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法則ノ壱 青春相対性原理  [イカナル時ニオイテモ青春ハ不変デアル]

 どうやら、僕の場合は、新社会人=青春からの卒業では無かったらしい。

 アパートの僕の部屋で目の当たりにしている現実が、それを僕に告げていた。部屋の中で見慣れた三つの顔が見慣れた場面を繰り広げているのを目の当たりにした僕は、我が目を疑った。しかし、これは一体どういうことだろう。こんな場面は一ヶ月ほど前に見納めたはずだ。大学院の修士課程を修了して職場近くのこのアパートに引っ越してから、僕の日々は切り替わっていたはずだし、実際新しい日々が始まっていたはずだ。まあ、確かに近場の引っ越しだったけど、いや待て、近いとか遠いとかの問題じゃないだろう。って、そうじゃなくて、落ち着け、まずは現状の認識を、ってそりゃ見たままか。で、えっと、まずは何をすればいいんだ?

「おぅい、何突っ立っとんや。さっさと上がれや」

 そう言われて反射的に靴を脱ごうと足下に目をやると、靴が三足のうち二足脱ぎっぱなしになっていたので、揃えてから自分の靴を脱いだ。と、ようやくまず言うべき言葉が口から滑り出た。

「って、何で居るんですかっ!」

「何でって、お前今日給料日だろ? 就職して最初の給料日を祝ってやろうと思ってさ」

 僕の問いかけに対して、関さんがあっけらかんと応えた。続けて梶さんも、

「そやそや、もう準備も終わっとるぞぉ」

と手を挙げた。その手には空になったグラスが握られている。座卓の上を見ると、既に空になったと思われるビール缶がいくつか転がっていた。準備どころか、勝手に飲み始めていたことがありありと伝わってくる。その僕の目線に気付いた関さんが、

「ビールは俺達のおごりね。飲むだろ? まだ冷蔵庫に冷やしてあるから遠慮なくどおぞ」

と、冷蔵庫を指しながら女殺しの爽やかな笑顔で言った。一瞬冷蔵庫を見て、ありがとうございますと言いかけて、はたと我に返った。

「じゃなくって、どうやって入ったんですかっ!?」

 学生時代はこの二人の先輩と同じアパートで、よく飲み会場にされてしまっていた。そう、それは、今目の前で繰り広げられている有様そのものだった。就職するにあたって近距離だけどあえて引っ越したのは、それから解放されるためだったのだ。にもかかわらず、何故この人たちがここにいるというのだ?

 すると、「そうそう」と言いながら、関さんがズボンのポケットから何か取り出して座卓の上に置いた。僕は目を奪われた。鍵である。それも、僕の持っている鍵ともの凄く似ている。というか同じものにしか見えない。

「スペアキー作っといてやったから。何かと忙しいだろうし、作る暇無いと思ってさ」

 慌てて座卓に近寄って鍵を手に取った僕に対して、

「あ、それお前用ね。無くすなよ」

と、関さんの言葉が続いた。ということは、関さん用のスペアキーも作ってあるということだろうか。言葉の意味からすれば、多分作ってあるのだろう。いや、この人のことだから間違いなく作っているはずだ。いつの間に作ったのかを問いただそうとして、その前に気付いた。先月引っ越す際に、この二人が引っ越しの手伝いを買って出てくれた、その時だ。基本的に貧乏な僕にとって、どこからともなくタダで車を調達してくる関さんと、バイトで力仕事を色々こなす梶さんの手伝いは、凄くありがたいものだった。「後輩の門出だからな」と言って何も受け取らないで帰っていく二人の背中に、その時、僕は心から頭を下げた。

 んだっつうのに、僕の新しいアパートの合い鍵を作りに来ていたというわけだ、この二人は。

「ちょ、冗談じゃないっすよ、鍵出して下さいよっ」

 焦ってややどもりがちに言った僕に、横から梶さんが至極落ち着いて普通に応えた。

「って、お前、前に一度鍵無くしたやろ。そん時すぐに大家と連絡取れんで、俺の部屋に泊まっとったやないか。んなことの無いようにスペアキーを作っといたったんやで」

 過去の失敗を引き合いに出されて、とっさに言葉が出ずに口ごもってしまった。確かに、以前そんなことはあった。あったが、それとこれとは話が別だ。そもそも、これは不法侵入である。その辺りを抗議しようと態勢を整えたところで、玄関のチャイムが鳴り響いた。

