壁の中の貴婦人
2年前からお父さんの仕事の都合で都内のマンションに住んでいたけど、お母さんがベッドから出られなくなったので、僕たち家族は昔住んでいた地元の家に戻って来た。お父さんはお母さんの看病のため、テレワークと言う家で仕事をする事になった。僕は都内に引っ越す前と同じ小学校にまた通う事になるので、懐かしい友達に会えるから楽しみだった。
久しぶりの学校は、誰も僕に話しかけてくれなくなっていた。仲の良かった友達からも無視される様になった。多分だけど、2年前のお別れが急だったから、ちゃんとお別れの挨拶が出来なかったから怒っているんだと思う。あんなに仲良く遊んでたのに、無視はやり過ぎじゃない?とは思ったけど、向こうから話しかけてくれる様になるまで待とうと決めた。だから学校の行き帰りは一人になった。
昔と同じ通学路、その風景も殆ど変わらないのだけど、1つ変わった事があった。必ず通る交差点に面した家の壁に、長い髪のおばさんの顔が水墨画の様に浮き上がっていた。多分幽霊なんだと思うけど、嫌な感じがしない。だから怖くはない。品の良さそうな感じさえするので、僕は心の中で「貴婦人さん」と呼んだ。
不思議なのは、この貴婦人さんは今日か明日起こる悲惨な事件や事故の事を喋るのだ。どこだかの駅で通り魔が出て誰かが襲われるとか、高速道路での大きな事故が起こるとか。横断歩道の信号待ちをしている人たちに対して話しかけている様なのだけど、幽霊とは関わりたく無いと思ってるのか誰も聞いていないふりをしている。貴婦人さんが浮き上がる壁を見る事も無い。少し可哀想な気もするけど僕もそういうものかと思って、壁も殆ど見ない様にして聞こえていないふりをしていた。
とはいえ、ここのところ僕に話しかけてくれる人は、実はこの貴婦人さんだけだったりする。お母さんはベッドで寝たきりだし、お父さんは仕事をしながらお母さんの看病をしているので忙しそうだし、元気が全然無いのでとても話しかけられない。それに学校では相変わらず無視が続いている。だから貴婦人さんの話は聞いていないふりをしつつもしっかり聞いていて、その日や翌日のニュースで答え合わせをするのが僕にとっての日課みたいなものだった。本当は、貴婦人さんの事を家族や友達に教えてあげたいのだけど。
そんな日がしばらく続いていたけど、今朝の貴婦人さんは少し様子が違っていた。顔が怖い感じになっていて、僕に「あなた、ずっと聞こえていたのでしょう?」と話しかけてきたのだ。その言葉につい振り向いてしまって目が合った。気付かれていたんだ。取り憑かれてしまうかもと怖くなったけど、貴婦人さんはそのまま明日の土曜日に起こる事件を話し出した。
明日の夕方、都内で子どもを狙った誘拐事件が発生する。被害者の子の名前から事件現場の場所とか、今までに無いくらい具体的に教えてくれた。その結末は耳を塞ぎたくなる内容だった。その事件が起こる場所が、僕が前に住んでいたマンションの近くだった。そして貴婦人さんは、「私はね、誰かに話を聞いて貰って、事件や事故を止めて欲しかった」とか「あなたを助けるため」とか話してくれた。でも僕に一体何ができるのだろうか。
僕は学校へ行かずにそのまま警察署に行った。どう説明したら信じて貰えるかを考えながら。子どもの言う事だし、これから起こる事件の事だ。普通に言っても信じて貰えないと思う。「誰から聞いたの?」って聞かれたらますます困る。「貴婦人みたいな幽霊です」と言って誰が信じるのか。色々と悩んだ末、「前住んでいた所で子どもをつけ狙う不審者を見た事があります。今は捕まってますか?」と聞いてみて、パトロールを強化して貰うだけでも違うかもと考えた。
ところが、警察署の受付カウンターは高くて僕の背では全然届かなくて、話を聞いて貰えなかった。警察署内はみんな忙しくバタバタしているから何度もぶつかりそうになった。どんなに忙しくても、ちょっとくらい話しかけてくれる大人がいたっていいじゃないか。ムッとして警察署を後にした。
警察が頼りにならないので、僕が何とかしないといけないって気持ちになった。貴婦人さんは、僕が事件を解決してくれると期待してくれているんだと思う。単に話を聞いて欲しかっただけなのかもしれないけど。それでも小学生の探偵が出てくる漫画みたいに、主人公の気分で作戦を考える事にした。
大人の犯人を取り押さえるのは絶対に無理。だけど、事件現場に被害に遭う子を近づけない事は出来る。まずはその子に会いに行って、事件現場に行かせないようにしようと思った。被害に遭う子は名前と学校名はわかっているので、今日のうちにその子の学校へ行けば探せるはず。でもその子に何と説明しようか。貴婦人さんの話をそのまま言ったところで信じる訳がない。むしろ僕の方が不審者に思われてしまうかもしれない。
普通電車で2時間かけて、前に住んでいた町に来た。被害に遭う子の通っている学校は、僕の通っていた学校の隣りの学校で、場所は割と近い。塾が一緒だった子がいるはずなので、その子に聞けるかもしれない。その子も被害に遭う子も同学年だし。ん?なんか「塾」で思い出したかも。「笹森千草」が被害に遭う子の名前だ。塾にそんな名前の子がいた様な。会話をした事は無いけれど、他の子から「ちーちゃん」と呼ばれていて、顔もなんとなく記憶がある。
