成り代わりの悪魔
聖国ユークリッドの聖神官の証である緋の衣は、神より賜る現人神の証である。
「おめでとう、ルグイン」
そう言って彼女は最初で最後の口づけをくれた。
****
イル―シャの姉、アリーシャ・イ・ル・ベルデュールは、燃え盛る炎のような女だった。
自分の価値を誰よりも理解し、まわりにも価値ある自分を尊重するよう振舞っていた。
言葉にするわけではない。態度に示すわけでもない。
軽く目線を向けるだけで、彼女の気を引きたいと願う俗物たちが動くのだ。
権力を持つ俗物たちが、わずらわしかった。
率先して動いたのが、姉妹の両親だったのは笑えない事実だ。
顔立ちは似ていても、もてる気性の差か、姉妹の差は歴然だった。
いや、両親が歴然とした差をつけていた。
跡継ぎとして定めたアリーシャに対し、イルーシャは使用人扱いだった。
聖国ユークリッドの上位神官に勝るとも劣らない神威の発露は、社交界においてアリーシャの価値を引き上げた。
なによりアリーシャの神威は光魔法だった。聖国において最も尊ばれる神威だ。
そのアリーシャの唯一のキズが、二つ下の妹、神威なしのイル―シャだった。
だがそれも、アリーシャは公然と嘲う。私の力が強いばかりに、妹には悪いことをしたと思っているのよ、と。残り滓と呼ばれても仕方がないけれど、私の妹なのですもの、皆さん、仲良くしてあげて、と。
令嬢然としたタフタをまとうアリーシャと、光沢のないお仕着せを着たイルーシャの姿は貴族令嬢とその付き人だった。歴然とした格差は、イルーシャを蔑んでもよいとのお達しだった。貴族令嬢の集うお茶会では、女性だけで話をしたいという名目で、本物の侍女がすべて下げられ、イルーシャが給仕をすることとなった。
ある日、イルーシャにつけていた魔獣が危機を察して呼んでくれなかったら、イルーシャは一人冷たい湖の中で息を引き取っていただろう。
晩秋の舟遊びは、イルーシャに対する嫌がらせで、令嬢たちは自覚ない殺人を引き起こすところだった。魔獣の目を通じてみた景色は、水の中に沈んでいくイルーシャの視界で、舟ヘリからのぞき込んでくる令嬢の、つまらなそうな顔だった。
そこには、水の中でもがくイルーシャを見ても、一向に慌てることのない、女たちの無関心があった。
顔色一つ変わらないまま、放っておいたら躯になるのがわかりきっているのに、なんの興味も示さない、無自覚の悪意があった。
ぞっとした。
だから、イルーシャの輿入れが決まった時、表立って反対をしなかったのだ。
逃げてほしいと思った。いびつな聖国のいびつな価値観から。
だが、その当時は敵国の、辺境を納める野蛮な男が相手だ。
どこまでも傲慢で、どこまでも神威を誇った女が徹底して良縁などよこすはずがない。
イルーシャを踏みつけ、踏みにじり、優越を感じている事実すら、意識してはいないのだろう。そしてそれを認めることなどありはしない。
そのアリーシャの傲慢さが破滅を呼び込んだ。
なぜ、と問いかける顔を見れたことで少しだけ溜飲が下がったが、なおも追い詰めようと気を引き締める。
聖国ユークリッドの聖神官の名のもとにベルデュール一門に破門を言い渡した。聖神官であるこの私を操ろうと、ユークリッドの実権をつかもうと画策していた事実を明らかにしたのだ。
味方に対しても傲慢な女は、やはり敵も多かった。
長かった。
追いつめて追いつめてようやくだ。
信仰心熱い民に屋敷を焼かれ、ベルデュールの名は聖国から消え失せた。
