その絆を断ち切らせるもの
気心の知れた幼馴染であり、側近でもあるルシアーノの目を見据えた。
常ならば鋭利に研ぎ澄まされた鋭いはずの紫が、所在なさげに揺れている。
……きっと私の瞳も同じように揺れているのだろう。
「殿下」
「シア」
今はまだ、事を荒立てるべきではないと、声音で止めれば、ルシアーノが押し黙る。
そのまま、ふたり目線だけで、状況の判断を図った。
……背後にはセルベルノがいる。
では王族警護に当たる部隊が出動したのだろう。
それとなく目線を回すと、百騎兵団の姿が見えた。纏うマントの色で三個中隊が従軍していると分かった。
(セルベルノいわく、処刑場とやらに百騎兵団が三つ)
ルシアーノの目を見据えながら、百騎兵団の方へ顎を向けると、ルシアーノが頷いた。
三個中隊を出すほどの凶事とは一体何だと思いながら、注意深く回りを見渡した。
赤茶けた岩がむき出しになった荒地。ぐるりを見渡しても何もない。申し訳程度の草木が点在するここは、ひどく寒々しい。
季節をいくつ跨いだのか、それすらもわからない。
明らかな時間経過と記憶の欠落に怖気が走る。
……王族発令でなければ城内から動かせないはずの百騎兵団を動かした。
記憶の中を探っても、そんな指示を出した覚えはない。では父がと考えて、頭を振る。
ありえない。
王族を守ることを至上とする部隊を、そうやすやすと出すはずがない。
(では、)
考えれば考えるほど自分以外にありえない。
だが、指示を出した覚えはない。
背を這い上がる怖気を振り払い、平静を装いながらセルベルノを呼んだ。
(落ち着け、まずは現状の確認だ)
目配せすると、小さく頷いたルシアーノがそれとなく傍を離れた。
その背中を見ながら異常を感じているのは、自分とルシアーノだけなのかとそれとなく辺りを見渡す。
すると同じように途方に暮れた顔であたりを見渡している者達がいることに気が付いた。
(エルリックに、シゼリウスか。あそこの青い髪はハーバンクル教授)
昨日までの記憶の通りなら、いまだ学生のはずの二人が暗青色の騎士服を着ている。
彼らもその異常に気付いたのか、己の服を何か得体のしれないモノを見る目で見下ろしていた。
エルリックが、今にも吐きそうな顔で、胸元を抑えている。
二年後輩のシゼリウスは握りしめた剣を見つめている。
そして騎士団から数歩離れた場所で、片手で額を抑えているハーバンクル教授は、誰の目にも分かるほどに青ざめていた。
立ち尽くしている彼ら以外の従軍騎士は、飛び去った赤い鳥の後を追い、慌ただしく立ち動いている。
指揮官の命令を発する声、衛兵たちの応対する声、嘶く騎馬の大地を踏みしめる音。
確かにそこにいるのに、奇妙に切り離されていく感覚。
無言で動かない彼ら三人を見つめていると、彼らも私に気づいたのか、ゆるりと目線を合わせてきた。
三人が三人とも、何かを問いかけてくる眼差しだ。
(……おそらく、彼らも私と同じか)
問いかける眼差しに、答えを捜している。
*****
「報告を」
それとなく情報を集めてきただろうルシアーノの顔色に、悪夢を予感した。
認めたくないと揺れる紫がその衝撃を物語っている。
握りしめた拳は小さく震えていた。
それでも報告を促すと、ルシアーノは二度、三度、口を開いては閉じることを繰り返す。
「……シア。悪い報告だということぐらいもう知っている。話してくれ、そうでなければ進めない」
「殿下……」
何かを恐れるような眼差しだった。こんな弱弱しいルシアーノを見たのはもう子供の頃以来だ。
「……陛下が売国奴にその罪を贖わせるために、国法に背いて禁域を開いたそうです」
「禁域……。やはり、ここは最果ての罪人の穴か」
