8話
「……以上が、重要度の高いものになります」
「なるほど、分かった」
場所はジェラードの執務室。時間は夕食を終えて少し経った後だ。
そこでリリスは、領地の報告書のなかでも優先順位の高い報告書を分別し、その概略をジェラードに説明した。
しかしその作業は決して楽ではない。優先順位の高いと判断した報告書は、重要だけに情報量も多い。それを概略だけにまとめるのは結構骨が折れた。
リリスは何度も報告書を読み直し、要点となるところだけをまとめ、報告していく。
今日は読み終えた報告書の中で分別したものだけをジェラードに渡した。
「さすがだな、リリス。こうもわかりやすく説明できるとは、おそれいった」
「いえ、恐縮です」
(褒められた!頑張った甲斐があったわ)
謙遜するが、リリスの心中は褒められたことで歓喜の渦が巻いていた。
「こちら、左から優先順位の高い順に並べております」
そう言って、区分けした報告書の束を並べていく。
「優先順位については、費用の大きさや人的被害、規模に応じて振り分けています。何かあれば申し付けください」
「ああ、分かった」
「では、失礼します」
そういってリリスは執務室から退室していった。
これで今日の業務は終了。部屋へと戻る道で、リリスはそっと息を吐いた。
(なんとか無事に終えて良かったわ。最初はどうなるかと思ったけど、ジェラード様に満足いただけたようで何よりね)
一仕事終えたあとのリリスの顔には笑みが浮かんでいた。こうして役に立てるのなら、これからも侍女として働き続けたい。
しかし、ふと彼女は思ってしまった。
(もし、ジェラード様がご結婚されたら…この仕事は私じゃなくなってしまうのかしら?)
今は人手が無いし、ジェラードにも特定の相手がいない。だからリリスがその役目を負っている。
しかし、もしジェラードが結婚すれば、その女性がジェラードのパートナーとして手伝うことになるだろう。
まして領地に関することだ。当主夫妻としてそれにあたるようになれば、リリスが出る幕は無い。
(当然よね。今だけ…だもの。私も、いつかは…)
自分はいつまでこの屋敷で働くことができるのか。
そんな漠然とした不安がリリスの胸中に湧き上がる。
行き倒れていたところを助けてくれたジェラードにしろ、屋敷のみんなにしろ、いますぐリリスに出ていけということは無いだろう。
でも、いつまでも…ということもないはず。
それまでには、自分自身で働けるだけの力量を身に着けたほうがいいだろう。
いつか来るかもしれない、悲しい別れのために。
(ダメよ、リリス。そんなことばかり考えてないで、明日の仕事に集中しなくちゃ!)
どんどん落ち込む思考を、頭を振って振り払う。しかし、今度は別の思考が舞い降りてきた。
(もし…私とジェラード様が結婚できたら、このままでいられるのかな…ダメダメ、そんなことを考えちゃ!ジェラード様は命の恩人なのよ。そんな方と、なんて…)
ありえない妄想を抱き、それも振り払う。
どうにも今夜は情緒不安定だ。
役に立てたと嬉しいはずの夜が、真逆の感情を呼び起こしてしまう。
「早く寝たほうがいいわね…」
リリスは足早に自分の部屋へと向かった。
「思った以上でしたね」
場所は戻ってジェラードの執務室。
リリスから概略を伝えられた報告書を見直していると、ルーファスから声を掛けられた。
「そうだな。あそこまでできるとは思わなかった」
概略として報告された内容を思い出しながら、報告書を読んでいく。
概略は要点をよくまとめていた。
伝えるべき点を網羅し、その中で最も大事な点だけをまとめる。言うのは簡単だが、行うは難し。情報の取捨選択ほど難しいものは無い。
それをリリスはやってのけた。文官としてなら喉から手が出るほど欲しい人材である。
「このままいきますと、ジェラード様より領地のことについて詳しくなるかもしれませんね」
(まったく、この執事は…)
隙あらばリリスを推してくる。
それが鬱陶しいときもあるし、それに乗ってしまえと囁く声も聞こえてくる。
確かにリリスは貴重な人材だ。その点では申し分ない。
だが、女性としてどうかといえば、躊躇う点もある。
(リリスは、俺にそんな感情を抱いていないだろう)
リリスの目を見れば分かる。
あれは、憧れを抱いている者の目だ。
将軍という地位にあるジェラードは、ときおり部下からそのような目で見られることもある。
だが、憧れを持つ者は意外と懐に入ってくることを避ける。
以前にもジェラードに憧れを持つ者に、直に魔術稽古をつけてやろうと思ったら、それはもうすごい勢いで断られた。
「私なんかのために、将軍の時間を使わせるのは畏れ多くて無理です!」
あれは地味にショックを受けた。
憧れというものは、距離が埋まらないのだ。
それをジェラードは身をもって知った。
だから、自分に憧れを抱いているであろうリリスは、そんな感情を持ちえないと思っている。
つまり、ジェラードはすでにリリスに振られているのと同じ。
今は使用人たちが騒いでいるが、そのうち2人の関係が変わらないことに気付けば収まるだろう。
(そう、いずれ、俺の気持ちも無くなるはずだ)
ジェラードは目の前の報告書に意識を戻し、リリスへの想いを振り払った。
****
リリスが侍女として働き始めて半年が経過した。
ジェラードは王宮での強制定時帰宅が功を奏し、業務の効率は上昇。
今は何もなくとも定時に上がれるようになっている。
リリスは午前中は通常の侍女としての業務をこなし、午後からは報告書の分別。
