老桜の花
「老師!老師!大丈夫ですか!老師!」
『ん。なんだ?俺を呼んでいるのか?にしても、老師って何だよ。ふざけているのか?』
ようやく目を開けることができた。意識は曖昧ではあるが、目の前の景色は理解できた。見慣れぬ衣装に見慣れる髪型の若者が数名、俺をのぞき込んでいる。
『あれ?なんだこれ。さっき倒れたのは校門を出たところだったと思うのだが。』
龍田 昇。高校教師。厳格さと優しさを併せ持ち、多くの生徒を指導してきた。彼が生徒指導部長として勤めた学校では、最低でも月一度発行する「生徒指導部だより」の啓発が功を奏して、指導事故は少なく、問題を起こした生徒も心から失敗を悔い、多くは二度と同じ過ちを繰り返さなかった。頭ごなしに叱ることはほとんど無く、子どもたちに言葉に丁寧に耳を傾け、切々と語りかけた。時には自らも涙を流しながら。生徒との心を交わす語り合いを終えてから、自身の教材研究を行うので、帰宅時間は22時を回ることが多かった。しかし、その生徒指導の実績からか、他の教職員からの信頼も厚く、校長からは管理職への道を勧められた。『君ならきっと、先生方を導いて、理想の学校を作ることができる』そう煽てられて教頭になった。なって数年で後悔した。
『だまされたな』
管理職という名の雑用係。誰が何のために欲しがっているのかわからぬ統計データの集約と報告。教育委員会や関連団体から来る膨大な数の通知文書の確認と対応。そしてそのファイリング。地域からの要望対応。担任の保護者対応のサポート。そして校舎の警備確認。若い教員に語りかける時間などほとんど取れず、多忙すぎて仕事が追いつかない教員達の不満のはけ口として言葉を受け止める。家に帰っても心配事ややりかけの課題が脳裏をかすめ、熟睡できない日々も多い。かつて親しんだスポーツに費やす時間もほとんど無く、心身共に疲弊していた。ただ、校舎内外ですれ違う子どもたちの笑顔だけが救いであった。
健康診断で引っかかり、過労と言われてもそうそう休むこともできない。担う仕事が多すぎて、休むと影響が大きいのだ。
その日も、怒濤の勢いで仕事をこなし、すっかり暗くなってから職員室を出た彼は、勤務する学校の校門を出たところでついに倒れた。胸が詰まり耳の奥が熱くなりそのまま意識を失った。
「おお老師!老師が目を覚まされたぞ!」
「今は何年だ。ここはどこだ。」
「ん?老師、今は光和5年の春。ここは幽州・涿県にある学舎です。」
『光和五年?黄巾の乱が起こる2年前。涿県は、廬植や劉備達が居た場所か。』
昇は三国志を好んでいたため、すぐにそれらが頭に浮かんだ。少しわくわくしながらも、事態がまだ飲み込めずにいた。
『こ、これは転生ってやつか。』
弟子とおぼしき若者たちに脇を抱えられ、家屋の寝所に運ばれた。部屋の隅によく磨かれた鏡がある。それに映る姿を見て腑に落ちた。
『なるほど。老師と呼ばれるわけだ。』
真っ白な髪。同じく真っ白な豊かな髭を蓄えた老人がそこに居る。どうやらこれが今の自分らしい。
『転生って言うのは、若返るのではないのか。赤ん坊からやり直す場合もあるのではないのか。なんで俺はさらに年を取っているんだ?』
昇が倒れた時は齢59。教育委員会の現場無視の指示に対して、一々苦言を呈していたこともあり、ついに校長への採用はなかった。それでもあと一年。勤め上げて退職を迎える、そんな年であった。
しかし、今目の前に居るのはどう見ても70近い老人。昇の知る転生話とは全く違っていた。倒れた後ではあったが、顔色は戻り、目には力があり、そして70とは思えぬ屈強な体を持っていた。
「なぁ。俺は何者だ?」
昇の突然の言葉に、弟子達は混乱した。なぁって?俺って?
