法則ノ参 オーレ!ノ法則 [見返リハ情熱ニハ比例セズ妄想ニハ反比例スル]
秋頃になると、物覚えの悪い僕も仕事に慣れ始めて、簡単な仕事を主に発注する得意先などは、僕一人で対応することが増えてきた。そうすると、社会人としてちょっと自信がついてきた気がしたが、責任も増すわけだから、何気に疲れることも多かった。
それでも、僕の気は結構明るかった。夏の水族館以降、今井さんとのメールのやりとりが少し多くなった気がしていたからだ。最近の仕事の調子とかだけでなく、流行の映画や音楽の話なども混ざるようになったし、その水族館の集まりが楽しかったみたいで、院生連中の話をすることもあった。メールでやりとりする日々の雑談みたいなものは、今井さんとの距離が近付いた証拠みたいで僕の心を軽くしたし、疲れたときの癒しになった。
しかし、好事魔多し。そういうときにこそ落とし穴にはまることが多いと言われるが、まさしくその通りになってしまった。それは得意先からの発注で、毎年秋頃に配る案内文書の印刷だった。A4二枚で黒一色、データ入稿有りと、比較的単純な内容のため、僕が受け持つことになったのだが、校正が三回続いた。この校正とは発注元に仕上がりを確認してもらう工程のことだが、大抵は修正や差し替えがある。大体は二回の校正でチェック完了となるのだが、このときは三回目の校正が必要となり納期を押す事態となった。納期に間に合わなくなるのは発注元も了承済みで、問題では無かった。問題は、ファックス番号の修正が抜け落ちてしまったことだ。
二回目の校正が終わったとの連絡を受けて、発注元に引き取りに行ったところ、一枚目の大幅な差し替えと、二枚目のファックス番号の修正が依頼された。この時点で納期を押すことは確定となったのだが、急ぎであることに変わりはないので、三回目の校正は、修正個所のみをファックスでやり取りして確認を取る方法で手早くすることになった。
このとき、僕は一枚目の差し替えにばかり気を取られてしまい、二枚目のファックス番号の修正のことが頭から完全に抜け落ちてしまったのである。一枚目の修正を丁寧にチェックして、一枚目だけ発注元にファックスで送ったのだ。その日のうちに発注元からOKの連絡が入り、僕は至急扱いで印刷に回して、大急ぎで三千部が刷り上げられた。そして納品したのだが、その時、発注元の担当者が仕上がった文書に目を通して、首を少し傾けて数秒固まった。
「ここのファックス番号、直してって言いましたよね?」
一瞬、何のことか分からなかった。差し替えになったところは気合いを入れてチェックしたし、発注元にも確認してもらったはずだ。大体、ファックス番号なんて差し替えのところには無かったはず、と考えて、そこでようやく気付いた。そして固まった。視界が何となくぼやけて、口の中が一気に乾いてからからになった。
辛うじて「ちょ、ちょっとお待ちください、確認を取りますから」と逃げて席を外し、指導役の先輩社員に大慌てで連絡を取った。動転した僕は要領を得ない話を繰り返したが、先輩社員は事情を察したらしく、すぐに飛んできてくれた。
「で、結局どうなったわけ?」
鰹のタタキを自分の小皿にとりながら、瀬崎が僕を一瞥して言った。十日ほど前の失敗談を一通り話し終わった僕は、サンマの塩焼きの身をほぐしながら、
「いや、まぁ、校正の時に二枚目のが送られてこなかったのに先方も気付かなかったってことで、先方も落ち度を感じてくれたんで、ま、穏便に話はついたんだ。と言っても、やっぱりこちらのミスだから、二枚目を無償で刷り直すことになって、実質赤字になっちゃったんだよね」
と、ぼやいた。
「やっちゃったねぇ、原田くん。社会人の試練だねぇ。減俸とかにならなかったの?」
南瓜の煮物をつまんでいた関さんが、ビールを手に取りながら訊いてきた。
