1話
2025/5/15 加筆しました。
2025/5/22 改稿しました。
(どうして私、こんなところにいるの…?)
リリスは混乱していた。
今の自分の状況に。
ほんの数時間前まで薄暗い路地裏で行き倒れていたのに、今は見るからに豪奢なレストランで座らされている。
目の前のテーブルには真っ白なテーブルクロスが敷かれ、その上には湯気を立てる美味しそうなスープが乗っている。
「食べるといい」
テーブルの対面には、自分をこの場に強制連行してきた男が座っていた。
男の許可が出たので、スプーンを手にしてスープをすくう。
そっと口の中にスープを流し込むと、久しく感じていなかったうま味に目を見開いてしまった。
それに気付いた男からは、押し殺した笑い声が漏れてくる。
恥ずかしくなり、スプーンを置こうとしたけれど、身体はスープを求めていた。
必死にスープを口に運びながら、どうしてこんなことになっているのかを、リリスは思いだしていた。
****
陽が昇り、そろそろ昼時に差し掛かろうとする頃。
一人の少女が借りている賃貸の部屋から外に出た。
その少女は顔も手足もやせこけ、髪はしなびた茎のよう。
元は美しいシルバーブロンドの髪も、艶を失った今では老婆の白髪だ。瞳の色はサファイアのように美しかったのに、不摂生が続いてくすんでしまっている。
着ている服も、手持ちの数が少ないせいで何度も手洗いしたがために、色は抜けて薄汚れが目立つ。
彼女は極限の空腹状態にあった。
(お腹、空いた…)
少女の名はリリス・フェタリア。
男爵令嬢で貴族であった少女だが、3年前に両親が事故死して実家は没落。
頼れる親戚も無く、残された遺産もごくわずか。箱入り娘で、市井で働いたことは無く、世間知らずのお嬢様に世間は厳しかった。
今は宿の帳簿係を勤めているが、薄給で借りているアパートの家賃を払うので精一杯。
遺産は尽き、手元にはわずかなお金しかない。
(もう、売れるものは残ってないわ。このお金で何か食べ物を…)
リリスはもうこの三日間、水しか口にしていない。
本来なら店に出勤している時間帯だが、もうリリスにそんな気力は残ってない。
「行か…なきゃ。お店は……あっちに…」
意を決してドアノブから手を放す。
その瞬間、リリスその場に座り込んでしまった。
もう立ち上がる力は出ない。
「はっ……う……」
うめき声にも力が無い。ただのかすれ声に等しい。
手足に力が入らない。
わずか数m先には太陽の差し込む人通りがあり、大勢の人が行き交うが誰もリリスに気付く様子はない。
(私…このまま、死んじゃうのかな)
リリスの脳内にそんな思いがよぎる。
それは決して冗談などではなく、目の前に迫った現実。
しかし、その現実を回避する術はもう無い。
脳裏に浮かぶのは両親だった。
(ごめん…なさい…お父様…お母様…)
事故死した両親の分までしっかり生きようと誓った。
貴族でなくても、恥ずかしくない生き方をするんだと誓った。
その誓いを守れない今の自分の窮状を、両親はなんと思うだろう。
すべてを諦め、このまま……そう思ったリリスの耳に、足音が聞こえた。
「…誰か、そこにいるのか?」
人通りから聞こえる足音とは違う、間近で聞こえた足音。
リリスは残りの力を振り絞って重い頭を上げた。
「だ、れ…?」
顔を上げ、ようやく直視した男は、一言で言って美しい男だった。
肩までかかる黒髪は、漆黒の艶を纏い、背後からかかる陽の光に黒く輝く。
前髪は長く、その隙間から見える瞳も黒だ。
漆黒の瞳は切れ長で、鋭利なイメージを持たせる。
ずいぶんと首を傾けなければ見えないほどに、男の身長はリリスよりもずっと高い。
