社畜、拒否する。
闇に沈む魂。
本来であれば、ただ消え去るだけの存在――だったはずだ。
「はっ……⁈」
マサトは突如、目を覚ます。
「ま、眩しい……」
目の前には、物音ひとつない真っ白な空間が、ただ広がっている。
「ここは一体?」
彼は一瞬、ギリギリ助かって病院に運ばれたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「目覚めましたね、マサト」
突如、頭上から澄んだ女性の声が響いた。
「えっ……?」
見上げると、薄金の衣をまとった女性がフワリと宙に浮かんでいる。
神々しい光をまとい、息を呑むほど整った顔立ちだ。
「あなたは……?」
「私は女神です♪」
マサトは、彼女をまじまじと見つめた。
よく見ると、眼鏡をかけた――女神だった。
「眼鏡の女神……?」
「えっ、眼鏡の女神って? まぁ、眼鏡かけてますけど」
確かに整った顔立ちで、神々しさも備えてはいる。
だが、(経理課とか庶務とかにいそうな女神だなァ)と、マサトは思った。
「なんですか、その経理を見るような目は」
「いえ……特に」
思っていたことが顔に出てしまったらしい。
マサトは気まずそうに口を閉ざし、話を戻すように尋ねる。
「なぜ私はここに?」
「結論から言えば、あなたは死にました。トラックに跳ねられて、反対車線に吹っ飛んで――頭パーン☆ ってな、感じでした!」
なんともエッグイ表現だが、このシチュエーションだし、マサトは「そうか、そういうことか……」と納得した。
「では、ここは死後の世界ってことですね?」
「まぁ、正しくは天国と地獄の狭間ですけど」
女神は右手を上に差し、左手を下に向けた。
天上天下唯我独尊――仕草だけは女神様っぽい。
「ははぁ……なら、私は地獄落ちだろうなァ」
「あら、どうしてそう思うのですか?」
「だって仕事を残して、会社を残して勝手に死んだからです! 皆に迷惑が掛かるし! 引き継ぎもしていない! 溜まりにたまった案件も処理できていないッ!」
スゲェ早口だった。
マサトの中の理屈ではそういうことになるらしい。
「聞きしに勝る社畜ですねぇ……」
女神は手を合わせた。
それは哀れみ――ではなく呆れだろう。
「ですが、あなたは地獄ではなく、天国に行ってもらいます」
「天国……」
マサトは(なぜゆえに……?)と思った。これまでの人生で大したこともしていないし、むしろ仕事から逃げるように死んでしまった――割腹ものの負債を職場に残したという自覚があったのだ。
だが女神はニッコリと微笑み――
「最後に命を捨てて他人を助けたではないですか!」
それは事実だった。
女神はこうもいう。
「死ぬべき命が助かり、死ぬべきでない命が失われる――
それではいけません。『世界の理』がゆるしません!」
世界の理と言われても何のことか分からなかったが、マサトは「なるほど、そういう方向性ですか……」と妙に納得した。
納得はしたのだが――
「でも、それでも会社に迷惑が、仕事が残ってるんです!」
と、マサトはあくまで仕事に執着した。
「それがそんなに気になりますか?」
「なります! ものすっごく! だって、それって人間としての基本でしょう!」
物凄い勢いで唾を飛ばすマサトのもの言いに、女神は(うわぁ……こいつマジモンの社畜だわぁ)と思った。
「お願いです! 天国行きじゃなくて、生き返らせてくれませんか? 仕事を片してから、また死にますから!」
「は……? あなた何を言ってるの?」
また死ぬ? もうアホか? 女神はそう思ったが――
「とにかく、そんなの3級女神の私の力ではそんなことはできません!」
どうやら女神にも等級があるらしく、その力には制限があるらしい。
「では、せめて残された業務を片付けておいてください、魔法とかで!」
「あ、ごめんなさい、それもできません……」
女神は口惜し気にそう言ったものだから、マサトは――
「ははぁ……もしかして女神の『3級』って、履歴書に日商簿記3級って書くようなものですか?」