「いや、言っても新人だから。厳重注意と始末書で今回はおしまいです。ただ、監督責任で先輩にも迷惑かけてしまいましたが」
サンマをほぐしながら、僕はぼそぼそと呟いた。先輩社員は、「新人にミスは付き物だから、とりあえず気にすんな。次はしないようにな」と言ってくれたのだが、さすがに、思いっ切り気になっていた。
「そうそう、新人やからなぁ。それにしても自分、どっかがすっぽりと抜けてまうところ、治らんのやなぁ」
もう一匹のサンマをバリバリと食べていた梶さんが、ビールを流し込んでそう言った。すると、今度はほうれん草のお浸しに手を伸ばしていた瀬崎が、
「チェックにこれが関与すること自体、問題でしょう」
と、さらっと言った。ばっさりと切り捨てられて、僕の首は更に沈み込み、箸も止まってため息が出た。
「まあまあ、何事も社会勉強だよ。ま、その仕事しない訳にはいかないんだから、同じミスはしないようにしないとね」
うなだれている僕の肩をたたきながら、関さんがフォローしてくれた。「はぁ、そっすね」と、僕は呟いた。
「で、後始末はついたん?」
グラスを空けた梶さんは、そう言いつつ南瓜を口に放りんだ。
「ええ、まぁ」
そう、昨日、刷り直したものを発注元に納品したところだった。
「そか、そら良かったやん。今度はええことがあるって」
梶さんはそう言って笑い、「そろそろ締めの一品ちゃう?」と少し顔を前に出した。「はいはい」と応えて、僕は台所へと向かった。
炊飯器から芋ご飯を茶碗に盛り、茶の用意を始めながら、僕は三人に表情を読まれないように注意した。良いことならある。今週末に予定があるのだ。この失敗談を今井さんにメールしたところ、今井さんが一緒に何か気張らしをしようと誘ってくれていた。そう、一緒に、二人で、だ。そのことを思い出すと、顔が崩れてくるのをどうしても止められない。どこで何をするかはまだ決まってなかったが、重要なのは、今井さんと二人というところだ。そして問題は、今、そのことを梶さんと関さんに気付かれないようにすることだった。あの二人に感づかれると、何を企まれるか分かったもんじゃあない。
沸いた湯で茶を煎れながら、僕は一度頭の中を白紙に戻して、先日の失敗の一部始終を思い出した。すると、すぐにまた落ち込んだ気分へと戻った。本当に落ち込んでいれば、いくら何でも見抜かれることはないだろう。頭の片隅で完全に落ち込んだことを確認した僕は、芋ご飯と漬け物と茶を重い足取りで運んでいった。
「お、芋ご飯かい。旬だね」
「ええねぇ、秋やねぇ」
関さんと梶さんは待っていたかのように茶碗を手にとって食べ始めた。瀬崎はまず漬け物に箸を伸ばしている。
さて、瀬崎は食べ終わって茶を飲んだら帰るだろう。問題は、残る二人が素直に帰るかどうかだった。が、締めとか言って、この二人がこのまま帰る確率は低い。というかまず帰らないだろう。僕は、しっかりと落ち込みながら、次は何を作るかに頭を巡らせ始めた。
次の休日、会社近くの喫茶店に着いた僕は、とりあえずミルクティーのSサイズを購入して、空いていた席に腰を下ろした。まだ、今井さんとの待ち合わせ時間の三十分以上前だ。待つ場合の時間潰しを考えていなかった僕は、所在無くミルクティーのカップを揺らしながら入り口の方ばかり見ていた。
約束の時間を少し過ぎたところで、入り口の扉の向こうに今井さんの姿を見つけた。入り口に向けて少し腰を浮かせて手を振ると、彼女はすぐに気付いてまっすぐ歩いてきた。
「ごめんね、少し遅れちゃった。待った?」
僕の席まで来た今井さんは、少し屈みながら申し訳なさそうに言った。
「全然。一息入れる?」
「ううん、大丈夫。行こっか」
僕が席をたって荷物を持つのを待ってから、今井さんは入り口へと足を進め始めた。僕は手近なゴミ箱にカップを捨てて、彼女の後に続いた。
