下等生物は術式解除を唱えた。またつまらんモノを斬ってしまったな!
―――――ぽっかりと地面に開いた大きな暗闇があった。
ここは、とある国の最北端の辺鄙な場所だ。
地面に開いた口はせいぜい大人二人が手を伸ばせば届く距離だが、その深淵たるやおよそ計れる深さではなかった。
その暗闇の周りに、常ならいない、たくさんの人間たちが蠢いていた。
彼らが集う目の前で、今まさに、奈落の底から歓喜の声を上げて飛び立ったのは、赤い鳥。
主要列国から第一級危険魔獣として指定警戒されているその赤い鳥の呼び名は、各国ごとに違う。
この国ではこの魔鳥を『レッドファイアバード』と呼び、また別の国では『火陵鳥』と呼ぶ。
だがその恐ろしさたるや、ひとたび現れれば大国であろうと跡形もなく焼き滅ぼすと恐れられた魔鳥だ。
その鳥がいきなり目の前に現れた事で、竪穴の前は騒がしくなっていた。
飛び去った鳥が向かった先を追い駆けるもの、国への伝令を叫ぶもの、竪穴の中を検分するもの様々だ。
この竪穴は、罪人の処刑場として有名だった。
罪人を放り込めば這い上がることすらできない深い穴。
犯罪者といえどもその遺体を、朽ち果てるまで放置する残虐さに、民衆達が目を逸らす刑場だ。
特に近年、死して罪を償うのではなく、生きて罪を償わせる方向に向かいつつあった処罰法の前に、過去の人間の過ちとして捉えられつつあった刑場の穴は寄る人もなく、そこは厳重に封鎖されていた。
だが近年その禁を破った者がいた。
誰あろう、この国を背負って立つ第一王子だ。
殿下が暴いた、国を揺るがす姦計に、民衆達は憤り、その計画を企てたといわれる姦婦を憎んだ。
青ざめる女に向けて、石を投げ、罵声を浴びせ、民衆は歓喜でもって極刑を望んだ。
興奮の中に身を投じた民衆には、姦婦の怨嗟の声すら聞こえなかったのだろう。
結果、民衆の熱気に急き立てられるように追い込まれた姦婦は、己の罪を己自身で償うため、封鎖されていた処刑場の穴に落とされたのだ。
厳重に封鎖されていた縦穴を暴いたのは、第一王子だった。
姦計に踊らされず、国民を思い奮い立った殿下の偉業は華々しく伝えられ、歓喜を持って称えられた。
毒婦の毒に惑わされない清廉な心、悪を暴いた慧眼、悪を許さず、打ち据えようとする高い矜持。
第一王子とその側近たちの英断と活躍で、国は守られた。
民衆は英雄の台頭に沸きに沸いた。
そう、絵に描いたような、英雄譚だったのだ。
「ここは、王族以外立ち入りは許されていない、禁域だぞ! 貴様、この場所で何をしていた!」
「……おかしなことを。禁を破ったのはそちらが先だろう」
「な、なにをっ! 口を慎め、王族に盾突く気か!」
「……王族、王族か。何を犠牲にしたかも分かっていない愚か者が、大層な肩書だな」
「なっ! 貴様ぁっ!」
飛び去ってしまった赤い鳥の姿を捜していた男は、周りに押し寄せた護衛騎士に取り押さえられていた。
だが捕らえられた男の視線は、空に固定されたままだ。
淡々と、不敬罪にもあたることを口にしている。
男がかつて勇名を誇ったハンターだった事を、若い護衛騎士は知らないのだろう。
古代遺跡に挑み、人跡未踏の地に潜り、魔獣を相手に戦いを挑み、古代魔法を解読する。男が生きた軌跡は奇跡のようなものだった。
彼の名前はそれだけで、荒くれ者を震わせた。
だが広く聞こえるようになった勇名とは別に、彼の趣味はむしろ机上にあった。
男の取るに足りない研究を、楽しそうに目を細めて聞いてくれた人など、後にも先にも一人だけ。
だけど、たった一人の理解者が目を細めて話を聞いてくれるから、もっともっとと研究にのめりこんだ。彼女が驚くような結果をもたらすために、暴いた遺跡の数はもはや、計り知れないものとなった。
古代遺跡に挑むのも、人跡未踏の地に立つのも、もはや伝説と呼べる魔獣に挑むのも、古代魔法を紐解くのも、すべてが、彼女を楽しませるためだった。