「あ、原田くん、よろしくね」

 関さんにビール片手に軽く言われて、僕の気勢は削がれてしまった。それでもなお関さんに抗議しようともう一度言葉を探している僕に、チャイムが追い打ちをかけてきた。チャイムの催促に負けた僕は、玄関へ向かってドアを開けた。そこには、見覚えのある服装に身を包んだ若い男性が立っていた。

「○×ピザです。お待たせしました。まずは商品をお渡ししてもいいですか」

 何のことか分からないで突っ立っていると、配達の人が保温バッグの中から平たい箱を僕に差し出したので、慌てて受け取り始めた。

「こちらがマルガリータのLサイズです。そしてこちらがオーダーのもので、ツナとコーンとポテトとマヨネーズのトッピング、Mサイズです。それから、フライドポテトとチキンのセットがお一つ、サラダのLサイズがお一つ、アイスが四つです」

 てきぱきとした受け渡しになされるがままの僕へ、最後にレシートが差し出された。

「七千二百八十円になります」

 言われるがままに財布から一万円を支払って、釣りを受け取った。「ありがとうございました」という声に、どうも、と曖昧に応えてドアを閉めてから、ようやく気付いた。

 たかりに来たのか。

 背中越しに後ろを見ると、視線が合った関さんがまた爽やかな笑顔で言った。

「お祝いだからね、今回は君の好きなスペシャルトッピングピザと、チョコチップアイスも注文しといたんだよ」

 確かに、大好きな組み合わせだった。ちょっと嬉しくなったが、支払いは僕がしたわけだし、それ以前の問題がある。素直に嬉しくなった自分に呆れつつ立ちすくむ僕に向けて、今まで事の成り行きを静観していた瀬崎が、さらっと声をかけてきた。

「とにかく、座りなさいよ」

 そして、彼女は鼻で軽く息を吐いて続けた。

「今に始まったことじゃないでしょ」

 その一言で、僕は斬って落とされた。確かに、こんなノリは毎度のことだったし、この二人に悪意は無いことも、まぁ分かってはいることだったのだ。


 座卓の上を片づけてピザを置き、冷蔵庫からビールを取り出してきて三人に手渡すと、仕切り直して「原田修司の初給料日を祝う会(=たかり)」が開催された。全員空腹だったらしく、とにかくまずピザへ我先にと手を伸ばして食べ始めた。

 とりあえずマルガリータを一切れ頬張った梶さんが、ビールで流し込んで僕にゴツい顔を向けた。

「で、どうなん、仕事の具合は?」

 自分用のトッピングピザを頬張りながら、

「どうって、まだ研修中っすよ」

と、もごもごと僕は応えた。僕の入社した会社の新人研修は、まずは学校の講義形式から始めるものだった。挨拶の仕方から敬語の使い方、一般常識から業界の常識まで、とにかくまず頭に入れるように指導されていた。中小の印刷会社だが、全く畑違いな分野からも幅広く採用しているのだから、基礎の基礎から教え込む必要があるわけだ。もっとも、それは僕自身に当てはまることなので、このやり方は正直ありがたいものだった。

「へぇ、まずはちゃんと講義形式で教えてくれるんだ。現場にすぐ配属させて仕事を覚えさせるのかと思ってたよ」

 僕が一通り説明したのを聞いて、関さんは梶さんのグラスにビールを注ぎながら少し意外そうに言った。

「そんな無茶な。僕なんてまるで知らないことだらけでしたよ、研修で聞いていると」

 そう応えてからポテトを口に放り込んで、

「でも、もう講義形式の研修は終わるみたいですけど」

と、僕は続けた。それは研修が始まるときに言われていたことだった。

「お、何だ、やっぱり現場で覚えさせるんじゃないか」

 チキンを手に取りながら言う関さんに、「そうっすね。現場主義みたいっすから」と応えてビールを飲んで、僕もチキンを手にした。

 配属前の研修は大体三ヶ月ぐらいが相場、と耳にしたこともあったが、それに比べると短い。説明によると、講義形式の研修を一ヶ月間して新入社員の適性を判断して、本人の希望も勘案して、各部局での研修につなげるとのことだった。適性の判断基準は、一週間ごとの復習テストと、今日実施された総合テストだった。実はこの一ヶ月間は結構テスト漬けの日々だった。

