6話
リリスの借りているアパートへ向かう道中。
ジェラードとリリスは同じ馬車に同乗していた。馬車は昨日乗せられたものと同じだ。さすが侯爵家の馬車は大きく、もちろん内部も広い。ふんだんに綿を詰め込まれた座席はふわふわで、馬車の振動をお尻へ最低限しか伝えない。内装も細かい装飾が施され、この馬車一台が一体いくらなのか、想像もつかない。
昨日はジェラードに抱えられたままだったリリスは、今日はきちんと席に座っている。座席のふわふわ具合に驚きつつも、対面に座る軍服姿のジェラードに緊張しっぱなしだ。
(どうしてジェラード様は軍服姿を…?もしかして、外出着は軍服姿なのかしら)
明後日の方向に勘違いしつつも、尋ねる勇気もなく車内は沈黙に包まれている。どことなくジェラードが近寄りがたい雰囲気を出しているというのもあり、口を開くことが憚られた。その目つきは今朝よりも鋭い。
(やっぱり、私なんかの付き添いに不満なのかしら?いえ、きっとそうよね。私なんかのために…)
ジェラードの雰囲気を自分のせいだと思いつつあるリリスは、つまらない用事にジェラードを突き合わせたことに申し訳なさを感じ始めていた。顔はうつむき、すっかり縮こまっているリリスに、ようやくジェラードは気付いた。
「どうした、何を固まっている?」
「えっ、あの……いえ」
とてもではないが言えない。不満でしたら来なくてもよろしいのでは…とは。
そうこうしているうちに、馬車はリリスの借りているアパートの前に着いていた。
「着いたな」
そう言うと、ジェラードは颯爽と馬車を降りていった。続いてリリスも降りようとしたところで、ジェラードの手袋をした手が差し出された。
一瞬、何の手なのか分からなかったリリスだが、それがエスコートの手だと分かると慌てて自分の手を載せた。
ジェラードに促され、馬車のステップを降りていく。目の前に映るのは、昨日まで自分がいたアパートの入り口がある路地。1日ぶりだというのに。昨日まで数年暮らしていた場所なのに。たった1日、あの屋敷で過ごしただけで目の前の光景が異質なものに見えてしまった。それほどまでに、ジェラードの屋敷で過ごした時は、リリスの価値観を大きく塗り替えていた。
「リリスの部屋はどこだ?」
「あ、こちらです」
ジェラードに聞かれ、リリスは部屋の前へと歩いていく。ほどなくリリスの部屋の前にたどり着く。しかし、そこで部屋の扉が開いていることに気付いた。
(あら?扉が開いている…おかしいわ、昨日は確かに閉めた…かしら?)
どうも鍵を閉めたかどうかの記憶が怪しい。飢餓状態で記憶が混濁しているかもしれない。ただ、扉自体は閉めたはずだ。ということは、中に誰かいるのかもしれない。
「どうした?」
足を止めたリリスに、ジェラードは不思議そうに問う。リリスは迷った。もし、部屋に不届き者…例えば泥棒がいたとしたら?そんな人とジェラードを遭遇させていいのか。貴族であり、将軍でもあるジェラードにそんなことをさせてはいけない。
(そうよ、ジェラード様に万が一傷がつくような事件が起きれば、大問題だわ。ここは私がしっかりしないと)
「大丈夫です。ジェラード様はここでお待ちください」
そう言って待ってもらおうとしたが、ジェラードは聞く耳を持たない。
「かまわん。荷物持ちでもやってやろう」
(いえ、そういうわけではなく!それにジェラード様に荷物持ちなんてさせられないです!)