王国の最果ての地にある処刑場は、古来より何人もの罪人を葬って来た場所だった。
魔獣が巣くう洞穴に、手足を拘束したままの罪人を生きたまま放り込むのだ。
祖父が王冠をいただいていた時代に、その残虐性から封鎖された場所だったが、その禁を解いたというのか。
「父上も思い切ったことをなさる。だがそれほどの罪を犯した者がいたという事か」
頭を振る私にシアが神妙に告げた。
「殿下、禁域に罪人を落とすべきだと強硬に進言したのは殿下と我らです。我らの主張によって、禁域は開かれ、売国奴の女が慣例に基づいて生きたまま突き落とされたと。……そして、今日の行軍はその罪人の成れの果てを見るために、殿下と婚約中の令嬢たっての願いで行われた行軍だというのです」
「な、」
その言葉に息を呑んで目を合わせた。
「まさか、そんな馬鹿な、それにそんな記憶はない……っ」
私は思わず頭を振った。
そして婚約中の令嬢の願いという言葉にも驚いた。
彼女は確かに厳しい人だが、反面とても優しい人だ。
貴族令嬢としての気品にあふれ、他者の規範となるべく振る舞い、地道に次期王妃としての功績を建てつつあった。
努力を惜しまぬその姿勢に、いつしか王城に勤める重鎮達からもその柔軟な思考を尊ばれ、可愛がられるようになった。しかしそれに驕ることなく研鑽を続ける事が出来た稀有な女性だ。
その彼女が、葬り去った罪人の行く末を暴くためだけに、この派手な行軍を望んだと?
ルシアーノの表情と、その瞳に映る自分の表情が一致する。
そのどちらもが、その行動と言動に言葉をなくしていた。
「……百歩譲って、罪人の処刑が確実に行われたかを確認する為だとしても、罪人とは言え死者を冒涜するような真似を、彼女が願ったというのか。そしてあろうことか、この私がそれを許可したというのか。……ありえない、国法に背いて禁域を開かせてまで……何ということだ……」
呻く。
操られていたのか乗っ取られていたのか分からないが、それでも結果を見れば、すべて自分の指示で行われたものだ。
その重大さに慄いてしまう。
「意識を縛られ、操られていたとしか考えられません。私も、殿下も、そしておそらく彼女も」
「いつ、意識を狩られたのだ」
声をひそめて尋ねると、ルシアーノも声をひそめた。
「私の記憶だと確信できるのは、殿下、春までです。そのあとはまるで霧の中のよう」
「春か。私は、夏だ。暑かったことを覚えている……。だがあれから何年がたっているのかさえ分からない」
私は、身に纏うのは来春になるはずの隊服を見下ろした。
騎士科に所属するものならば、皆あこがれた隊服だ。それを身に纏う日を夢見て、修練に励んだ。
これを身に纏い、卒業を祝う祝賀会で彼女をエスコートすることが目標だった、それ。
だが、その憧れの形が崩されていく。
最後の記憶を思い返した。
……そうだ、あれはまだ暑い頃だった。
身体にまとわりつくような熱気と、靴底さえ焼くような、大地の熱を感じた。目を閉じればまざまざと思い返すことさえできる。
あの暑い日が、無性に懐かしく、そして物悲しく感じた。
……自分のものだと確信を持てる最後の記憶は、学園の生徒会室での一コマだった。
生徒総長としての私の最後の仕事となる、卒業式とその後の祝賀会について、婚約者である彼女ととりとめもなく話し込んでいた。
『身体が資本の騎士科所属だけではなく、頭脳が資本の商業学科や経済学科、魔術学科の者でも踊れる、もっとやさしい曲にいたしましょう。剣を振り回す方が性に合っていると嘆きながらも懸命にステップを覚えようと必死ですし、他にも貴族ではないけれど、優秀な民の顔も立ててくださいませ』