それにもずいぶんとなれ、今では一人で持ち場をこなすようにまでなった。
「……以上が、今週の分になります」
「ああ、ご苦労だった」
「では、失礼します」
そう言ってリリスはジェラードの執務室を後にした。
「はぁ……」
リリスは高鳴る鼓動を抑え、ひっそりと息を吐く。
ありえない妄想を抱いて以来、ジェラードと顔を合わせたあとはいつもこうだ。
(こんなんじゃ、ダメなのに)
夕食を共にするとき。
報告書の概略を報告するとき。
そのときは侍女としての意識が表に立ち、冷静に努めることができている。
けれど、ひとたび離れるとジェラードへの想いが溢れ、鼓動が激しくなる。
(だんだん、ジェラード様が格好良く見えてくる…)
もともと顔がいいのは知っているし、切れ目の黒い瞳から発せられる色気がすごいのも知っていた。
でも、それはどこか他人事だと思っていたのに。
自分に向けられるものではないのだからと、気にしないようにしていた。
(報告書を読むジェラード様…伏し目がちで、口元は引き締められて、カッコよかった)
顔まで火照り始めた。
こんな顔は誰にも見られたくなくて、部屋への道を急ぐ。
幸い、誰とも遭遇することなく部屋の中へまでたどり着けた。
「はぁ…」
柔らかなベッドへと仰向けに飛び込む。
行儀が悪いけど、今だけは気にしていられなかった。
すっかりと、リリスの中にはジェラードが住み着いてしまった。
それも、命の恩人というカテゴリを越えて、愛しい人というカテゴリへと。
(ダメなのよ。私はもうただの平民。もし貴族だったとしても、家格差がありすぎて無理なんだから。だから、これは抱いてはいけない気持ちなの)
そう自分に言い聞かせても、気持ちは収まりそうにない。
それどころか、次々にジェラードと共に過ごす妄想が溢れてくる。
一緒に並んで買い物をする。
対面ではなく並んで馬車に座る。
一緒に手をつないで街中を歩く。
ドレスを着て、華やかな舞踏会で手を取り合って踊る。
妄想の中の自分はどれも楽しそうで、心から幸せような笑顔を浮かべている。
そのどれもが叶いそうにない。
浮かんだ妄想が期待をもち、すぐさま否定されて絶望に変わり、悲しみを生む。
「うっ…ぐすっ…」
知らず、頬に流れる何かがある。それは悲しき雫。
両親が生きていた頃は、いつか両親のように愛し合う相手と結婚し、幸せな家庭を築きたいと思っていた。
しかし、両親の死により、生きることすらままならなくなり、そんな願いはとうに消え去っていたはずなのに。
それが、余裕が生まれたことで再び芽を出している。
それも、相手ははるか格上の相手を。
幸せな家庭を望むはずが叶わぬ願いを抱いてしまい、途方に暮れるしかなかった。
(私、は…どうしたら…)
一方、リリスが退室してルーファスも部屋を外し、一人執務室で報告書を読んでいたジェラードは一旦報告書を置いた。
「…やれやれ」
椅子に深く腰掛け、天井を仰ぎ見る。ゆっくり目を閉じると、思い出されるのはさっきまで報告してくれたリリスの顔だ。
(ずいぶんと、凛々しくなったものだ)
報告書の概略を読み上げるため、真剣な表情でこちらを向く。
その顔で見られることが、ジェラードにはとてもうれしかった。
ねだるような甘ったるい声と、眉尻を下げて媚びるような表情。
それがジェラードの周りに寄ってくる令嬢の姿だ。それを何度鬱陶しいと思ったことか。
それに比べてリリスはどうだ。凛々しく、ハキハキと喋る様はジェラードの中の女性像をたやすく破壊した。
それどころか、理想の女性像にリリスがはっきりハマってしまっている。
(それに、見違えるほどに女性らしくなった)
この半年、しっかりと栄養が取れているリリスは、以前の骨と皮だけのような姿から一変。
肉付きが良くなり、女性らしい体型へと成長していた。
以前のジェラードならば、でかい胸と尻などうざったらしいだけだったのに、それがリリスとなると途端に魅力的に映ってしまうから困る。
以前より伸びた銀髪も、毎日の手入れの甲斐もあってますます艶を増している。
ふっくらまるみを帯びてきた顔の輪郭。
血色のいい肌。
そしてそれらを土台に煌めく青の瞳。
彼女を闇夜の月明かりに連れていけば、夜の妖精と見間違えてもおかしくない。
(笑うと、本当にかわいらしい。天使の笑顔のようだ)
ジェラードの前では侍女然としていて凛々しい反面、笑顔を見せることはほとんどない。
しかし、遠目で他の使用人と談笑し、笑顔を浮かべているのを目にすることがある。
そのとき、ジェラードの胸の内ではリリスの相手をしている使用人相手に、嫉妬の火が着火されることがあった。
すぐさま消しても、その笑顔が自分に向けられないことに胸が締め付けられる思いをする。
自分にも、その笑顔を向けてほしい。
だが、それが叶わぬ願いだということもジェラードは知っている。
彼女にとって自分は恩人であり、憧れの人だ。
恋愛の対象にはなりえない。
彼女が自分の前では侍女然とした態度を崩さないのがいい証拠だ。
(…断られれば、立ち直れないかもしれないな)
もし、思いを伝えて断られたら?
彼女はこの屋敷に居づらくなり、出て行ってしまうだろう。
そっちの方がイヤだ。
なら、彼女にはずっとこのまま侍女としていてもらいたい。
幸い、彼女は帰る家が無い。
なにもなければ、ずっとこの屋敷で働き続けてくれるはずだ。
(そう、このままでいい。このままでいいのだ)
そうジェラードは自分に言い続け、報告書に目を落とした。