社畜、泣く。
A級になったからといって、マサトが休むわけがない。
あの血肉を絵具に、狂気を絵筆に描いた地獄――
もとい、テストの翌日には平然とギルドに姿を現している。
「次の依頼、どこにありますか?」
「A級依頼なんて、そんなにポンポン出てきません! F級依頼で我慢してください!」
「F級の仕事では満足できないんです! 『死と納期が背中合わせ』って感じがしなくって……」
マリーベルが諭してもマサトは静かに首を振るだけだ。
(いつもどおりの通常運行――今日もギルド発、地獄行きの直通列車だわぁ)
そんな列車には乗りたくないが、彼女は既に悟りの境地に入っている。
そら、こんな会話が108回も繰り返せば、そうなるしかない。
「ないのであれば仕方がありませんが、こうなれば国中を回って仕事を探して。いや、こうなったら、作ってしまうか」
「作らないのっ!」
そんな会話をしていると、お約束のように、仕事の方から社畜に寄ってくる。
「すまないが、死なない男というのは、あんたかい?」
現れたのは、冒険者パーティー《虹色の閃光》を率いる女魔導士マナイータ。
重厚な杖と分厚い魔導書を手に、知性と魔力を漂わせたハイ・ウィッチだ。
「単刀直入にいおう。黒竜討伐に加わってくれ、死なない男」
マナイータは胸をそらしてそう言った。
なお、名前のとおり、胸のランクも冒険者ランクも『A級』だった。
そして黒竜は、都市をも滅ぼすことすらできる化け物。
まちがいようのない『A級』だ。
普通なら「えっ黒竜!?」と固まるか、青ざめるかする。
「やります! やりますとも!」
「そ、即答だとッ!? た、助かる……が」
――例によって社畜は即断即決。
社畜の興奮に、マナイータは面食らう――というより、引いた。
そしていうまでもなく、彼女はマサトに振り回されることになる。
さて、ここからはいつもの単騎突撃――
マサトは、黒竜の毒ブレスにも火炎にも「最高の眠気覚ましだ! 頭からコーヒーがぶ飲みしたみたい!」などと感激しながら特攻。
爪が肩に刺されば「肩こりのツボに的中!」と大喜び、その勢いで竜の首にへばりついて拳を叩き込む。
吹き飛ばされそうになっても「仕事は逃がさん!」と喚きながらしがみつくその姿は、もはや狂気そのもの。いや、マサトにとっては『通常業務』。
もういいだろう、どうせ社畜が勝つ。
黒竜は倒れ伏し、マナイータは震える声で「嘘でしょ……」と、つぶやいた。
そして龍殺しの英雄の御帰還だ。
血まみれで満身創痍、「死んだほうがマシ」な状態だが――
「マリーベルさん! 次の仕事、どこにありますか?」
声はやたら爽やかで、血だらけの顔には笑みが浮かぶ。
その姿に、職員や冒険者たちはため息まじりにうなずいた。
――ああ、いつもどおりだ、と。
もう誰も驚かない。
龍殺しの直後だろうが社畜が仕事を欲するのは、太陽が東から昇る位に当たり前。
だが、受付嬢のマリーベルはマサトの姿を見て、息を詰まらせた。
血まみれで、ボロボロで、それなのに、笑っている。
「いやぁ、思ったよりキツカッた……ですねぇ」
あまりに、あまりにも酷い。
血に濡れた笑顔。
「マサトさん……」
何度も見たから、慣れたと思った。
人間は慣れる生き物だからそうなのだと信じた。
でも、降り続けた笑顔が、
澱のように彼女の心の底にたまり続け、
器の縁までのぼりつめ――
「心配してたんですよ!」
マリーベルの胸の奥にある何かが決壊した。
思いがけないほどに、しぼり出すような声だった。
「すっごくすっごく心配してたんですからっ!」
「ああ、でもほら死にませんでしたから! 死ななきゃ安いっていうじゃないですか。心配ご無用ですよっ!」
「ッ――!」
マサトの軽口に、マリーベルは拳をいっそう強く握りしめた。
喉の奥が震え、込み上げる想いが言葉になる前に涙になりそうだった。
怒りとも、哀しみとも、どうしようもない愛しさともつかない感情が、胸の奥でぐらりとうねる。
抑えていた感情のダムは、もうとうに決壊していた。
