4話
リリスはマリーアに連れられ、住まいとなる部屋へと案内された。
この屋敷では住み込みの使用人は個室が与えられる。使用人は全員で10人。リリスが加われば11人だ。
庭師が1人、厨房係が2人、屋敷の清掃・維持に6人、そしてまとめ役のルーファス。リリスが加わるのは屋敷の清掃・維持の担当になる。
案内された個室は、使用人の部屋とは思えないほど広かった。最低限の調度品や家具は備え付けられ、そのどれもが男爵令嬢だったころのリリスのものよりも上質。白いベッドはホコリや沁み一つない。一人用の椅子や机は年代を感じさせる造りで、一目で良い物だと分かる。
床や窓は磨かれてホコリ一つ無い。部屋は整えられており、いますぐにでも住むことが可能だった。
「こ、ここが本当に私の部屋で良いんですか?」
「ええ、そうですよ。お気に召しませんでしたか?」
マリーアの言葉に、リリスは首が千切れそうなほど横に振った。
「とんでもないです!こんな豪華な部屋…私にはもったいないくらいで…」
「いいえ。このくらいの部屋、この屋敷で働くのですから当然です。『使用人にも上質な生活を』と、先代当主からの決めごとでございますから」
「先代当主…」
そう言われ、リリスはふと考えた。この屋敷のことについて、ジェラードは当然のように自分で意思決定し、それに使用人も従っている。つまり、それは彼がこの屋敷の主であるということを示している。
そこでやっと、リリスはジェラードが何者なのかに興味を持った。これまで自分のことで精一杯だったせいで、そこまで頭が回らなかった。
「マリーアさん…でよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
「その、聞きたいことがあるのですが」
「はい、何でもお答えしましょう」
「えと…ジェラード様は、何者なんでしょうか?」
リリスの問いに、マリーアは笑顔のまま固まった。
「まったくジェラード様は…何も言わずに女性をお連れするなんて、なんて礼儀知らずな…」
顔は笑顔のまま、しかし背後に黒い冷気のようなものが漂わせながらブツブツ呟いている。何やらいけないことを聞いてしまったようで、リリスはすぐさま謝罪した。
「すみません!私、変なことを聞いたみたいで…」
「いいえ、リリス様は何も悪くありません。悪いのはジェラード様ですよ。」
やれやれといった感じで、マリーアは肩をすくめた。立ち話もなんだとマリーアはリリスに椅子をすすめると、一度咳払いしてからジェラードについて話し始めた。
「ジェラード様は、テルドール侯爵家の現当主でございます。同時に、このグラスネット国の魔術軍団の将軍を務める方ですわ」
「…………えっ?」
マリーアの説明に、リリスの頭は真っ白になった。
(じぇ、ジェラード様は侯爵家のご当主!?しかも、国の魔術軍団の将軍って…つまり、軍で一番偉い方ということ!?あ、だからあんなに勲章が…じゃなくて!)
ジェラードの素性が、自分の想像のはるか上であったことにリリスは驚きを隠せなかった。
テルドール家は侯爵家の中でもかなり高位にあり、その保有する資産は王族に匹敵すると言われるほど裕福だ。代々国の要職に勤めており、先代当主は宰相を務めていたほど。歴史も古く、国内では3番目くらいに古い家系図が残っている。
現在、領地の管理は先代当主が妻とともに行っており、ジェラードは将軍としての役目に専念している状態だ。領地は広大な山々と肥沃な大地となっており、食料の生産量は国内最大とも言われている。
一方、リリスは没落した元貴族。それも男爵家だ。テルドール家と比べれば風で飛んでしまうほどに、存在感は無い。
そんな人が、行き倒れていた自分をわざわざ助け、屋敷まで運び、侍女として雇ってくれる。なんて幸運なんだろうか。しかし、リリスはその事実に体の震えが止まらなくなっていた。
「わ、私、本当にここにいていいんでしょうか…?」
「いいんですよ。ジェラード様が決めたんですから、今更帰るなんて言っても帰しませんからね?あっはっは」
ケラケラとマリーアが笑う。本当に笑顔が似合う女性だと思う。
昨日までの自分の待遇とは、まさに天と地ほどの違いがある。今朝まで飢え死にする覚悟すらあったというのに、この違いは一体何なのだろうか。
「あ、そういえば私の荷物…」
「そうですね、引っ越しなさいませんと。リリス様の以前のお部屋の荷物を、取りに行かないといけませんね」
これからこの部屋で暮らすのなら、家財道具以外にも自分の着替えといった服は必要だ。
しかし、こんな上質な部屋に、今の自分が持っている端切れのような粗末な服を持ち込んでいいのだろうか。とはいえ、それが無ければ着替えすらままならない。やはり、持ってくるしかないだろう。
「今日はもう遅いです。明日にしませんか?」
