社畜、乾杯す。
ギルド中央本部の一角――重厚な木製の扉の奥、幹部クラス専用の応接兼酒宴室。
深紅の絨毯、黒光りするテーブル、棚に並ぶ年代物の酒瓶。
外界の喧騒を断つ防音結界が張られた室内には、上質な琥珀の香りが漂っている。
「まずは、任務を受けてくれてありがとう。ま、つまらん仕事だが」
サンジェロがマサトと自分のグラスに琥珀色の液体を注いだ。
モロコシを材料としたクラフト・バーボンのような蒸留酒を熟成し、さら厳選された高い完成度を持つ原酒のみを使用して作られたシングルバレルの逸品だ。
「いえ、むしろ、やりがいがある……ああ、これはいい香りだ」
マサトは乾いた笑みを浮かべて、蒸留酒を口にした。
「……『やりがい』か。ああ、君らしいな、本当に」
サンジェロもグラスを傾け、静かにそれを煽った。
グイッと飲めば、キィンと冷えた酒が喉を落ちていく感覚に目が細まる。
「いい酒だろ?」
「ええ……旨いですね。前職じゃ、こんなの、祝勝会でも出ませんでしたよ」
なお、社畜は意外に酒が飲める。
(出張先の奈良の老舗ホテルあたりで自腹を切ったなぁ――)
そんなこともあるから、このようなオーセンティックな場所も大好きだ。
「こっちの世界は、実力主義だからな。結果出す奴には、惜しまず出す。金勘定で、幹部会が青ざめるだろうがな」
「その辺りは、知ったことではありませんなァ……」
マサトはくく、と笑うと、足を組み替え、またグラスを傾け、こう言った。
「……それにしても」
「ん?」
「本気で『へし折っていい』なんて、あなたが言うとは思いませんでしたよ」
サンジェロは一瞬目を細め、それから小さく苦笑した。
「俺だって、最初は教育で何とかなると思ってたさ。信じて、待つともいうが……」
彼はゆっくりと酒を口に含んだ。
「だが――変われない奴は、何年経っても変わらない。変えようとしたら、こっちが擦り減るだけだ。真面目な奴ほど、損をする……だ」
語尾が、重い。
「こちらの世界も同じなんですね……」
マサトは静かに頷く。
「そうだぞ――ああいう連中、声は大きい。責任は取らない。表面だけは取り繕って、仕事した気になってる。そして上は『最低限こなしてるから』、だ。結果、現場は腐る。そいつらはそれにすら気づかない」
サンジェロはまたグイッと酒をあおった。
空になったグラスに再び酒が注がれる。
「……だから、俺は諦めたんだ。奴らをどうにかするのを。今はただ、『他の誰かを壊させないために』――壊す。それでいい」
「魂のリブート。必要なのは『優しさ』じゃなくて、『強制再起動』」
「ははは、なんてえげつない表現だ」
「頼んだ貴方が言う事でしょうか?」
「……まぁ、いいさ」
その言葉にサンジェロが苦笑しながらも、嬉しそうにグラスを掲げた。
再びグラスが静かにぶつかる音が響いた。
「さて、仕事の話はもうやめよう――ああ、ちょっと聞いていいかなマサト君や」
「はぁ、なんでしょう?」
「君は――マリーベルの事どう思ってるんだねぇ?」
物凄く端的な物言いだ。
酔ったせいか、口調がオヤジになっている。
まぁ、サンジェロは50も半ばだから、それが素なのかもしれない。
「……いや、それは、その……ええと」
「ん、そうなんだな? そうなんだよな? そうだろう、はっはっは!」
「なんですかそれ……いや、何と言うか、まだはっきりしてませんけれど」
そこで、マサトは気恥ずかし気に笑って誤魔化しながら、こう続ける。
「『俺』って、仕事だけしか考えられなくって……」
「……よし、それ以上いわんでいい……だが、後悔しない方がいいぞ?」
「ええ、心定まれば、必ず」
サンジェロがグラスを差し出す。
マサトは下からグラスを当てる。
キンッと硬質な音が鳴る。
二人は、ほとんど同時にグラスを傾けた。
杯を置いたマサトの目には、ふだんとは違う、かすかな光が宿っていた。
グラスが再び静かにテーブルに置かれた、そのときだった。
――バタンッ!
