5話
「ん……」
目に光を感じ、リリスはゆっくりと目を覚ました。
窓からは優しい光が差し込み、部屋を照らしている。すべすべのシーツと柔らかな布団、ふかふかの枕の感触が気持ちいい。その気持ちよさに抗えず、リリスは一度開けた目をまた閉じていく。が、今の自分の状況を思い出して跳ね起きた。
「っ!そうだ、今度は起きなきゃ!」
日の上り具合だと、まだ朝のはずだ。昨晩寝過ごしてしまっただけに、また寝過ごすのだけは避けないといけない。
ベッドから下りたリリスは、そのまま部屋の扉へと手を掛ける。と、ちょうどそのタイミングでドアがノックされた。
「リリス様、お目覚めですか?」
「えっ、あっ、は、はい起きてます!」
「良かった。ドアを開けてもよろしいですか?」
「は、はい」
リリスはすぐさま後ろに下がった。扉が開き、マリーアが姿を現す。
「おはようございます、リリス様」
「おはようございます、マリーアさん」
「よく眠れましたか?」
「えっと……はい」
よく眠れたどころか寝すぎたくらいだ。恥ずかしい。頬を赤らめ、顔をうつ向かせたリリスにマリーアはにこりと笑った。
「よほど疲れていたんでしょう。睡眠不足は女性の敵ですからね。ほら、昨日よりもずっと血色がよくなっていますよ」
「そう…ですか?」
そう言われても自覚は無い。頬に手を当てても、それらしい感じは分からなかった。しかし、マリーアの様子から良くなったのは確かなようだ。
「もうすぐ朝食ができますよ。支度をして向かいましょうね」
「はい!」
朝食。その言葉につい返事も良くなってしまう。朝食なんていつぶりか。金銭面の余裕がなくなってから、まず減らしたのは朝食だった。次に昼食。ここ最近は夕食すらまともに取れていない。マリーアに案内されるがまま身支度を整え、朝食の場へと案内される。
そこは食堂だった。使用人の食堂にしてはかなり広々としている。きっと、これも先代当主によるものだろうとリリスは解釈する。だが、他の使用人の姿は見当たらない。
(あら…?もう他の使用人の方々はこれからなのかしら?)
マリーアはこれからできると言っていた。なら、これから集まるのだろう。そう思いながら、マリーアに案内されるがまま席に着く。しかしマリーアは席に着かず、リリスの後ろに控えた。それに疑問符を浮かべる。
「あの、マリーアさんは一緒に食べないのですか?」
「えっ?」
すると、マリーアには不思議そうな顔をされてしまった。そんなに意外なことを聞いてしまっただろうか。
(何かおかしいことを聞いたかしら?)
その疑問を解消しようと次の句を紡ごうとしたところで、食堂に別の人物が入ってきた。
「おはよう。今朝は起きられたようだな」
「お、おはようございます。ジェラード様」
そこに現れたのはジェラードだった。すぐさま立ち上がり、挨拶をかえす。今日の彼はラフな姿をしていた。白いワイシャツに紺のパンツと至って普通の恰好だ。昨日の軍服姿とは一転して固さが無い分、シンプルな姿なのに妙な色気を放っている。
普通の女性なら見惚れるところだが、リリスは昨日の夜寝過ごしたという失態が頭を占めてしまっている。彼女はすぐさま頭を下げた。
「すみません、ジェラード様!昨日は寝過ごしてしまって…!」
「かまわん。よほど疲れていたんだろう。気にすることではない」
「はい……」
控えていたルーファスが椅子を引き、ジェラードがそこに座る。そこでようやく、リリスは自分が今いる場所が、使用人の食堂ではなく住人用の食堂ではないかということに気付いた。
不安になって振り返り、マリーアを見ても笑顔しか返ってこない。
「どうした、もう料理が来る。座るがいい」
「あ、はい…」
促されるまま腰を下ろしてしまった。しかしこのままでは落ち着いて朝食を食べられるわけがない。もう自分は使用人として雇われているのだ。屋敷の主人であり、侯爵家当主と食事の場を同じにできない。
「ジェ、ジェラード様。私は使用人なのでこの場には…」
「かまわん」
「それに、ジェラード様は当主様ですし、魔術軍団の将軍ですし…」
「…マリーア、喋ったな?」
ジェラードの目がマリーアへと向けられる。が、マリーアはどこ吹く風といった感じで笑顔を崩さない。古参の使用人は、主人に対しても臆しないのだ。
「ジェラード様がいけないんですよ。ご自分で話さないから私が説明する羽目になったんですから」
「………それは」
「女性を信用できないのは分かりますが、ご自分で連れてきてそれはないですよね?」
「えっ?」
リリスの耳に聞こえてはいけない言葉が聞こえた気がする。
(女性を信用できない…?えっ、なら私はどうしてここに…いえ、そんなことよりも私がいないほうがいいんじゃ?!)