「老師、大丈夫ですか?そのような話し方をされるのは、いかがされたのですか?」
不安に満ちた顔を見て、昇は失敗したなと思い直した。
「おお。すまぬ。倒れたせいであろう。記憶が混乱しておるのじゃ。儂はそなたらにとってどのような存在なのじゃ。」
思いつくだけの老人の話し方で言い直した。
「老師。老師は我らの学問と武芸の師匠であらせられます。老師の指導を受け、文武を磨き、心身の鍛練をしております。」
「儂は優秀な師匠であるのか。どれほどなのだ。」
「我らには良い師匠でございます。しかし、同郷の廬植様には遠く及びません。」
『遠く及びませんって、そこまで言うのか。』そう感じながらも、大体の状況を理解した。数名の弟子は抱えているがさほど有名なわけでもない。小さな私塾を開いて細々と食をつないでいるというところか。
「儂は、廬植殿とは面識があるのか?」
「ご学友であったと伺ったことはあります。とても敵わなかったとも。」
前世。苦労を引き受けすぎて倒れたにもかかわらず、それらに報いるわけでもない、なんともお粗末な転生。年は10ほど老け込み、優れた才能や能力が与えられた訳でもない。ただただ、新しい人生を異世界で与えられたと言うだけか。新しい人生と言うにはあまりにも短そうだ。あと5年もすれば寿命か。この時代、それほど栄養事情も医療事情も良くはあるまい。武芸をおしえていたと言うから、矍鑠ではあるが。
『何のための転生なのだろう。』
意識の混乱も収まり、なんとか状況も飲み込めた。どうやら神様は突然死に際して、5年ほど好きな世界で生きさせてやろうと、いたずらに思ったのだろう。
ならばと、昇は家屋を出て村の様子を見て回ることにした。
村は質素であったが飢えてはいなかった。田畑は作物がよく茂り、農夫達は皆、元気に歌を歌いながら作業を進めている。川岸では娘達がやはり歌いながら洗濯や炊事をしていた。快活なのどかな村。人々と目が合うと誰もが『おお老師様』と声をかけてくれる。村人からはそれなりに慕われているようだ。蓄積してきた知識を細々とでも若者達に伝え、静かに余生を過ごすには良い村ではないか。
数日たって、その長閑さを実感した。弟子達はわずかずつ食料を持ち寄り学び舎を訪れ、講義の間に調理し、昇と一緒に食事を取った。時折、村の娘が山で採れた果実を差し入れてくれる。講義の時間は、人との関わり方や文章の組み立て方、そして人生哲学など、思いつくままに語り聞かせたが、弟子達は喜んで真剣に聞いていた。
一つ困ったのは武芸の時間。昇には剣道の覚えがなかった。柔道は高校時代に授業でひとしきり教わり、教員時代に無理矢理に顧問にさせられた時期に一応、黒帯を取得していた。しばらくは『やってみせよ!』と言って、観察することから始めた。
昇が主に取り組んでいたスポーツのはソフトテニス。振り回す物はラケットであったが、インパクトの注力やそのための体重移動などは、剣や槍になんとか応用できて、もっともらしくアドバイスすると、これがうまい具合に合致して、弟子達が喜んだ。乱戦とならば体術も必要と、柔道の基本から技のいくつかを伝えて、修練させた。
しかしそこは、戦乱とは無縁な長閑な村。武芸と言っても必死な修練ではなく、習い事の一つという感覚であった。
「村人の笑顔を楽しみ、悩み事があれば相談受け助言し、会食を楽しみながら、ゆっくりその時を待つか。」
最初は不満に思った転生であったが、これはこれでアリだなと、昇は思った。
しかし時代はその長閑さを許さなかった。時は後漢末期。長く続いた漢王朝も、中央では宦官と外戚の権力争いが続き、多くの役人が私腹を肥やす為に、国民は苛政に苦しんでいた。その政治への不満が黄色い旗の下で爆発した。黄巾の乱である。光和7年の事である。
