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法則ノ弐 セイシュング左手ノ法則  [進行方向(親指)ハ自分以外(人差シ指ヤ中指)デ決マル]

 配属された営業部二課の仕事は、粗っぽくまとめて言うなら、小口対応の何でも屋だった。一課の方は、大口の取引先や出版社相手の営業で、書籍の印刷といった仕事を主に担当していた。二課はそれ以外の仕事、チラシやビラ、ダイレクトメールや封筒、案内文書といった多種多様なものを扱うものだった。受注は小口のものが多く、その上細かい注文や変更も多いので、決まったパターンを覚えるのではなくて、基本を適宜応用していくことが求められた。応用は僕の苦手とするところなので、内心少し憂鬱ではあった。

 ただ、営業という仕事に引け腰だった僕にとって救いだったのは、始めから仕事を取ってくることは要求されなかったことだった。二課に配属されてしばらくは、社内での仕事の流れを覚える日々が続いたが、ついに営業回りに行くように指示された。営業=仕事を取ってくる、と思って途方に暮れかけたが、新入社員は先輩社員の後について取引先を回り、まず顔を売ることからのスタートだった。どこぞの会社に飛び込んで仕事を取ってくる姿を僕はイメージしていたが、考えてみれば新入社員にそんな真似を期待するわけがない。そう思うと僕の気は随分と軽くなった。

 梅雨も明けて、営業回りにも連れて行かれ始めた7月の給料日、アパートに着いて部屋のドアを開けると、中からお決まりのように声がかけられた。

「お帰りぃ、お疲れさぁん」

 座卓の向こう側で梶さんが手を振っていた。その横で関さんがビール片手に「お帰り、原田くん」と続け、瀬崎はおかきをつまみながら無言で小さく手を上げた。僕は軽く一息吐いて、玄関の靴を整えて靴を脱いだ。部屋に上がった僕に、関さんが爽やかに言った。

「今日もお勤めご苦労様でした。積もる話はおいおいにして、まずは何か食べようか。あ、ビールはまだ冷蔵庫に冷えてるからね」

 毎月給料日には飯を食いに来て、何が積もる話なんだか。呆れながら「はいはい、ちょっと待って下さい」と返して、僕は台所に立ち、買い物袋から中身を取り出し始めた。4月、5月と宅配系の食事をされた僕は、出費を抑えるために、先月からスーパーで食材を買って帰ることにしていた。取り急ぎ、半値になっていたキハダマグロとサーモンの短冊と豆腐とサラダを使って、カルパッチョと冷や奴を座卓に並べた。

「おぉ、手際がええねぇ。さすが原田くん」

と、梶さんが声を弾ませながら箸と小皿を手に取った。

 そりゃあ手際も良くなるってもんだろう。大学院在籍中は、自分の部屋で飲み会が繰り広げられる度に、僕が食事を用意していたのだ。よもや社会人になっても同じことをする羽目になるとは夢にも思わなかったが、慣れたことをするのは、どこかホッとするものがあった。習慣とは恐ろしい。

 僕は「はいはい」と適当に応えて、台所へ戻った。そして、鳥の胸肉に塩と胡椒をもみ込み、南瓜と人参と茄子とピーマンを適当に切った。鶏肉をグリルに入れ、大鍋で湯を沸かし始め、小鍋に油を薄く張って野菜を揚げた。焼き上がった鶏肉を切り分けて皿に盛って座卓に向かうと、前菜はほとんど残っていなかった。

「ちょっと、僕の分も残しといて下さいよっ」

 関さんは「ごめんごめん」と笑いながら応えた後、「お、今日のメインは鶏肉のグリルと野菜の素揚げかい。いいねぇ」

と言って鶏肉に手を伸ばし、「ビール追加ね」と続けた。と、ちょうど大鍋が沸騰したようだったので、台所へ戻ってパスタを放り込み、野菜を揚げた油の残りと乾燥ニンニクと鷹の爪とベーコンで手抜きペペロンチーノのソースを作った。茹で上がったパスタを絡めて大皿に移し、ビールと一緒に座卓に運んだ。今度は、鶏肉も野菜も少し残っていた。ホッとして席に着いた僕をよそに、三人はパスタをせっせと自分の小皿へと取り分け始めたので、僕も慌てて皿を手にした。

