皆無
自宅の乱雑とした二階の部屋から腐敗した人の液体が漏れだし、階段を滴り落ちる。
夜中に起きた小林 緑はジッとそれを眺め、階段の最上階の暗がりに佇む"それ"を見上げた。
「…しつこいですね」
それは答えないで立ち尽くしている。
「腐るほどに月日が経ちましたか」
「忘れられないのも癪ですよ」
「いつになったら骨になるのでしょう」
独白を垂れ流し、『小林 緑』は悪態をついた。それが自らに対するイラつきや感情を逸らすための、逃避だと気づかずに。
「忘れられない…」
口にして、ハッと気づいた。忘れてしまったたくさんの出来事。家族の顔。昔に住んでいた家。街の景色。溢れ出す感情。笑顔。
「忘れられない」
階段の上にある死体。温かい記憶が死んでもなお、まだ居座る存在の欠片。
「私は忘れないように、もがいているのか」
何も無くなってしまった自分を、価値があるともがいていたい意思。
「そうです。緑さん。貴方にはあれがいるじゃないか」
三ノ宮 妙順がいつの間にか隣にいた。「いつからそこに?」
「私はもう、いつにも居なくなってしまったんです。だから緑さん、貴方に会えるんです」
「はぁ…そうなんですね」
納得しているような、していないような。
「あれがいる内は、まだ自分でいられる気がします」
「良かったじゃないですか」
「はい」
「私の事も忘れないでくださいね」
笑う彼に違和感を覚えた。「どういう事ですか?」
「私はね。ちょっと前に、し──」