黄色い民衆反乱の波は、昇達の暮らす村の近くにも迫っていた。
そして涿県出身の廬植にも黄巾賊討伐の勅命が下ったという知らせが伝わると、村人の中にも黄巾の乱がいよいよ現実味を帯びてくる。村は静かに揺れ始めた。黄巾賊に合流することを唱える者。廬植を頼り官軍に身を投じる事を唱える者。争いを避ける為に村を捨て山に籠もる事を唱える者。ついに各派の代表が昇の学び舎を訪れ、意見を求めた。
「老師様はどうするべきとお考えですか。」
昇は、できる事なら関わりたくなかった。三国志は見るものであり、ゲームで遊ぶものであるが、自らが命を賭けて関わるものじゃない。
「うむ。『君子危うきに近寄らず』という。徳のある者は、むやみに危険に近づいてはならぬと言うことじゃ。今しばらく、静観すべし。」
「老師様、お言葉ながら、それは臆病ではござらぬか。」
「不満は声にせねば皇室に伝わりませぬ。」
「いやこれまでの御恩寵に答えるべく、官軍として逆賊を討つべし。」
「この村は、老人や女子供も多い。山中に、昔住んでいた隠れ里が残っておる。世が治まるまでそこへ避難すべきでは。」
村人の熱意に押されそうになりながらも、昇は静かに抗った。せっかくの余生を騒乱に奪われたくない。俺は知っている。黄巾の乱は1年もたたずに鎮圧されるんだ。なにも自分から死にに行くことはない。隠れ里に隠れるのが一番良いかな。なんとか臆病卑怯と思われずに、隠れ里に逃げ込もう。
「皆の意見はよくわかった。では、儂から知力を絞った意見を述べよう。」
昇は、努めて厳かな口調で語り始めた。
「黄巾の者たちが述べる住民の苦境はもっともである。立ち上がった彼らは強い心を持っておる。しかしじゃ、多少の武人も混ざっているとはいえ、多くが農民。鋤や鍬を振るには長けておっても、それを武器として用いたり、剣や槍を扱ったりする事は得手ではあるまい。戦は個々の武芸も大きく影響する。平和な時代が長く続いたとはいえ、日々鍛錬をしている王室の部隊に対してどれほど戦い抜けるものか。働き手を亡くし、さらなる貧困に苦しむことになるかもしれぬ。」
「そして官軍も、正規軍とはいえその力に隙がある。指揮官達の多くは権力争いと私腹を肥やすことばかりを考え、飽食の末にその身は衰え、とても武人とは思えぬ腹をしている者が多いと聞く。軍隊の優劣は指導者の優劣に大きく依存する。鍛え続けた体躯を持ち、高い戦略意識と戦術駆使が瞬時にできぬ将であれば、多くの兵を無為に死なせるだけである。今の官軍に身を投じるのは、無駄に死ぬことと等しいかもしれぬ。」
好戦的な者たちは、静かになった。死を恐れぬと言いながらも、好んで死を選ぶ者はいない。命を賭ける甲斐が見えねば、それは無駄死である。
「そこでだ。世の趨勢が定まるまで、今は様子を見るのが良かろう。山中の隠れ里が、村人全員を入れることができれば、賊や官軍に場所を知られていないのであれば、静かに目立たぬように、隠れ里に移ろうではないか。時折、麓に物見を出し、情報を集め、趨勢を見定めよう。鍛え抜いた諸君の知略と武芸を発揮するのは、それからで良いのじゃ!」
皆が、さほど落胆せずに隠れ里への避難に理解を示した。中には尊敬のまなざしを向ける者もいる。
戦いたい者たちの思いを先送りし、当面の戦いを避ける。これほどうまくいくとは予想外であった。
『やった。うまくいった。俺の余生を奪われてなるものか。なぁに、一年もせずに乱は収まる。その後、外戚と宦官がケンカを始めて、愚かな大将軍が西涼の狂犬を引き入れるが、名家のボンボンが音頭を取って狂犬狩り。その後、曹・劉・孫の争覇が起こるけど、その頃には俺の余生も終わってるだろう。三国志は、安全なところから眺めるに限る!』