「で、どうなん、仕事の方は。営業回りとかし始めたん?」

 パスタを口に詰めながら梶さんが訊いてきたので、鶏肉とピーマンを続けざまに頬張っていた僕は「一応」と、もごもごと応えて、最近始まった営業回りの様子を説明した。

「そらそうか。新人に飛び込みさせるような無茶はせんわなぁ」

 一通り聞いた梶さんが、パスタを口に含みながら頷いた。瀬崎は僕を横目で見て、「良かったじゃない。随分と気が楽でしょ」と言ってグラスを傾けた。図星を指された僕は苦笑しつつ、「まあね」と肩をすくめた。すると、ビールを飲みながらその様子を見ていた関さんが、空になったグラスで僕を指して、

「それって原田くんが期待されてないだけじゃないの?」

と混ぜっ返した。

 そんなことは無いはずだった。営業部一課に配属された津村くんも、先週一緒に飲んだときに大体似たような感じだと話していた。メールによると、制作部デザイン室配属になった梅本くんはデザイン作成用ソフトの練習に追われているらしかったし、総務部配属の今井さんは電話応対を教えられているところらしかった。残っていた野菜の素揚げをかじりながら、僕は関さんにそう反論した。それを聞いていた瀬崎が、

「その子たちとは仲がいいのね」

と言ってパスタを口にした。

 講義形式の研修以来、あの三人とは時折連絡し合う仲だった。大半はメールで近況報告をし合うものだったが、津村くんと梅本くんとは、時間が合えば晩飯を一緒にすることもあった。特に津村くんは、同じ営業で話が合うところも多く、彼の落ち着いた物腰も手伝って、気楽に話が出来る相手だった。今井さんとはメールだけで、会う機会がないのが残念だった。また何かの機会で会えれば、出来れば二人で会いたいんだけど、って、会って何を話せばいいのか分からないじゃないか。でも、休日に今井さんと喫茶店に行ったり、映画を見たり出来たら楽しいだろうなぁ。

「で、その子可愛いの?」

 関さんの声で我に返った。僕は、見透かされたような気がして一瞬目が泳いでしまった。辛うじて「な、何がですか」と返してから関さんと目を合わせて、思わず腰が引けた。

 目がマジだ。少し垂れ目がちの目が座って、真っ直ぐ僕を見ている。ちょっと待て、彼女が四人ってのは多すぎたなぁとか言ってなかったっけか、アンタ。

「関ちゃぁん、目つきが怖いよぉ」

 梶さんが関さんをのぞき込みながら言って、ビールを差し出した。ビールを注がれながら、関さんは「やだなぁ、原田くん、冗談だよ」とにこやかに笑った。が、絶対に冗談じゃない。そういう人だ、この人は。

 そんな僕の疑いの視線を浴びているにも関わらず、

「で、その三人とまた会う予定はないの?」

と、関さんは何事もなかったかのように話を続けてきた。

 実は、予定はあった。来月の盆休みだ。会社の盆休みはちょっと変則になっていて、8月の中旬に、従業員へ自由に選択できる休日を3日与えるという方式だった。従業員は、お互いに日程調整して、休みにする日を決めていく。で、少人数だが、盆の時期でも会社は機能している状態にするわけだ。ただし、日程調整は年功序列で行われるので、新入社員の盆休みは、バラバラに飛び散った休みが3日有るという状態になってしまう。そのため、三人とも旅行や帰省をする気にならず、週末にでも集まろうか、と話していたところだったのだ。