(きれいな、人、だわ)
恐ろしいまでに整った容貌であり、その雰囲気はまるで熟練の職人が手掛けた彫像のように美しく、冷たい。
纏う服も黒の軍服で、ところどころに金の意匠がちりばめられている。髪も瞳も服も黒。
腰には豪華な意匠が施された軍刀が提げられていた。
軍服にはその階級を示すものであろう勲章が付けられている。
しかし、軍隊に詳しくないリリスには彼がどんな階級に属する人かは分からない。
だがその存在感、そして勲章の数からいっても、一兵卒の類ではないことだけは分かる。
「なんだ、行き倒れかと思えば、まだ息があるようだな」
男の物言いに、もはやリリスは何も思えない。
しかしこれは千載一遇のチャンスだった。
今自分の足ですら食べ物を買いに行けない状態ではあるが、この如何にも健康体である男なら、買ってくることはたやすいだろう。
だが、元男爵令嬢とはいえ、没落した今はただの平民。
そんな自分が、軍服を纏った明らかに格上である男に、食べ物の買い出しを頼むなどと恐れ大いにもほどがある。
むしろ、無礼だと言わんばかりに腰に下げた軍刀で切り捨てられるかもしれない。
(で…も……)
しかし、今頼まなければどうせ死ぬ。
リリスの生殺与奪は今この瞬間、目の前の男が握っている。
軍刀で切り捨てられるか、このまま餓死するか。
リリスは……前者を選んだ。
「も…し」
もう掠れた声しか出ない。
残りの力を振り絞って、懸命に言葉を紡ぐ。
「これ…で、なにか……食べ…もの」
言葉と同時に、食べ物を買うために財布から引っ張り出したわずかな小銭を握った手を持ち上げる。
リリスの動きの意図を察した男が、白い手袋を付けた手をリリスの手の下に差し出す。
リリスの手から離れた小銭が男の手に載り、わずかにチャリという音を立てる。
何を受け取ったのかと訝しむ男の表情が、手のひらに載ったものを見てなお険しくなる。
「なんだこれは?こんなもので食べ物と交換するつもりか?」
リリスが持っていたお金は、小銭が数枚。
はした金と思われても、今のリリスには明日への命を繋ぐ大切な資金だ。
「こんなもの」という扱いであろうとも、それは変わらない。
「買って……きて…くだ………さい」
切れ切れに、それでもなんとか頼みごとを言い切った。
もうやれることはすべてやった。
もし男が買ってきてくれれば、リリスはそれで助かる。
それ以外なら、もう終わり。
あまりにも分の悪い賭け。それでもリリスは賭けた。
「………」
男は沈黙している。動く様子はない。
しかし、チャリという音がしてリリスのスカートの上に小銭は置かれた。
それが意味するところにリリスは絶望するしかなかった。
(もう……いい…)
賭けに負けた。男は買いに行ってくれない。
リリスに市場に行って買いに行く体力は無い。
もうこれで終わり…そう思ったのに。
「こんなはした金では味わえないものを馳走してやる」
そんな男の声と同時に、やせ細ったリリスの身体がふわりと浮く。
リリスは男の腕の中にいた。
視界が無理やり上に向くと男の顔が視界に入る。
男の顔との距離は驚くほど近くなっていた。
まるで深淵をのぞき込むような漆黒の瞳は、眦が上がっている。
まるで、面白い玩具を見つけたかのように。
「やっ…!下ろ……して!」
リリスはとっさに身をよじった。
暴れるほどの体力もないリリスのできる、最後の抵抗だ。
それも、男の腕の中でもぞもぞと動く程度でしかないが。
やせ細り、肉体的には魅力が無い状態だと理解していても、リリスは少女だ。
いきなり男に触れられれば生理的嫌悪・恐怖を覚える。
(私を、どうするつもり?!)