外へ出たところで、今井さんにこれからどうするのか訊いてみた。今日は、僕の気晴らしということで、彼女が幹事役をすると言っていたのだ。今井さんは僕と目を合わせるように顔を少し上げて、「まず、映画でも見ない?」と提案した。目を見つめられた僕は一瞬硬直してしまったが、何とか「うん」と返事をすることだけは出来た。今井さんは微笑んで、「こっち」と僕を先導し始めた。
幸せだった。それはもう、幸せだった。想いを寄せている女性が、僕のためにプランを立ててエスコートしてくれている。僕の人生において、あり得なかった快挙である。ニットのトップスとコットンのスカートの上に薄目のショートコートを羽織って、ロングブーツで包んだ足を軽やかに進めていく、淡い色合いでコーディネートされた今井さんを中心として、世界は色鮮やかに輝いていた。思ったよりも肌寒くて、冷気は僕のパーカーを通り抜けてきたが、そんな些細なことは感じもしなくなった。これぞまさしく、
※※※バラ色の世界※※※
だ。比喩ではなくリアルな意味で、昇天しそう、というか昇天するなら今この瞬間がいいやぁ、という妄想まで頭を横切った。
今井さんの選んだ映画は、洋画のSFアクション大作だった。
「理屈抜きで楽しめるものがいいかと思って。どうかな?」
映画館の入り口で、今井さんは僕に好みを訊いてきた。この映画館では他に何本か上映しているので、もし他に見たいものがあれば、ということだったが、話題の大作は続き物で前作を見ていなかったし、シリアスな邦画は後で話題にするのが難しそうだった。かといって、いきなり恋愛映画を今井さんと見るような、そんな畏れ多い真似はとてもじゃないが出来やしない。子供向けのアニメを除くと、やはりSFが一番しっくりときた。それに、事前に調べてくれていたので当たり前だが、開始時間もちょうどいい。何より、勧めてもらった映画を断るなどというバチ当たりなことは、真っ先に頭の中から削除されていた。
当然にしてお勧めの映画に決定し、チケットを買って入館して、ジュースとミルクティーを買って座席に向かった。今井さんと一緒にいるだけで、既に僕の心臓の回転数は平常時の五割り増しぐらいだったが、席に並んで座った瞬間から、完全にトップギアまで跳ね上がってしまった。映画が間もなく始まったので、舞い上がっている僕の様子を悟られることはなかったが、照明が暗くなった時は、自分の意識が飛びつつあるのかと錯覚したほどだった。
そんな有様なのだから、映画の内容などほとんど頭に入ってこなかった。僕の全神経は、隣の今井さんの一挙一足に集中されていた。暗かったし、まさか横をのぞき込む訳にはいかなかったから、今井さんの表情は分からなかったが、彼女のテンションの上下は手に取るように感じられた。今井さんがジュースを手に取ると、飲んでいる姿がまぶたに映像化されて、その度に僕は一人勝手に硬直した。
結局、内容をまともに理解しないまま映画が終わったときには、集中し切って疲労感がどっと押し寄せてきた。ただ、それはこの上なく心地よい疲労感だったので、今井さんの目には、僕が心から映画を楽しんだように写ったらしかった。
映画館を出ると、今井さんは僕をCDショップへと連れていった。僕は、どちらかと言えばCDを聞くよりもテレビを点けていることの方が多くて、CDショップに来るのは久しぶりだった。その店は全国展開しているだけあって、さすがに品ぞろえが豊富で、色々なジャンルのCDを試聴できるように、あちこちに試聴機が置いてあった。僕がこの手の店に来るのが久しぶりなこと、あまり音楽に詳しくないことを伝えると、今井さんは僕を邦楽の新譜コーナーへと誘って、最近の流行を僕に教えてくれた。試聴機は二人で聴けるようにヘッドフォンが二つ繋いであったので、そのまま、彼女のお勧めの曲を二人で聴いたりした。そうしていると、まるで二人だけの世界にいるような気になった。何か、こう、じわぁっと、幸せだった。