「ッ――――! 失敬なっ! 女神の格は検定試験と比較できません!」
女神は眉間に皺を寄せヒクヒクと頬を震わせた。
「じゃあ、行政書士や社労士みたいな国家資格? なら、履歴書の花にはなりますね。でも、実務経験はありますか?」
「だから、資格試験と比較しないで! あと、実務経験はたくさんあります!」
だが、女神は「……シミュレーションが半分くらいですけれど」と続けたから、マサトは(スペースマリーンの新米少尉よりはましって程度かァ)と大変失礼な『事実』を心に収めた。
「……それで、天国ってどんなところです?」
ものをイメージで考えてはいけない。
仏様や閻魔様ならともかく、眼鏡の女神様なのだから、当然確認すべきことだ。
しかも目の前のは3級だ。
「天国は――天国はとても素晴らしいところです!」
女神は満面の笑みで、経理のくせに、まるで営業トークみたいにまくし立てる。
「必要なものはいくらでも手に入りますよ? あなたが好きなエロ同人とかエロゲとかだとしても!」
「ッ――!」
マサトは(初手ブッパで、人のプライベートを晒すな!)と殺意の波動を滲ませたが、「へぇ……そうなんですね」と、コメカミに強烈な縦筋を浮かべながら、どうにか押しとどめた。ギリセーフ。
「それから、天国は――好きなものを好きなだけ食べることができます。それを無限に楽しめます!」
「ほほぉ、満腹になるけど、無限に食べられる――みたいな?」
「はい、空腹を感じることもできます。かのローマびとのように――ウェッ! なんて戻さなくともです!」
「おおお!」
カエサルを愛した女傑の傑作――ローマ人の物語を愛読するマサトは(ふぅむ、なら酒も飲み放題だろうな。二日酔いも気にしなくて良さげだ)などと思った。
「天国では、広大でゴージャスな邸宅が手に入るんです!
空調完備、超快適!
激カワメイド付きで、掃除なんて一生無縁です!」
「へぇ…掃除不要ってのはいいですね。あ、メイドは…うん、欲しい…」
「だろだろ! あとお察しのとおり天国は――美女に囲まれてキャッキャウフフ三昧! もちもちのロンで、メイドだって喰い放題!」
――女神は断固たる口調で言い切った。
リーチ一発メンタンピン、三色同順、ドラドラ裏ドラ、三倍満な天国だ。
「毎晩相手をとっかえひっかえ――ロリでも熟女でも人妻でも、なんでもアリ!
あれやこれやのプレイをしても誰にも咎められません!」
女神はアヘ顔&ダブルピースで、その諸々を力説する。
「まさに快楽天国――エロゲの無責任男みたいに暴れても、ヒロインに殺されることもないです! さすがにリョナだけは NGですけど」
そこまで言われると逆に引く。
マサトは「なるほど、実に魅力的ですねぇ」と応えたが、(ああ、この女神って、経理で眼鏡で好色の女神だな……絶対不倫してる)などと断定した。
そして彼は「ふむ……」と鼻を鳴らしてからこう告げた。
「それは――とっても大事な事ですが。私が一番聞きたいことじゃありません」
「えええ? おんなのこと肌を重ねて、前から後ろからドッロドロ――それより大事なことって、ほんとにあんのぉ?」
「はい」
「あら断言ね。……もしかして同性がお好み? もしかして……ホモォ⁉」
「……は? どこからその発想が出てくるんだ」
「HEHEHE! 否定しなくてもいいのですぅ! TSでもガチムチでも、男の娘でもOKいけますからぁ!」
「……おまえ、アホの子か?」
女神が「なんですか、そのアホの子って!」と言うのを「ええいだまれ、この駄女神ガァ!」と遮ったマサトは満を持してこう尋ねる――
「天国に仕事はあるのか? 『俺』はそれが知りたい!」
さっさと聞いておかないと、別の路線にもっていかれそうだ。あと、マサトは感情が高ぶってくると第一人称が俺になるようだ。
マサトの言葉に女神は「ほぇ……?」と頭に疑問符を浮かべてから――
「そんなものは天国にありません。代わりに『永遠の安息』があるのです! もう働く必要はないのですぅぅ!」
と、確固たる口調で断言した。