 しかし、先ほどの関さんの目つきで疑心たっぷりになった僕は、素直に言う気には全くならなかった。

「無いです」

 そう応えてパスタを口いっぱいに頬張った。その僕の肩に手を回して、

「原田くぅん、へそ曲げないでよぉ」

と梶さんがあやすように言い、「お茶」と続けた。「はいはい」と言って席を立ち、流しに行ってやかんを火にかけ、人数分の湯呑みを用意した。茶を煎れて、一つには氷を加えて戻ると、梶さんと関さんが小声で何か話していたが、僕を見て話を切り上げたようだった。

「何の話ですか?」

 何となく怪しい気配がしたので、僕は湯呑みを並べながら二人に尋ねてみたが、「大学の方の打ち合わせや」と梶さんに返された。湯呑みをとって茶を飲む瀬崎に目で訊いてみたが、彼女は肩をすくめただけだった。そして、湯呑みを置いて、

「それじゃ、あたしはそろそろ帰ります」

と、瀬崎は荷物を手に取った。関さんが「原田くん、お見送り」と指示を出し、梶さんが「瀬崎ちゃん、ビールごっそさんでしたぁ」と続けた。

 一度ぐらいは自腹を切れよ、アンタら。

 席を立った瀬崎の後に続いて玄関に行くと、瀬崎は靴を履いて立ち上がり、僕の方を振り返った。

「ま、頑張って」

 一言言い残して、瀬崎は扉の向こうへと消えた。僕は腰に手を当てて首を傾け、一息吐いて、小さく背を伸ばした。そして振り返った僕に、

「原田くぅん、もうつまむもん無いん?」

と、梶さんの声が飛んできた。はいはいと応えて、台所で冷蔵庫の扉を開けた。少し考えて、茄子とピーマンとベーコンを取り出した。

 とりあえず、焼き茄子と、ピーマンとベーコンの炒め物でも作るか。


 8月に入って数日経ったある日、津村くんの仕事が同じ時間に終わったので、連れだって会社近くの居酒屋で飲むことになった。ひとしきり仕事の話を肴にした後で、鰹のタタキを食べてから、津村くんは話題を変えた。

「そうそう、日曜の話だけれど、飲みは午後6時頃からで良かったかな?」

 そう、その話をしたいと思っていたところだった。日にちは決まっていたが、それ以外は未定のままで話が回ってこなかったので、彼に聞こうと考えていた。集合時間を聞いて、「OK」と応えつつ鞄の中の手帳を探った。

「飲みの場所は臨機応変に、だったね。美人が来るって話だったから、梅本くんが楽しみにしてたよ。彼、一月ほど前に振られたらしいから」

 津村くんは猪口を傾けながら続けた。僕は手帳を取り出して開いたところで、梅本くんの話に少し驚いた。初給料でごちそうしたとか言ってた彼女のことだろう。微妙な親近感が湧く一方で、ちょっと違和感があった。美人? 今井さんが誰か連れてくるのだろうか。そりゃ女の子一人では来ないか。

「それから、昼過ぎにメールで連絡しといたけど、昼の方、ちょっと用事が入っちゃって僕は参加出来そうにないんだ。折角チケットを用意してくれるってのに、ごめんね」

 手帳に書き込む手が止まった。思わず「へっ?」と漏らして津村くんの方を向くと、津村くんは本当に申し訳なさそうに頭を下げた。

「ホントに申し訳ない、チケット無駄になっちゃって。あ、無料券だって言ってたけど、もしかして原田くんが負担してくれてたのかな? だったら費用払っておかないと」

 顔を上げた彼は、固まった僕を見てそう続けた。

 一体、何の話なんだ?

 手帳と津村くんの顔を交互に見ながら、口をパクパクし始めた僕を見て、彼は不思議そうに言った。

「あれ? 原田くんが話を進めてくれてたでしょ? 水族館の無料チケットがまとまって手に入るからって」

「はい?」

 思わず、甲高い声が出てしまった。知らない、僕には全く覚えがない。気付かないうちに何かしてたとでもいうのか、僕は?