理知的な瞳が己を映し、形良い唇がゆるりと弧を描くのを、ただ見たいがためだけに、彼は生きた伝説となったのだ。
だから外法とも取れる魔術に出会った時も、古代魔術の解析のために解読しただけで、まさかその術に手を出すつもりなど無かったのだ。
―――――狭い壺に無数の蟲を放り込み、閉じ込め戦わせる。戦いの中で蟲達は淘汰され、より強い個体のみが生き残る外法。
蟲毒の術式。
紐解いたときは、怖気に背を震わせ、この世に出してはならない術だと即断し、闇に葬った。たった一つ、自分の頭の片隅に、記憶として残ることだけは仕方がないことと飲み込んだ。
だが、あの日、男は血涙の中、誓ったのだ。
処刑に間に合わなかった己を恥じた。楽観していた己を、切り刻んでやりたかった。だから、彼女と同じ場所で息絶えようと最後の場所を特定するためさまよった。
彼女の歩んだ道のりを歩む。男にとっては死出の旅だ。
国の中央から果ての果てまで、裸足で歩いた。
歩くたび、彼女の受けた罰のことごとくが明かされていった。……なぜなら偽善に酔いしれた民衆達が、よってたかって教えてくれたからだ。自分たちがどのように姦婦を追い詰めたのか。姦婦を追い込み、追い詰め、逃げ場を奪い、どのように王子の前に引きずり出したのか、彼らはまるで武勇伝を語るように誇らしげに胸を張って、饒舌に彼のたった一人を追い詰めていった経緯を教えてくれた。
歌うように紡がれるのは、彼女が受けた暴言と、とめどない侮辱、浴びせられた暴力と、蔑みだった。
美しい金の髪は引きちぎられたそうだ。
美しい空の瞳は抉られたそうだ。
妙なる調べを生みだす喉は潰されて、老婆のうめきとなりはて、魅惑的で軽快なダンスを得意とした脚は腱を切られたそうだ。
男を惑わす要素すべてを奪わないと安心できないと断じたとある女の甘言に乗せられた王子が、女の言葉をすべて叶えたという。
目をつぶされても、喉をつぶされても、脚を奪われても美しかった彼女を羨んだ女のせいで、顔までも焼かれたそうだ。
……死ねない、と思った。
彼女の受けた屈辱を、彼女が受け続けねばならなかった暴力を思えば、これを与えたやつらに同じだけ返すまでは死ねないと。
だから誓った。
持てる全てを使い切り、邪にも魔にも堕ちようと。
この世の祝福の全てを放棄した奴らに、絶望を味合わせるために。
悪鬼羅刹になってやろう。
貴様らが葬り去ったあの人が、どれほどの慈愛に満ちていたのか思い知らせてやるために。見せかけだけの聖女など、単なる淫婦に過ぎないと、思い知らせてやるために。
男は、蟲毒の術式を解放した。
憎悪にまみれた意識の中で、より深い絶望を味合わせるため蟲ではなく、自ら調伏した魔獣を使った。そこに一片のためらいもなかった。
この場を選んだことも決して偶然ではない。
忌まわしい地であることは百も承知している。怨嗟と嘆きに満ちた地だ。
だが、こここそがふさわしい。
あの人が、捧げられた場所だ。
なればこそ、復活の儀式に使うにはふさわしい場所だろう。
力ある魔獣を一つ残らず使い潰してでも、蘇らせたかった。
「いまだに踊らされていることに気づきもしない、愚か者を英雄視しているとはね。生き腐れ、腐敗していく事にすら気づかない。毒婦に蝕まれていることに気づきもしないのだから」
干からびたミイラのように生気を失った男は、押さえつけてくる騎士達を睨みつけ嘲笑った。
ぎらついた藍色の瞳は、鈍く光り、憤りをあらわにしている。
痩せてしまった今では見る影もないが、もともとは端正な顔立ちと柔らかな物腰で女性たちの目をひいていた男だった。
「彼女の慈悲と懇願だけが、私を人として踏みとどませていた。だが、その懇願ももう、聞こえない。この国に永年の苦しみを怨嗟をまき散らす悪鬼になろう、貴様たちが呼び込んだ魔物の姿、思い知れ」
絞り出すような、うめくような悲しい声だった。
護衛騎士たちは虚を突かれたように、一切の動きを止めて男を見つめていた。
「狂人のたわごとだ。耳を貸すな」