隣村で黄巾賊の挙兵があったと聞こえてきたが、昇はいそいそと隠れ里への引っ越し準備の荷造りをしていた。村人にも大戦略のごとくに避難準備を指示していた。
「た、大変だ!小花が!隠れ里が!」
数名の村人が、学び舎の戸を叩く。手を引かれて昇は村の広場に連れて行かれた。
広場には既に、村人が集まっていた。その中央には数名の血だらけの村人。そして横たわる少女の姿があった。
「なにがあったのだ?」
「俺たち、隠れ里の様子を見に行ったんだ。そしたら、黄色い頭巾をかぶった連中が入り込んでいて。」
「黄巾賊か!?」
「ああ。どうやら先遣隊らしい。隣村から挙兵したやつの中に、隠れ里のことを知っているやつがいて、アジトにする提案をしたらしい。」
「そこへ、桃を取りに来ていた小花が。『ここはテンテーたちと隠れるから出てって』と叫びながら飛びかかっちまって。斬り殺されてしまったんだぁ。」
そこまで言うと村人は号泣した。他の村人達も泣いた。
小花。村に住む小さな少女。早くに両親を亡くしたが、村長の家に引き取られ、村人全員から愛されていた。小花の屈託のない笑顔に、どれほどの人たちが疲れを癒やされたことだろう。どんなにつらい思いでいても、鼻歌を歌いながら村を歩く小花の姿をみれば、みな穏やかな気持ちになったのだ。
小花は、まだ学び舎に通う歳ではないが、どこからかおいしい桃を持って学び舎に現れた。
他の者が昇を『老師』と呼ぶ中、小花は『先生』と呼んでいた。ただ、舌が回らず、いつも『テンテー』だった。講義の合間に、小花が持ってきた桃を、おいしそうに食べる昇に、『テンテー、おいしー?』と聞き、昇がうなずくと嬉しそうに笑っていた。
昇は、小花に『テンテー』と呼ばれるたびに、教員時代、恐れられながらも慕われ、生徒の笑顔に囲まれていた日々を思い出していた。
その大切な小花の命が、賊に奪われた。
第二の人生の静かな余生と定めていた昇の胸に、激しい炎がよみがえった。逃げている場合ではなかった。戦乱はすぐそこまで迫っていた。事なかれを願い、争いを避け、臆病卑怯を決め込んだ自分の愚かさが、大事な命を奪われる羽目となったのだ。
今、勇気を出して立ち上がらずに、いつ立ち上がるのだ。
逃げると決めていた隠れ里には、既に賊が入り込んでいる。動揺する村人を見回し、昇は叫んだ。
「皆の衆。まだ戦う炎は消えておらぬか!」
「老師様?」
「黄巾賊とて人殺しの賊よ。官軍も私利私欲の塊よ。我らが村は、我らで守るしかあるまい。」
「老師様、戦われるのですか?」
「隠れ里が奪われた今、逃げる場所はなかろう。黄巾賊にせよ官軍にせよ、戦うために兵糧を求めるだろう。皆が懸命に育て上げたこの村の、食を奪われてなるものか。」
話すたびに、昇の言葉に怒気が籠もる。憤怒である。
「なによりも今後、誰一人として、我らの命を無為に失ってなるものか。ただただ斬り殺され、無念を抱えて来世へ行けるものか。皆の衆、武器を取れ。守りを固めよ。我らの村は、我らで守るぞ。」
「うぉぉぉぉ!」
さほど人数がいるわけではない。数十人の集団である。しかし思いは一つであった。まずは、皆が愛した小花の命を奪った賊を討つ。隠れ里はアジトにされぬよう、火を放つ。村周りには柵を立て、敵の進入路を制限する。農具を研ぎ上げる。数十人の農民が、まるで一匹の龍が動くが如くに戦備に努める。
昇は学び舎へ戻る。そして掛け軸の裏の隠し戸から、一振りの長刀を取り出す。昇は知っていた。老師と呼ばれるこの男、実は都でも名の知れた剣豪であったらしい。戦いに疲れ、愛する者を失って、失意の中でこの村にたどり着いたらしい。刀と共に隠された日記にそうあった。取り出した長刀には、所有者の名を冠した銘があった。