 おろおろしている僕の様子を不審そうに見た津村くんが、「あれ、だって、君からメールでそう連絡が回って来てたよ」と言いながらスマホを操作して、画面を出して見せてくれた。

 件名:例の日曜のことについて

 本文:皆、仕事の調子はどうですか?

    かねてから話になっていた飲み会の話なんだけど、と

    りあえず6時頃に○○駅改札あたりに集合ということ

    でどうでしょうか。あの辺りなら店も多いし、場所は

    集まってからということでもいいかと思います。

    それと、知り合いからの話で、水族館の無料チケット

    がまとまって用意出来そうです。昼過ぎぐらいから、

    皆でどうでしょうか?

    チケットは10人分ぐらいまではいけるそうですので、

    他に仲の良い人がいたら誘ってもらってもOKです。

    僕の方は、チケットを用意してくれるイケメンとタフ

    ガイと美人が参加したいと言ってます。3人ともいい

    人(保証できます!(^^))ですが、どうでしょうか?

    チケットの手配があるので、近日中に連絡下さい。

 言葉が無かった。全く知らない話だ。でも、アドレスは僕の携帯アドレスになっている。二人で顔を見合わせて唖然としていたその時、僕の携帯の着信音が鳴り響いた。我に返って着信画面を見ると、関さんからの電話だった。

「あ、原田くん? 今日もお仕事お疲れさま。日曜ね、昼から空けとくようにね。皆で水族館に行くことになったから。話はまとめてあるから心配いらないよ。詳しいことはまた後で連絡するから、よろしくね」

 そう一方的に言うだけ言って、関さんは電話を切ってしまった。

 混乱し続ける頭に、閃きが横切った。数年前に、関さんが女の子から相談を受けたことが記憶の中から浮かび上がってきた。メル友になった相手が不幸にしてストーカーのようなタイプだったらしく、その子はかなり憔悴していた。見るからに気の毒な有様だったが、幸いにして、まだメールアドレスしか相手に伝わっていない状態だった。そこで、相談を受けた関さんが、その子の代わりにメールのやりとりを続けて、後腐れ無く追い払ってみせたのである。その時、その子に成り代わる方法について、関さんは、

「要するに、表示されるアドレスがこの子のやつだったらいいわけでしょ? 実際のアドレスは僕のだけど、聞いている限りだと、相手はそこまでチェックする腕は持ってないみたいだしね」

と事もなく言ってのけたが、関さんが操作している画面は、僕から見れば、複雑怪奇なことをしているようにしか見えなかった。

 その腕前で、僕に成り代わったのか。

「大丈夫?」

 携帯を握ったまま固まっていた僕に、津村くんが心配そうに声をかけた。我に返った僕は、彼に僕の推測を説明してみせた。

「その人、大丈夫なの?」

 一通りの説明を聞いてから、津村くんはやや訝しそうに訊いてきた。ま、この有様を目の当たりにすれば、怪しい人物にしか聞こえないだろう。ただ、裏技系に長けているのは事実だが、そういった技で人のトラブルを解決することも結構あって、意外と人望が厚いこともまた事実なのである。僕は苦笑しながら、「人は傷つけないんだけどね」と肩をすくめてみせた。

