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ホリーとティティの森

作者: 榎戸曜子

今年もまた暑い夏でした。暑い暑いと言いながら、もうクリスマスシーズンです。忙しい季節ですが、こんな時こそちょっと寄り道。ティティの変な森へようこそ♪

 

 北風が旅人の体に容赦なく吹き付けていた。髪は乱れ、顔は汚れ、貧しい服もあちこち()けて血がにじんでいる。ひらひらと(またた)く白いものが旅人の目に(うつ)った。

(花びらが……いいえ、そんなはずはないわ。これは雪だ)

 それがなんであるか確かめる余裕はなかった。

(急げ、急がなくては。見つかってはいけない。何があってもこの子だけは助けなくては)

 旅人は体に赤ん坊を(くく)り付けた女だった。はやる気持ちとは裏腹(うらはら)にその足がもつれる。女は折れた剣で体を支えていた。女のたどった細い獣道(けものみち)には点々と血の(あと)があった。赤ん坊が泣く。女はあたりを見回し、気配(けはい)(さぐ)って追手(おって)がいないことを確かめると、ぐずぐずと地面に腰を下ろし、赤ん坊に乳を与えた。夢中で吸い付く赤ん坊の(ほほ)を、もはや(つえ)としてとしか役に立たない剣を置いて、いとおしそうになでる。もう片方の手は折れていて使い物にはならなかった。一度腰を下ろせばもう立ち上がれる気がしない。

(このまま逃げ切れるだろうか。いいや、やつらはそんなに甘くない。私たちを根絶(ねだ)やしにすることが天意(てんい)だと思っている。見つかればこの子は殺される)

 女は再び赤ん坊を背中に回し、剣を支えにどうにか立ち上がった。

(この体はいつまで持つだろうか。私が死ねばこの子も死ぬ。ああ、何としても身を(かく)さねば。どこか、どこか奴らに見つからないところに)

 女はどこを目指(めざ)しているわけでもなかった。ただ、追手(おって)から(のが)れているだけだった。食料は底をつき、水ももうほとんど残っていない。女はそれでも歩き続け、やがて倒れた。

 花びらが女の髪に、傷ついた体に、赤ん坊の額に舞い落ちた。



「大変だ。ついに女神さまがいらっしゃったぞ。おーい」

 タマル国の城にある物見(ものみ)の塔に()めていた神官は塔から()け下りた。女神がこの世に現れた兆候(ちょうこう)を見逃すまいと昼夜問わず行われる天体観測は、タマル国が国をなしたその当時から連綿(れんめん)と行われている神聖なお(つと)めだ。塔の下の階に詰めて神官の世話をしている見習いも神官の大声を聞いて(あわ)ててベッドから飛び起きて窓を開けた。満天(まんてん)の空に現れた色とりどりのオーロラ。こんな豪華なオーロラを見習い神官は見たことがない。

「すぐに王にお知らせするぞ」

 神官にせかされ、見習いは大慌てで車の用意をした。



「お方様(かたさま)、せっかくこっちに来たのだから、ゆっくり、楽しくいきましょうや。城はカヤネズミのウィーニーが万事整えておいたはず。さあ、さあ」

 城の(とびら)を開けながら大きくて立派なカラスが言った。カラスは首に白地に青の縞模様(しまもよう)(ちょう)ネクタイをしている。扉を開けると(ちり)一つない広々としたホール、そのホールは銀色に輝いている。

 ホールの中央階段の奥のドアが開いてカヤネズミが()けてきた。白くてしわ一つないエプロンをかけている。

「まあ、お方様(かたさま)、お(ひさ)しゅうございます」

「うん、ウィーニーは元気だった?」

 この城の主、種子(しゅし)王コウの娘ティティは言った。

「ええ、ええ、この通りですわ。お城もこの通り変わりありません」

「ウィーニー殿、お料理の準備はどうなっている?」

 蝶ネクタイのカラスが気取って聞いた。

「もちろん、(ととの)っておりますとも。でも、真夜中のことでしょう? まだリンツが寝ぼけてますの。朝になったら少しマシな果物が用意できると思うのですが」

「リンツか。会うのが楽しみだ」

「あの、シュルバン伯爵はまだこちらには?」

 ウィーニーは聞いた。

「朝になるころには着くだろうと言っている」

 ティティは答えた。

「そうですか。随分(ずいぶん)なお(とし)ですが」

「心配ないよ、とても元気だ」

「シュルバン伯爵ときたら大したものだ、ちっとも歳を感じさせない」

 蝶ネクタイのカラスが首を振る。

「クロッツ、一番の年寄りと言えばこの私だよ」

 ティティが言う。

「まあ」

 ウィーニーがカラスのクロッツを(にら)むと、クロッツは慌てて言った。

「お歳のことはさておいて……」

「ジャコウソウがよく(しげ)っている」

 ティティは中庭を見て言った。

「多少茂りすぎの感もありますが。少し手入れをいたしましょう。おい、集まれ」

 クロッツが声をかけるとたちまち六羽のカラスが集まった。

「お前たち、中庭を美しく整えて、かぐわしい香りの花を集めろ。蜂たちに知らせて極上(ごくじょう)の蜂蜜を、それと果実も忘れるな。リンツをせっつくんだ」

「わかりました」

 六羽のカラスはティティに一礼(いちれい)するとちょんちょんと扉のところまで急いで行き、さっと飛び立った。

「クロッツはめまぐるしいな」

「それが仕事ですからな」

 クロッツは胸を()った。

「お方様、皆が(そろ)うまで少し時間があります。さあ、湯あみとお着替えを」

 ウィーニーは(うやうや)しくティティを連れて行った。


 カヤネズミのウィーニー、そしてそのお手伝いにやって来たウィーニーの一族の手で、湯あみをする。ティティはカヤネズミたちが用意した衣に着替え、鏡の前に立った。

 きれいに(くし)の入った黒髪、小麦色の(はだ)に輝く黒い(ひとみ)(にしき)(ころも)(すそ)から金色のサンダルをはいた小さな足が少しだけ見えた。

「すっかりこっちの住人だ」

 ティティが笑うと、ウィーニーは深々(ふかぶか)とお辞儀(じぎ)をした。

「どうか心行くまでおくつろぎくださいませ」

「さあ、ホールへ」

「みんな待っています」

 カヤネズミたちが声を合わせた。


 ティティが現れると(にぎ)やかなホールが一瞬(いっしゅん)しんとなった。クロッツが叫ぶ。

「お方様がお戻りになられた。特別なシーズンの始まりだ」

「久しぶりに羽目(はめ)(はず)すぞ」

「お前はいつでも羽目が外れてるくせに」

「この時を待っていました」

「お方様、万歳(ばんざい)

