社畜、逝く。
都内にある、築20年ほどのビル――その4階。
昼間の喧騒が嘘のように、深夜一時のオフィスは静まり返り、非常灯だけが頼りなく灯りを投げている。
もっとも完全な無人というわけではない。
フロアの奥、企画課の一角に、一つだけぽつんと人影があった。
デスクのノートパソコンは起動したまま。
資料が山積みになり、少し離れた会議テーブルには、コンビニ弁当の空箱が無造作に転がっている。
その中央に鎮座する男――ネクタイは緩み、ワイシャツは皺だらけ。
眼鏡の奥の目は血走り、肌は不健康な青白さ。
見るからに深夜残業中の壊れかけサラリーマンが――
「仕事っ! 仕事が楽しいっ! あははは! 働くって、最高だぁぁぁっ――!」
フロア全体に響き渡る雄叫びを上げた。
こ奴の名はマサト。
働き方改革が叫ばれる中でも、終電ギリギリまで残り――いや、徹夜だって厭わない典型的な社畜だ。
「終電がなくなった? よし、朝まで残業できる!」
そんなイカレた理屈を漏らす奴は、社畜と評すほかはない。
常識的に考えれば、気が触れているとしか言いようがない。
「仕事している俺ってば最高!」
マサトは血走った瞳をギラつかせキーボードを叩きながら、楽し気に笑う。
深夜残業中の眠気を覚ますためだけの独り言でもある。
「働けば働くほど、俺は会社に認められるんだッ!
働く俺ってば最高! 社畜な俺って超最高ッ!」
新卒カードを棒に振った男が、バイト採用から社員になり、管理職にまで上ったのだから、そうなってもいた仕方がない。
搾取という単語を美しく誤訳した、稀によくある労奴のキャリアプランを受け入れるのであれば、これを『美談』という向きもあろう。
承認欲求と歪んだ会社愛が生み出した、狂気的な自己陶酔――働きすぎこそが、最高の勲章だと信じる、一種のマゾヒスト。
笑って死地に赴く、狂信者や戦奴と同列の生き物と評せる。
「さぁ、24時間365日働こう!」
いつ終わるとも知れぬ激務のループは、すでに数ヶ月。
体中に鈍い痛みが走る中、意識の奥底では、言葉にならない疲労だけが溜まり続けていた。
だが――
「『痛み』や『疲労』こそが仕事をしている証! 仕事……ああ、仕事があるから生きていられるんだっ!」
身体の痛みや疲れよりも、激務から得られる達成感が勝っている。
「よっしゃ、もう一本いっとくかァ!」
マサトはエナジードリンクを一気飲み。
床を見ると、コーヒー空き缶の残骸も転がっていた。
過剰摂取の極みだが、眠気覚ましには必需品――本当に眠気がヤバイときは、10分程度の仮眠を取れば、あら不思議――
「深夜って最高だ! 誰にも邪魔されずに仕事ができるんだからっ!」
時計が深夜三時を回っても、アクセルべた踏み全力疾走できる。
彼の辞書にはブレーキという文字は書かれておらぬ。
だが――――
空も白み始めた五時過ぎに、マサトが仕事の手を止める。
まだまだ仕事をする気はいっぱいなのだが――
「腹が減った……」
いくら社畜でも腹は減るのだ。
都合の良いことにオフィスの前には、横断歩道をはさんで24時間営業のコンビニがある。
「弁当でも買いにいくか……」
マサトは徹夜明けで強張りきった肩と首をボキリと鳴らし、戦場を後にした。
「徹夜明けは、さすがに目がくらむ……ま、それがサラリーマンの醍醐味なんだが」
早朝、白み始めた空の下――視界がまばゆい。
「おや?」
横断歩道の向こうで、一人の老人が胸を押さえてうずくまっていた。
早朝の散歩中だったのだろう。だが、どう見ても体調が悪そうだ。
「大丈夫ですか――」
「む、胸がっ……」
「あっ! 救急車呼びますっ!」
マサトは駆け寄り、その場で膝をつき、スマホを取り出し――119番。
1分ほどすると、「今、救急車が向かっています!」という案内が流れる。
「もうすぐ来ますからね。それから――」
マサトが道の端に寄りましょうと告げかけた、その時だった。
パァン! と警笛。大型トラックが突っ込んできた。
「なっ……⁉」
早朝で人も車も少ない時間帯。だからか――減速の気配は、一切ない。
今からブレーキを踏んでも、もう――間に合わない。
だから彼は――
抱え上げて押し出した。老人だけを。
徹夜明けの頭ではそれだけが精いっぱい。
そしてドン! という衝撃――
そしてマサトの頭に、走馬灯のように思い出が駆け巡る――
苦しかった、辛かった――あれこれが――
30分前に出社したら「新人は1時間前に来て掃除するのが常識だろう!」と怒鳴られた、あの日。
そこからすべてが始まった。
納期48時間前に仕様が全部変わり、「じゃ、よろしく」とだけ言われて置き去りにされた金曜の夜。
会社の床で寝落ちして、目が覚めたら清掃員に「ご遺体かと思った」と本気で驚かれたあの朝。
「月100時間残業はキツいです」と言った同僚が1週間後に音信不通になったのを、逃げられて羨ましいと思ってしまったこと。
休日出勤中、『今月も会えないの? ならもういい』とメール一行で終わった恋――その夜、会社のソファで丸まってすすり泣いた。
業務時間外で作った資料が部長の成果として発表され、社内表彰を受けるのを拍手で見守れるほど組織に染まった充実感。
『忙しいのは信頼の証』という言葉に酔って、1年無休で働いた自分に、誰もいないオフィスで、本気でガッツポーズを決めたあの正月。
――そして働くことの喜びが、人生で一番大事な事なのだと確信できたこと。
それが完全無欠で無敵の社畜が完成するまでの物語だ。
もはや何も言うまい。
あとは逝くだけ。
そしてマサトは、薄れゆく意識の中で、こう叫ぶ――
「俺は――俺はもっと仕事がしたいんだ!」
『会社』と『仕事』に殉じた――哀れで救えぬ、社畜の最期だった。




