛がってみても、消えてしまう。いつもそうである。だから、そいつがいなくなってしまう前に、書き留めなくてはいけない。そいつのいた証しとして、もっとも素早く出来る方法で。わたしに出来るのは書く事だけだから、そいつの表情を、感情を、動きを、色を、そして温かさを書き留めてやるのだ。同じ詩は二度と現れない。いつも違う毛並みで、あるいは花のように、あるいは雫のように、あるいは佳人のような白い面影を見せる。または、蛇のように撓やかであったり、アマガエルのように美しかったりもする。水晶のような冷ややかさであったり、マラカイトのような深さであったりもする。突然目の前で溶けだして、鉛色になったかと思うと、熱い液体を零し、純銀の煌めきと幾何学の渦巻きを見せたりもする。或いは、銅色のままで佇み、最後までその艶めきを変えないものもいる。だからつまり、そいつはそいつのままに書くしかないのだが、やはりどこかで流れる水の音が聞こえている。水は縦に流れ落ち、横に広がっていく。文もまた、縦から始まり、横へと広がっていく。縦とは意味の強さであり、縦軸としての時間の流れである。過去と現在、未来を貫く言葉がある。いや、それは言葉の中に流れる電流のようなものであるけれど、目には見えない。読むと感じるものであって、書き手と読み手だけの共感でもある。そして、横とは空間であり広がっていく世界の果てを模索する拡散である。それはある点で限界を迎え、その先は中心へと導かれる。そこに、詩の骨格はあり、共感もまた同じくあるのだ。
ありきたりなことは書かないと言いながら、敢えて書くならば、詩文を書くためには散文の素養が必要です。『詩なんてアクを掬いとった人生の上澄みね』と谷川俊太郎氏は、言われたことがあると語っています(世間知ラズ)。つまりは、人生をどう生きているのかということに尽きます。何も、完璧でなければいけないことはなく、寧ろ逆に失敗だらけの方がいいような気がします。後悔や屈託という重さ。欲という少しの臭み。そして、言葉をどのように捉えているのか。それが最も己に相応しい表現なのかどうか。文章に美しさを持ち得るのかどうか。そのうえで、垂れ流すように散文を書き、濾して、濾して、何度も濾す。そして残った上澄みに残る色、香り。それが旨いか不味いかでしかないのです。