「万歳」

 歓声(かんせい)が上がり、音楽が始まった。鳥たちが歌い、動物がダンスを踊り、蜂も蝶も蜻蛉(とんぼ)も負けじと舞う。サーカスが始まり、それぞれ自慢の(わざ)や曲芸を披露(ひろう)する。

「お方様も」

「お前たちのようにはいかないけどな」

 そう言いながらティティも(さそ)われるままに踊り、歌う。そこここから上がる喝采(かっさい)。とっておきのはちみつを味わい、果実酒を飲むとみんなますます陽気(ようき)になった。


「おお、おお、始まっておるな」

 ホールに小さな姿が現れ、ティティに向かってゆっくりゆっくり進んでいった。

「これは、これは、シュルバン伯爵ではありませんか。お早いお着きでしたな」

 クロッツが駆け寄った。

「シュルバン伯爵」

「伯爵、お久しぶりです」

「お変わりありませんか?」

 歌っていた者も、踊っていた者も小さなシュルバンのために道を開き、その小さな体の周りに集まった。

「シュルバン、待ってたよ」

 ティティは言った。

 シュルバンはその細長い体をなるべく上に伸ばし、胴体(どうたい)で体を支えた。

「私はお方様のように一瞬でこちらに来ることはしません。私たちには昔からのやり方がありますからな」

「シュルバンは普段(ふだん)私がいる世界とこちらを自分の力で行き来できる。それだけでいかに特別かわかるというものだ。見た目がいかに小さなミミズであっても」

 ティティは笑みを浮かべた。

「お方様にそれを言われると身の置き所がないと言うもの」

 シュルバンは謙虚(けんきょ)に一礼した。

「しかし、久しぶりの(うたげ)ですからな。さて、私も混ぜていただきましょうかのう」

 シュルバンは伸ばしていた胴体をすこし丸くした。

「楽にするといい。ここまで来るのにはシュルバンだって疲れただろう」

「特別なシーズンをお方様と過ごせるとあれば、どこだって行きますぞ」

「さあさ、ご老体(ろうたい)、駆けつけ三杯といいますからね、まずははちみつ酒をいかがです? 極上のやつですよ」

 クロッツが小さな小さなカップを差し出した。

「おお、ありがたいの。では、いただくとするか」

 シュルバンはカップにちょっと口を付けると、思い出したように言った。

「そういえばお方様、来る途中で変なものを見ましたぞ?」

「シュルバン伯爵、それは、何です?」

「変なものって?」

 皆が聞いた。

「目が四つあった」

「それは双頭(そうとう)の蛇ですか?」

 赤いチョッキを着たカエルが言った。

「いやいやシェイク、蛇ではない。何せ足があったからのう」

毒蜘蛛(どくぐも)か?」

「いやいやクロッツ、足は四本じゃ」

「よかった、毒蜘蛛じゃなくて。あいつら冗談がわからないからな。ちょっとあいさつしたお返しに毒針でチクリとやられちゃあ、しゃれにならない」

「ここはお方様の森です。そんなことする不届(ふとど)き者は中に入ることはおろか、近づくこともできないのです」

 ウィーリーはきっぱりと言った。

「もし来られる者がいるならここに来ればいい。門番なんかいないんだから」

「そうはいきませんや。お方様もひとが悪いな」

 クロッツが笑った。

「そうだ、それってタマルの王に違いない。目が四つとは誰かに()ぶわれてでもいたか。なにせ、お年寄りだから」

 一匹のリスがポンと手を打って言った。

「だがリンツよ、王がオーロラを見てここまで来るには少なくとも一週間はかかる」

 クロッツが答える。

「それにタマルの王だったらお(とも)(したが)えているはずだ」

 シェイクも言った。

「人間だった。だが、どう見てもタマルの王には見えなかった」

 シュルバンは言い、ホールにざわめきが広がった。

「ありえない。ここに来られるのはタマルの王とその供の者だけのはずだ。タマル国はお方様が一番最初に()えた国だ。それで特別にお方様がこの城にお入りになられた時にご挨拶をすることが許される。王たちはその時だけ城に近づけるのだ」

「ただの人間ではここには近づけないぞ?」

「シュルバン伯爵、タマルの王に見えなかったとは本当ですか?」

 ウィーニーが聞いた。

「それがタマルの王ではないなら誰だ? 何故(なぜ)森に入った?」

 クロッツが腕を組む。

「確かめよう。シュルバン、案内しろ」

 ティティはシュルバンを(てのひら)()せるとホールを出た。

「あっ、お方様」

「グスタフ、お前も来い」

 さっと歩き出したティティをシェイクとクロッツ、そして大きなクマのグスタフが追った。



 森の(はし)に大きな梅の木があった。その根元に赤ん坊を背負った若い女がうずくまっていた。

「確かに、人間だが、いったいどうやってここまで来たんだ?」

 女を見下ろすティティの(となり)でクロッツが言った。クロッツは人間の姿になっていた。白地に青の蝶ネクタイはそのままだが、黒い髪をきちんとなでつけ、黒のスーツを着込んでいる。さながら城の執事(しつじ)のようだ。カエルのシェイクもまた人間の姿をしていた。赤いジャケットに青いズボン、波打つ金髪の髪をした陽気な青年だ。

「死んでるんじゃないか? おい」

 こわごわとシェイクが女をつついた。

「うっ」

 女の(のど)からかすれた音が()れた。

「うわ、生きています」

「だが、シェイク、もうじき死ぬ。グスタフ、こいつを森の外に捨ててきてくれ」

 クロッツが言った。

 熊のグスタフもやはり人間の姿をしていた。短い褐色(かっしょく)の髪にがっしりとした巨体、白いシャツに黒い革のズボン、サスペンダーも黒で、赤い蝶ネクタイをしている。グスタフが女を(かつ)ぎあげようとした時だった。(くく)り付けた赤ん坊の頭がぐらりと()れた。赤ん坊が泣きだし、女の目が開く。途端(とたん)に女は信じられないような力で折れた刀を(にぎ)るとグスタフの胸をえぐった。