しかし止める間もなく、ずんずんジェラードは進んでいく。いるかもしれない不届き者と遭遇させたくないのに、屈強なジェラードをリリスでは止められない。仕方なく先回りしたリリスは、扉が開いている自分の部屋に手を掛けた。
「? ドアが開いているではないか」
「はい……もしかしたら、泥棒がいるかも」
「そうか」
そう言うと、ジェラードは遠慮なく部屋へと踏み込んだ。そのあまりの思い切りの良さにリリスは呆気に取られてしまった。
「おい、誰かいるのか」
そう言うとジェラードは手から光球を発生させた。
(すごい…こんなにも簡単に魔術を発動させるなんて)
光球はただ光を放つ玉を作り出す魔術だ。初級クラスの魔術として学ぶものだが、一切使えないリリスには、それだけでも目と羨望で眩しい光景である。
光球の光が薄暗い室内を照らし出す。ほとんどの物が無い部屋。薄い毛布しか掛かってないベッド、ひび割れた机、今にも脚が折れそうな椅子。そして、いるはずのない人物。
「だ、誰だい!?」
怪しい人物が照らし出される。その姿に、リリスは驚きの余り口を押えた。
「お、おかみさん…」
そこにいたのはリリスの雇い主である宿のおかみさんだった。こちらを見て驚いた顔をしている。しかし、それ以上に驚いたのはリリスのほうだった。
「っ!?私のカバン!」
おかみさんの手元にあったのはリリスのカバンだった。しかも荒らされているのか、中の物がそこらへんにぶちまけられている。ほつれて何度も縫い直したワンピース、何度も洗ったせいで薄くなった下着など。
「な、なんだいあんたたちは!」
おかみさんは突然の来訪者に声を荒げる。だが、その来訪者が着ているものが軍服と分かると怯えだす。そして、薄ら笑いを浮かべだした。
「へっ、えへへ、軍人様がこんな部屋に何の用で?」
どうやらおかみさんにはジェラードの姿しか目に入っていないようだ。身なりを整えたリリスには気づいていない。
「…ここはリリスという者の部屋のはずだ。貴様は誰だ?」
ジェラードの問いに、おかみさんは体をビクッと震わせた。しかし、へらへらとした笑みを崩さない。
「い、いやですね。私がこの部屋のものですよ。部屋を勘違いしていやしませんか?」
「っ!」
おかみさんの言葉にリリスは愕然とした。
どうしてここにいるのか。
どうして部屋の中を荒らしているのか。
どうしてこの部屋を自分のものだと言い出すのか。
理解したくないおかみさんの言動に、リリスはジェラードの前に飛び出した。
「おかみさん!ここは…私の部屋です。どうしてここにいるんですか!」
「な、なんだいこのお嬢様は!?なんでこんなところに…」
「私です、リリスです。それよりも、なんでここにいるんですか!」
「り、リリスだって!?」
ようやくおかみさんは目の前のご令嬢として整えられたリリスに気付いた。そして、リリスの背後にいるジェラードを交互に目を走らせ、どんどん顔を青ざめていく。
「な、どうなって…」
「質問に答えてください!どうしてここにいるんですか!どうして私のカバンを漁っているんですか!」
リリスはこれまでおかみさんに散々罵倒され続けてきた。しかしそれは、リリスが未熟だからということで仕方ないと思っていた。給金がギリギリなのにも、自分の能力が足りないせいだからと思ってきた。
でも、自分の荷物を漁られることだけは許せない。それにカバンの中には、どんなに辛くても絶対に手放したくない両親の形見があった。それだけは絶対に盗られるわけにはいかない。今、リリスは怒りに身を任せていた。
「う、うるさぁい!」
「キャッ!」
突然、おかみさんが逆上した。リリスを突き飛ばし、ジェラードの脇を潜り抜けて外に逃げようとした。
「おっと」
ジェラードは突き飛ばされたリリスを受け止める。そのままおかみさんに逃げられて…その瞬間、おかみさんの悲鳴が上がった。
「ひぃっ!な、何だいこれは!」
いつの間にか、おかみさんの足は床に凍り付いていた。もがき、抜け出そうとしても、凍った足と床は離れてくれない。おかみさんの顔が恐怖に染まっていく。
「逃げるな」
そうジェラードが低く呟く。しかしその一言はまるで、憤怒の感情を詰め込んだ魔神のよう。それはおかみさんはともかく、リリスまで背筋を震わせるほどの恐怖を感じさせた。
(じぇ、ジェラード様…お、怒ってらっしゃる?)
