伯爵夫人は笑わない
「本日も、ですか」
その日、伯爵付きの従僕より彼の晩餐不参加を告げられると、伯爵夫人ウルスラ・レインバードはピンと伸ばした背筋をそのままに、何の温度も抑揚もない言葉で無表情にただ一言そうですかと答えた。
一人での晩餐は何もこれが初めてではない。
初めてどころか、今月は既に半分も過ぎたというのに、夫とテーブルを共にしたのは片手で数えられる程もない。
就寝時間の違いを理由に寝室に至っては今や別だ。
領地経営が忙しい時期のは知っている。
だから妻であるウルスラも何も言わず、社交活動以外に屋敷の切り盛りや夫不在の間の領地経営の手伝いなど、出来る事に努めてきた。
だが、さすがにこれは良くない傾向である。
ウルスラはいつもよりも短時間で食事を終えると、その場に家令だけでなく給仕の使用人と厨房の主たる料理長を呼び付けて問うた。
「……旦那様のここ一週間のお食事はどのようになっていますか」
その言葉にまず答えたのは料理長だった。
「は。奥様と同じものをご用意してございます」
大柄な料理長は身体を縮こめながら頭を下げる。
その言葉に伯爵夫人は小さく頷いた。
「旦那様のお食事の時間は」
次に答えたのは給仕だった。
「朝はお目覚めになられてすぐお召し上がり頂けるよう準備しております。昼は外出されている事が多うございますので、ご用意は致しますがお召し上がりになる事はほとんどございません。晩餐は……ご用意はしておりますが……お酒かお茶をお召しになる事が多く……」
「それ以上は言わなくても結構」
「は、はいっ」
そして最後に伯爵夫人は家令に問うた。
「ここ一週間で旦那様が一日に最低二食しっかりお食事をお召し上がりになったのは何回です」
家令はたっぷりした髭を蓄えた口元を僅かに歪ませて小さく息を吐き、重々しく答えた。
「……ございません」
「そう」
そしてウルスラは全て承知したとこっくり頷いたのである。
「──妻として、これを看過する事は出来ません」
そう言ってウルスラは席を立った。
慌てて侍女が追い掛けようとするが、ウルスラに何かを命じられて困惑した表情でパタパタと別方向に駆け出していった。
この間、ウルスラは特に表情を崩す事なく、いつも通りの淡々とした、社交界においては「氷の貴婦人」とまで言われる態度を保っていた。
保つ、というのは少し違うかもしれない。
彼女の平時が既にそうなのだから。
笑う事もなければ、激昂したり、泣いたり、感情を顕にするという事がない。
いつでも淡々と己の務めを果たすのが彼女のやり方だった。
夫である伯爵もそんな彼女に合わせてなのか、普段の夫婦の会話も実にあっさりしたものである。
笑いもしない奥方様と、ここ最近仕事ばかりの旦那様。
その場に居合わせた、ごく最近伯爵家に勤め始めた使用人の一人は、貴族の結婚とは得てしてこのようなものなのだろうと心の中で深く息を吐いた。
「……旦那様。ウルスラでございます」
伯爵の執務室をウルスラが訪れたのは、晩餐から三十分ほど経ってからだった。
ウルスラは執務の邪魔になる事を嫌って、この場所へは必要以上に寄り付かないようにしている。裏返せば、必要があるから訪れた事になる。
伯爵もそれを理解していたようで、中からはすぐに入室許可を告げる声が聞こえた。
「ウルスラ? どうした。いつもならもう休んでいる時間だろう」
「妻の務めを果たしに参りました」
「妻の、務め……?」
レインバード伯爵家の当主でありウルスラの夫であるベルナール・レインバードは、開口一番告げられた妻の言葉に困惑の表情を浮かべた。
妻の務めとは一体何だったか。社交界で貴族同士の交流をすること、屋敷の切り盛り、慈善活動、それから夜の営みによって後継ぎを設けること。
時間的には夜の営みしか当てはまらないが、後継ぎに関しては妻だけではなく夫の己にも責務があるし、そもそもそれは執務室でする話には思えなかった。貞淑なウルスラであれば尚の事である。
それらを数秒の内に脳内で処理し、日々の執務で疲れた顔をしたベルナールは困ったように眉尻を下げた。