「グスタフ」

 慌てたシェイクとクロッツが女を引きはがし、女はどさりと地面に落ちた。が、ゆらりと立ち上がる。赤ん坊は泣き続けていた。

「グスタフ、大丈夫か?」

 グスタフの白いシャツには赤い血がにじんでいる。

「お方様、傷なんか大したことないが、おいらは毛皮の一張羅(いっちょうら)が残念だ」

 グスタフは(なげ)いた。

「グスタフ、人間に(おく)れを取るとは間抜(まぬ)けだぞ」

 クロッツが言った。そう言いながらも女から目を離さない。

「こんな状態でも人間だ。油断はできない。お方様とシュルバン伯爵は城にお戻りください」

 シェイクが女との間合(まあ)いを()めた。

「お方様、この二人に任せておきましょう」

 シュルバンが言った。

「お方様?」

 女の目がティティに向いた。その目に一抹(いちまつ)の希望が宿(やど)り、それが狂おしい光に変わった。

「もしかしたら、いいえ、きっとそうだわ。ここは古い言い伝えの、女神さまの森、あの不可侵(ふかしん)の森なのですね? 森の皆様の邪魔(じゃま)をするつもりは毛頭(もうとう)ございません。私はラトと申します。私は追っ手に追われているうちに、どうしてかわかりませんが、ここに迷い込んでしまったのです。この森でお方様と呼ばれるからには、あなた様はこの世界を作り、見守る女神様でいらっしゃいますか?」

 ティティは黙ってうなづいた。

「ああ、では厚かましいのは承知の上で申し上げます。女神様、どうか、どうかこの子をお助けください」

 狂おしい目をして女は訴えた。

「私はお前たちがやっていることに介入(かいにゅう)する気はない。頼まれたからと言って救う気もない」

 ティティの目はとても冷たかった。雪嵐の吹き付ける湖の氷でもこれほど冷たいかどうかわからないほどだ。

「死ぬのは一度だ。それで終わる」

 ティティは引き返そうとしていた。

 女は気持ちがくじけかかった。だが、くじけるわけにはいかなかった。

「女神様、お願いです。私の命はいいのです。でも、この子だけは」

「生きてどうするのだ? 追われていると言ったな? この子もお前も今ここで死のうと、しばらく後に殺されようと、同じではないかな?」

「いいえ、この子は死なせません」

「死なせないって言ったって、あんたはそんな身体だ。もうこの子に何もしてやれないぜ?」

 グスタフはそっと言い聞かせるように言った。

「おいおいグスタフ、うっかりほだされるなよ。おい、人間の女、お前はアテオンだな? アテオンはここのところ冷遇(れいぐう)されていると聞く。それでそんな有様(ありさま)か」

 クロッツはため息をつき、女は(だま)ってうなづいた。

「だが、どんなわけがあろうと、それは森の外のことだ。この森ではお方様が助けないと(おっしゃ)ったら、それでおしまいなんだ」

 クロッツはティティの前に出てきっぱりと言った。

 グスタフがそっと女を座らせ、シェイクが赤ん坊を抱かせた。赤ん坊が火が付いたように泣き出した。弱々しいと思っていた赤ん坊が上げる鳴き声にクロッツもシェイクも耳をふさいだ。

「赤ん坊とは、皆こんな面白い顔をしているのかな?」

 ティティは(つぶや)いた。

「何やら(みにく)うございますな」

 シュルバンがのぞき込む。そのシュルバンは立派な白いひげを(たくわ)えた老紳士の姿をしていた。服装はたいそう品がよい。

「だが、見ていて()きない」

 ティティはふっと笑った。

「ラトとやら、気が変わった、助けてやろう。この子の、先の運命まではわからないが、それでいいか?」

「ああ、ありがたい。ありがとうございます、女神様」

 女はかすむ目でティティを見上げた。

「これは私の城に続く道、西の道だ。ついておいで。と言っても、お前はもう歩けまい。お前は私にその子を預け、グスタフと来るがいい」 

 ラトは頷いた。 

 ティティは華奢(きゃしゃ)な子供の体だったが、軽々と赤ん坊を抱くと歩き出した。

「そら、その物騒(ぶっそう)なものは捨てな。おいらが()ぶってやるよ。ただし、少しチクチクするぜ。おいらの毛は(こわ)いからな」

 グスタフは熊の姿に戻っていた。シェイクも、クロッツも、シュルバンもそれぞれ(もと)の姿に戻っている。だが、ラトは驚かなかった。人間たちよりも動物たちの方がよほど信用できる気がしたのだ。ラトは折れた剣を手放した。

「お方様に続け。西の道を行くのであれば、われらでもお方様を見失えばひどい目に合う」

 シュルバンがティティの肩で叫んだ。

「身が軽いですな、ご老体(ろうたい)

 クロッツは飛び立ち、先を歩くティティに呼びかけた。

「お方様、グスタフとシェイクを忘れないでくださいよ」



 ラトのぼんやりした目にはケシの花畑を行くティティの小さな後ろ姿が(うつ)っていた。美しい、と思った。

「何もかも忘れてしまいそうな……」

 ラトは呟いた。

「そうさ、(すべ)て忘れてしまえばいいと、お方様は思っていらっしゃる。あんたはちょっとばかり(つら)い思いをし過ぎたようだから」

 グスタフは言った。

「全てを忘れる? 忘れられるというの? 夫を、父母を、兄弟姉妹を殺された悲しさを? 一族がちりぢりになり、もう会うこともないだろうと思う時の、その(むな)しさを? 誰がこの気持ちをわかるというの?」

「あんたをここまで強くしたのはその思いかもしれないが、そんな重たいものを(かか)えたままではいつまでも(つら)いままだ。もういらないのさ、あの折れた剣と同じだ」

「無理よ、無理なの」

 涙がラトの頬を伝った。

 そんなラトをケシの花が優しく()れて見送った。



 行く手に銀の城が見えた。

「お方様、それは? グスタフ、人間じゃないの」

 城の扉が開いて駈け寄ったウィーニーが金切声(かなきりごえ)で言った。

「シュルバン伯爵がおっしゃっていた変なものって、この人間でしたの?」

 ウィーニーはティティの腕の中の赤ん坊とグスタフの背中でぐったりとしている女を見て言った。

「うん、この赤ん坊があんまり面白いので連れて来た」

「お方様、赤ん坊はおもちゃじゃありませんよ。それに、その人間の女は死にかけているじゃありませんか」

「そう、今まで生きていたのが不思議なくらいだ。もうすぐ死ぬだろう。グスタフ、その女を私のベッドに。ベッドにはクローバーの花を()いてやろう」

「お方様、見ず知らずの人間をよりによってご自分のベッドに入れるなんて不吉(ふきつ)すぎます」

「ウィーニー、私に不吉は通用しない」

「そりゃあ、そうでしょうけど」

 そう言いながらウィーニーはティティのやって来た方向を見た。それから鼻をひくひくさせ、ひげをそよそよさせた。

「西の門から、ケシの花畑を通ったのですね」

「ああ。この女の記憶(きおく)はすべてなくなっているはずだ。グスタフ」

 グスタフは頷いてティティの部屋にラトを運んだ。



 シェイクが両手いっぱいのクローバーを運んできて、ベッドに横たわるラトの枕もとに置く。

「クローバーは人を(おだ)やかな気持ちにさせる。アテオンのラト、お前は温和(おんわ)で思いやりのある娘であり、妻であったろう。それがこの子を守るためにあれほど猛々(たけだけ)しく戦った。まるで猛獣を見ているようだった」