ジェラードがどうしてここまで怒っているのか、リリスには分からなかった。少なくとも自分に向かって怒っているわけではなさそうなのは、受け止めてくれた腕から分かる。
「立てるか?」
「は、はい、大丈夫です」
ジェラードを支えに、リリスは自分の足で立ち上がる。それを確認したジェラードは、ゆっくりとおかみさんに向き直る。
「ここで逃げるなら貴様を窃盗容疑で逮捕する」
「た、逮捕って私は何も…」
「リリス。何か盗られたものが無いか調べろ」
「は、はい」
ジェラードに言われた通り、リリスは床にぶちまけられた自分の荷物を確認していく。床に散乱した自分の衣服を拾い集めていくと、どうしてか悲しくなり、涙が溢れそうになった。それでも涙をぬぐい、カバンの中もチェックしていく。そこで、無くなっているものがあることに気付いた。
「ない…無い!両親の形見が…!」
「それは何だ?」
「お父様とお母様の結婚指輪です。赤と青の宝石がついた指輪で…」
「…そうか」
すると、おかみさんの足元だけを覆っていた氷が、だんだんと足元から腰まで覆い始めた。
「ひ、ひぃ!」
「盗んだものを出せ。出さなければ氷漬けにしてやる」
「こ、これだよ!ちくしょう、こんなもの!」
氷漬けにされる恐怖に負け、おかみさんは懐から箱を取り出した。しかし、ただでは返したくないのか、その箱を部屋の外へと投げ捨ててしまった。
「ああ!」
リリスはその箱を追って外へと飛び出した。箱は遠くに投げられたわけではない。すぐに見つかるだろう。ジェラードは箱を追わず、氷が這い上がり続けるおかみさんを見やる。
「出したよ!もう解放しておくれ!」
「バカか、貴様は?」
「ひいっ!」
おかみさんは今自分がしたことを心底後悔した。リリスとかいう子娘に少しでもやり返そうとやったことが、とんでもない化け物の怒りを買ったことに。目の前にいる男は、目つきだけで人を殺せそうなほどに鋭利で、殺気がこもっている。
あまりの恐怖におかみさんは失禁しはじめたが、それもすぐに凍り付いていく。
「貴様だな、リリスを薄給で雇ったのは」
「い、いいいえ、違います!」
「………」
一気に氷がおかみさんの胸元まで這い上がっていく。失禁に続き、今度は涙まで流し始めた。
「そ、そうです!その通りです!私が悪かったです!」
「本当なら貴様をリリスの前で土下座させて謝罪させたいところだが、今の貴様の無様な姿などさらす価値もない」
「ど、土下座でもなんでもします!ですから命だけはどうか!」
「…ジェラード様」
ジェラードがおかみさんを折檻していたところに、リリスが戻ってきた。その手には投げ捨てられた箱がある。
「見つかったのか」
「はい。…おかみさん」
「ひっ!」
リリスに声を掛けられただけでも、おかみさんは震えた。おかみさんにとって、今のリリスはとんでもない化け物を連れてきた疫病神に映っている。彼女の言動にどうこたえるかで、自分の生死が決まってしまう。そう思っていた。
おかみさんを見据えたリリスの目には、散々自分を罵倒し、怖れていたはずのおかみさんの情けない姿が映っている。弱きものに強く、強きものに弱い。
しかし、この状況はあくまでもジェラードがいるからこそ。リリス一人ではこうはならなかった。
(私だけじゃ、取り戻せなかったかもしれない。ジェラード様がいたから取り戻せた。そんな私が、おかみさんに何かを言える資格は…あるのかしら)
もっとリリスがものを知っていれば。
もっとできることがあれば。
こんなことにはならなかったのかもしれない。そう思うと、リリスには何もできなかった。だから、リリスに言えるのはこれだけだった。
「…ありがとうございました、おかみさん」
「…はっ?」
「……ほう」
感謝を述べたリリスに、おかみさんは呆け、ジェラードは珍しいものを見たように口角を上げた。
「今日まで生きることができたのはおかみさんが雇ってくれたおかげです。ただ、私はもう宿はやめます。今後は別の方のお世話になりますので、この部屋も解約します。…これまでありがとうございました」
そう言って、リリスは頭を下げた。そしてそれ以上おかみさんのほうを見ることはなく、ジェラードに向き直る。その表情は、新たな決意をともしていた。
「終わりか?」
「はい」
「ならば帰るぞ」
リリスは散らばった服とカバンをまとめ、手に持つ。
部屋を出る直前、ジェラードはおかみさんを拘束していた氷を解除した。途端におかみさんは崩れ落ちる。その表情は、誰にもうかがい知れない。
2人は黙ったまま馬車へと向かう。先にジェラードが乗り、ついでリリスがジェラードのエスコートで乗り込んでいく。そしてジェラードの合図で馬車は走り出した。
「…ありがとうございます。ジェラード様」
「何がだ?」
「今日、ジェラード様に来ていただいて、本当に助かりました。ジェラード様に来ていただかなかったら…私は一番大事なものを失うところでした」
そう言ってリリスは懐から箱を取り出す。箱を開くと、そこには2つの指輪が収められていた。
「…それが、ご両親の形見の指輪か」
「はい。青は父の、赤は母の形見です」
リリスは指輪を愛おしそうに眺める。ジェラードは2つの指輪を見て、ふとリリスの顔を見やる。
「母君は、青い瞳だったのか?」
「はい。もともとこの指輪も母の持ち物だったようなんですが、母の瞳の色と全く同じだから結婚指輪にしたそうです」
「リリスの瞳は、母君譲りということか」
「はい」
ジェラードは昨日初めてリリスの瞳を見たときを思い出していた。その時はくすんでいた瞳だったが、今は見るものの目を奪うような鮮やかな青い瞳をしている。その瞳の色が、どこかで見たことがあったような気がしたが、思い出せなかった。
「取り戻せてよかったな」
「はい」
やっとリリスの顔に笑顔が戻った。そのことに、ジェラードは安心している自分に驚く。
(…なんだ?今俺は、何を思った?)
2人を乗せた馬車は、ゆっくりと屋敷へと戻っていった。