『昇龍刀』
「俺がこいつに転生したのは、全くの偶然ではなかったようだ。」
長刀を手に、庭に出た昇は、幾度も刀を振ってみた。初めて握る刀であったが、しっくりと手になじむ。まるで使い慣れたラケットのようだ。剣術など知らぬ。まるでテニスの素振りのように振り回す。フォアハンド。バックハンド。ドロップショット。スマッシュ。ボレー。老体のどこにそれほどの力が残っていたのかと不思議に思うほど、いつまでも長刀を振り続ける。
村の防備が一段落したところで、昇は選抜隊を編成する。目の良い、身のこなしの軽い者を数名選び、夜陰に紛れて隠れ里へ送る。勝手知ったる隠れ里。風のながれ、草木の連なり、逃げ場のないどん詰まり。事前の緻密な計算の元、火を放つ作戦である。
先遣隊に招かれて侵入した30名ほどの黄巾賊の先発部隊が寝息を立てていた。隠れ里であることに油断したのであろう。見張りの一人も立てていない。
風向きが狙いの方向に変わるその瞬間に、風上からどん詰まりへと延焼する場所へ火を放つ。隠れ里であるので、出入り口は一つ。そこから火を放たれたら、逃げ場はない。連日の晴天続きで草木は乾き、強い風にあおられて、あっという間に火が隠れ里を包んだ。結果的に3人の選抜隊が30名の黄巾賊を焼き殺した。
翌朝、別所で待機していた黄巾賊の本体が村に襲来した。先発隊を殺された怒りに身を震わせながら、村の入口に詰め寄ってきた。
相手は農村ただ一つ。怒りにまかせて蹂躙するつもりであっただろう。
「我らに刃向かう農村の者どもよ。おとなしく降伏すれば、我が軍門に加えてやる。男どもは教義に従って死ぬまで戦え。女どもは存分に男達を癒やすが良い。」
下品な笑い声と共に村人達を威圧してきた黄巾賊。
しかし、その前に一人の老人が立ち塞がる。
「聞け、蛮族ども。ただの農村と侮るな。この村は神に愛された村。天帝より愛された村なるぞ。貴様らは、その村の姫御子を無残に殺してしまったのだ。龍の逆鱗に触れたこと、その身で存分に後悔するがよい。我が名は、天帝が末裔、昇龍翁なるぞ!」
天空の銅鑼を打ち鳴らしたかのような名乗りに、黄巾賊が射すくめられた。さらに、黄巾賊の小隊長を務めていた武人が、昇龍の過去の威名を知り及んでいた。
「昇龍って、あの百人殺しの昇龍か!?」
「剣豪・昇龍か。最後は自分の妻を殺した相手を、みじんに切り刻んだ悪魔だ。」
「その戦い以来、剣を捨てたと聞いたぞ。まだ生きていたのか。」
武人達の動揺は、瞬く間に黄巾賊全体に伝染した。
「ゆくぞ!」
昇龍の号令一下、村人が防衛戦に向かって進む。怯えるどころか、自分たちに向かってくる村人達。その目には憤怒の火が燃えている。虐げられた民衆を救うと言う教義の元で集まっていた彼らだが、守るべき民衆から怒りを向けられたことによってその教義が崩れ去った。信じるものが揺らいだ瞬間、宗教集団は崩壊を始める。ましてや目の前には、神々しく立ちはだかる男がいる。黄巾賊は崩れた。隊列を乱し、畑を横切り逃げようとする。しかしそこでは村人達が密かに罠として設置した、無数の鎌が足下を襲う。足を切られ倒れる黄巾賊の頭上から狩猟用の弓が降りかかる。山へ逃げようとした者は、上から崩れ落ちる土砂に押されてその下に植え込まれた逆茂木に体を貫かれる。
村人達が用意した防備は、防ぐのみならず、反撃の罠の数々だった。
「引くな!留まれ!逃げれば敵の罠に落ちるぞ!」
小隊長の叫びもむなしく、黄巾賊本隊が壊滅してゆく。