 軽く一息吐いてから、彼は「苦労しているね」と言って、僕の猪口に酒を注いでくれた。


 日曜の午後2時半頃、全員が揃ったところで、打ち合わせていた通りに、関さんに自己紹介をしてもらうように促した。

「僕は関谷遼一、関さんと呼ばれてます。こっちは梶大輔、こちらは瀬崎由香理さん。三人とも、原田くんの出身大学院の博士課程に在籍してます」

 今度は僕が三人に梅本くんと今井さんを紹介し、続いて、今井さんが一緒に来た女の子を紹介した。

「同期で総務に配属になった丸野さんです。誘ったら、水族館好きって言ってくれたから」

 小柄な丸野さんは頭を下げて、「よろしくお願いします」と言って丸っこい顔を上げた。

「それじゃ、行きましょうか」

 関さんがにこやかに言って、水族館に向かい始めた。行き先の水族館は大手ホテルの敷地内にあるもので、待ち合わせた駅前から歩いて10分ほどのところにあった。

最後尾にいた僕に梅本くんが近寄ってきて、「原田さん、グッジョブっす」と耳打ちし、瀬崎の方へと向かっていった。声をかける間がなかったので、僕は一人肩をすくめる。

 水族館に入ると、まずはトンネル状になっている通路が僕たちを迎えてくれた。足下以外の壁は強化ガラスで、海中トンネルのようになっており、横や上を鮫とエイがゆったりと遊泳していた。

「すごーい」

 今井さんが声を上げた。僕も、料金を取る娯楽施設とは普段から無縁だったので、魅せる演出に思わず見入っていた。呆然と見上げていると、横から「あの子の口可愛いねー」と今井さんの声がして、慌てて振り返った。すぐ横の今井さんに気付いていなかった僕は、焦って相づちを打つことも出来なかった。今井さんはにこやかに笑って、トンネルの先へと進んでいった。

 柑橘系のいい香りがした。僕の動悸はすぐには静まってくれなかった。と、肩口に梶さんの顔がぬっと突き出て、「原田くぅん、先に進もうよぉ」と、にたぁっと笑い、僕は思わず飛びのいた。今井さんの余韻は綺麗にぶち壊されたが、僕の動悸は全く別の意味で激しくなってしまった。

 見ると、トンネル内には僕と梶さんしかいなかった。慌ててトンネルを先へ進み辺りを見回してみると、瀬崎と梅本くんが向こうの水槽の前にいる姿が目に入った。どうもエビのコーナーらしい。瀬崎はカニやらエビやらが好きなのだ。どうやら造形的に好きらしいのだが、僕にはよく分からない世界である。黙って水槽を見る瀬崎に、梅本くんが話しかけているようだった。

 さらに目を配ってみたが、関さんと今井さんの姿が見当たらなかった。探しに行こうとしたとき、一人で水槽の前に佇んでいる丸野さんの姿が目に入った。僕は一瞬躊躇し、所在無く頭を掻いて、そして丸野さんへと足を向けた。

「あの、それ、好きな魚とかですか?」

 声をかけると、丸野さんは小さくお辞儀した。水槽の中にはえらく特徴的な、大きな魚が浮いていた。

そう、泳いでいるのではなく、浮いている。それも、体が倒れている。70度以上は倒れている。真横になりそうな勢いだ。紹介板をみると「マンボウ」とあった。何を言うといいのか分からなくて突っ立っていると、梶さんが横に来て語り始めた。

「おぉ、マンボウやん。相変わらず漂っとんねぇ。知っとる? こいつら海の比較的浅いところを漂ってんやで。泳ぐってんじゃなくて、漂っとんねん。そんなんやから、仲間と出会っても、潮の流れに流されるままや。『あぁ、そこに誰かおる~。お達者で~』って感じやろか」

 相変わらずの雑学だった。見聞が広い分、知識も豊富なのだ。ただ、その大半は相当にいい加減であり、出鱈目がかなり含まれることに注意しなければならない。

 梶さんの話が終わると、今度は丸野さんが、

「以前はそう思われていましたけど、深海まで潜って餌を食べていることが最近の調査で分かったんです。深海性のエビやイカを食べた跡もあったらしくて、泳ぐ力もあると分かったそうです」

と、梶さんを見上げながら言った。梶さんはやや驚いた顔持ちで「ほぉ」と言い、笑いながら「自分、詳しいねぇ」と続けた。僕も彼女の博識に少し驚いた。水族館が好きだからという話だったが、本当らしい。「物知りですね」と正直に言うと、彼女は俯いてしまった。