 チキンをかじりながらそんなことを伝えて、自分用トッピングピザを手に取った僕に、瀬崎がサラダを口に運ぶ手を止めて、その切れ長な目を向けた。

「で、どうなの、手応えは」

 ピザを頬張りながら思い返してみたが、出来たのやら出来なかったのやら、よく分からなかった。どこに配属されるのか、さっぱり見当がつかない。自分の希望は総務部としておいたが、それは、企画やデザイン等の創造性が自分に有るとは思えなかったし、営業をする自信は欠片もなかったから、消去法的に何となく選んだものだった。

 ピザを食べながら首を捻っている僕の代わりに、ビールを注いで一缶空けた関さんが、

「まぁ、とりあえず営業でしょ、営業」

と、勝手に回答した。そして、目をしばたく僕をポテトで指しながら、

「だって、原田くんと言えば“平均の男”でしょ。テストでどれって決められないって。ならご用聞きに使われるね。君の第一印象での無害さと扱い易さは光るものがあるからね」

と、軽やかに僕を解析してみせた。

「でも、この弱腰と口下手で営業が務まるんでしょうか」

 サラダを食べていた瀬崎が、関さんの指摘に対して細い首を傾げた。そう言われると関さんも首を傾げて、ポテトを口に含みながら「うーん」と少し唸っていたが、

「でも、まぁ、それ以外に判断基準もないしねぇ。仕事を取ってくる技をこいつがどれだけマスター出来るかが勝負じゃないかな」

と、瀬崎に応えて、ビールで喉を潤し始めた。

「そんな器用さがあれば、始めから問題になりませんが」

 ポテトに手を伸ばしながら明快に言ってのけた瀬崎の返しを、マルガリータを食べ続けていた梶さんが

「だな」

と受けて、鷹揚な笑い声が続いた。

 それにしても、毎度の事とはいえ、あまりに身も蓋もない言われようである。僕は、手持ちのビールを飲み干して、恥ずかしさを誤魔化すように、

「梶さんはどうなんですか。非常勤の一つでも取れたんですか?」

と、梶さんに話を振った。

「痛いとこ突くなぁ、自分」

 軽く仰け反った梶さんは、横の関さんにビールを注ぎながら

「関ちゃん、一つ枠をめぐんでぇな。二つも持っとったのに、今度また一つ持つなんてズルいやん。持ちすぎやで、自分」

と、関さんを肘で軽くつついた。それを聞いた瀬崎が少し驚いた風で「また取ったんですか」と口にした。

 確かに、まだ博士課程の大学院生なのに大学の非常勤講師をしているだけでも、あまり見当たらないケースだ。それを三つ掛け持ちとは、少し驚きだった。ただ、非常勤講師は基本的に週一回の講座を受け持つ単年度契約で、交通費込みでも月三万円ほどしか支払われない。従って、それだけでは生活出来ないのが現実だが、将来常勤職への就職活動をするときには、実績として評価はされる。配達運送業と建設現場、それと大学での教員補助のバイトで食いつないでいる梶さんにしてみれば、非常勤を持っているのは羨ましい話のはずだったが、梶さんは全く気にしていないようだ。関さんをイジる口調がそれを如実に表していたし、元々そういった事を気に病むような人ではない。

「凄いっすね」

 素直に言葉にした僕に、関さんはまるで他人事のように、

「能力的なことじゃないよ。非常勤はコネだからね」

と、グラスを傾けながらそっけなく応えた。

 非常勤講師は公募で募集されることがあまりない。だから、大半は人づてに話が回ってくるのが実態だ。そのことを指しているのだろうが、関さんの人脈の広さには驚かされることが多かった。