『そうか? だが私の卒業を祝う会で、ちゃちなソシアルダンスだけでは味気ないだろう?』
『……殿下、貴賤を問うわけではありませんが、生家の財力の差は、そのまま学習の質の差となります。卒業を祝う会なのですから、誰もが踊れて誰もが楽しめるものとしなければなりませんわ』
『……一理ある。よし、今年度は私の予算から出すが、来年度からは国の予算からダンス講師を雇う分を捻出するよう進言しておこう。国の重要な地位に就くかもしれない生徒が、ダンスの一つも踊れないでは、国の恥だからな』
社交ダンスの選曲に始まり、万人に好まれる茶葉について、主に自分の好みを押して確約を取り、披露目にふさわしい催しは何がいいかを話し合っていた。
『……それにしても最近、皆の集まりが悪いですわね、殿下。暑いからでしょうか』
『ああ、そうだな、ルシアーノの奴が私より遅刻するなど……ああ、この案件、許可でいいだろう?』
生徒会を担う彼らの集まりが悪いのも、気にはならなかった。その分、彼女を独り占めできる。
大人の余裕を見せているが、ハーバンクル教授は侮れないし、ルシアーノの氷のような眼差しが彼女の前でだけ緩むのを見るのは忍びない。
子犬のようなシゼリウスもうるさいが、エルリックが顔を出せば、彼女の意識は弟の世話焼き一色になってしまうから。
『これはいかがいたしましょう、殿下?』
まるで良質の音楽のような、柔らかな声に耳を傾ける。
あの時、彼女は何と言っていたのだろうか。
『殿下、殿下、わたくしは++++++++』
思い返そうとするたびに、記憶にざざ、と異音が入る。
『お願いにございます、どうか、話を』
ああ、煩わしい。彼女の声が聞こえない。
『殿下! アルベルト様!』
ああ、そうだ。確か彼女はこう言った。
『殿下。わたくしのわがままも聞いてくださいますか? わたくし、殿下の剣舞を所望いたします』
その言葉に私は何と返したのだろうか。
『最後ですもの、ぜひこの目に焼き付けたいと思うのです』
柔らかい声だった。きっと、優しい眼差しで私を見ていただろうに、どうしてだろう、彼女の顔が思い出せない。
あの時、私は何と答えたのだろう?
『この……+++……………いい』
きん、と目頭の奥が熱くなった。なのに背中がやけに冷たい。
振り上げた剣の輝きを横目で追いかけた。
剣舞のために振りあげたはずなのに、振り上げた剣は―――――真剣だった。
*
「殿下、御前よろしいでしょうか」
すでに見送ったはずの夏に捕らわれた私を、現実に呼び戻す声がした。
過去を振り切り、顔を上げる。
声をかけてきたのは彼女の弟のエルリックだ。
代々司法局長を司る家系にようやく生まれた男子で、それゆえ彼女の溺愛ぶりが目についた。
彼女によく似た金の髪と青の瞳を持つ溌剌とした明るい男が、打って変わって萎れている。まるで凍えたような青い顔を晒していた。
「アルベルト殿下。信じていただけないかもしれませんが……」
「エルリック、私も同じだ」
「殿下、では……」
「あの様子ではシゼリウスとハーバンクル教授もそのようだ……。エルリック、これは自分だと信用できる最後の記憶は何時だ」
「……初夏……いえ、春です。殿下がご卒業なさるので、各学科はずいぶん早くから卒業祝賀会の委員を選んでいました。殿下とルシアーノが指揮を執るとうかがったので進行委員に立候補して……シゼリウスと一緒にハーバンクル教授の教室へ行って……そう、ハーバンクル教授の教室に姉さんがいて……それから皆と共に……そう、皆と……」
呆然とした顔で記憶を探るエルリックの姿に、自分を重ね合わせた。
「……ああ。仕事が多くてかなわんと、よく彼女がこぼしてたな。使える人間はこちらから見つけて呼び込むまでと、意気込んで」