だが当のアリーシャはさっさと両親を見捨て、厚顔にもナデイルにいるイル―シャのもとに現れたのだ。
リヴァルト・ルーン・フォルテシオには、アリーシャの裏の顔を教え込んでいた。
だからリヴァルトはそうそうに、イル―シャと子供達をシードレイク商業地のギルドに隠した。
あの女が油断ならないことは承知していた。もちろん私もリヴァルトも心を許すはずもない。
離れていれば大丈夫だと、思っていた。
――――思ってしまった。
子供達が母を、イル―シャを呼ぶ。
いつもの幸せな風景だ。
鍛え抜かれた体躯の夫が、優しく妻の名を呼び、子供達の名前を呼び、三人ともに抱きしめて笑い合う、その光景に、幸せの理想を見ていた。この光景を大切に守ると誓った。
幸せの裏側に、アリーシャの焦りを知っていた。だがそれも自業自得と鼻で笑い飛ばした。
傲慢なあの女が、諦めるはずなど無いと知っていた。
私たちは待っていた。
あの女が馬脚を現すその時を。
あの女の化けの皮が剥がれるその時を。
―――それは、あの女にとっても同じことだったのに。
……なぜ、私は、私たちは、大丈夫だと思い込んでしまったのだろう。
私も、リヴァルトも、イル―シャを、子供たちを守れると、当たり前のように思い込んでいた。
***
はじめはほんの少しの違和感だった。妻「イルーシャ」の横顔に浮かんで消えた、かすかな嘲笑。柔らかいはずの微笑みに、かすかに浮かんで消えた優越に、リヴァルト・ルーン・フォルテシオは、小首をかしげた。
熊のような容姿の男がする仕草ではないが、辺境の「心優しき人食い熊」と呼ばれた男は気になどしない。妻に対する少しの違和感。それはリヴァルトにとって、おかしい事なのに、そう思えたのに、その矛盾を追求する意識が「消えた」ことにリヴァルトは気づけなかった。
子供たちの呼ぶ声に、一拍空く。無関心な目線を向けてからはっとしたように、笑顔となり駆けていく姿にも、日々の雑事に根をつめすぎなんだと思考を誘導された。
違和感はあったのに。聖国のあの男にすがらないとと思うのに、一瞬後にはすべき事柄が霧散した。
いや、霧散したという事柄すら、自覚できなくなっていた。忘れてしまうのだ。
忘れた、と思うことすらなくなったころには、アリーシャの術中だったのだろう。
助けてくれ、と心の奥底で泣いている声がする。
助けてくれ、イルーシャを助けてくれ、もうお前にすがるしかない。ルグイン。
そう意識するのに、一瞬後には消えてしまう。霧散して、形すら残らない記憶のかけらを掴みたくてもがく。
イルーシャを愛している。イル―シャを愛している。
呪文のようにつぶやく言葉。
ミルーシャとエルリックを愛している。俺の自慢の子供たちだ、愛しているに決まってる。
愛しいイル―シャと子供たちを守り、育み見守って、この先の未来までずっと。
それは、当たり前すぎて言葉にするのもおかしい事柄だ。
それなのに、どうしてだろう。
絶望が襲う。
愛するイル―シャを抱きしめているのに、リヴァルトは泣いていた。
リヴァルトの足元に、ボロボロになった躯が転がっていた。
……ああ、最悪だ。
最悪の悪魔め。
気がついた時には、愛する女性は全くの別人に入れ替わっていた。
****
身体が思考する通りに動かないことにリヴァルトは、焦っていた。
己の意志とは裏腹に、思ってもいないことを並べ立てる口。統制が利かない身体。
頭の中で渦を巻くのは、悔恨。
いつだ。
いつ術にかかった?