「優秀さで言うなら、瀬崎ちゃんにはかなわないよ。特別研究員を穫ったんだからね」

 マルガリータの最後の一切れを手に取って、瀬崎に顔を向けながらにこやかに関さんは言った。そう、この四月から瀬崎は日本学術振興会の特別研究員に採用されていた。特別研究員は三年間の任期制で、自分の研究をすることで月二十万近くの給料がもらえるのだ。博士課程在籍者の採用枠だから、実質大学院生で給料を得ることに等しい。当然、容易に採用されるものではなく、特別研究員を穫ったということは瀬崎の優秀さを表していた。

「まぐれです。あれは研究テーマの珍しさが効きますから」

 アイスの蓋を開けながら瀬崎はさらりと言ったが、修士課程在籍中から、その優秀さは指導教員にも認められていたものだった。

「二人とも前途有望だのぉ。凡人同士、助け合っていこうね、原田くん」

 僕の肩を叩きながら梶さんは笑って言って、「お茶」と付け加えた。「はいはい」と応えつつ腰を上げて流しに行き、やかんを火にかけて茶の用意を始めた。

 梶さんは凡人同士と揶揄していたが、僕と梶さんでは毛色がかなり違う。タフさがまるで違うのだ。大学院に入る前に物見遊山で海外へ行って各国を渡り歩いた時分に、現地で食い扶持を稼いで生活し、その上帰国費用まで貯めて帰ってきたという梶さんのようなタフさは、僕には無かった(詳しいことは怖くて聞けない。大体、ビザはどうしたっていうんだろう?)。仮に博士号を取っても就職先が無いという昨今の状況でも、梶さんは誰からも心配されていなかった。指導教官も、「梶くんはどこでも生きていけるな」と太鼓判を押していたし、本人も「ま、どうにでもなるわぃ」と飄々としていた。

 それに対して、僕の将来については指導教官は真剣に心配して、あちこちに相談してくれたらしい。今回の就職はその指導教官の紹介のおかげだった。実際のところ、僕も自分の能力の限界は感じていたし、大学の学費等を全て借用の奨学金で賄っていたので、その返済額を考えると、大学院生を続けるのは得策ではないと思っていた。「君に能力が無いというわけじゃないんだが」と気を使われたが、現実への対応は常に最優先されるものだし、それよりも指導教官の尽力が本当にありがたくて、僕は心から感謝していた。

 沸いた湯を急須に注ぎ、棚から取り出した人数分の湯呑みに濃い目の茶を煎れて、その内一つには氷を一個加えた。瀬崎は猫舌なのだ。

 湯呑みをまとめて運ぶと、三人はアイスを食べ終わるところで、茶を持ってきた僕の姿を見た瀬崎が、座卓の上の残骸を手早くまとめて場所を空けた。空いた場所に湯呑みを並べて、僕は席に着き自分のアイスを手に取った。

「で、自分の配属先はいつ分かるん?」

 湯呑みを取って茶に口をつけながら、梶さんが話を戻した。

「明日には分かりますよ」

 結構溶けてきているアイスを口に運びながら、僕は応えた。

「早っ、今日テストしたところなんだろ?」

 関さんが湯呑み片手に僕を振り返った。確かに早いが、テストは午前中に行われたし、昼から人事部で会議が行われていたはずだった。多分、これまでの復習テストや新入社員の研修態度といった点で、大体の割り振りは固まっていたのではないだろうか。今日の総合テストは最後の裏付けのような役割だったんじゃないかと、僕は思っていた。そんな予想を、アイスを食べながら適当に説明した。

「それじゃ、今日のテストの出来はあまり関係ないわけね」

 茶を飲んでそう言った瀬崎は湯呑みを置いて、荷物を手に取って席を立った。

「それじゃ、あたしはそろそろ帰ります」

「おう、お疲れさぁん」

 梶さんが手を挙げて声を上げた。関さんは僕に「原田くん、お見送り」と指示を出してから、

「瀬崎ちゃん、ビールごちそうさまでした」

と、また爽やかに言ってのけた。

 そうか、ビールは瀬崎にたかったのか。

「いえいえ」と言って玄関に向かう瀬崎の後に、席を立って続いた。玄関で靴を履いて立ち上がった瀬崎は、僕の方へ振り返った。

「ま、頑張って」

 一言言い残して、瀬崎はドアの向こうへと姿を消した。さて、残るは梶さんと関さんの二人。人の懐で一通り食い荒らしたが、今までの経験からすると、これでお開きとなる確率は非常に低い。