 ティティは言った。

 ラトがゆっくり目を開く。

「ラト、この子がわかるか?」

 ティティは赤ん坊をラトに見せた。赤ん坊はしきりにラトの方へ手を()ばす。それを見てもラトは首を振った。

「わかりません。でも、(いと)しい、とても愛しくて苦しいほどです」

「そうか。この子のことが気になるなら、この庭のジキタリスの花の中に宿(やど)るがいい。その苦しい思いが消えるまで」

 ラトはかすかに頷いた。



「ここで暮らすことになるんだから、この子をみんなに紹介しよう」

 ティティは赤ん坊を抱いてホールに戻った。

「お方様、それは?」

「人間だ、人間の赤ん坊だぞ?」

「どうやって森に来た? まして城に入るなんて」

「静かにしないか」

 シュルバンがみんなを黙らせ、言った。

「お方様はこの赤ん坊とその母親をこの城にお連れになった。お方様はこの子を育てるおつもりだ」

「シュルバン様、それはどういうことです?」

「この子はこの城で暮らし、この森を歩き回るということだな」

 いくつも悲鳴が上がった。

「そんな」

「人間がこの森で暮らすなんて、初めてのことだぞ?」

「人間はずる賢くて、残忍だ」

「それで弱くて、欲が深い」

「それなのに優しいところもあるっていうんだからな」

「複雑なんだ」

「そうだ、そうだ」

 口々に言いながら動物たちはティティに近づき、赤ん坊を(なが)めた。

「女の子ですか?」

「お世辞(せじ)にも美人というわけにはいきませんねえ」

「ミルクだ、赤ん坊にはミルクをやらなくてはならん」

「どうする?」

「わからないわ」

「乳が出る者から分けてもらってミルクがゆでも作るしかないだろう」

 (こま)り顔のみんなにクロッツが言った。

「笑っているぞ?」

「やれやれ、暢気(のんき)なもんだ」

「いい子になるかもしれないよ。うん、きっとなる」

 グスタフが言った。

「グスタフ、人間の肩を持つ気か?」

「別に、そんなつもりはないが。でも、あの母親を見ていたら助けてやりたくなったよ」

 そこへウィーニーがやって来た。

「お方様、たった今、人間の女が息を引き取りました。とても穏やかでしたよ」

 ティティは頷き、赤ん坊を(かか)げた。

「この子はここに置くが、時が来たら人間たちのところに返す。この森に住むお前たちと人間の時間は違う。お前たちにとっては、あっという間だろうよ」

「ちょっとお待ちください。人間のところに返すって、この子はアテオンです。ほら、小さくたって左の肩に三日月のあざがある」

 グスタフは言った。

「アテオンは同じ人間から狩られていると聞いたぞ?」

「そうじゃなくたって、ずる賢い人間のところに行くんだ。だまされないようにしつけなくちゃ」

「だますぐらいじゃないとやっていけないぞ?」

「強く育てないとだめよ」

「その前に逃げ足だよ」

 森の住人たちは口々に言い合った。



「お方様」

 一週間がたってもまだまだ(うたげ)が続く賑やかなホールに、堂々とした銀色のオオカミが現れた。

「ファス、タマルの王たちか?」

 ティティが聞いた。

「そうなのですが、何か(いや)な感じがします。お方様はお会いしないで私だけが相手をしましょう。すぐに追い払うのがよいかと思います」

「嫌な感じっていうのは、良からぬ思いを持っているってことか?」

 シェイクが聞いた。

「そうかもしれない。王の隊列はいつも通りなのだが、何かが違う」

「タマルの王があいさつに来た時は会うと約束したしなあ」

「お方様、それはいったいいつの話です?」

 シェイクが言った。

「この世界ができて、タマル王国ができた時」

「もうそろそろやめてもいいんじゃないですか?」

 クロッツが言った。

「約束は約束だ」

「わかりました。通しましょう。皆」

 ファスが声をかけると、ホールにいた者たちがそれぞれ人の姿に変わった。ファスも華やかな軍服姿で銀の髪が美しい精悍(せいかん)な青年になっていた。ファスの一族がやはり軍服姿に姿を変える。その中の一人がタマル王の一行を案内するため、ホールから出た。



「女神様、お久しゅうございます。189代タマル王ジョットーでございます」

 ホールに通されたタマル王は、立派な衣装(いしょう)をまとった森の住人たちに囲まれているティティの前で(ひざ)を折った。もちろん王に続く御付(おつ)きの者たちもひざまずき、深く(こうべ)()れている。

 タマル王は白いひげを長く伸ばしていた。かなりの高齢であるばかりか、身に着けた儀式用(ぎしきよう)古風(こふう)な衣装が重たいせいで、その動きはぎこちない。

「歳を取ったな、ジョットー王よ」

 ティティが言った。

「はい。もう、いつ死んでもおかしくない歳となりました。ですが、歳をとるのも良いものです。あなた様にご挨拶できず世を去る王も少なくないというのに、私は生涯(しょうがい)で二度もあなた様にお目通りできるのですから」

「そうか。宴を楽しんでいかれよ。その身も(いや)されるだろう。供の者たちもゆるりと過ごされよ」

「ありがとうございます」

 王はウィーニーに案内されてティティの隣に用意された椅子に座った。すると三人の従者がティティの前に進み出た。

「失礼いたします、女神様。こちらを」

「お前たち?」

 怪訝(けげん)な顔の王に(かま)わず彼らは進み出て、一人が(ふところ)から宝石で飾られた小さな金の箱を取り出した。

「我が国からの贈り物です。どうぞ、お受け取りください」

「我が国から? 何のことだ? そんな箱は知らんぞ」

 タマル王が叫び、我に返った他の従者たちが三人を押さえつけようとした。しかし、箱の口は開かれ、ティティを守ろうとしたファスがあっという間に箱の中に吸い込まれてしまった。

「ファス」

 叫び声が上がり、ホールが騒然(そうぜん)となった。

「ちっ、これでどうだ」

 すかさずもう一人がファスを吸い込んだものとそっくりの箱を開いた。今度こそティティが煙のように箱の中に吸い込まれる。

「お方様が」

「うそだ」

「あいつを殺せ」

「引き裂いてしまえ」

 皆がパニックに陥った。が、三人は落ち着いたものだ。

「動くな。さて、タマルの王よ、お前もだ」

 言うが早いか、タマル王もあっという間に箱の中に吸い込まれた。

「おじい様」

 一人の若者が駆け寄った。

「タマルの王の城には王を守る魔法使いたちがいたが、ここなら(すき)だらけだ。王は我が国が(あず)かった。王の命と引き換えに、領地の割譲(かつじょう)か王権の譲渡(じょうと)か、その両方か。追って交渉の会合が開かれることだろう」