「一体どうしたというんだい」
突然執務室に来て妻の務めとはこれいかに。
この疲労さえなければ、もう少し何か思いつけたのかもしれないが、今のベルナールには難しい。
何をしに来たのかと問う視線に、ウルスラはピンと背筋を伸ばして答えた。
「お食事をお持ちしました」
「いや、そんな時間は……」
ウルスラの言葉にベルナールは即座に難色を示す。だが、夫の表情にも怯む事なく、いや眉一つ動かす事なくウルスラは続けた。
「二十分、いえ十五分で済みますわ」
「え? だが、夕食だろう?」
ベルナールの困惑はもっともである。
貴族の食事は長い。中でも晩餐は一日の食事の中でも一番時間が長く、軽く一時間、デザートと食後のお茶までいれたら最低でも二時間かかるのが普通である。
その時間があれば何枚の書類に目を通すことが出来るだろうか。
ベルナールの戸惑いなど理解の上とばかりに、ウルスラは次の言葉を唇に乗せた。
「お仕事をしながらでも召し上がれるものをご用意致しました。とは言え、私としては、せめてこちらのテーブルで短時間でも休息をとって頂きたく存じますが」
「そ、そう、か……」
ベルナールはそこで初めてウルスラの後方に控えた侍女が、ワゴンを運んで来ていた事に気が付いた。ティーポットと一緒に銀色のクローシュで覆われた皿も見える。
「旦那様、少しだけ休憩されてはいかがですか」
先代から仕える家令にも勧められて、ベルナールはチラと手もとの書類へと視線を落とした。山は越したとはいえ、まだ残りは多く、正直休憩などしている暇はない。
だが、妻が直々に食事を用意したと言って執務室にまで来てくれたのだ。
ベルナールは十五分だけと決めて、渋々執務室に設置された応接用のテーブルへと移動したのだった。
「どうぞ、旦那様」
「……これは?」
「ロールサンドですわ」
「サンド……サンドイッチか?」
「えぇ。挟むのではなく巻いてあります」
薄いパンを筒状に丸め、中には野菜や肉などが入っている。まるでキャンディでも包むかのように包み紙が巻かれているので指先が汚れる事も、具材が落ちる事を心配する必要もない。
「ポタージュはこちらに」
「えっ、これは、ティーカップか?」
ウルスラから渡されたカップには温かいポタージュが注がれていた。スープ皿にスープ用のスプーンが添えられているのが通常であるので、ベルナールは面食らってマジマジと手の中のカップを見詰めた。
「えぇ。具材のないポタージュでしたら、このようにすれば飲みやすくなりますでしょう」
「確かに。……何だか、騎士団の野営訓練を思い出すな」
「仕事が一段落されたら、久しぶりにお身体を動かされてはいかがです? 最近はお好きな乗馬をなさる時間もおありではないご様子ですから」
そんな会話をしながら、ベルナールは用意されたロールサンドとスープをすっかり平らげたのだった。
ウルスラがデザートにと用意した一口サイズのタルトまで堪能し、食後の紅茶を飲んで、ほぅと深く息を吐く。十五分はとうに過ぎていたが、焦る気持ちは不思議と生まれなかった。
「まだ仕事は残っているが、久しぶりに安らいだ気分だ」
「それはよろしゅうございました」
しみじみと呟くベルナールの向かいで、ウルスラは優雅な所作で紅茶を口許へ運んでいる。
「旦那様が一日二日食事を抜いても差し支えない程騎士団で鍛えられた事は知っております。ですが、それは有事に備える訓練であって、領地経営の為の執務を行う為の訓練ではございません」
淡々と続けられるのは間違いなく説教だった。
感情を滲ませないウルスラの口調は、ベルナールに学生時代苦手だった教師の授業を思い出させ、思わずしゅんと項垂れる。
「すまない……」
「……慣れないお仕事に奮闘してらっしゃるのは存じております。私も、この程度のお手伝いしか出来ないのが申し訳ないのですが、それでも旦那様には健やかであってほしいのです」
「ウルスラ……、その、ありがとう」