「アリーシャ」が、青い顔で私たちを見ていた。
はくはくと口を開けども、あの耳障りな声は出なかった。当然だ。毒でもって声をつぶしたのだから。無駄な言葉を吐き出す喉などいらない。
私に伸ばされた指先は、叩き落とした。
おぞましい、妹の夫に言い寄る恥知らずな女。
人食い熊と恐れられた俺をあざ笑うかのような眼差しで見下してきた、あの女の姿を絶対に忘れてなどやるものか。
それなのに、祖国から追い出された哀れな女だ、養って当たり前だと言い放つ、傲慢さは変わらない。どこが哀れだというのだ。
だがそれで追い払って悪評を立てられたら、イルーシャの立場が弱くなる。
それも我慢がならないから、俺だけに悪評を向かわせようと考えた。
領主夫人の姉に与えるのは、瀟洒な館だった。小さいが品があり、つつましく暮らすには十分だった。
領主館からは馬車で一日。
顔を合わせ声を交わすことさえなければ、別に遠く離れた土地で暮らしても構わない。
遠くの血縁者より近くの他人のほうが煩わしくない。
そんな認識で決めた、ちょうどいい距離だった。
イルーシャは明言を避けていたが、幼少から姉アリーシャと比べられていたことは知っていた。
足しげく通ってくる聖神官たるルグインが教えてくれた。
だからその日、青い顔で追いすがってきたアリーシャにリヴァルトは激高し、太刀を楽に振り回すその腕で、「アリーシャ」を打ち払った。
嘘だと思った。
自分の手が、女性を殴り倒したことに、一瞬頭が白くなった。
手助けしようとする心とは裏腹に、罵声が口から飛び出したのにも。
こんな言葉を口にするつもりはなかった。
こんな風に暴力をふるうつもりなど、かけらもないのに。
体が言うことを聞かない。
がっちりとからめとられたかの如く、腕も足も言葉でさえ思い通りにならなかった。
「消えろ!目障りな売女め!(ちがうちがう、これはちがう!)」
「あの時厄介払いのように、嫁に出した妹にどの面下げて、すがろうとするんだ。おぞましい性根だな(違う、こんなこと、こんな言葉なんで!)」
「厚顔無恥とはお前のことだ!(たのむ、にげてくれ、にげてくれ!)」
違うと心は叫ぶのに、リヴァルトの体は「アリーシャ」の身体を殴りつけ、ボールの様に蹴り上げる。
リヴァルトのこぶしは女を殴るためのものではないのに、「アリーシャ」の顔の骨が砕けるまで殴りつけた。
鼻の頬の、骨が折れ、血反吐とともに砕け落ちた歯が血だまりに転がる。
腹を蹴り上げれば、背骨もいったのだろう音がした。それでも、体は止まることを知らず、下腹からどす黒い血が広がるまで蹴りつけ、転がし続けた。
怖いと震える腕の中の「イル―シャ」が、可憐な声であざ笑う。
止めようと動いた小さなミルーシャとエルリックが、蒼白な顔で、父を、わたしを見ている。見ている!
だが止めようと、やめようとしているのに、身体が一向に言うことを聞かない。
「おと、おとうさま、」
「うるさい! あっちへいっていろ!」
子供たちの目の前で、こんな残虐なこと、なぜできるのだ。
それを異常ととらえているのに、この暴力を止めることができない。
「やめて、おとうさま、しんじゃうよ、やめてえ」
子供たちのすすり泣きが聞こえる。恐ろしさに震えるイルーシャと同じ色の瞳。エルリックは声を上げまいと引きつるように荒く呼吸を繰り返している。どちらも血の気の引いた蒼白。
それがわかっているのに! どうしてだ、どうして身体が言う通りに動かないんだ!
誰か誰か、誰でもいい!
(たすけてくれ!)
腕を切れ!
(おねがいだ、とめてくれ!)
脚を切れ!
(彼女を―――)
止めてくれ!
(イルーシャを助けてくれ!)
子供たちの怯えたまなざしの意味は分かるのに、この愚行を止められない。
胃の腑がよじれる、胸の奥が嫌悪でうずをまく。腕はこんなにも動くのに、なぜ私の意志からかけ離れた動きをするのだろう。
誰か、頼む。
止めてくれ、
それが無理なら、今すぐ俺の息の根を止めてくれ!