しかし一方で、男は自らの腕の中で暴れている(つもりの)リリスを驚きの表情で見下ろしていた。
そのことにリリスは気付かない。
まもなく、身をよじる体力もなくしたリリスは、大人しく男の腕の中に収まった。
一度は死を覚悟したリリスは、半ば自棄になっているとこもある。
「悪いようにはしない。腹が減っているのだろう?」
間近で耳に届く男の声は、低く、それでいで通りがいい。
しかも、無理やり抱きかかえてきた割にはその声色は驚くほどやさしかった。
男の問いかけにリリスはわずかにうなずく。
否定する意味はないし、食べ物を買ってきてほしいと一度頼んですらいる。
「いい子だ」
その声を合図に男はくるりと振り返り、路地裏から太陽の光降り注ぐ人通りへと出ていった。
男に抱きかかえられたまま衆目に晒されることに心の葛藤はあったけれど、どうしようもない。
男が乗っていたと思われる馬車が目の前にあり、ほとんど人目にさらされることなく二人は馬車に乗り込んだ。
「出せ」
男の声を聞いた馭者は馬車を走らせる。
リリスは座席に下ろされると思っていた。
しかし、男はリリスを抱きかかえたまま、今度は自分の膝の上に乗せた。
どうしてこのまま男に抱きかかえられたままなのか。
リリスには分からなかったが、ついぞ忘れていた感覚を思いだしていた。
(温かい。人のぬくもりなんて、いつぶりかしら)
食べ物に飢えていたが、リリスは人との関わりにも飢えていた。
(まるで、お父様に抱きかかえられているみたい)
いきなり抱きかかえられはしたけれど、その扱いは驚くほど丁寧だ。
決してリリスに無理な体勢を取らせようとはしないし、背中を支えてくれる腕は見た目の線の細さに反して逞しい。
お尻を置く男の太ももは、やはり鍛え上げているからか固く、座り心地はいいとは言えない。
それでも、少しでもリリスが座りやすいように配慮している。
(この方は、一体誰なの?軍人なのは確かなようだけれど、それだけじゃない気がする)
圧倒的な存在感と威圧感、その漆黒の見た目から怖いという感情をもっていたけれど、その中身は餓死寸前の少女を前にして優しい。
その優しさに、リリスは何もかも尽きかけていた心の中に温かいものを感じていた。
「金はしまっておけ」
男の声にリリスははっと意識を戻した。
男に渡したお金は、スカートの上に置かれたままになっている。
目の前のお金はリリスの貴重な資産だ。
力の入らない震える手でお金を掴み、財布に詰め込む。
そのまま馬車は走り続ける。
窓から見る風景は、市民街を抜け、貴族街に入っている。
自分を抱きかかえたままの男がやはり貴族だったという確信と、もう未知なる領域となった貴族街でどうするのかわからない不安。
不安が最高潮に高まり始めたその時、ようやく馬車は止まり、入り口の扉が開いた。
「出るぞ」
そう言った男は、馬車に入る時と同様にリリスを抱いたまま馬車を降りた。
今思えば、人ひとり横抱きのままで下りられるほどに出入口の広い馬車。
ひょっとして自分は、とんでもない人に抱きかかえられているのではないか?
さらに不安は増していく。
(大丈夫かしら、私。とんでもないところに連れていかれるんじゃないわよ、ね?)
その不安を増やす材料として、馬車の止まった場所もそうだった。
見るからに格式高いレストラン。
男爵令嬢時代だったとしても訪れることはできない、一言さんお断りの高級店と思われる。
店の前から分厚い絨毯が広がり、ウェイターがドアを開けて待っている。
ドアをくぐった男は、そのままずんずん奥へと入っていった。
その先にはまた扉。当然のように男の到着に合わせて扉は開き、中へと入っていく。
(まぶしい……なんて明るさなの)
そこは個室だった。
天井には豪奢なシャンデリアが吊り下げられ、室内を照らしている。
中央にテーブルと、向かい合わせるように椅子が二脚。
部屋自体がそれほど大きくなく、部屋の豪奢さに比べるとむしろこじんまりとした印象を受ける。
「下すぞ」
片方の椅子に男がリリスを下す。
ずっと抱きかかえられ、座りっぱなしだったおかげで、少しだけ体力は回復している。
(これなら、少しはちゃんと座れるわ)
座らされた身体を、背もたれに預けることなく背筋を立てる。
その姿勢に男の目が見開く。
しかし男は何も言わず、対面の椅子に腰を下ろした。
少し体力が回復したとはいえ、背筋を立たせて維持するのは今のリリスには酷だった。
しかし、男への最低限の礼儀として、背もたれに背を預けるようなみっともない姿を見せるわけにはいかない。
母の教えだった。
(力は入らないけど、ちゃんとしなきゃ…!)