「なんということを」

 若者が三人をにらんだ。

「女神様には、我らが王に会っていただく。今までタマルの王だけを特別扱いしていたことを()びていただこう」

「さあ、われらを森の外に返せ。さもないとお前たちの女神の命は保証しないぞ」

 偽従者たちはホールを見渡した。

「無礼にもほどがある」

 クロッツが叫んだ。

「身の(ほど)知らずめ」

 怒りで飛びかかりそうなシェイクに、三人の偽従者(にせじゅうしゃ)身構(みがま)えた。

「動くな、動けばお前たちの(あるじ)の命はない」

「そうかな?」

 城の空気が()らめき、ティティを吸い込んだ箱がめらめらと燃えはじめた。

「あ、熱い」

 たまらず箱を手放した偽従者の前にティティが立った。

「ファス、出てこい」

 ティティの声でファスが飲み込まれた箱が(くだ)けた。煙とともに巨大なオオカミが現れ、その(きば)があっという間に三人の偽従者を切り裂いてしまった。

目障(めざわ)りだ、城の外に捨てよ」

 人の姿に戻ったファスは切り裂かれた偽従者の遺骸(いがい)を部下に運び出させた。

「タマル王、ジョットー」

 ティティは呼んだ。

「女神様」

 残された箱の中から姿を現したタマル王は青ざめ、(ふる)えていた。

「も、申し訳ございません。どんな手違いでこんな不届(ふとど)き者が混じっていたのか」

「箱の中でのぞいたところによると、不届き者はセア国の者のようだ。タマル国には隙があるな」

 ファスは冷ややかに言った。

「申し訳ありません。女神様にもしものことがあれば、この命など差し出したところで到底(とうてい)(つぐな)えるものではなかった」

 王は力なく、ティティにわびた。一層(いっそう)年老いた様子の王の前にシュルバンが進み出た。

「王」

「ま、まさか」

 王は目を見開いた。

「あなたは、シュルバン伯爵ではないか?」

「はい。私はタマル国のスクート領を預かるシュルバンでございます」

 シュルバンは優雅にお辞儀(じぎ)をした。

「いや、しかし、以前会った時と全く変わらない、世はまだ青年だったぞ?」

「はい、私はこちらの者ですので、歳をとるのがたいそうゆっくりなのですよ。王よ、どうか私が王を(いつわ)っていたと(おっしゃ)いますな。事情が事情ですからな」

「そうか、それでわかったぞ。タマル王の心得(こころえ)の一つに、スクートの領主の結婚には口を出すな、たとえ城に参内(さんだい)しなくてもスクートの領主を決して疑ってはならぬ。というものがあります。なるほど、女神様の森の方であれば、さよう、真実を語れなかったのも仕方あるまい。それよりも、問題は、ああ、ここで起こった失態(しったい)よ」

「それについては王よ、ご安心なされよ。お方様はそもそもこの世界をおつくりになったお方。どんな武器でも、魔法でも、お方様を屈服(くっぷく)させることはできません。お方様を傷つけようとすれば、それはその者に返る。今頃箱を通してお方様を(とら)えようとした魔法使いたちは黒焦(くろこ)げになっているでしょう。しかし、今回はそれだけで()みましたが、お方様のお考えによっては、国一つ、いや、この世が消えることもあるのです」

 悲鳴が上がり、やざわめきが広がった。

「タマル国を立て直せるか?」

 ティティは聞いた。

「は、はい」

 王は口ごもってしまった。

「努力しております」

 答えたのはタマル王が箱に吸い込まれた時に駈け寄った年若い従者だった。

「お前は王の血縁(けつえん)か?」

 ティティは言った。

「はい、孫のティオンです」

「お前が次の王か?」

「いいえ、女神様。ティオンの兄が後を継ぐことになるでしょう。この子の父親は早くに死んでおります。この子の兄たちはそれぞれセア国、チュニエル国との戦いの指揮に当たっておりますので、末のティオンを私の一存(いちぞん)で連れてまいりました」

 王は答えた。

「私はユーリの塔に入りたいのです。そこで学び、国の役に立ちたいと思っております」

 ティオンは言った。

「ユーリの塔で学ぶ道を選ぶか。確かにセア国は魔法使いの力が増しているようだ。武力だけではタマル国はセア国に勝てないかもしれないな。その上タマル国はチュニエル国とも紛争(ふんそう)を抱えているとは」

「チュニエル国はここのところ爆発的に人口を増やしています。(まわ)りの小さな国々を飲み込んでいるのです。その勢いは(あなど)れません」

 タマル王は言った。それが(ひか)えめな言い方であると、ティオンの顔が訴えている。

「セア国にチュニエル国か。なるほど。タマル国は国難(こくなん)の最中だったというわけだ」

「女神様、お願いです。どうかわれらにそのお力をお貸しください」

 ティオンは言った。

「ティオン」

 タマル王は孫を一喝(いっかつ)し、平伏(へいふく)した。

「女神様、孫の無礼をお許しください。そのお姿を目にし、世界の不思議を感じること、それがタマル王が他の王と違う、特別であると言われる所以(ゆえん)だと重々(じゅうじゅう)承知いたしております。それ以上のことを望むほどの身の程知らずではありません」

「私は干渉しない。ここにいる時はそうすることにしている」

 ティティは答えた。

 ティティは超然(ちょうぜん)としており、ティオンは見当違いなことを言ったと(さと)った。

「浅はかなことを申しました。お許しください」

「構わない」

 ティティは頷き、ティオンをジョットー王の隣に座らせた。

「お二人に飲み物を」

 ウィーニーがグラスに金色をした飲み物を注いだ。ティティは懐から小さな花をつけた一本の草を取り出し、その花と葉を一方のグラスに散らすと、それを王に渡した。王は恭しくいただき、飲み干す。ティオンもウィーニーから受け取った飲み物を飲んだ。ほんのりと甘い酒だと思ったが、しばらくたつと体の隅々(すみずみ)まで生気がみなぎるようだった。ティオンは祖父を見た。王も酒のせいか顔色がよいように思えた。

「とても穏やかな気持ちです。酒を飲んでこんな気持ちになったことなどありませんでした」

「最近は特に、だろう? 王には心労(しんろう)がある。痛みも(かか)えているようだ」

「痛みのこともお分かりでしたか」

「うん。この花はクマツヅラだ。この森に生えるクマツヅラは痛みを(やわ)らげる。王も少しは楽になるはずだ」

 王は腹に当てていた手をどけた。腹に手を当てるのは、もう長いこと(くせ)になっていた。そこが痛んで仕方(しかた)がなかったからなのだが、今、痛みを感じない。気がつけば、ホールの中にはかぐわしい香りと、音楽で満ちている。