この頃になると、もう心臓も一通り運動し切ったらしくて、回転数は平常時の二割り増し程度で落ち着いてきた。それに、この状況にも少し慣れてきたのか、今井さんと目を合わせて話すことも、まあ何とか出来るようになってきた。ほっとすると同時に、慣れって怖いなぁと頭の片隅で思ったりもした。
CDショップを出ると、次に今井さんはその近くにある紳士服の店へと僕を誘った。僕がスーツをあまり持ってなくて、結構同じものを使い回していることを聞いた彼女が、せめてシャツやネクタイを替えて変化をつける方がいいと勧めてくれたのだ。店内を一通り見たところ、ネクタイの安売りコーナーの品ぞろえが豊富だったので、ネクタイを選ぶことにした。今井さんがいくつか選んでみてくれたのだが、彼女が手に取るものは結構派手な柄のものばかりで、僕にはちょっと使いづらそうなものが多かった。僕はもう少しシンプルなものがいいかなと思ったのだが、折角選んでくれたものを断るなど、僕的にはもってのほかだった。結局、彼女の選んだものの中から一番地味なものを買うことにした。レジで代金を払い品物を受け取った後の、「気に入ってもらって良かった」という今井さんの明るい声が、僕には嬉しかった。
映画館を出てから歩きっぱなしだったし、時間も経っていたので、次は休憩と食事をとることにして、僕たちはファミレスに入った。休日の夕食時だったが待たされることも無く、席に案内されて、店員からメニューを受け取った。今井さんにメニューを訊いてみると、彼女はイタリアンのコースセットにするようだった。僕はハンバーグとエビフライの盛り合わせが好みだったのだが、メニューには「お子さまにも人気」と書いてあった。言い出すのがちょっと恥ずかしくなってしまった僕は、今井さんと同じメニューにすることにした。
食事を終わって、食後のコーヒーが運ばれてきたところで、今井さんは「今日はどうだった?」と尋ねてきた。そりゃもう、当然楽しかったに決まっている。というか幸せだった僕は、「楽しかった。ありがとう」と応えた。
「良かった。ちゃんと気晴らしになったのね」
僕の返答を聞いた今井さんは、ソファに背を預けながらほっとしたように微笑んだ。
その一言で、今日は仕事で失敗した僕の気晴らしということで、今井さんが企画してくれたことを思い出した。失敗のことなど完全に忘れ去っていた僕は、何故か少し後ろめたさを感じて、慌てて「うんうん」と頷いた。そんな僕の様子を見て、彼女は小さく笑った。
「十分すぎるぐらいだよ。お礼したいぐらい。ありがとう」
今井さんの微笑みに一瞬目を奪われた僕は、また慌ててもう一度お礼を繰り返した。すると、彼女はスプーンでコーヒーをかき混ぜながら、一瞬目を伏せた。
あれ、何か変なことを言ったのかな、と内心動揺していると、彼女は目を伏せたまま、
「うーん、じゃあ、今度は、原田くんに相談に乗ってもらっても、いいのかなぁ」
と呟いた。
自分がおかしなことを口走ったのではなかったことに安堵した僕は、とっさに「うん」と応えて、「もちろんだよ」と続けた。
今井さんは黙ってコーヒーをかき混ぜ続けていた。今井さんが何かに悩んでいることを知った僕は、何でも相談に乗る気になっていた。僕と同じように、仕事で失敗したのだろうか。職場の人間関係でトラブルでも起きたのだろうか。もしかして、職場の上司に付きまとわれていたりするのではないだろうか。しばらく前から問題になっているパワハラ? ま、まさか、セクハラじゃないだろうな? 許さん、許さんぞそんなことはっ。
「あのね」
勝手な妄想を繰り広げて決意を固めていた僕は、今井さんの呟きで呼び戻された。現実へと帰った僕は、「うん?」と身を乗り出した。こんな素敵な人を泣かす奴は許さん。僕は貴女の味方です、貴女を守ってみせますっ。
