チー・ヌーと緑さん
開闢軸の緑さんとアトラック・シンシア・チー・ヌーくん。
佐賀島 辰美はこの世に存在しない。そう、天道 春木は口にしていた。
この時空の私たちが生きている日本が滅び、荒みきった世界でしか彼女は生きていけない。いや、居場所を掴み取って可能性と未来を我がものにしたのだ。
運命を、自ら切り開いた──さながら英雄。
「主人公ってのはいいご身分だよねえ?そのために作られたポイ捨ての存在ってワケで」
寝入りばな、美しい髪をした子供がせせら笑う。町では見た事のない異国の子供は天井に立っていた。まるでギリシアの精密で肉感的な彫刻のような。
天使に想像される若々しく中性的な美貌を有した幻覚は邪魔をしてきた。
ゴミ屋敷のわずかなスペースで緑さんは蹲るように横たえていた。寝る気になれないが夜は寝るものだ。
「…主人公?何ですかそれ?」
「緑ちゃんは、漫画とか読まないの?」
「いや、主人公は分かりますよ」
「ならいいやー」
肩を揺らしながら、子供は純粋な気色を漂わせる。
「主人公…英雄なんて…この世に存在しません。いたら、おかしいじゃないですか。まあ、思春期は誰しも悩むかもしれませんが」
「シシュンキ?なにそれ?ま、もうちょい自信を持ったほーがいいよ。緑ちゃん」
黄色と赤紫色の摩訶不思議な瞳を前にして、彼女は眉を分かりやすくひそめた。電気すらつけていないのに。眼の色が見える。
「ポイ捨てされた主人公はその後、どうなると思う?」
「…物語の後に、続きがあるんですか?読者の想像によるでしょうね」
「燃え尽き症候群になるか、また主人公になろうとするか。可哀想な役割を担っちゃったよねえ」
クスクスと笑う子供に、悪趣味だな、と傍観した。辰美の知り合いなのだろうが、そこまで言わなくても良いのに。
ふいに自らが辰美を主人公と結びつけているのを自覚した。
あの子は責任を押付けられた、可哀想な女子大生だ。いや、正確には神に造られた泥人形。
居場所を掴み取るというのは、そこに縛り付けられた──ともとれるのか。
「あの子には気をつけた方がいいよぉ。取り繕ってはいるけど、相当病んでるからさ」
「…はあ…」
笑顔であけすけな言動ばかりとる娘から、陰を感じ取る事はあまりない。あると言えば最近よくみる悪夢だった。
自分が生み出した辰美への印象か、彼女は度を越した執着をもっている。あれは夢であり、現実の佐賀島 辰美ではない。
ひょこひょこと雛鳥のようについてくる様は困っているが、現実の彼女から醜悪な愛の囁きは吐かれていない。
「貴方がそう思っているだけですよ。知らない誰かさん」
「そうかもね!」
「辰美さんは強い意志を持って前に進める人です。だから…」
だから?
「アトラック・シンシア・チー・ヌー。覚えておいて」
「は…?」
「覚えていれば、緑ちゃんに多少なりとも干渉できる」
少年か、少女か。ややこしい名を持つチー・ヌーなる人はこちらを見下ろして手を振った。
(獏とか…の人ならざる者でしょうか)
ゴミの中で虚ろに眠気を待つ。それにしても変な名前だ。
(はあ、せっかく寝れそうだったのに)
久しぶりのチー・ヌーに口調がついていけません。