重厚な扉が勢いよく開いた。
「マサトさんッ!」
金髪を揺らして現れたのは、受付嬢――マリーベル・エイルフェリア。
手には書類の束、顔には軽く引きつった笑み。
「あら、男同士の飲み会中、失礼しますわね」
「マリーベルさん……どうしました?」
マサトが素で応えると、マリーベルは書類をドサリと机に置いた。
「こちら、『C級冒険者訓練対象者20名分の研修前メンタルチェックリスト』と、『誓約書(責任転嫁防止用)』と、『研修前後の人格比較報告フォーム』でございます!」
「はぁ、それは明日でいいんじゃないですか?」
酒に酔っているのか、いつもよりは仕事の事に敏感な社畜は、常ならぬ言葉を紡いでしまう。
「今、渡さないと、いけないんです!」
バン! と机を叩くマリーベル。
傍から見守るサンジェロは「おやおや」と肩を震わせながら酒を啜った。
「それから――――私にもお酒ください!」
「え、あなたが飲むと……」
マサトが「いろいろ問題が――」と言ったが、マリーベルは強引に腰を下ろし、社畜のグラスを奪った。
「あ…………」
「飲みます!」
「はい……」
バチバチと火花の飛ぶようなやり取りだ――
それを眺めていたサンジェロが愉快そう笑いながら「社畜にもう一杯」と言ってから、こんなことを言う。
「ははは、『死なない男』と、『ギルド一の才媛』。意外とバランスが取れてるなァ」
「どういう意味ですかそれっ!?」
思わせぶりなサンジェロの言葉に、なぜか脊髄反射で対応するマリーベル。
「んん? 酒の席だもの――特段の意味、そんなんあるわけがないだろう?」
「……サンジェロ様、酔っておられますね?」
「ははは、そうかも知らん」
そう言ったサンジェロは「では、俺は引き上げるとするよ」と、気の置けない後輩たちを見守る先輩面で立ち上がり――
「あとは二人でやってくれ。ああ、ここの支払いは俺のツケにしとくからな」
気前のよさを見せながら、笑みを浮かべて去っていった。
……そうして、部屋に残ったのは、マサトとマリーベル、二人だけだった。
グラスの水音がカラン、と鳴る。
時が止まったような空気。
しばらくして、先に口を開いたのはマリーベルだった。
「あの……マサトさん……」
おずおずとした声で、しかし確かな口調で。
「ごめんなさい、私……謝ります」
「ええと……何のことを?」
「つまり、あの時のことです……黒竜退治の後に、馬鹿って叫んでしまって……」
「……」
マサトは何も言わなかった。
ただ静かにマリーベルの言葉に耳を傾ける。
「心配が溢れてしまったの……それは本当なの……」
マリーベルは、真摯な面持ちで話し続ける。
「でも、間違いだと気づいて……それって私のわがままだって、気づいて……」
「……わがまま、ですか」
マサトは静かに反芻した。
「ええ、わがまま――ギルドの受付嬢としての、もしかして女の……ううん、ごめんなさい……」
マリーベルはそれ以上言葉を紡げず、ただ押し黙った。
マサトはしばらくその姿を見つめてから――
「いいんです……いいえ、ありがとう、マリーベルさん」
ほんのりとした笑みを漂わせた。
「マサトさん……」
マリーベルがほぉと吐息を漏らした。
自分の言葉をマサトが受け止めてくれた。
今はそれだけで十分だった。
「それじゃ、これからもよろしくお願いします。私の担当受付嬢様!」
「はい、わたしはあなたの担当受付嬢です!」
マサトがそっとグラスを掲げる。
マリーベルもその縁に合わせた。
キィン、と澄んだ音が静かに響いた。
お酒の味はとても強いものだったが、
互いを認め合う気持ちは、それ以上に強く、確かなものだった。