かろうじて踏みとどまった数名の武将が、一斉に昇龍に襲いかかる。恐れることはない、たかだか老人一人。こいつを倒せば形勢が覆る。
昇龍の右手から襲いかかった敵の腰のあたりを、長刀がなぎ払う。
「フォアハンド!」
振り抜いた刀を手首で返し、左から来た敵の腹を振り切る。
「バックハンド!」
剣を横に構えて突進してきた敵の刃を、縦に構えた刀で受け止め、はじき返す。
「ストップボレー!」
押し返された敵武将が、たじろぐその目の前へ、体を沈めて脛を払う。
「ドロップショットォ!」
敵将はたまらず、そのまま尻をつく。その脳天に向けて、昇龍が長剣を振り下ろす。
「スマッシュ!」
バックリと割れた武将の頭から噴水のように血が吹き上がる。
部隊の主力であった武将が、観たこともないような剣技であっという間に斬り殺された。その様子が、場の勝敗を決定的なものとした。その場に立ち尽くしていた数十人の黄巾賊は烏合の衆と化して、改めて我先にと逃げ出した。
黄巾賊が逃げ去った村に、一時の静寂が訪れた。村の死傷者はない。圧倒的な勝利であった。
「なんか、気合いだけで追い返してしまったな。」
「事前の準備がこれほどうまくいくとは。」
「何より老師様の気迫よ。後ろで聞いていて、頼もしくもあり、恐ろしくもあり。」
「老師様、『天帝の末裔』とは本当でございますか。」
「以前より、この村の天女からそう呼ばれておったであろう。『テンテー』と。間違いないであろう。」
老師のはったり。その思い切りに皆が苦笑すると共に、改めて小花の笑顔を皆が思い出していた。
「小花のおかげじゃよ。あの娘がこの老骨に勇気を注ぎ続けてくれていたのだ。」
突然、遠方から軍馬の集団が迫る音がする。
「また来たのか!」
「困った、もう仕掛けは使い果たしたぞ。」
「いよいよ、命がけの戦いだな。」
困ったと言いながらも、村人の顔には覚悟が満ちあふれていた。やってやろうじゃないか。小花ですら、我らの隠れ里を守ろうと立ち向かったのだ。我ら大人が怯えてどうする。
しかし、村にやってきたのは官軍の一団であった。隊長はなんと廬植であった。
「我が故郷の村が襲われたと聞いたが、大事ないか。」
「はい。老師様と共に退けました。」
「廬植殿か。」
「お、貴殿は!昇龍殿か!?まだご健在であったか!行方知れずと聞いておったが。」
「何とかな。昔の記憶は消え失せたが、この村で隠居爺をしておる。」
「その長刀もそのままか。」
「貴殿の方が、儂のことをたくさん知っておるようだ。」
「何はともかく、無事で何より。では、村の若い者を仕官させよ。」
「断る!」
顔から笑顔を消して、昇龍が言い切る。
「この村は、この村で自衛する。」
「なぜだ。」
「廬植殿の清廉は聞き及んでおる。しかし、清廉ゆえに妬まれ、奸計に落ちることもあろう。その時、預けた若者が、愚者に使われる可能性もある。官吏である貴殿に言うのもはばかられるが、今の中央に、儂は疑念がある。」
中央の内情を言い当てられ、廬植は黙った。無礼となじる副官をおさえて、
「わかった。この村は任せよう。これほど勇気に満ちた村はあるまい。」
廬植はそう言うと、部隊に転進を命じた。少なくとも、周囲の賊を討伐して回ろう。そう考えたのだ。
官軍が去った村に、再び静かさが戻った。敵兵の亡骸を丁重に弔い、乱れた田畑の修復に取りかかった。
数十人の小さな村が、100名に迫る黄巾賊を打ち払った。その噂は全土に響き渡った。自らを小さな者と見限らず、仲間のために、持てる勇気を振り絞る。人とは、その瞬間に想像以上の力を発揮する。
改めて読み返し、校正不足が多々ありましたので,、改訂いたしました。
どうぞよろしくお願いします。