学校はちょうどお昼休みだったので、紛れ混むには都合がよかった。教室は習字の掲示で特定出来た。彼女の習字は「草」って大きく書いていた。自分の名前だから好きな字なのかもしれない。教室内を見渡すと、なんとなく見覚えのある顔があった。よかった、あっさり見つかった。後はどう説明するかだ。授業が始まる前に教室を出て、放課後まで待ちながらプランを練った。
「塾で見かけて一目惚れしました。付き合ってください。それで土曜日の夕方デートしてください。」と声をかけて事件現場から遠ざける。断られたら「1回だけでいいからデートして」ってゴリ押ししよう。でももしそれがキッカケで本当に付き合う事になったら・・・なんてお花畑な事をもんもんと考えていたら、あっと言う間に放課後になった。下校途中の彼女を見つけて慌てて追いかけた。
僕は小学6年生にして「玉砕」を体験した。何度声をかけても聞く耳持たず。目線も合わせず。彼女は僕をガン無視して帰って行ったのだ。急いで追いかけたから「はぁはぁ」って言ってたのがキモかったのかもしれない。心って折れるものなんだと思い知った。あれ?でも待てよ、愛を告白しに来たんじゃないぞ。事件を食い止めに来たんだぞ。君が危ない目に遭うんだぞ。でもそんな「誘拐されて大変な目にあう」とか怖い事を言って怯えさせては可哀想だから、プランBを発動させる。これは事件現場で彼女を連れて逃げると言う高いリスクを伴うもの。
「今日のところはこれで勘弁してやるぜ」と、誰に言っているのかわからない捨てセリフを吐き、僕は自宅に帰った。
帰宅した時に、学校をサボっていたので怒られるかもと思って覚悟していたが、お父さんはいつもと変わらずで拍子抜けした。学校から登校していない事とかの連絡あったはずなのだけど。僕の事より病気のお母さんの方が大事なのかも。ま、怒られないのだからいいか。それよりも、明日どうやって安全に連れて逃げるかだ。ガン無視された事を少し引きずっているのだ。
土曜日、キッチンからコショウとトウガラシの瓶を取ってきてカバンに入れた。犯人の顔に撒いてあたふたしている隙に彼女を連れて逃げる作戦だ。事件現場は貴婦人さんから聞いていたし、住んでいたマンションの近くなので場所は知っている。滅多に人が通らない雑居ビルの隙間の狭い路地。僕は以前に野良猫を追いかけて迷い込んだ事があった。発生時間まで身を隠して待機しておこうと考えた。
間もなく事件発生時間だ。すると野良猫がやって来た。その野良猫を追いかけて彼女がやって来た。なんだか既視感のあるシチュエーションだ。そしてその彼女の背後に忍び寄る男の影があった。こいつだ、こいつが犯人なんだ。パーカーのフードで顔が隠れてよく見えない。僕は両手にコショウとトウガラシの瓶を持った。蓋は開いている。僕の近くまで来たらかけてやる。
男はポケットからナイフを取り出した。背後から彼女を襲うつもりだ。飛び出してコショウとトウガラシをかけてやろうと思ったその時、男のフードがずれて顔がよく見えた。
あ!
その男は知っている顔だった。僕の記憶にべったりと染み付いている顔。ああ嗚呼、そうだ、そうだった。僕はこいつにナイフでやられたんだ。今彼女が狙われているのと同じように。彼女を僕と同じようにするつもりなんだ。
許さない!!絶対に許さない!!彼女を僕と同じ目には遭わせない!
僕の憎しみ、強い思念は野良猫に伝わり、驚いた野良猫は飛び上がって男の顔にしがみついた。その様子と怪しい男の存在に気がついた彼女が大きな悲鳴をあげた。その悲鳴が、たまたま偶然にも近くで連続誘拐殺人事件の聞き込み捜査をしていた警察官の耳に入り、駆けつけて来た。男は警察官を見て逃げ出した。女の子の悲鳴、逃げる男、これで警察官は事案と判断し男を追いかけ拘束した。
彼女、笹森千草は無事だった。貴婦人さんから教えて貰った事件は未遂で終わった。最悪の事態を阻止できたんだ。野良猫のお陰で。野良猫さん、驚かせてごめんなさい。でも結果的には良かった。助かったよ。その安堵感で僕は気を失った。
気がついたら、家だった。お父さんとお母さんが涙を流しながら目の前にいた。お父さんは「犯人やっと捕まったよ。」と言って泣いていた。お母さんもベッドから出て来ていて、お父さんの隣りで泣いていた。そこは僕の写真が飾ってある棚の前だった。あの時拘束された男は、連続誘拐殺人事件での目撃証言や証拠品などの照合によって犯人と断定された。
翌朝僕は、貴婦人さんに会いに行った。貴婦人さんはいつもよりずっと優しい顔をしていた。一通り顛末を話したら、「お疲れ様、よく頑張ったね」と褒めてくれた。
そして「あなたは成し遂げたのだから救われたの。もうここにいる必要はないのよ。このままいると私みたいに地縛霊になっちゃうから、大事な人とちゃんとお別れをして、旅立ちなさい」と優しく教えてくれた。僕は「貴婦人さんも僕にとっては大事な人だよ」と言った。貴婦人さんは「素敵な名前をありがとう」と言ってくれた。
それから僕は家に戻った。大切な人とお別れをするために。
最後までお読みいただきありがとうございます。この貴婦人さんは、子どもの頃に住んでいた家の近所にある壁のシミが、雨の日に女の人の顔に見えていた事をモチーフにしています。その時も怖い感じは全くせず、心の中で挨拶していました。その経験を盛りに盛ってお話にしました。評価、ご感想頂けたら幸いです。