母は優しく、おおらかな女性だった。
出自は語らなかったけれど、夫である父への愛、そしてリリスへの愛を存分に語る女性だった。
リリスにはとことん甘い母だが、こと礼儀とマナーについては厳しかった。
資産に余裕が無かったために家庭教師を雇うことはできず、全て母が教えてくれた。
貴族としてのマナー、礼儀、教養、ダンス。
母は言った。「できなければ選択すらできない」と。
その母の教えが今生きている。
市井で生きるには不要なものでも、今は必要だ。
「崩しても構わんのだぞ?」
「…いいえ…」
男の気に掛ける言葉を有難く思いつつも、拒否した。
餓死寸前の身体であっても、場に相応しくない行動はできない。
この場にいるのが、自分と自分を連れてきてた男だけだとしても、誰かの目が無いとしても。
その気概を、男はまぶしいものを見るような目で見ていることにリリスは気付かない。
男にウェイターが近づく。男がウェイターに何か二言三言伝えると、ウェイターは頭を下げて部屋を出ていった。
静かな沈黙が場を支配する。
リリスとには聞きたいことは山ほどあった。
どうしてこの場に連れてきてくれたのか。
どうしてごちそうしてくれるのか。
そもそも男は何者なのか。
その理由を、男は何一つ語ってくれない。
(どうして私、こんなところにいるの…?)
そして冒頭に戻る。
沈黙を守っていると、ほどなくして扉が開き、ウェイターが料理を運んできた。
カトラリーが並び、その中央に置かれた皿。
前菜と思われる皿には、透明な、少し色のついた、しかし全く具の無いスープが入っていた。
漂う香りは甘く、優しい香りがした。おそらく野菜を煮込んだスープなのだろう。
口中に湧き上がるものがあった。
それに呼応するかのように、水しか入れていないお腹が求めるように鳴き声を上げる。
「………くくっ」
(恥ずかしい…でも、我慢できないんだもの)
咄嗟に手でお腹を押さえることはできた。
けれど、沸騰したかのように赤くなる顔を抑えることはできなかった。
目線もつい横に逸らしてしまった。
「食べるといい」
男の許可が出たので、リリスは早速スプーンを手に取り、スープを掬って口に運ぶ。
スープはその見た目とは裏腹に芳醇な旨味とわずかな塩気を帯びていた。
何も無いただのスープの様で、様々な野菜をじっくり煮込んだスープなのだろう。
(おい…しい…!)
ついさっきまでお腹の音を聞かれて頂点に達していた羞恥心はあっという間に吹き飛び、身体がまともな栄養を含んだものが入ってきたことに喜んでいる。
次の一口を求めて、さらに掬う。
その様子を、正面の男は笑いをかみ殺した表情で見ていた。
(面白い…!)
素直に男はそう思った。
何の気まぐれか、たまたまこの店に向かう途中、気になった路地裏に脚を踏み入れた。
そこにはいたのは老婆と見まごうような娘だった。
手足はやせ細り、髪は荒れ、服は薄汚れている。
(驚いたな、声からするとまだ若い娘か)
ただの老婆かと思ったのに、まだ少女だった。
健気に、そして恐れ知らずにもお遣いを頼んできたのだ。
これには男が驚いた。
(この俺を、小間使いにする気か。いい度胸だな)
しかも、その内容が食べ物の買い出し。
さらにその手に載せられたのは、わずかな硬貨。
(何だこれは。俺を馬鹿にしているのか?)
しかし、そこで男はとある気まぐれを思いついた。
(この娘に、極上の料理を食わせてやろう)
こんなはした金しか持たず、今にも飢え死にしそうな少女。
その少女に、これまで味わったことでないであろうご馳走を味わわせる。
そのとき、少女はどんな反応をするだろう。
(これは面白そうだ)
ただそれだけのために、男は金を返すと薄汚れたままの少女を抱き上げた。
少女は驚くほど軽かった。
見た目からやせ細っているのはうかがえたけれど、その予想をはるかに超え、これで生きているのかと不思議に思うほど。
そのとき、ちらりと見えた少女の瞳に見覚えがあるような気がしたが、気のせいだと思うことにする。
しかしここで少女は、予想外の行動に出た。
抱き上げられたことに抵抗を示したのだ。
(俺を、拒否するだと?)