ジェラードは女性不信。だとすれば、女性の自分がここにいることは、ジェラードにとって不愉快なことではないだろうか。しかし、それなのにこの屋敷まで連れてきたのはジェラードで、しかも抱きかかえられている。
それでは話が違ってくる。女性不信なのに、女性を連れてきた。リリスが自分が今いる状況がよく分からず、混乱し始めていた。
(私を連れてきたのはジェラード様で、雇うとおっしゃったのもジェラード様で…でも女性不信で?えっ、私、どうしたら…?)
あたふたし始めるリリスに、ジェラードはため息をついた。そのため息が自分に向けられたものかと、リリスは体を震わせる。
「ジェラード様。そのようなあからさまな態度は厳禁です。ほら、リリス様が怯えてらっしゃるではないですか」
「ああいや、すまん。そんなつもりはないのだが…」
「えっ、あ、いえ…」
「ジェラード様、きちんとご説明してあげたほうがよろしいのでは?そうしなければ、リリス様とて納得してこの屋敷にいることができないでしょう」
そこでルーファスから助け船が出された。ジェラードは頭をかくと、リリスに顔を向ける。その表情は、いたずらが見つかった少年のように照れくさそうなものだった。切れ長の黒目が拗ねたように細められるとかわいらしくもあり、同時にジェラードのような端正な顔立ちの男性がそれをやると、色気が半端ない。
「まず、リリス。お前を雇うこと、この屋敷に住まわせることは決定事項だ。これが覆ることは無いし、する気もない」
「はい……」
「それで女性不信の件についてだが…、まぁ俺は家柄も立場もある。顔もいい。それもあって、言い寄ってくる令嬢は後を絶たない。断っても何度も婚約を申し込んでくるし、城に仮眠したときは寝込みを襲われかけたこともあった。それもあってな…」
「まぁ……」
(確かにそれは…女性不信になってもおかしくないわ)
優れた男性にも悩みがあるということか。そんなにも異性に迫られるというのは、リリスには想像もできない世界だ。特に寝込みを襲われかけたのなら、不信になって当然とも言える。
ジェラードに同情心を抱きつつも、だからこそどうしてリリスを雇うことになったのが気になる。
「舞踏会を開催すれば、呼んでもいないのに群がられてな。アピールのつもりなんだろうが、鼻が曲がりそうになるほど香水をたっぷり纏ってくるし。仕方なく踊ってやればそれだけで婚約者面するものまでいる。うんざりして外に逃げれば、茂みに引きずり込もうとする輩まで現れる。いっそ魔術で吹っ飛ばしてやりたいが、できないしな」
それは当然だろう。魔術軍団の将軍がそんなことに魔術を使うなど大問題だ。いや、この場合は護身用で認められてもいいのでは?