「関谷さんって、好きな人いるのかなぁ」
僕の周りの空気にヒビが入った、気がした。熱いお茶に入れられた氷がたてる、あのピシッっていう音が聞こえた気がした。
僕の頭は、かつてない程に高速回転し始めた。関谷さん? 関さん? 何故今この瞬間に関さんの名前が出てくるんだ? 上司にセクハラを受けているんじゃなかったのか? 関さん、いつの間にうちの会社に就職したんだ? いやまて、関さんは大学院にいるじゃないか。非常勤やってて会社勤めまで掛け持ちはできないだろう。いやいや、そうじゃなくて、問題はそこじゃない。関さんに好きな人? そりゃいるよ、今付き合っている四人の誰かでしょ。いや、四人とも好きなんだろうか? 好きでもなきゃ付き合いはしないだろうし。でも、四人も同時に好きになるってのは、どうだろう。それは好きと言っていいものなのだろうか。もしかして、四人とも好きじゃないんだろうか? 四人とも遊び? なら、好きな人はいないってことになるのか? それもどうだろう、それは失礼な話じゃないか。そんな羨ましい、じゃなかった失礼なことは、って、ちょっと待て、そうじゃなくて、問題はそこじゃないって。問題は、今井さんが関さんの好きな人について訊いていることであって、え? 今井さんが訊くってことは、つまり、それは、その、えぇ?
「関谷さんを好きになっちゃ、ダメかなぁ」
はいっ、僕の世界は崩壊しましたぁ。今井さんのその呟きで。効果音こそ無かったが、何かが、完膚無きまでに、一片の容赦無く、余すところ無く、粉微塵に砕け散った。
※※※バラ色の世界※※※
の向こうから、空しい程馴染み深い現実の世界が現れたのを目の当たりにして、「あー」という間の抜けた声が僕の口から漏れていた。
「やっぱり、ダメかな? あんなに素敵な人だもの、付き合っている人ぐらいいるよね」
僕の奇声を聞いた今井さんが、肩を落としてため息をついた。どうやら、僕の反応を見て、関さんに彼女がいると思ったらしかった。
「あ、いや、僕は詳しいことは知らないんだよ。確かに関さんはモテるし、誰かと付き合ってることが多いみたいだけど」
今井さんの悲しげな顔を見た僕は、慌てて取り繕い始めた。といっても、実際に四股かけているわけだから、取り繕うのは無理がある。それどころか、ここは関さんの女癖の悪さを一部始終暴露して今井さんに諦めてもらった方が、僕の希望に繋がる場面だ。
そう、それは分かっていた。分かっていたのだが、落ち込んでいる今井さんを目の前にすると、追い打ちをかけるような気がしてそんな真似は出来なかった。結局、関さんの女性関係についてはとぼけて誤魔化し、希望が無いわけじゃないけどモテるから難しいかも、とかなんとか、曖昧かつしどろもどろなことを言って、今井さんを励ましていた。
「話したら、少しすっきりした、うん。相談に乗ってくれてありがとう、原田くん」
今井さんはそう言って、口の端を上げて見せた。その表情がかえって痛々しかったが、関さんの実態からも、自分の心情からも、頑張れとは言い難く、僕は「うん」としか口に出来なかった。
今井さんを駅まで送って、改札の向こうで手を振って消えていく彼女を見送りながら、自分のポジションが昔から変わらないことを痛感していた。「相談しやすい良い友達」。昔から、心を開いてもらえるのだが、異性として見てもらえないことばかりだった。そのことを改めて思い出してみると、昼間の幸せな時間よりも、たった今の現実の方がしっくりきて、至極落ち着いていた。が、それもまた空しかった。もはや盟友となった虚脱感をため息で迎えると、少し肩が落ちた。僕は、パーカーのポケットに両手を突っ込んで、踵を返して歩きだした。空の月が、やけに光って見えた。