騎士を束ねる地位にいる壮年の男が、そう吐き捨てるが、拘束された男の視線と合わさった。
虚のような、よどんだ眼差しに、ぎくりと身をすくませる。拘束されて転がされている男に、言いしれない恐怖を抱いた。
「……そうだ。凶人のたわごとと見逃してくれればよかったのだ。そうすればいつか彼女は甦ったはずなのだ。魔獣を落とすことを重ねればいつか、身体を得られただろうに。また私に、私だけじゃない、子供達みんなに、微笑んでくれるはずだったのに……貴様たちが奪った」
異常なまでの男の執着に騎士達は背筋が凍る思いを抱いた。
「……何を、言ってるんだ、こいつは」
「魔獣を共食いさせてた凶人だ。あまり真剣に話を聞くなよ、狂気に引きずられるぞ。縄で縛った後、拘束の魔術をかけておけ」
怖気に身を震わせながら、護衛騎士達は声を掛け合った。
そうでもしないと、引きずられてしまいそうだった。
気を取り直そうと、護衛騎士を束ねる一人が顔を上げた。
「飛び立ったレッドファイアバードを追え。周辺諸国へ警戒を周知させよ。場合によっては人員を派遣する必要もあるだろう、殿下、ほかに留意すべきことはありませんか。……殿下?」
指示を仰ぐために彼の主を見つめた。
第一王子殿下。
皆の規範となるべく行動する、高潔で尊敬すべき殿下だった。
最近は次期妃と言われる可愛らしい侯爵令嬢との逢瀬を優先させ、公務を後回しにする事が増えたが、それでもこの国一番の高貴な青年だ。
しかも今回の魔獣の穴探索の任務は、第一王子自らの命令が発端だった。
罪人の処刑場などに興味を持たれても、と思わないこともなかったが、王子と未来の王子妃のたっての願いだったので警備のため同行した結果が、禁域を暴き魔獣を放り込んでいた男の捕縛だった。
その彼が、青ざめた顔で唇を震わせている。
「……殿下、いかがなさいました?」
殿下と呼ばれた青年が、男の誰何に、たったいま気が付いたように顔を上げた。金髪碧眼の甘い顔立ちの青年だ。
だがその眼差しは、まるで迷子のように見えた。
「いかがなさいました、殿下」
殿下と呼ばれた美丈夫はその端正な顔をくしゃりと歪めると、低く呟いた。
「セルベルノ。ここはどこだ」
「は?」
「セルベルノ。私は、私は……」
「殿下?」
「なぜこんなにも寒いのだ。昨日まであんなに暑くて仕方がなかったのに。それに私はたった今まで学園の寮にいたはずだ」
「で、殿下? ここは、例の処刑場です。殿下の命令で視察に来たのですよ、アンジェ様と御一緒に」
うめいていた王族の近衛騎士が顔を上げた。金髪碧眼の王子とは対照的に、銀髪紫瞳の青年だった。
彼もまた、夢から覚めた様な顔で、目を瞬かせている。
常ならば絶対的な強者の傲慢さが窺える若き殿下と、その彼を補佐する青年の変化に、護衛騎士の男は戸惑った。
「アルベルト殿下? ルシアーノ様まで、いかがなさったのです」
「殿下……」
「シア。お前も私がおかしいと思うのか」
シアと呼んだ近衛騎士と目を合わせる。
その頼りないまなざしを見て、アルベルトはルシアーノが同じ状態だと悟った。
「……シア。この異常がわかるか」
「私は昨日まで学園の寮にて殿下の傍におりました。翌日の遠出など予定にはありません。なぜ、ここにいるのか、どのような命令があってここにいるのか、まったく記憶にないのです」
季節は夏。こんなに寒くはなかったはず。
そう呟いた男は、背中を走り抜けた悪寒を、何か取り返しのつかないもののように感じていた。
だが、まるで迷子のような頼りなさで、辺りを見渡しているのは、なにもその彼らだけではなかったのだ。
殿下と呼ばれた青年に付き従っている側近ルシアーノと同じ隊服に身を包んだ彼らは、みな自己を保つのに精一杯のようだった。
まるで、頭の中に無理やり誰かが入り込んだかのような違和感だった。
いつもと変わらぬ日々を繰り返しているつもりで、取り返しのつかない過ちを、そうと知らずに起こしている。
そんな気がしてならなかった。