ジェラードの身の上話を聞くほどに彼が憐れになり、リリスのほうに同情心が湧いてくる。しかし、だからこそ同じ女性であるリリスを助けようとしたのかが気になる。
「まぁそこで出会ったのが、リリス、お前だ。正直、最初は老婆に見えた」
「ろう、ば……」
昨日の自分を思い返す。確かにそう表現されてもおかしくないかもしれない。けど、やっぱりちょっと傷ついた。
「ジェラード様、その言い方は…」
「最初だけだ、マリーア。声を聴いて若い娘なのは分かった。だが、その娘…リリスは、硬貨を渡してきて俺をお使いに使おうとした」
ジェラードの言葉に、ルーファスとマリーアの視線がリリスに注がれる。2人の視線を感じ、そして昨日自分がしでかしたことに恥ずかしくなり、顔を手で覆う。
「心底驚いたぞ。俺を使おうというのは、王太子か国王ぐらいなものだ。それが、こんなにもやせ細った女に言われるとは思わなかったからな」
「……あの、もうその辺で」
これ以上言われたら、恥ずかしくて顔から火が出そうだ。だが、思い出してるうちに楽しくなったのか、ジェラードは止まらない。
「だから思いついたんだ。この餓死しかけている女に、極上の料理を食わせてこの世の天国を味あわせてやろうとな。こんなはした金では絶対に食べることができない料理をな」
なるほど、あのときジェラードがなぜ自分を連れ出したのか、その理由がやっとわかった。でも、ここまででは彼が自分を雇うつもりになったきっかけにはなりそうにない。ジェラードはさらに続けた。
「連れて行ってやろうと思って抱き上げたらな、リリスはなんと暴れ出したんだ。俺のほうが驚いたぞ、俺に抱き上げられて拒否する女がいるとは思わなかったからな」
セリフだけ聞けばなんとも傲慢だが、それを言っているのがジェラードだと納得してしまう。しかし、当時のリリスはジェラードのことを知らなかったし、仮に知っていたとしても、畏れ多くて拒否していただろう。
「面白い女だと思ってな。その先もまぁ面白いところが色々あったが、これ以上言ってはリリスがまずいことになりそうだ」
すっかり顔が真っ赤に染まっているリリスを見て、ジェラードは愉快そうに喉を鳴らした。その辺の配慮はしてくれるらしい。できればもっと前の段階で、その配慮を見せてほしかった。
「はい……」
「まぁ、そんなわけでリリスを面白いと思ったし、俺に媚びる様子もない。だから、助けてやろうと思ったわけだ」
自分を雇うと決めた経緯には大いに不満があるけれども、それがきっかけで助かったのだから何も言えない。これ以上口を開くと、何を言われるかわかったものではないので、リリスはそれ以上喋ることをやめた。
「いい時間だ。準備させろ」
「かしこまりました」
ジェラードがそう言うと、朝食が運ばれてくる。
朝食は白パンにベーコンや野菜がたっぷり入ったスープ。それにヨーグルトとジャムが添えてある。シンプルながら、とても美味しそうだった。ジェラードの前にはそれに加えてサラダと茹で卵も添えられていて、パンの数も多い。
白パンはシンプルながら、挽きたての小麦の香りがよく、絶品だった。スープもベーコンと野菜の出汁がたっぷりと出ており、まるで噛めるような濃厚さ。ジャムのかかったヨーグルトで口の中はさっぱりし、瞬く間に朝食は終わった。
食べ終わったタイミングで、ジェラードから声がかけられた。
「リリス、まずは1週間ほど静養していろ」
「えっ?」
「使用人の仕事はハードだ。今のお前ではついていけないだろう」
「そ、そんなことは…」
ない、と言い切れない自分が恨めしい。昨日まで歩くのがやっとだったのだ。きちんと食事をとることができるようになったとはいえ、それですぐに動けるというわけにはいかない。
「それでしたらジェラード様。リリス様の荷物を取りに行ってもよろしいですか?」
「荷物を?」
マリーアは昨日の話を覚えてくれていた。それを切り出してくれたことに感謝しつつ、リリスからもそれについて説明を加える。
「はい。その…本当に何も持ってきておりませんので、身の回りの物を」
「それもそうだったな。どのくらい荷物はある?」
「どのくらい…」
そう聞かれ、リリスは自分の荷物を思い出す。
金になりそうなものはほとんど売り払ってしまった。残っているのは最低限の着替え、そして両親の形見と、それを入れられる旅行鞄だけ。つまり、実質旅行鞄一つ分だけだ。
「旅行鞄一つ分です」
「それだけか?」
「それだけ…です」
「そうか……」