「寿命の()きかかっている身で、こんな幸せな時が待てるとは」

 王は微笑(ほほえ)んだ。

「先に長い時があろうと、時が尽きかかっていようと、幸せには関係ない」

 ティティは答えた。シュルバンがティティに何事か告げる。ティティが頷くと、シュルバンは王に言った。

「知らせが参りました。タマル国の北の国境はセア国に突破(とっぱ)され、オーリス王子率いる軍は撤退(てったい)しております。体制を整えるため、オーリス王子はいったん王都にお戻りになり、王のご指示を(あお)ぐことになろうかと思われます」

「兄上はご無事であろうな?」

 ティオンは聞かずにはいられなかった。

「軽い傷は負っておられますが、命に別状(べつじょう)はないようでございます」

 シュルバンは答え、ティオンはほっと胸をなでおろした。

「女神様、お名残(なご)()しくはございますが、すぐにこちらを()たねばなりますまい」

 王は立ち上がった。ティオンもそれに続く。たとえ一時(いっとき)にしろ、心の平穏(へいおん)()た祖父はまたあの重圧の中に戻るのだ。ティオンが年老いた王を(あわ)れに思った時、ティティの声がホールに響いた。

「重荷を背負うタマルの勇者に幸あれ」

 タマル王の背筋が伸びた。

「ありがとうございます」

 王は深々と頭を下げて残った従者を引き連れ、森を出たのだった。



 森の住人たちはまた歌を歌い、楽器を演奏し、踊り、飛びまわっていたが、やがてティティは言った。

「少し眠くなった」

 宴の終わりの合図だ。

「さあさ、宴はお開きだ。お方様は逃げはしないよ。みんな、片付けを手伝っておくれ」

 ウィーニーは同族の仲間たちとてきぱきと片付け始めた。手伝いながらリスのリンツがぽつりと言った。

「でも、お方様はいつかまた帰っていまうんだな」

「そうさ。でもしばらくはこちらにいらっしゃる」

 優しく言うウィーニーにクロッツが続けた。

「めそめそしてるとお方様に嫌われるぞ?」

「クロッツはいいじゃないか。向こうの世界でもお方様と一緒だから。シェイクだってそうだ」

 シェイクはリンツに言った。

「向こうにはこんな森はないんだよ」

「ただ待てばいい。お方様は何度でも帰っていらっしゃる。いつも通りにな」

 シュルバンも言った。



 ティティはいつも通りこの森にやって来たけれど、今回はいつもと違うところがひとつあった。あの赤ん坊だ。

「お方様、この子を何と呼びましょうか? いつまでも名無しというわけにはいきませんよ?」

 ウィーニーは小さなベッドですやすやと眠る赤ん坊を(のぞ)き込んで言った。

「ホリーと呼ぼうか」

 ティティは言った。

「ホリーか」

「ホリー、いい名前だなあ」

「この子の名前はホリーだ」

 クロッツもシェイクもグスタフも声を上げた。

「やっと名前をもらったのね、ホリー、よかったわね」

 ウィーニーの顔もほころんだ。

「みんな、ホリーのことが気に入っているようだね」

 ティティは笑った。

「だって、この子、笑うと可愛(かわい)いんですもの」

 ウィーニーがホリーの寝顔をつつく。

「毎日ギンバイカの葉を(せん)じて飲ませよう。美人になるぜ」

 クロッツが言った。

「まだ早いですよ。その時が来たら私がちゃんと飲ませてあげます」

 ウィーニーが言った。

「このままでいいよ。だけど、どんな子になるのかなあ。楽しみだなあ」

 グスタフが言った。

「母親のような目に合わなければいいけどな」

 シェイクが小さく言った。 



「ちびすけホリーはどこだい?」

 城の廊下でクロッツがウィニーを捕まえて聞いた。

「シェイクたちと湖に行きましたよ。お方様もご一緒です」

「何だと? この俺が後れを取るなんて不覚(ふかく)だ」

「この間、出し抜かれたお返しだそうですよ。森で木に登ったんですって? 枝から飛び降りたって聞いてますが、本当ですか? ホリーはまだ小さいんですから、無理をさせてはいけません」

「お方様だって見ていたんだ。面白がっていらしたよ。何より、けが一つしなかったんだからいいじゃないか」

「いつか怪我しますよ、このまま行ったらね」

「はいはい、せいぜい気を付けますとも」

 クロッツはさっと城を飛び立った。



「クロッツ、やっと来た」

 湖のほとりではちみつ付きのパンケーキを頬張りながらホリーは言った。

「やっとって、ホリーたちはいつ来たんだ?」

「朝早く。お日様が昇るころ」

「お方様までそんなに早く来たのか?」

「そう、私が起こしたの。お方様と一緒に泳ぎたくて」

 ティティは柔らかい草の上に寝そべっていた。

「お方様、お茶はいかがですか?」

 ホリーが聞いた。

「うん、ひと泳ぎしたらのどが渇いた。ホリーが淹れてくれるの?」

「ウィーニーに教えてもらったの。すぐに用意しますね」

 ホリーは大きなバスケットからポットとカップを取り出し、それをシェイクは手伝いながら言った。

「まったく、お方様は魚の精みたいだな」

「私もあんなふうになれるかなあ?」

 ホリーは真剣だった。

「うーん、ちょっと大変だろうが、そのうちにな」

 シェイクはポンとホリーの肩をたたいた。

「ホリー、森の中を飛び回ろうぜ」

 クロッツが言った。

「今日は湖だ」

 シェイクがきっぱりと答えた。

「お方様、お茶ですよ」

 お茶をこぼさないようにホリーはそろそろとお盆を運ぶ。

「ホリーは何をやっても面白がるんだから順番でいいじゃないか。ああ、でも午後はだめだよ。ホリーはおいらと相撲(すもう)をするんだから」

 湖から顔を上げて見守っていたグスタフが言った。

 