「私、マサトさんに傷ついてほしくないんですよ! それをなんでそんな! それとも私が迷惑なんですか……ううん、もう……なにがなんだか分かりません……」
マリーベルは支離滅裂な言葉を口走った。
ダメな男に尽くす健気な女、という構図に見えなくもない。
それは真実であるのかもしれないが、限界というものはある。
「迷惑だなんて――」
そんなことを知ってか知らずしてか。
マサトはこんなことを告げる。
「ほら、マリーベルさんが僕の書類をサッと処理してくれるから、仕事が捗るんじゃないですか。とても感謝しているんですよ!」
「仕事………………」
『仕事が捗るから感謝している』と言われた彼女の心は五月雨のように乱れた。
自分の心の向きと、マサトの思考は100万光年くらい離れている。
「し、仕事、仕事って、私の気持ちはどうでもいいんですねっ!」
マリーベルが勢いよくカウンターを叩くと、周囲の冒険者が「ヒュー」と軽い口笛を鳴らして、興味深そうに見守る。
「これ以上、あなたの面倒を見るのは嫌ですっ! 担当も替えて貰います!」
職務放棄を宣言するマリーベルだった。
そして――
「馬鹿ぁっ! マサトの馬鹿ぁぁあああっ!!」
怒声とともに、マリーベルはカウンター越しに書類の束をマサトにぶつけた。
バサバサッと散らばる書類。
顔を覆ったマリーベルは、ギルドの奥へ走り去った。
残されたマサトは、呆然と立ち尽くす。
――そこへ、背後から低く押し殺した声が飛んだ。
「おいこら、マサト……」
振り向けば――クルードが腕を組み、サラームスが鋭い眼で立っていた。
「ちょっと、来なさい」
有無を言わせぬ命令――否定を許さぬそれが飛ぶ。
「面、貸せや」
否応もない恫喝が、マサトの身体を拘束した。
逃げ場は、ない。
バタン、と重い音を立てて扉が閉まる。
目の前には、サラームスとクルード。
二人の視線が、無言でマサトを縫いとめる。
一拍の静寂――そして。
「マサト君……」
サラームスが、机に手をつき、重々しい声で言った。
「君は、努力している。結果も出した。それは――認める。
だが、それが誰かの心を踏みにじる免罪符になるわけじゃない」
静かに、しかし鉄槌のように重い声。
続けて、クルードが壁にもたれたまま、低く、重く言い放つ。
「マサト、お前、あの子の顔、ちゃんと、見たか?」
刻み込むような、鋭く、心を抉る、問い。
「泣いてたぞ」
避けられない、真実が、重なる。
「冒険者ってのはよ。命を賭ける代わりに、誰かのために戦う仕事だ。
――なのに、自分の手で、守るべきもんを、泣かせてどうする。
……それで、何も感じねえなら、冒険者なんざ、やめちまえ」
クルードの声に、怒りはなかった。
ただ、深い、どうしようもない哀しみだけが――滲んでいた。
「…………っ」
マサトは、この世界に来てから初めて、言葉を失った。
上司と先輩は、もはや何も告げない。
だが――
「君の“働く”は、自己満足にすぎん」
「誰かのためじゃない。ただ、自分を満たすだけだってことだ」
「マリーベル君は、そんな君を支えようと必死だった」
「それを“当然”だと受け取ったお前は――何もみちゃいなかった」
「働くのはよろしい。だが、その前に、人であれ、仲間であれ。友であれ」
「やることやってから、働けってことだ」
――それは言葉にならない、言外の言葉が伝わった。
マサトは、ぎゅっと拳を握りしめた。
今さらながらに痛感していた。
これまで、自分が何を見て、何を見落としてきたのかを。
そして、ぎゅっと握った拳を、さらに握りしめる。
もう二度と、見誤らないと、心に誓うように。
「……はい」
マサトは、深く頭を下げた。
ぽたりと、涙が床に落ちる。
漏れる滴りを確かめたサラームスが、軽い笑みを浮かべて、こう告げる。
「失敗はいい。だが、向き合わなければ、成長もない」
クルードも、かすかに笑みを浮かべた。
「あとは、分かるな?」
マサトは顔を伏せ、さらに、深く頭を下げた。