ジェラードの目が気づかわし気なものに変わる。何か気を遣わせてしまったのだろうか。そう思っても、何を言えばいいのか分からず、リリスは黙るしかなかった。
「…わかった。これから行くのか?」
「はい、そうします」
「ならば俺も同行しよう」
「えっ!?」
まさかジェラードが一緒に行くと言うとは思わず、リリスは驚きの声を上げてしまった。それにジェラードの目つきが鋭くなり、肩を縮こまらせてしまう。
「俺が行って問題あるのか?」
「そ、そういうわけでは……ただ、お忙しいのではないかと」
「構わん。今日の俺は休暇中だ。仕事をするなと言われている」
「そ、そうなんですか」
当主で将軍なのに、仕事をするなとはどういうことなんだろう。疑問に思うも、下手に口を出して藪蛇になりたくないので黙っていたら、ルーファスが説明してくれた。
「ジェラード様は大変な仕事人間でございまして。止めないとずっと働きづめで仕事をするからこちらが困ってしまうんです。今回も、王太子殿下直々に休暇を御命令された様子ですので、お気になさらないでください」
「全く…俺が仕事をしているから回っているんだろうに。恩知らずな連中だ」
「ジェラード様が休まないせいで、倒れてる部下がいるんです。自重なさってください」
「やわな連中だ」
どうやらジェラードは大変な働き者なようだ。しかし、将軍がそのように頑張るせいで部下もついていかなくてはならず、やはり限界が来て倒れてしまう。そのせいで支障をきたしているようだった。
(勤めで頑張ってくれる上の方々は頼もしいけれど、頑張りすぎてしまうのも考えものなのね)
そう思いつつ、それでも自分ごときにジェラードの時間を使うのは申し訳なく思えてしまう。それでもなお断ろうと思ったのだが、
「ではこちらは準備をしておく。マリーア、リリスを準備させておけ」
そう言ってジェラードは行ってしまった。しかも、マリーアに声を掛けられてしまっているから、もう行かないとも言えない。結局、ジェラードと一緒に行くことは避けられないようだ。
「ではリリス様、まいりましょうか」
「……はい」
ジェラードに申し訳ない。そう思いつつ、でも一緒に来てくれるということにリリスは安心感も抱いていた。
(ちゃんと、おかみさんに言わないと)
昨日仕事をサボったことへの謝罪と、今日で仕事をやめること。部屋も引き払わないといけない。やることは多く、そのうえおかみさんには何を言われるか分からない。
仕事でいつも怒鳴られることが多いリリスは、おかみさんにすっかり恐怖心を抱くようになってしまった。今も、言わなければならないことを考えると身体が震えてしまう。
でも、なんだかんだ言っても今日まで生きてこられたのもおかみさんが雇ってくれたからこそ。
きちんと礼儀を果たさないといけない。そう意気込んで、リリスは準備に向かった。
一方、ジェラードはラフな服装から一転、軍服に着替えていた。さすがに昨日のように勲章は付けていないが、それでも威圧感はすさまじい。
整った軍服姿を前に、ルーファスのチェックが終わる。
「はい、問題ありません、ジェラード様」
「ああ、ご苦労」
「ジェラード様直々に、確認なさるのですね」
「ああ。リリスをあんな目に合わせたヤツの顔を、拝みにいかんとな」
そう言うジェラードの顔は険しい。
ジェラードは昨日から頭の片隅に考えていたことがあった。それは、なぜリリスがあんな餓死寸前の生活を送っていたのかだ。
リリスは働いていなかったのか。いや、本人の様子からしてそれは無いと思った。となれば、正当な対価が支払われていなかった可能性が高い。それに、リリスがいた場所は決して治安は良くない。となれば、まともな扱いを受けていたとは考えづらい。おそらく、搾取されていたのではないか。ジェラードはそう考えた。
その考えが事実なのかどうか、自らの目で確かめるために同行する。さらに、ジェラードはなんとなく嫌な予感もしていた。
「それに、何かあれば守ってやれるからな」
魔術軍団将軍。その肩書は伊達ではない。事実、彼はこの国で最強の魔術師だ。魔術の扱い、破壊力において右に出る者はいない。もし万が一、リリスに危害を加えようとするならば、容赦しないと決めている。
「ほどほどに、お願いしますよ」
「相手次第だ」
ルーファスの忠告にも、ジェラードは軽く返す。
ルーファスは相手を不憫に思う。まさか、この国最強の存在が出てくるとは思うまいて。余計なことをしでかしていないことを願った。