「妻として当然の事ですわ。明日もお仕事で屋敷におられる予定でしたね。昼食と夕食は今回のように簡単に食べられるものをご用意致します」
テーブルの上の空になった食器を使用人に下げさせたウルスラは、やはり淡々とした声音であったが、ほんの少しだけ口調が早くなっていた。
その事に気付いて柔らかく目を細めたベルナールは、少し考えてから夕食は食堂でとると答えた。
「明日の夜までには仕事に区切りをつける。晩餐はゆっくりと二人で過ごそう」
そしてベルナールは、だから、と続けた。
「朝と……昼食はまた君に頼めるかい。これ、君の手作りだろう」
「お気づきだったのですか」
「結婚する前、君が振る舞ってくれたのと同じ味のソースだったからね。私が君お手製のハニーマスタードソースの味を間違えるだなんてあるものか」
「さようで」
そこでウルスラは言葉を切り、また明日と挨拶をして執務室を辞した。
ベルナールと家令だけが残った執務室は、急にしんと静まり返ったように感じる。
ウルスラの背中を追うようにして、既に閉ざされたドアを見つめる主人に、家令は穏やかな眼差しで呟いた。
「……本当に良いお方をお迎えになりましたな」
「あぁ。正直、私などには勿体ないくらいだ」
「何を仰います」
「だってそうだろう? 怪我で騎士団を引退し、半ば成り行きで父の跡を継いだ私と、幼い頃より後継者として日々励んでいた彼女とでは……あんな事さえなければ顔を合わせる事もなかっただろう。彼女にとっては災難だったろうが、私にとっては最大の幸運となったのが何とも皮肉だな」
そこでベルナールは大きな溜め息を吐いた。
ベルナールはレインバード家の長男であったが、学校を卒業した後に騎士団に入団し、成人後もそのまま騎士として王宮に勤めていた。
貴族の子息が箔付けに騎士団に入る事は珍しくもないが、長男であれば騎士の家系以外は成人を機に騎士団を辞め、家を継ぐ為に親の仕事を手伝うのが慣例だ。
そんな中でベルナールが成人後も騎士を続けられたのは、彼に優秀な弟が居たからだ。
身体を動かす事が好きなベルナールは、両親の事を尊敬はしていたが、己が家を継ぎ、次期伯爵となる事についてはあまり興味が無かった。
一方、学ぶ事が好きな弟はベルナールほど騎士に憧れもなく、また、兄の代わりに家を継ぐ事に対して責任の重さに怯む事もなかった。
このままベルナールは騎士として生き、弟が家を継ぐ。そうしてレインバード家は続いていくのだと誰もが思っていた。
だが、訓練中の事故による怪我でベルナールが騎士団を辞める事が決まると、少しずつ話が変わってきた。
家に戻ったベルナールは、療養の後、レインバード家の治める中の何処か田舎の領地でひっそりと過ごしていくつもりであったが、ここで弟が声を上げたのだ。
「兄上が戻られるなら、私はこれを機に海外に留学したい」
弟の言葉にはベルナールだけでなく両親もひどく驚いた。弟、セレスタンはこれまで文句一つ泣き言一つも漏らさずに、領主としての勉強を続けていたのだ。それが突然留学を希望した。
だが、幼い頃から学ぶ事が好きだったセレスタンの事を思えば、ベルナールにはそれが当然といえば当然のようにも思えた。
それに、最初に長子でありながら騎士になりたいという我儘を叶えて貰ったのは自分の方だ。
(もしも私が騎士にならず最初から後継ぎとして家に残っていれば、セレスはもっと早くこの願いを口にしたはずだ)
ならば、今度はこちらの番だ。
騎士として訓練していた自分は領主としての教育を基礎しか受けていない。今から取り掛かるのでは並々ならない努力が必要だろう。だが、それを自分は弟に課したのだ。
幸いベルナールの怪我は剣を握るには難があるが、日常生活の範囲であれば問題なく送れるものだった。
今こそ弟の願いを叶えたいと、ベルナール自らも両親に口添えし、そうしてベルナールは次期当主として家に戻り、代わりにセレスタンは留学する為に家を出ることになったのである。
ベルナールがウルスラを妻に迎えたのは、セレスタンの留学先が決まった頃のことだった。