「ウィーリー、お方様がまた見つからないの」

 幼子(おさなご)だったホリーも少しずつ大人っぽくなっていった。

「そうねえ、今日は北の国かしらねえ。もう雪が降っているころだから」

「私も行きたかったな」

「ホリー、そんなにお方様を追い回してはいけませんよ。お方様はこちらで気ままにお過ごしになるのだから」

「だって」

「あなたを引き取ったのもお方様の気まぐれなんだから」

「気まぐれ? それってなあに?」

「それはね」

 ウィーリーは口を(おさ)えてあたりを見回した。

「ほら、中庭にシェイクがいる。行ってごらん。しばらく遊んだらおやつにしましょう」

「うん」

 ホリーはうなづくと中庭に走っていった。



「ねえ、お方様はどうしてあんなに眠たがりなの?」

 また別の日に、ホリーはシチューを作っていたウィーリーに聞いた。

「ホリーはもっとお方様と遊びたいんでしょうけど、お方様はこの森にお休みに来ていらっしゃるの。ここを出たら、お方様にはそりゃあ大事なお仕事があるからね」

「お方様のお仕事って?」

「世界を作って、育てる。ちょうどお庭を作るみたいに」

「お庭? お花を植えて、お水をやって、肥料をあげるみたいなこと?」

「そう。病気に気を付けたり、悪い虫を減らしたり、増えすぎた草を抜くようなこともあるかもしれない」

「ふうん」

 ホリーは首をかしげて笑った。

「それで、ゆっくりしなくちゃいけないのね」

「そういうこと。お方様はご自分の作られた世界の中にあるこの森にやって来てご自分の作られた世界をごらんになる」

「うん」

「わかったら、シェイクに遊んでもらいなさい。さっき中庭にいたよ」

 ホリーはまたうなづいて庭に走っていった。



 ある日、ホリーはシェイクに聞いてみた。

「ねえ、シェイク、お方様がいない間、森のみんなはどうしているの?」

「え、そんなこと俺に聞くのかい?」

「シェイク、知らないの?」

 ホリーがびっくりするとシェイクは胸を()った。

「ああ、経験したことはないね。俺はいつもお方様と一緒だからな、お方様がいない森なんてわからないよ」

「シェイクはお方様が世界の世話をしているの、見たことある?」

 シェイクはにっこり笑った。

「ああ、お方様はそりゃあ楽しそうになさってる。俺はそのそばで飛んだり、跳ねたり。お方様に俺の見つけたものを知らせるんだ。お方様は喜んでくれるよ」

「いいなあ。私もいっしょに行ける?」

「ホリー、それは……どうかなあ」

「どうして?」

「うーん」

 シェイクは困った顔をしてホリーを見たが、すぐに明るい声で言った。

「おい、ホリー、お方様のいない森のこと知りたかったんだろう? グスタフに聞いてごらん」



 城を囲む森の中にひときわ目立つ栗の木の(みき)にもたれているグスタフを見つけて、ホリーは駆け寄った。

 グスタフは空を見ていた。

「やあ、ホリー」

「グスタフ、何してるの?」

「何って別に何もしていないよ。空の向こうはどうなっているのかなあと思って(なが)めていただけだ」

「空の向こうって考えたことなかったな」

「そうかい? おいらはときどき思うよ、見上げればいつもそこにあるのに見ていて()きることがないのも不思議だ。きっとあそこはおいらたちにとって、とてもとても大切な場所なんだ」

「うん、そうかもしれないね」

 ホリーも空を見上げた。風は連なる木々の緑を揺らし、空は青く木々の緑とその色の鮮やかさを競っている。雲は刻々と形を変えていき、確かに見ていて飽きることはなかった。

「ねえ、グスタフ、お方様がいない間、森のみんなはどうしているの?」

「どうって言ってもなあ。いろいろだよ」

 グスタフは空を見上げたまま答えた。

「カヤネズミのウィーニーは仲間と城を(ととの)えてるよ。お方様がいついらしても大丈夫なようにね。リスのリンツもウサギたちも鏡や、食器や、床や、壁や、とにかくいろんなものを(みが)いてる。おいらたちは城の周りを掃除してる。そんな具合(ぐあい)にみんな準備して、待っているんだ。この城と森にお方様っていう命が吹き込まれるのをね」

「でも、それだけじゃ(ひま)じゃないかな?」

 ホリーが言うとグスタフは笑い出した。

「ホリーは冬は(きら)いかい? 春を待つ気持ちは素敵じゃないか」

「グスタフは、待つことが好きなの?」

「もちろん。森のみんなもそうだよ。そういうものなんだ」

「じゃ、お方様がいてもいなくても幸せなのね」

「お方様がどこかにいらっしゃるだけで幸せだ。ホリーは違うのかい?」

「違うわ、大違いよ」

 ホリーは大きく首を振った。

「お方様がそばにいないなんて考えられない。私もクロッツやシェイクみたいにこの森の外でもお方様のお手伝いが出来たらいいのに。ねえ、グスタフ、どうしたらいいの? いい子にしていてもだめなの?」

 ホリーにじっと見つめられてグスタフは困ってしまった。

「え、と、おいらはこっちから出たことがないからね、ホリー、クロッツに聞いてごらんよ。クロッツならいい考えが浮かぶかも」

「そうだね」

 ホリーは答えた。

 ホリーはクロッツを見つけたら絶対にいい考えを教えてもらおう、お方様のそばにいるためなら何でもするんだと心に決めた。そこでクロッツを探したがなかなか見つからない。城にも、森にもクロッツの気配(けはい)はなかった。



「ホリー、雪遊びに行くけど、お前も行くかい?」

 しばらく出かけていたティティが言った。

「行く、行きます」

 ホリーはファスにまたがったティティの前に乗せてもらった。

 ファスが()けた。森を()けると、ファスは地面をけり、高く飛んだ。その体が(ちゅう)をける。見下ろせば、人の家がポツリ、ポツリと見えた。

「うわあ」

 大きく口を開けると冷たい空気が入り込み、ホリーは思わずせき込んだ。

「そうだったな」

 ティティが軽やかに笑うと、ホリーは暖かい空気に(つつ)まれた。やがて目の前に雪をかぶった山々が見え、ファスは山頂近くに二人を下した。

「ちょっと、待ってるんだよ」

 そう言ってティティは姿を消し、間もなく自分の三倍もあるような丸太を(かつ)いできた。

「そり遊びだ」

 ティティはホリーを丸太にまたがらせ、その後ろにまたがった。

「じゃ、ファス、行ってくるよ」

 そう言うが早いか、丸太がすごい勢いで雪の上を滑りだす。

「お方様、こわい、こわいよう」

「そうかい? しっかり目を開けてごらん」

「だめ、だめだよう」

 はじめはティティにしがみついて、目をつぶっていたホリーはティティの笑い声につられて目を開けた。雪の上を(すべ)っていく丸太のスピードといったら、これまでに一番のスリルだった。ティティは(たく)みに丸太を(あやつ)り、滑っていく。

「わあ、すごい、すごい」

 ホリーは歓声(かんせい)を上げた。



 月日が流れたが、クロッツは姿を見せなかった。その行方(ゆくえ)については、ウィーニーもシェイクもグスタフも森のみんなに聞いてもただ見かけないというだけだった。もともと森のみんなは気ままに暮らしているので、クロッツの姿が見えなくても(たい)して気にした様子もない。ティティが呼べばすぐに姿を(あらわ)すのだろうが、ティティが呼んでいないのならどこかで羽を伸ばしているのだろうとホリーは思った。