 余計なことを言ったかと内心焦っていると、横の梶さんが僕を肘でつついて、

「そろそろイルカのショーが始まるんやろ? 皆を集めんといかんのちゃう?」

と言った。そう、確か関さんの話ではそんなショーがあったはずだ。時間を見ると、言われたとおりの頃合いだった。

「行け、原田くんっ」

 真面目そうな顔を作って敬礼しながら指示を出す梶さんを背に、「はいはい」と応えて僕は皆を捜しに向かった。

 まず瀬崎と梅本くんが見つかった。今度はカニの水槽の前だった。足の長い結構大きいカニだ。声をかけて、二人にマンボウの水槽の前に集まるように伝えた。「了解っす」と梅本くんは明るく応えたが、テンションは若干下がり気味だった。多分、瀬崎のことだから相手にしてなかったのだろう。残るは関さんと今井さんだ。二人は、通路を戻って反対側へ回り込んだ熱帯魚の水槽の前にいた。

 これまたいい雰囲気だった。会話の間に今井さんがむくれたりして、すぐに楽しそうに笑ったりしてと、打ち解けている様子が見て取れた。これじゃ割って入る僕は邪魔者では? というか関さんは何をしてるんだ? 横から入って持ってくなんて、って僕のじゃないし、いやそれ以前の問題なわけで。そもそも、「僕の」とかいう言い方はどうだろう。それって相手に対して失礼な言い方じゃないか? いやいや、そうじゃなくって、その、えっと、

「あ、原田くん。もしかして呼びにきたの?」

 関さんの声で僕は我に返った。が、すぐには言葉が出なかった。すると、関さんが、

「そろそろ君の言っていたイルカのショーの時間だよね。幹事役お疲れさま。色々準備してくれてありがとね。どこに集まるの?」

と、話を進めてくれたので、辛うじて「マンボウの前です」と応えることが出来た。関さんはにこやかに笑って、「じゃ、行こうか」と先導し始めた。

 そう、今日の段取りは僕がやったことになっていた。本当は関さんが全部やってくれたのだが、「株を上げたまえ」と、僕がしたことにしてくれているのだ。だというのに、幹事どころか使いっ走りにしかなっていない。肩を落としながら、先を行く二人の後ろ姿に目を向けた。二人の距離が狭まっているように見えてヘコみ、その自分の勝手な思いこみに呆れて、さらに肩が落ちた。

 イルカのショーの間も、僕は悶々としっぱなしだった。プールではイルカ達が華麗な技を披露していたが、僕の頭の中では、先ほどの関さんと今井さんの姿が上演されていた。あまりにも繰り返し上演されるので、せめて関さんを僕に置き換えようとしてみたが、どうにも上手く行かなかった。結局、想像力にも限界があると諦めたが、想像すら出来ないほどイケてない自分を立証してしまった気がして、何か、その、こう、ちょっと空しかった。けれど、今井さんの楽しそうな顔を横目で見てると、ちょっと幸せな気になったりした。

 ショーが終わった後は館内のショップで買い物をすることになった。今井さんと丸野さんが結構盛り上がっていて時間がかかりそうだったので、館内をあまり見てなかった僕は、少し見て回ることにした。何気なく地元の海の魚達の水槽を見ていると、ガラスのすぐ向こうの底に、小さな魚が居ることに気付いた。その魚はまるで置物のように居たが、座り込んで顔を近付けると、ちょこんと移動した。同じようにもう一度近付いてみると、またちょこんと移動した。姿勢は変わらず、やや上の方を見上げたままだ。何となく面白くなって見ていると、上から声が降ってきた。