『──初めまして。アッシュフィールド伯爵家長女、ウルスラでございます』
初めてウルスラと会った時の事をベルナールはよく覚えている。
彼女は栗色の髪によく似合う淡いラベンダー色のドレスで、静かな、けれどとても美しい所作でベルナールに挨拶してくれた。
笑顔の一つもなかったが、彼女の境遇を思えばそれは特に気にもならなかった。
彼女の境遇、つまり、婚約破棄である。
ウルスラの婚約相手は家格こそ下だが、商売が順調で利益ありきの政略結婚であったと聞いている。その婚約者が、事もあろうにウルスラの妹と恋に落ち、それどころか子まで成してしまった。
本来なら婚約は相手の有責で破棄となり、妹も家から出すところだが、ウルスラは自分が出ていく事を選んだ。
妹に婚約者を奪われ婚約を破棄した令嬢となれば、今後まともな縁談は望めない。聡明な彼女であればそんな事くらい理解していたはずだが、それでも彼女は妹に婚約者の座を明け渡し、家同士の結び付きを強固にする方を選んだ。
貴族として当たり前だと言う者もいるかもしれない。しかし、年頃の令嬢にそうそうできる事ではないのもまた事実だった。
折しもベルナールは家督を継ぐにあたって、妻を迎える事を検討しており、ウルスラは家格、人柄、能力と社交界での「氷の令嬢」という通り名以外、どれを取っても期待以上であった。
ウルスラ・アッシュフィールドの婚約破棄の噂を耳にするなり、この機を逃すなとばかりにレインバード伯爵家はウルスラの生家・アッシュフィールド家に結婚の申し込み書を送ったのである。
このようにしてベルナールとウルスラは少々慌ただしく婚約する事になったのだった。
婚約といっても貴族同士なら見合い結婚はよくある事だ。結婚式の当日まで相手の肖像画しか見た事がないという事例も多々ある。
ベルナール自身はそれについて少し思うところがあり、アッシュフィールド家より許諾の返事が届いてすぐにウルスラに面会を求めた。
そして、初めて顔を合わせた時、彼女はにこりとも笑わず、ただ貴族令嬢らしい美しい振る舞いを見せたのだった。
決して笑う事はないが、彼女は感情まで凍り付いているのではないと気付くまで然程時間を要さなかった。
結婚までの短い婚約期間、ベルナールは何度か彼女と時間を共にした。
確かに表情豊かな女性ではないが、ウルスラは三度目の面会時にはベルナールの好物に気付いて手ずから料理を振る舞ってくれたし、伯爵になる為の猛勉強に明け暮れていたベルナールに励ましの手紙を送り、時には息抜きにと遠駆けに誘ってくれた。そういう優しさを持つ女性に何故「氷の令嬢」などという通り名がついたのか、ベルナールは心底不思議に思うほどだった。
「……本当に、私はただ幸運だったに過ぎないのだ」
一日でも早く一人前のレインバード家当主として堂々と妻であるウルスラの隣に立てるよう、ベルナールは気合いを入れ直して書類へと向き直った。
食事と休息のおかげで頭も随分とスッキリしている。だが今夜は無理をせず、程々のところで切り上げて睡眠をとろう。
再びペンを取ったベルナールに、家令はやはり穏やかな眼差しを向けるのだった。
一方、自室に戻る前に厨房へ寄ったウルスラは、料理長にベルナールの明日の朝食と昼食は自分が用意する旨を伝え、そして必要な材料を用意しておくように申し付けた。
「奥様、メニューさえ教えて頂ければ私共で料理をご用意しておきますが……」
「いいえ、それには及びません」
料理長の申し出に否を返し、だが彼の職務領分を侵す事についてはしっかり謝罪してからウルスラはピンと背筋を伸ばして言った。
「私は料理に慣れています。その事は旦那様もご存知です」
「はぁ……」
確かにロールサンドやソースを作る手に迷いは無かった。料理長はウルスラの言葉に戸惑いつつも頷いて、明日の食材の準備に取り掛かることにした。
そして自室に戻った彼女は、侍女が用意した紅茶を飲みながらようやく一息ついたのだった。
「奥様、明日はいつもより早いご起床でいらっしゃいますね。ドレスは動きやすいシンプルなもので?」