ルグイン! 私を殺してくれ―――!
「リヴァルト、わたくしを守ってくれてありがとう。ふふ、ふふふふ」
イルーシャの顔で、イルーシャの声で、イルーシャの身体で、悪魔が笑った。
「犬にでも食わせしまえ。目障りだ、片付けろ!(ちがう、ちがう、こんなこと、のぞんでいない!)」
「リヴァルト、仮にもわたくしの姉の躯ですもの。わたくしに埋葬させてくださる?」
「優しいな、君は。いいだろう、従者をつけてやる。埋める前に、恨みを晴らせばいい(こんな、これをはなしているのは、ほんとうに、おれなのか?)」
「アリーシャ」の躯は粗末な、棺に納められた。
埋葬前に、対面すらできないようにすでに釘が打ちこまれていた。……見せることができないくらいに躯が壊されていたからだ。
葬送前に「イルーシャ」が楽しそうに躯で遊んでいたのを知っている。
「ただ埋めてしまうなんてそんなもったいないことできないわ。有効に使わなきゃ生まれてきた意味がないでしょう?」
眼球、爪は薬に浸し溶かしていた。
顔の皮は綺麗にはがされ、切り刻まれた皮膚片は、培養すると言ってガラス製のシャーレにいれられた。
「新鮮な皮は手に入れたくとも、すぐに手に入らないから」と歌うように楽し気に。
体内から腑分けされた臓器は、どこからか持ち込んだ、悪夢のような異形の魔物に食わせていた。
蠢く透明な膜の向こうで、脈打つ心臓をうっとりと見つめるイルーシャの姿を、悍ましく感じながらも体は一向に動かない。意に反する言葉で、悪魔をたたえるほどだ。
「研究がうまくいくといいね(いやだ、ふれるな、ふれるな)」
「ええ、そうね。あとはこの薬がどれくらい効くかを検証しないといけないの。手伝ってくださるわよね、リヴァルト」
拒絶ができない、どうしたらいいのだ。これ以上の悪夢を見せないでほしい。イルーシャ、君がいない悪夢をもう、これ以上私は見て居たくないんだ。
心はあらがうのに、身体は言うことを聞かないままだった。
ミルーシャとエルリックを顧みることもなくなった。寂しい子供時代を過ごさせることになるだろう。
だが、悪魔の意識が子供たちに向かうよりはましだった。
何年たったのだろう。
もはや、月日を数えなくなって久しい。友はいつ私を裁きに来てくれるのだろう。
私を止めてくれるのは、もはや、聖国ユークリッドの聖神官たるルグインしかいない。
そのころだ。
子供たちが進学のために、辺境から出てきた。
目の前で女性を殴り殺した父と、それを目の当たりにした子供たち。家族としてかわす会話はすっかりなくなっていた。
「お久しぶりにございます。父上」
花開くように美しさを増していたミルーシャは、過日のイルーシャと瓜二つだった。
「お久しぶりにございます、父上」
すっかり幼さが消えうせ、涼やかな清流のような雰囲気のエルリックが、父から姉を隠すように前へ出た。
家族として培ってきた絆は、この数年でとっくに消え失せていた。当然だ。領地に追いやったのは、誰でもないこの私なのだから。
母の身体で母ではない女が値踏みをするように二人を見ていた。
我が子を慈しむまなざしではなかった。蛇のように温度を感じないまなざしだった。
そのまなざしに、背筋が凍りつくような不穏を感じる。
お願いだ、これ以上私から奪わないでくれ。
動かない身体で、口に出すことのない懺悔を繰り返す。
イルーシャ。助けられなくてすまなかった。
子供たちまで奪うな、お願いだ。
守りたいんだ、だから頼む、逃げてくれ。
友よ、早く私を殺しに来い。




