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姉弟ー舞と悠太ー

作者: 松本純生
掲載日:2025/12/06

短編です。

■凍てついた屋上で

朝焼けのような淡い希望も、夕焼けのような温かい安堵もない。舞の日常は、すべてがくすんだ鉛色に塗りつぶされていた。


母は、家に帰らない。正確には、家にいても家族を見ていない。彼女の視線は、スマートフォンの中の秘密の相手に注がれ、舞や弟の悠太に向けられるのは、苛立ちと空虚な溜息だけだった。父は、その母の不貞から逃げるように、仕事だという名目でずっと家に帰らない。残されたのは、会話もなく、愛情の温度もない、冷え切った空間だけだ。


舞は、そんな崩壊した家庭の事情を隠し、外では完璧な優等生を演じていた。しかし、その仮面もとうとう剥がれ落ちる時が来た。ある日、学校で、親友だと思っていたグループの中心人物が、舞の家庭の噂話を嘲笑っているのを耳にしてしまったのだ。


「あのさ、舞、聞いてる?」「え、ごめん、ちょっと用事思い出したから」


それ以来、露骨な無視が始まった。今までは舞の優秀さの恩恵にあずかっていた取り巻きたちは、手のひらを返したように彼女から離れていく。教室での彼女の机は、まるで不可視の壁に囲まれているかのようだった。そして極めつけは、昨日。何気なくスマートフォンを開いたとき、いつの間にかクラスのLINEグループから自分が静かに「退会」させられていることに気が付いた。


プツン、と何かが切れた音がした。家庭での絶望。学校での孤立。彼女の存在を認める場所は、世界のどこにも残されていないように思えた。


十一月の、夜の帳が降りた後のマンションの屋上。冷たい風が骨まで凍らせる。舞は、立ち入り禁止の看板を無視して、フェンスを乗り越えた。ざらついたコンクリートの縁に、スニーカーのつま先をかける。眼下に広がる街の灯りは、一つ一つが幸せそうに見えて、余計に舞の孤独を際立たせた。


「もう、疲れた」


声に出すと、その言葉が夜の闇に吸い込まれていった。優等生として生きてきたすべての努力が、母の裏切りによって無意味なものになった。誰にも必要とされない自分。このまま、跡形もなく消えてしまいたい。


舞はゆっくりと目を閉じた。風が強く吹きつけ、一歩踏み出すことを促す。


その一瞬。


背後から、風を切って走る激しい足音と、切羽詰まった、震える叫びが聞こえた。


「あ、ああ!ね、ねぇ姉ちゃん!」


舞の心臓が、麻痺していたかのように大きく跳ねた。ハッと目を開け、反射的に振り返る。


そこにいたのは、中学に入ったばかりの弟、悠太だった。息を荒げ、青ざめた顔は恐怖に歪んでいる。全力で走ってきたのだろう、ブレザーの裾が乱れ、髪は汗で額に張り付いていた。


悠太は、フェンスの向こう側、屋上の冷たい床の上で立ち尽くし、何をどう言葉にすれば姉を止められるのか、まったくわからなくなっていた。


「ねねね姉ちゃん!だめだ!や、やめてくれよ!あのさ、今日さ、俺、お母さんに隠してたSwich見つかってさ、怒られたんだよ!でもさ、姉ちゃんが、姉ちゃんがいないとさ…」


支離滅裂。ゲームなんてどうでもいい。こんな瞬間に言うことではない。しかし、悠太の口からこぼれる言葉は、すべて恐怖と混乱によってめちゃくちゃになっていた。


次の瞬間、彼は言葉を捨てた。そして、ただ全身で舞の存在を乞うた。


「うわあああああああああん! 姉ちゃん、姉ちゃんやめてやめて!やめてえええええ!」


彼は地面に崩れ落ち、声を張り上げて泣き叫んだ。鼻水も、とめどなく溢れる涙も、ぐちゃぐちゃになって頬を伝う。泣き虫の小さな頃に戻ったように、制御不能な嗚咽を繰り返し、ただひたすらに「やめてくれ」と叫び続けた。


その、醜く、情けなく、必死な弟の姿を見て、舞の凍り付いていた心が、激しく脈動した。


「悠太…」


母の裏切りで失った「絆」や「愛」が、まだ、この小さな命の中に、自分だけのために残されていた。自分の絶望は、この子の人生を一生かけて蝕む毒になる。


舞は、ぐっと唇を噛み締め、フェンスを乗り越えて内側に戻った。そして、膝をついて泣きじゃくる弟のもとへ、震える足で駆け寄った。


「ごめんね…!ごめんね、悠太…!」


舞は強く、強く、悠太の小さな体を抱きしめた。


優等生の仮面は剥がれ落ち、家庭の冷たさに耐えてきたすべての感情が、今、涙腺を崩壊させた。弟の肩に顔を埋め、声を殺して泣く。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を隠すように、強く、強く抱きしめ返した。


冷たく闇に包まれた屋上で、小さな光が灯る。

崩壊した家族の中で見つけた僅かな繋がり…舞の中で暖かい何かが広がっていく…

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