「あ、クロッツじゃない。どこに行っていたの?」

 ある日、ホリーはやっと城のベランダでクロッツを見つけて声をかけた。

「やあ、ホリー。元気だったかい? また大きくなったなあ」

「ねえ、どこに行ってたの?」

「あちこち飛び回ってたよ。うん、一言(ひとこと)では言えない。つまり、いろいろだな」

 ホリーはぷうっと口を(ふく)らませた。

「ねえ、クロッツ、私クロッツに聞きたいことがあったんだよ。それでずっと待ってたんだから」

「へえ、そりゃ何だい?」

「ええと、私もいつかクロッツみたいにずっとお方様と一緒にいられるかなってことなんだ。向こうの世界でお方様のお仕事を手伝えるかなあって」

 クロッツは目を丸くした。

「ホリーはそんなことを考えてたのかい?」

「うん。ねえ、どうしたらいいか教えてよ」

「どうしたらいいか、か」

「ねえ、早く早く。クロッツなら知ってるでしょ?」

「じゃあ、言うけど、俺は知らないし、それは無理だと思う」

「どうして? クロッツ、ひどい。どうして無理なの?」

「それはね、ホリーはお方様が作ったこの世界に属するから。別の世界なんて無理なんだよ。そもそもこの森にだって入れないはずなんだ。(あと)にも(さき)にもこの森に入れた人間はホリーとホリーを背負ったホリーのお母さんだけだったんだ」

「それならいいわ、私がお方様についていくこの世界で初めての人間になる」

「ホリーったら」

 クロッツは困った顔をした。

「君が、ホリーか」

 クロッツのそばで声がした。ミミズの姿だが、黒縁(くろぶち)眼鏡(めがね)をかけている。いつもおしゃれなベストを着ているシュルバンとは違っていた。

「あなたは?」

「初めまして。私はカルルだよ。シュルバン様のお手伝いをしている」

「シュルバン伯爵の右腕さ。物知りだし、頭がいいんだ」

 クロッツが言った。

「初めまして、カルルさん」

 ホリーは真剣な顔でカルルを見た。

「カルルさん、お願いです。私に別の世界に行く方法を教えてくれませんか? シュルバン伯爵はお方様のいる世界とお方様が作った世界を行き来できるんだもの、立派なあなたならその方法を知っているんじゃないかしら?」

「悪いが、ホリー、この世界の者がお方様のいらっしゃる世界に行くことはできない。クロッツの言うとおりだ。あきらめなさい」

 カルルは静かに言った。

「そんなの嫌です。我慢(がまん)できないわ。お方様が戻るまでグスタフみたいに待ってなんかいられない。何か方法があるはずよ」

 ホリーはこぶしを握り、地団駄(じだんだ)()んだ。

「ホリー、君はまだ小さいが、知らなくてはならないことがあるね」

「私が知らなくてはならないこと?」

「そうだ。(たと)えば、なぜ君の母上がこの森にやってくることになったのか」

「えっ、それはなぜなんです?」 

「近いうちにわかるだろう。私はクロッツと相談がある」

 カルルはそう言うと、クロッツの()に乗って飛んで行ってしまった。

(あきらめることなんかできない。それに、なんだかわけがわからない。知らなくてはならないことですって? 私のお母さんがこの森に来たわけですって? お方様と一緒にいられるなら、そんなこと知らなくても(かま)わないわ)

 ホリーは頭がぐらぐらし、それから無性(むしょう)(はら)()った。



 その晩、ホリーはなかなか眠れずベッドで何度も寝返(ねがえ)りを()った。そして決心した。

(お方様に頼めばいいんだわ。お方様はきっと私を一緒に連れて行ってくれるはずだもの)




「おや、ホリー、早起きだね」

 ホリーがティティの部屋を訪ねるとティティはまだベッドの中にいた。こう見るとティティはとても(おさな)く見えた。

「お方様ったら、小さくてかわいい」

 思わず微笑んで、それからホリーは何か、大きなことに気がついた。

「なぜ」

 ホリーはティティを見つめた。

「なぜお方様はずっと変わらないのに、どうして私ばっかりが大きくなっちゃったの? そういえば、クロッツもシェイクも、グスタフも、ウィーニーだってちっとも変わらない」

 ゆっくり起き上がり、ティティもホリーを見つめた。

「その時が来たようだね」

 ティティは静かに言った。

「お方様? ああっ」

 ホリーの周りの世界が(うす)く、かすんだ。それが陽炎(かげろう)のように()らぐ中で、ホリーは森のみんなの声を()いた。

「さようなら、ホリー」

「楽しかったよ」

「元気でね」

(どうしたの、急に? 私は、何か言ってはいけないことを言っちゃったの? さようならなんて、(うそ)でしょう?)

「また逢えたらいいなあ」

(ああ、この声はグスタフだ)

「シュルバン伯爵だけ会えるなんてずるいぞ」

「俺もこっそり見に行くからな」

(クロッツとシェイク)

「体に気を付けるんですよ」

(ウィーニー、やめて、みんなやめてよ。また、遊ぼうよ)

「自分の世界で生きてごらん」

 ひときわはっきりとティティの声が言った。

「お方様、嫌だ、嫌です。私はずっとお方様のそばにいたいの」

 ホリーはありったけの声を出した。その声が(とど)いたかどうかホリーにはわからなかった。あたりはしんと静まり返り、ホリーは深い眠りに落ちていた。


 タマルの王宮ではいつからかスーク領主のシュルバン伯爵が養女(ようじょ)(むか)えたとうわさが流れた。代々宮廷に姿を見せることなく、貴族たちとの付き合いも伯爵本人ではなく、伯爵の周りの者が代理で行うという風変(ふうが)わりな家系だが、その力は強大だ。タマル王家か、それ以上の歴史を持つといわれるスーク領主に歴代(れきだい)の王は敬意(けいい)(はら)い、一目(いちもく)二目(にもく)()いてきた。そしてスーク領主もそれにこたえて王家に危機が(おとず)れるときは必ず力を()している。(そと)からは全くその内情(ないじょう)がわからないスークの領主が養女を迎えるなんて前代未聞(ぜんだいみもん)の話で、これは格好(かっこう)のうわさの(たね)だ。タマル国内ばかりか、周辺の国々の王や貴族たちもその少女のことを知りたがった。しかし、どんなに使用人たちに話を聞いても、魔法を使って調べても、わかることはごくわずかだった。

 その少女の名前はホリー、だが、城の者たちは彼女のことをこっそり妖精姫と呼んでいるという。




これからホリーはどうなるのか? ティティ、そして森の仲間たちは?

機会があったらまたお会いしましょう。

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