「ふ、ふふ。脳みそ筋肉でも鍛えれば使えますのよ! シゼリウスあなた、その頭さび付かせたまま卒業できるなどと思わないことね!……でしたか、くく。あのシゼリウスが泣きそうになりながら書類とにらめっこしてましたっけ」
私の言葉にルシアーノが伏せていた顔を上げて笑った。
ふと微笑んだルシアーノが懐かしそうに目を細める。懐かしそうな、悲し気な顔だった。
「彼女の頼みでは断れないだろう? 現に皆なんだかんだ言ったところで、手を貸してくれたのだから」
二人の美丈夫の言葉に記憶を刺激されたのか、エルリックが瞳を揺らし続けた。
「……ええ、そうでした。皆、姉さんに誘われて雑用に駆り出されて……生徒会の仕事が終わったら祝賀会の雑用もだと、書類を山盛りにされて」
「彼女はにっこり笑いながら、結構強引なんだ」
「お言葉ですが、殿下も彼女のお願いには弱いでしょう」
「違いない」
くすり、とルシアーノと笑い合う。
そうだ、彼女に勝てるものなどいるだろうか。
彼女のことを思うだけで、胸に温かいものが渦を巻くのだ。
だが、幸せな記憶の渦に浸っていた私たちと違い、虚空を見つめていたエルリックの瞳が頼りなく揺れたのを私は見逃さなかった。
「エルリック、どうした?」
「……ちが、う。姉さんではなかった。あの日、学生寮にシゼリウスと一緒にきた女は、あれは姉さんではない……」
「エルリック?」
「シゼリウスは姉さんに誘われたから生徒会に来たんだと言ってました。でもすぐに仕事がいやだと言って、シゼリウスを連れて遊びに行こうと腕を引かれて……ですが、あれは、あの女は、姉さんではなかった」
「エルリック、落ち着け」
「殿下! シゼリウスと一緒にいた女は、あれは、あれは……、姉さんじゃありません!」
顔面を蒼白にして慌てたように叫び出したエルリックを抑えようと手を出した時、後方でもまた、似たような騒ぎが起きた。
叫んでいる。
誰かが叫びながら、地に伏せた同僚に馬乗りになりながら、殴りつけていた。
何事かと目を凝らせば、それは。
「な、シゼリウス!?」
「シゼリウス、何をしている、よせっ!」
ルシアーノと止めに入る前に、暴れるシゼリウスは騎士達によって拘束された。
「騎士団長の息子と言えども、先輩には敬意を払え! 軍規を自ら乱してどうする気だ!」
「は、なせ、はなせえっ! こいつ、こいつがっ!」
「―――――今更何を言ってやがる!」
「嘘だっ! 嘘だっ! だって俺は覚えてないっ!」
慌てて向かうと、シゼリウスは拘束されながらも身を捩りながら叫んでいた。
まるで手負いの獣のようだ。
相手の男も折れた歯を吐き出しながら、シゼリウスを睨みつけている。
何事があったのかと尋ねる前に、殴られた男が叫んだ。
「けっ、あの姦婦を死ぬより酷い目に合わせたいと、夜通し歩かせて獣の穴に蹴り入れた本人が何を言ってやがんだ!」
「違うっ! 違うっ! 俺じゃない!」
「大罪人を裁いただけじゃねえか、今更何を泣く? あん時みたいに胸を張れよ、俺達は国に報いるために罪人を連行して、処刑場までたどり着いたんだぞ。まあ、今回はなんだか邪魔が入ったわけだけど、中を照らして、罪人が着ていた服の欠片でも見つかれば、任務完了で聖女アンジェ様も、お喜びに……」
「ちがう、うそだ、うそだ、いやだ、」
子供のように首を振りながら、シゼリウスは泣いていた。
その姿にどうしたものかと、ルシアーノと顔を合わせる。
とりあえず、落ち着かせようとシゼリウスの肩に手をやったとき。
「いやだ、やだ、ミルーシャ様……」
むずがる子供のようなシゼリウスの呟きに、身体が凍り付いたように動かなくなった。