「ノルマに追われることもありませんしぃ! クレーム電話も、上司の叱責も、部下の逆ギレもないんですぅぅぅ!」
女神はそんなのあったり前ジャン! 的な口調で説明を続ける。
「春の花粉に悩まされ、夏の猛暑に焼かれ、秋の天候変動で体調を崩し、冬の寒さを忍んで――満員電車に押しつぶされながら長時間『痛』勤することも必要ありません! サービス残業も、徹夜仕事も、会社の椅子を寝床代わりにすることもぉぉ!」
そして女神はビシッと指を差し「だって、だって、だって! 天国には仕事がないんですからァ!」などと、もの凄いドヤ顔をキメた。
「ええ………………」
マサトがブルブルと震えていた。
「あらあら、震えるほど喜んじゃって♪」
「そ……」
震えがドンドンひどくなり、歯がカチカチと鳴り、膝がガクガクと震え出す。
「あれ、大丈夫? 熱でもあるのかしら?」
「そんな……」
マサトはカラダをビクッビクッ! と震えさせ、まるで高熱にうなされるマラリア患者のように両の手で頭を抱え、ハァハァと息を漏らしている。
そして、社畜は――
「そんな馬鹿なぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
目をひん剥きながら絶叫したのだ。
「ほえ? 何が馬鹿なのです?」
女神は怪訝そうに尋ねるが、完全無欠の社畜はこう告げる。
「仕事がないだなんて、ありえないっ、あり得ない、アリエナイッ!? 噓でしょうっ⁈ 嘘だと言ってくれぇ――――!?」
「ハハッ! 女神は嘘はつきませんよォ! 天国に『仕事』なんてものは、概念からして――あ・り・ま・せ・ん♪」
女神はどこぞの浦安にある夢の国のキャラのように嘲笑してから――『お・も・て・な・し♪』――みたいなメチャンコむかつく口調でそう言った。
それを聞いたマサトの顔からスゥっと生気が抜ける。完全に。
「マジかよ……」
「えっ……血の涙……!?」
そこで女神は――
(あっそうか、こいつ完全に仕事命の阿呆だった……だったら、先に言っておくべきだったかも……ま、まあ、どうせそのうち慣れるでしょ、たぶん!)
などと無責任に思う。
「ではではでは、時間もないし、さっさと天国の門を開いちゃいましょ――!」
まるで「ヘイヘイヘ~イ!」とでも言い出しそうな軽いノリなのだが――
「だ、駄目だっ! やめろ、やめんか、この駄女神ィ!」
「きゃぁっ!?」
猛犬注意の番犬のようにマサトが女神に飛びかかり、その衣をがっしと掴んだ。
「なっ、なにをするのっ⁈」
女神は「は、離しなさいっ!」と言うが、マサトはその手を離さず――
「仕事がないなんて――――全ッ然ダメだろうがぁぁぁぁぁぁぁっ!
天国に行ったってよォ、仕事がなきゃ――意味ねぇんだよッ!」
マサトは基本的には紳士な口調だが、荒ぶると一人称が俺になるらしい。
社畜から仕事を取り上げるというのだから、仕方がないが。
「あ、あなたは『幸福』を拒否するのですか⁉」
「――幸福? 俺は天国という幸福に降伏などせん!」
「ええっ⁈」
「俺にとっての幸福は、仕事なんだッ! 理不尽もッ、納期もッ、クレームだってぜんぶまとめて――」
と、吠えた上に、こう続ける。
「俺の! 生きがいなんだぞぉぉぉッ!」
食ってかかるマサトに、女神は引きつった笑みを浮かべながら叫ぶ。
「そ、それって……病気ですよ!? 社畜病ってやつですッ!」
だが、社畜は止まらない。
「社畜の何が悪い! 怒鳴られて、詰められて、クレーム山積み――そのストレスこそ、生きてるって証だろうがっ!」
真の社畜とはそういう生き物なのだ。
「俺から、仕事を、取り上げるんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
マサトは怒髪天を突く勢いで叫んだ。
なぜだかわからんが、ビシッ! ビシッ! っとカラダが発光している。
「ひっ⁈ ひぇぇぇぇ……(な、なんか発光してる……これってもしかして――神性……?)」
神ではなく、社畜だ。
――ともかく、女神は悲鳴を上げる他なかった。