「えぇ、でも料理の最中に汚してしまうかもしれないから、旦那様からの贈り物は除いてちょうだい」
「かしこまりました。使用人用でしたらエプロンをご用意出来ますが」
「お願いするわ」
侍女を下がらせ、一人になったウルスラはティーカップをテーブルに置いて部屋の隅にある本棚へと向かう。
大半は領地経営や資産運用に関する本であったが、一部分だけ詩集や物語の本が置いてある。そこから一冊抜き取って、ウルスラは繊細な宝物を扱う手付きでそっとページを開いた。
「……騎士様」
指先でページをなぞり、ぽつりと呟く。
ウルスラが手にしたのは、勇敢な騎士が国を脅かす竜を倒す冒険小説だった。
妹にはよく男の子が読む本のようだと言われたけれど、幼い頃から大切にしている一番好きな物語である。
(やっぱり王子様より騎士様の方が好きだわ)
王子様とお姫様の恋物語よりも、手に汗握る騎士の冒険譚に胸が高鳴る。
だから、ベルナールから結婚の申し込みがあった時、ウルスラは心の底から驚いて同じくらい歓喜した。
実は、騎士時代のベルナールを御前試合で見た事がある。冒険譚の騎士のようだと思っていた彼が、怪我をして騎士団を引退し家督を継ぐというのだから、これからものすごく苦労する事だろう。そんな彼を支える妻という立場に自分が迎え入れられるだなんて、こんな幸せがあって良いのかとすら思った。
正直なところ、婚約者の事は嫌いではなかったが、好きでもなかった。家の為でなければ会う事もないタイプの人間であったのは確かだ。柔和な外見は物語の王子様のようではあったけれど。
婚約者との初めての顔合わせの際、同席した妹と婚約者が互いを見詰める視線に「これが一目惚れの瞬間というものかしら」と気付いていたウルスラだったので、妹の妊娠が発覚し、色んな選択を迫られた時も大して悩みはしなかった。
妹のイザベラはウルスラと違い当主の為の教育を受けなかっただけで、素養自体は確かにあるとウルスラは昔から思っていた。賢く美しい妹と、己に対する不義理こそあれど、婿入りの為の勉強に真摯に取り組む義理の弟に家を任せる事にウルスラは何の不安もなかった。
それに妹のイザベラも伯爵令嬢としての教育は一流のものを受けているし、ウルスラが許しさえすればイザベラも体調が安定次第自ら伯爵夫人としての教育を受けたいと申し出るはずだ。
そういう理由で、結果的に姉から婚約者を奪う事となった妹と、己の婚約者に対してウルスラが言ったのは「軽率な行動はこれきりになさい」という一言のみだった。
婚約者の座をすげ替え、家の結び付きを尊重する決断をし、妹と婚約者からの謝罪を受け入れたウルスラは手落ちなくその後の段取りを整えた。
家の事をしばらく手伝ったら、どこか田舎の修道院にでも入り、孤児院で教師の真似事などしてみようか、いっそその方が気楽で良いかもしれない、と、顔に出ないが故に周りには全く気付かれなかったが、彼女は非常に暢気な事を思っていた。
そう思って(個人的に)ゆるゆると日々を過ごしている頃、ベルナールから求婚されたのだ。
元々伯爵夫人になる為の教育はすっかり済んでいるし、大手を振って家から出られるし、何より自分を含めた誰もが幸せになれる。
全てが万全のタイミングでの申し込みに、ウルスラをはじめとするアッシュフィールド家に否やなどあるはずがない。
早々に結婚の申し込みを受け入れる手紙を送ってから、ウルスラはずっとふわふわと夢の中を歩くような心地だった。
やはり顔には出ていなかったのだが。
(ベルナール様は大変なご苦労をなさっているというのに、私ときたら浮かれるばかりで……。私がベルナール様の妻に迎え入れられたのは、ただ幸運だっただけなのに)
そこでふと視線を窓に移すと、そこには無表情の女が立っていた。
(こんな、無愛想で陰気な女……。ベルナール様の隣に相応しくあるよう、少しでも妻として努力しなければ)
表情を動かすのが苦手な自分が、社交界で氷の令嬢(今は伯爵夫人に格上げされたが)などと呼ばれている事は知っている。