っつうか、無い。

ドアの鍵を閉めて、腰に手を置いて一度大きく息を吐き、振り返って部屋に戻った。僕が戻るのを待っていたかのように、梶さんが二、三枚の宅配店のメニューを掲げた。

「自分、次はどれがええ?」

 やっぱりか。


 翌日、会社に着いて、この一ヶ月近く詰めていた小会議室へ向かっていると、「原田さん」と後ろから声を掛けられた。振り返ると、梅本くんが追いかけてきていた。彼が「おはようございます」とさらさらの髪を揺らせて軽く頭を下げたので、僕も軽く頭を下げた。

「昨日はお疲れさまで、って、あれ? 顔色悪くない?」

 ややのぞき込まれながら言われた僕は、「昨日ちょっと飲み過ぎて」とだけ応えた。梅本くんは訳知り顔になって、

「昨日給料日だったしね。俺も、久しぶりに彼女に美味いものをご馳走できましたよ」

と、頷きながら楽しそうに言った。生まれてこの方彼女など出来たこともない僕にとっては、全く羨ましい話だ。こちらは、追加で寿司とビールと日本酒代まで支払い、夜中まで二人に付き合って飲んだせいで、お約束の二日酔い状態だった。梅本くんのやや高めの声が頭に響いて、僕はこめかみを押さえた。

「配属先って、今日分かるんですよね。どこになるのかなぁ」

 並んで歩きながら彼は話し掛けてきたが、階段を上るのも億劫だった僕は曖昧な相づちを打っておいた。

 研修会場の小会議室に入ると、大体の新入社員はもう席に着いているようだった。自分の席に荷物を置いていると、前の席から声を掛けられた。

「おはよう、って、原田くん顔色悪いね。大丈夫?」

 どうやら、よほど顔に出ているらしい。津村くんが怪訝そうな顔をしていた。その横で、今井さんも様子を窺っている。梅本くんに返したときと同じように、「昨日飲み過ぎて」と応えて、席に着いた。座った途端にどっときた僕の様子を見た津村くんは、

「良い酒? 悪い酒?」

と訊いてきた。僕は軽く肩をすくめてみせた。彼はやや太めのしっかりとした眉を少し寄せて、「お疲れさま」と苦笑した。その様子を見ていた今井さんに、「無茶しちゃだめだよぉ」と少し心配そうに言われた。気恥ずかしさで彼女の黒目がちの目を見ることが出来なくて、僕は頷いた。頷いた揺れがまた頭に響いたけれど、今井さんの鈴を転がすような声で、少し救われた気になった。

 この研修期間で、僕を含めたこの四人はよく話をするようになっていた。三人の声が僕の頭の上を飛び交っている間、僕の意識は軽く飛んでいたが、

「原田さんはどう? どこに配属されると思います?」

という梅本くんの声で呼び戻された。とっさに言われて、考えようとしたが頭がまるでついてこなかった。

「何とか昼休みまでしのいで、薬局で何か買えばいいよ。確か通りの向こうにドラッグストアがあったから」

 苦笑しながら言う津村くんのアドバイスだけ、頭に刻み込んでおこうとした。

 定時になって、講師役の先輩社員が小会議室に入ってきたので、新入社員は全員起立し朝礼が始まった。その間ふらつかないよう気を張ったので、終わって着席になったとき、またどっときた。

「それでは、皆さんの配属先をお知らせします。この配属は、これまでの研修結果を踏まえて、人事部において決定したものですが、今後の実務研修の出来次第で配属先が変わることもあります。最終的な通知はそのときになりますから」

 そう前置きしてから、先輩社員は資料を配り始めた。自分の手元に来た資料に目を通して、思わず苦笑した。

 “原田修司……営業部二課”

 はあ、そうっすね。

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