「…でも、取りに行かないと着替えが…」
「大丈夫です。代わりはまだありますから、ご安心ください」
「えっ、いいんですか?」
「ええ。ですから、今日はこれで一休みなさってください。夕食の準備ができたらお呼びしますから」
そう言って、マリーアはササっと部屋を後にした。今のリリスは着の身着のままの状態。下手に断ったとしても、自分で何かできることはない。さすがに着替えがないのは困るから、今日1日は素直に甘えたほうが相手にも迷惑にならないと判断しておく。
リリスは椅子から立ち上がると、ベッドに腰かけた。フワフワとして、それでいてしっかりとした弾性もある。やっぱりこんなベッドで寝たことなんかない。本当にこんな素敵なベッドで寝ていいのか不安になる。
(これは…本当に現実なのかしら?もしかして、私はもう…)
あまりにも夢心地のような状況。リリスは今を疑い始める。実は本当の自分は行き倒れたままで、今見ているのは、死の間際の幻。ただの妄想、願望を見ているだけ。寝たら、もう目が覚めないんじゃないか。またも不安に駆られる。
(でも、それでもいいのかもしれないわ)
こんな幸せな夢なら、もうそれで悔いはない。夢なら、覚めないままでいてほしい。そう思いながら、リリスはベッドに寝転んだ。柔らかいベッドに包まれていると、あっという間に眠気がやってくる。昨日はろくに眠れていないし、今日はしっかり食べるものを食べることができた。心地よい眠りにはまさに最適な条件が整っている。やってくる眠気に任せて、リリスは目を閉じた。
「……んん」
ふと目が覚めたリリスは、ゆっくりと瞼を開ける。
部屋は暗く、壁に備え付けられた魔術灯が小さく煌めいていた。
この世界には魔術が存在する。
魔術は大別として、戦闘魔術と生活魔術に分けられる。戦闘魔術が攻撃や防御、治療といったものに対し、生活魔術はコンロの火や水、灯りや動力に使われる魔術だ。
魔術を使えるかどうかは、生まれ持ったものによる。国はすべての子どもたちに素養があるかどうかのチェックを義務付けている。もちろんリリスもチェックを受けたが、結論はほぼ素養無しというものだった。魔術が使えればもう少しましな働き口もあったが、無い以上は仕方がない。
「………」
魔術灯が小さく照らす室内で、しばしリリスはボーっとしていた。寝起きの頭は、今自分がどんな状況だったかを思い出せないでいる。
(あれ、ここは…?私の部屋、じゃない?なんだか、久しぶりにすごくぐっすり眠れたような気が)
手を付き、身体を起こす。手に触れるシーツのなめらかな感触が気持ちいい。フワフワの布団をどけ、床に足を下ろす。そのまま、しばしベッドに腰かけたままでリリスはゆっくりと今日のことを思い出していく。そして、思い出すにつれて徐々に顔が青ざめていった。
(そうだ、ここはジェラード様の屋敷で…私、寝ちゃって…今何時?どうしよう、私どうすれば…)
マリーアは夕食の準備ができたら呼ぶと言っていた。でも、部屋の暗さを見るにもう夕食の時間は終わっていてもおかしくない。それどころか、もう深夜かも。だとすれば、もうみんな寝ているかもしれないし、誰かを起こすのも申し訳ない。
このまま寝直して明日、朝を待とう。そう決めたところで、ちょうどお腹の虫が鳴った。
「うぅ……」
もうお腹の中は空っぽだ。消化に良いものを食べただけに、消化は早い。この空腹を抱えたままで眠れるのか。そう思った時、テーブルの上に何か載っているのに気付いた。
「お菓子と……水だわ」
さらに紙も載っている。文字が書かれているところを見るに、手紙のようだ。早速手に取って読んでみる。
(えっと…『よくお眠りのようなので、軽食代わりにお菓子を置いておきます。起きたらお召し上がりください』)
優しい字だった。おそらくマリーアが書いたものなのだろう。
「ありがとうございます、マリーアさん」
その心遣いに感謝しつつ、リリスはお菓子に手を伸ばした。
「…おいしい」
焼きたてではないけれど、やはりここのお菓子は美味しい。サクサクとして、口の中でホロホロと崩れていくクッキーは何個食べても飽きない。それ以外にもドライフルーツが練り込まれたチーズもある。ドライフルーツの甘酸っぱさと、チーズの塩気がちょうどいい。全部食べ切るのは卑しい…そう思っても、次々に手が伸びてしまう。気が付いた時には、皿は空になっていた。
(食べ過ぎちゃった…。うぅ、だっておいしかったし、仕方ないわよ、ね?)
誰にともなく言い訳をすると、また眠気が押し寄せてきた。食べてすぐ寝るなんて、それも恥ずかしいと思いつつ、誰かに見られてるわけでもないと言い訳しながらまた布団に潜り込んだ。
横になると、一気に眠気が襲い掛かってくる。さんざんもう寝たはずなのに、それでも体は睡眠を求めている。リリスはそれに抗う術もなく、あっさりとまた眠りについた。