でも、笑おうとしても眉や頬の辺りがぴくぴく動くだけの無様な顔を他人に見せるよりずっと良い。
(少しでも旦那様の助けになりたい)
ただそれだけを思いながら、ウルスラはギュッと大切な本を胸に抱き締めた。
翌朝。
朝食には食べやすい大きさのミートパイとマッシュポテト、それからカリカリに焼いたベーコンと、およそ伯爵家の朝食と思えないメニューがどんと大皿に盛られて乗っていた。
「こういうのは久しぶりに食べるな」
「……以前にお話を伺っておりましたので」
騎士団宿舎での食事を模したそれは、自分の皿に自分が食べるだけを盛るスタイルである。
当然ベルナールも、給仕に命ずる事なく、己の手で目の前に置かれた皿に好きなだけ料理を盛って食べ始めた。
「お食事に合うよう、料理長がライ麦パンを拵えてくれました」
「あぁ、これは美味いな。チーズにも合いそうだ。今度このパンでサンドイッチを作って貰えるかな」
「かしこまりました」
いつもはおざなりにスープかサラダを食べて終わるだけの朝食だったが、贅を凝らしたものを食べている訳でもないのにベルナールには今日の朝食がとても贅沢なものに感じた。
満ち足りていると言い換えても良い。
朝食に続いて昼食も(昼食はキッシュと野菜がたっぷり入ったスープだった)しっかり休息をとったおかげでその後の仕事も順調で、予定よりも大分早く仕事に目処がついた。
ペンを置いてベルナールは控えていた家令に尋ねる。
「……ウルスラは今何を?」
「奥様でしたらこの時間はサロンで読書か刺繍をなさっておいでです」
「そうか」
そしてベルナールは残りの片付け仕事をこなしながら窓の外を見て少し考えると、よし、と小さく呟いた。
「──ウルスラ」
サロンの長椅子で寛ぎながら本を読んでいたウルスラは、夫に名を呼ばれて慌てて居住まいを正した。
「旦那様。お仕事は」
「あぁ、今期分はようやく一番段落ついたよ」
「それは良うございました。お疲れでしょう? 今お茶を……」
「あぁ、いや、いいんだ。それよりもウルスラ、君にこれを」
「えっ」
言いながら近付いたベルナールの腕が伸ばされ、ウルスラの髪に一輪の花を挿す。
「ラベンダー?」
花の香りで気付いたのか、ウルスラが呟けばベルナールが満足そうに頷いた。
「君のポプリ用との事だったが、庭師に頼み込んで一輪貰ったんだ。君にはもっと淡い色が似合うと思っていたけれど、これもよく似合う。ところで、晩餐まで時間もあることだし、久しぶりに散歩などどうだろう」
「はい。喜んで」
いつも通り、にこりと笑いもせず淡々とした言葉と表情で首肯を返したウルスラは、ベルナールに差し出された手を取って長椅子から立ち上がる。
そんな彼女の耳がほんのりと赤く染まっているのを見て、ベルナールは思わず口許を綻ばせた。
「旦那様……?」
「いや、何でもない。それでは行こうか」
不思議そうにこちらを見上げたウルスラに、ベルナールは小さく咳払いをして真面目な顔を取り繕うと、庭園までのエスコートを開始した。
──確かに伯爵夫人ウルスラ・レインバードは笑わない。
笑わないけれど、こんなにも可愛い女性である事を夫である自分だけは知っている。
顔に出ずとも、照れた時に耳が赤くなる事も、感情が昂ると早口になる事も、本当はお茶会よりも乗馬が好きな事も、ベルナールは知っているのだ。
他にそれを知る者が、おそらくウルスラの生家の家族くらいであるだろうという事実は、ベルナールに小さな優越感を抱かせた。
「そろそろ西の果樹園辺りに視察に行きたいと思うんだが、せっかくだから君もどうかな」
「もうすぐ収穫時期ですし、ちょうど良い頃合いですわね。勿論ご一緒致します」
初夏の香りが風に混じる穏やかな夕暮れの庭園を、二人は静かに会話を楽しみながら進んでいく。
今日もピンと背筋を伸ばしたウルスラは、ほんの少しだけ耳を赤く染めながら、愛する夫の隣を歩く。
自分が想像する以上に夫に愛されている事を、笑わない伯爵夫人はまだ知らない。