これは男にとって初めての体験だった。
舞踏会に出れば未だ独身の彼は令嬢たちのあこがれの的だ。
幾たびも靡かれ、寄られ、ダンスを要求される。
それだけでなく、城で仮眠室で寝ようとしたときは寝台に裸の令嬢が潜り込んでいたこともあった。
それ以降、彼の中で女という存在は底辺になっている。
どの令嬢も所詮見ているのは彼の顔と家柄、立場ばかりだ。
誰もかれもが、彼自身を見ていない。
そんな女たちにうんざりしていた。
率直に言って、彼は女性不信だたった。
(女なんて、街灯に群がる蛾のように鬱陶しいものだと思っていたのにな)
しかしこれは何だ。
手や腰はおろか、身体ごと抱き上げている。
そんなことをした自分に驚き、そしてそれを拒絶する少女に驚いた。
自分に触れられて嫌がる女がいるなんて。
その反応は、男の心を激しく揺さぶる。
(何だこの女は。こんな反応をされたのは初めてだぞ)
確かに見知らぬ男にいきなり触れられれば、女性であれば危機感を覚えることもあるかもしれない。
だが、男は自分の地位、服、外見、そして容姿も整っているのを自覚している。
たとえ初対面であっても、男の顔を見ただけで女性たちは男に見惚れる。
手を取れば、感極まって泣き出す者までいた。
それは目の前の少女とて例外ではないと思っていた。
だが、蓋を開けてみれば例外だった。
(くっくっく…なんて面白い娘だ。これは反応が楽しみだな)
もがいている(つもりらしい)少女を馬車へと連れ込み、そのまま少女を自分の膝に乗せて発車させた。
大人しくなった少女は、顔を俯かせていた。
抱えている少女からは、お世辞にもいい匂いとは言えない…古臭いような匂いがする。
(香水もつけられないほどに金が無いようだ。だが…この匂い、悪くはない)
彼に近寄る令嬢たちからは、鼻が曲がりそうになるほどのキツイ香水の香りが漂ってくる。
それ自体は良い香りなのだろうが、こうも濃厚に漂わせられては悪臭と変わらない。
不愉快に感じるそれと比べれば、気になるものでもない。
レストランへと馬車が到着し、ドアが開かれる。
このレストランは男が愛用していレストランだ。
落ち着く空間と料理を提供してくれる。
本当は一人でのんびり楽しむつもりだったが、思いがけない拾い物をしてしまったことを後悔はしていない。
そのまま少女を抱き上げ、レストランへと入っていく。
案内された部屋へと入り、誰も座る予定の無かった椅子に少女を下ろした。
そこでまたしても驚くこととなる。
明らかに身なりは平民のそれなのに、その座り姿には気品があった。
背筋はピンとまっすぐ、目線は臆さず前に。
長くボサボサの髪の隙間から見える濁った青い瞳は、サファイアを思わせる輝きを宿した。
見様見真似でできるものではない。
(これは……どうやらただの平民ではないようだな)
崩すことの許可を与えても少女は拒否した。
自分に対する礼儀なのだろう。
よく見れば姿勢を保つのが必死なのは、わずかに震えている体が示している。
つい先ほど行き倒れていた少女だ。
その姿勢を保つだけでも相当大変だろうに、男は感銘を受けた。
「頼んでいたものを二人分。ただし、特別に胃に優しい物に調整してほしい」
「畏まりました」
近づいたウエイターに男はそう指示を出した。
このレストランの売りの一つは、体に優しい薬膳料理だ。
しかし、目の前の少女にはその料理ですら重いかもしれない。
極度に衰弱しきった身体は、食べ物を消化する機能すら低下してしまう。
男と少女の沈黙が続いたのち、再びウエイターが入室してきた。
二人の前に出されたのはわずかに色が付いているだけの、何の具も無いスープだった。
しかし店に通いされた男は、いつものスープから具材が抜かれているということがわかった。
特別体に優しいもの、そう注文を付けたことで固形物は取り除いたのだ。
「食べるといい」
男が許可を出すと、少女は早速スプーンを手に取り、スープを口に運んだ。
その瞬間の変化はとてもわかりやすかった。
気品は崩れ、ただ美味しいものを口にしたことを純粋に喜ぶ少女に変わったのだ。
なんと面白い少女か。
それが男の抱いた感想だった。