「何してるの?」

 後ろを振り返ると瀬崎の姿があった。買い物も終わったので、僕を呼びに来たとのことだった。僕が小さな魚のことを話すと、瀬崎は腰を屈めて魚をのぞき込んで、「アンタみたいね」と言って去っていった。僕はもう一度魚を見て、苦笑しながら瀬崎の後を追った。

 水族館を出た後は、待ち合わせ場所で津村くんと合流した。先日飲んだときに話をしたので、津村くんは院生連中について知っているのだが、そつなく挨拶を交わした。それから、辺りには色々な店があったが、手近な居酒屋に入ることにした。

 幹事役ということで、僕が乾杯の音頭をとることになったのだが、苦手項目のトップランキングに入ることが手際よく出来るはずもない。しかも、関さんのさりげないリードで隣の席には今井さんが着いていて、余計にあがってしどろもどろになってしまった。そんな訳で、結局関さんが音頭をとって飲み会が始まった。

 取りあえずの品をつまんでいる間は、昼の水族館の話で盛り上がった。梶さんが巧みに話題を振っていくので、場の雰囲気は非常に和やかなものになっていた。端の席にいた僕は、関さんからの「ビールと料理追加ね」という指示に合わせて、次の料理の注文とかをしていることが多かったが、今井さんの隣で彼女の声を間近に聞けて結構幸せだったりした。まあ、今井さんに話を振られても、相づちを打つぐらいしか出来なかったんだけど。

 注文したビールと揚げ出し豆腐、地鶏の唐揚げが届いた頃には、話題は大学院生の実態に移っていた。実地調査の笑い話などを関さんが上手に紹介していき、津村くんなどは興味深そうに聞いていた。

 場がかなり打ち解けて、皆それぞれ近くの人との話で盛り上がってきたとき、今井さんが僕の方に顔を向けて、

「瀬崎さんって、綺麗な人ね。もっとお化粧したらもっと綺麗になるんじゃないかしら」

と囁いた。僕は「うん、まあ、そうかな」と曖昧に応えた。

確かに、瀬崎は美人の分類に入るな、と思う。化粧については、瀬崎が「敏感肌なので」と言うのを聞いたことがあったが、本当は面倒くさいのだろうと僕は思っていた。ただ、その美貌は、極められた彼女の素っ気なさの前に無効化することが多かったが。今日の梅本くんの姿がその典型的なケースだ。もっとも、本人的にはその方が都合がいいようで、全く変えるつもりはないらしかった。だから、今井さんが続けて「付き合ってる人とかいないの?」と訊いてきたとき、僕は無言で手を小さく横に振った。

「えー、関谷さんとお似合いだと思うけどなぁ」

と、今井さんが続けて囁いたので、僕はまた手を横に振った。違う違う、関さんは今四股かけてて手いっぱいらしいんだよ、という台詞は、さすがに頭の中だけに留めておいた。

「もったいないね」

 今井さんのその囁きに、僕は内心、君はどうなの? と訊いていた。実際にそんなこと口に出す度胸はないのだけれど。いやまて、この話の流れなら、彼氏がいるかどうかぐらいは聞くことが出来るんじゃないか? 話の流れとしては、そんなに飛んでいないはずだ。これはチャンスじゃないか? こんな機会は滅多にない、いや、今までなかったチャンスじゃないか、って、えっと、こういうときどう切り出せばいいんだ?

「どうしたの?」

 急速にテンパって来た僕を少しのぞき込むようにして、今井さんが訊いてきた。距離が少し近くなって、僕の頭は余計にこんがらがり、そして白紙になった。

「今井さんは付き合っている人いないの?」

 訊いてしまった。そのまま直球の台詞を放り出してしまった。自分の言葉を聞いて、目の前の光景がくらくらと揺れだした。不審に思われたんじゃないだろうか、何か巧く言わないと、と思ったが、真っ白の頭では何も思い浮かばない。

「うん、今はね」

 近年まれにみるほどテンパって焦っている僕をよそに、今井さんは軽く応えた。

 今井さんの返答が頭の中でこだました。同時に、僕の心臓の活動は4割り増しぐらいになり、頭の中は真っ白を通り越して真っ赤になった。

フリーっすか、フリーなんですか、今。そう言ってくれるということは、警戒されてないってことだよね? イヤなら誤魔化すよね、普通。ってことは、軽く「じゃあ、僕と付き合ってみない?」とか言っちゃっても大丈夫じゃないか? いやまて、いくら何でもそんな急に言ったら引かれるんじゃないのか? いや、でも軽く言うならダメでも冗談ってことで流せるじゃないか。ダメでも誤魔化せるし、もしOKなら、今井さんが、その、僕の彼女になって、って、僕に彼女?

 頭の中で、さっきの水族館の光景が一部改変して再演された。美しい熱帯魚の水槽の前で、僕と今井さんが楽しそうに話をしている。二人が手をつないでいるおまけつきだ。先程は上手く想像出来なかったのに、今度はばっちり、まるで写真に焼けそうな勢いだ。

「どうしたの、原田くん。大丈夫?」

 今井さんが、またのぞき込むように訊いてきた。さっきよりも顔が近い。

僕の意識は、飛んだ。

「じ、じゃあ、ぼ、僕と、つっ付」

「原田くーんっ、ビール追加してー」

 噛み噛みの言葉を、関さんの声がかき消した。我に返った僕は「はいっ」と甲高い声で応えて、店員を呼びに店の奥へ振り返った。

 店員に追加注文をして顔を戻すと、今井さんは何事もなかったかのように、関さんと話をしていた。関さんは携帯を操作しながら僕に目をよこして、「原田くん、ちょっと飲み過ぎたかな? 後はウーロン茶とかにしといた方がいいよ」と軽やかに言った。今井さんも「何か、汗が浮いてるもんね。無理しちゃだめだよぉ」と続けた。

 手で顔を拭ってみると、確かに汗をかいていた。息もあがっている。呼吸を整えようとした僕に、携帯がメールの着信を告げた。関さんからのメールだった。

 件名:先走らないように

 本文:自爆するよ? 危ない人になってたよ、さっき

 顔を上げて関さんを見ると、目が合った関さんはにっこりと笑ってみせた。

 ……危なかった。

 デザートの紫芋のアイスを食べ終わったところで、飲み会はお開きとなった。僕の心臓は落ち着きを取り戻していたけれど、この半日でテンションの乱高下を繰り返した結果、内心へとへとになっていた。今日一日、自分は何をしてたんだろう、とぼんやりとしていると、今井さんが近寄ってきて、

「原田くん、今日は色々ありがとう。またね」

と言って微笑んだ。僕は、つっかえながらも「ま、またね」と応えることが出来た。そして、手を振って去っていく今井さんに小さく手を降り続けた。

 何か、満たされた気になった。

 と、両脇から関さんと梶さんの手が伸びてきて、がっちりと肩を組まれた。

「良かったねぇ、原田くん。楽しんでもらえたようだよ」

「印象よおなったでぇ。春だのぉ」

 両脇から二人の声が続けざまに飛んできた。燃え尽きていた僕は、言われるがままに「ありがとうございます」と応えた。すると、二人が手を差し出してにっこりと笑った。

「それでは、本日の企画演出料を」

「さっきの飯代でええよん」

 僕の肩と首は2センチほど落ちた。そうか、そう来たか。力の抜けた手で財布を取り出し、代金をまとめて関さんの手に乗せた。

「まいどありぃ」

「またご用命のほどを」

 僕から飯代をせしめた二人は、意気揚々と引き上げていった。その様子を見ていた瀬崎が、軽く鼻で息を吐いた。

「ご愁傷様」

 そう言い残して瀬崎も帰っていった。僕は、一つ大きく息を吐いて、所在なく頭を掻いた。靴先に目を落として、顔を上げた。電灯やらネオンやらで、夜の街は少し眩しかった。


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