ダンジョン運営物語1
窃盗が見つかればアンリエッタの父親は死ぬ。
投獄されている間、病床に伏しているアンリエッタの父親の面倒を見てくれる人はいなかった。彼女がしくじれば、罰金の支払いや前科が付くという程度の損失ではなく、唯一の家族が失われる。
それでも彼女は盗むことを選んだ。
誰かに脅されたわけでもなく、時間の猶予もまだ残されていた。ただ、今の生活を続けていた場合、いずれ彼女と父親は食い詰める。何かしらの奇跡でも起こらなければ、アンリエッタは奴隷に身を落とし、彼女の父親は死体となって腐るだろう。
アンリエッタの家は病気の父親を抱えているため相当な貧乏だった。そのため、錬金術師のゼノンに街の情報などを売って多めにチップを稼いでいるが、それでも日々の生活が苦しく途方にくれていた。
絶望感がアンリエッタを包み込んでいた。努力では決して覆せない「現実」という宿命が、お前は幸せになれないとささやいているようだった。
アンリエッタは責任の全てを捨てて逃げたい衝動に何度も駆られていた。しかし、今の生活を作り出した原因がアンリエッタ自身だと思うと逃げられなかった。
彼女の父親が病気になった理由は、アンリエッタを魔物から庇って怪我を負ったからである。蘇生魔術という強力な回復手段があろうと、時間の巻き戻しを応用したその魔術は、遠い過去には戻せないという制限があり、また教会に強制転送されてしまうため――つまり、教会がなければ発動しないため万能ではなかった。
アンリエッタの父親が死の砂漠によって滅んだ街で、娘を守るため、十日十晩戦い続けた結果、彼女の父親は傷の癒えないまま病気を誘発し、娘を守りきったあと、起きることすらままならない身体となった。
愛情と負い目の二つの感情が、彼女の逃げ道を塞いでいた。彼女は父親から逃げられなかったし、逃げる気もなかった。しかし、それが良くない方向に彼女を追い詰めている。
(初めから私という存在が無ければお父さんも幸せだったろうになぁ……。どうして、私なんかが生まれてきたのだろう?)
彼女がそんな気持ちで沈んでいる時だった。武器屋のショーウィンドウで特別な剣を見つけてしまったのは。
それは戦争で魔王を倒した英雄の使っていた聖剣の贋作だった。量産品のクズ剣ではない手作りの一級品。限りなく本物に近い再現度を誇っている。と、商品の説明欄にはそう書いてあった。
アンリエッタは、生まれて初めて、この世界の全てを裏切ってでも欲しいと感じた。
聖剣を使う英雄といえば、冒険者ギルドの勇者である。彼が歴史に残した伝説は奇跡の逆転劇が多い。彼のような聖剣があれば、全ての闇を斬り裂いて道を開くこともできるかもしれない。そういう暖かく爽快な夢想が彼女の心を掴んだ瞬間だった。
幸か不幸か武器屋の周辺に人はいない。アンリエッタは犯罪の衝動に誘われるまま、武器屋の扉を静かに押す。
ドアベルの高い金属音がカランカランと鳴った。
「はい、いらっしゃい。……あれ?」
武器屋にドアベルが付いていることをアンリエッタは知らない。来たことの無い店だったからだ。
彼女は咄嗟に機転を利かせて店内に滑り込むと、陳列棚の影に身を低くして隠れる。
間一髪でカウンターにいる店員の視界から逃れることができた。
店員が書類仕事に目を奪われていた幸運も味方している。
「確かにドアベルが鳴ったよな……」
不審に思った店員が泥棒を警戒して早足に調べに行く。小柄なアンリエッタは、棚と床下のわずかな隙間を見つけ、這いつくばるように隙間の影に入り込む。アンリエッタのすぐ横を二本の足が通り過ぎた。
窃盗に慣れた輩であれば、床に身を伏せて隠れるなどという身動きの取れない真似をしないため、手馴れていた店員は足元に気を配らなかった。
「まさか、もう奥の方に……?」
頭の回転が速い店員は、すでに泥棒が奥まで侵入している可能性に気付いた。念の為、出入り口の扉に鍵をかけると、奥の方を確認するため走るようにいなくなる。
アンリエッタは店員がいなくなった隙に、すぐさま床下から這い出るとショーウィンドウに飾られている聖剣の贋作に向かっていく。
一目見て盗むのは無理だと察することができた。
表側から見たときはわからなかったが、剣は置かれた棚と頑丈な金具で固定されている。壊している間に店員が帰って来るのは火を見るより明らかであった。いや、それよりも出口である扉に鍵をかけられていることも問題だ。ここで見つかれば、疑いをかけられることは間違いないだろう。
盗人を逃がさない一心で鍵をかけたことが店員のミスだったのかもしれない。追い詰められたアンリエッタはやるべきことがハッキリとしていた。
彼女は陳列棚に飾られている剣を一本掴むと、ショーウィンドウ目掛けて勢いよく投げる。
ガラスの割れる騒がしい音が響いた。店員が慌てて戻ってくると、そこには盛大に割れたショーウィンドウと、店の外側にばら蒔かれた大量のガラス片という光景が広がっている。
店員は、どうやら盗人に逃げられたらしいと悟った。……実際には、アンリエッタは店内に隠れたままで様子を見ているのだが、ショーウィンドウに気を取られた店員は気付かない。
店員は盗人の姿が無いか慌てて外に出た。周囲を見渡すが、一つも人影が無い。泥棒がどこに行ったのか通行人に尋ねることすらできなかった。
店員は二択を突き付けられていた。今、自分は一人である。この状況で泥棒を探しに行くか、店を守るかの二択だ。店員の頭にあったのは、自分の店番中に窃盗があったという事実が、武器屋の主人に知れた時の恐怖だった。
店員は近くにまだ泥棒がいることを願って、周辺を探すことにした。軽く探してすぐに戻るつもりだった。
店員がいなくなった瞬間を見計らって、アンリエッタは物陰から出てきた。すぐさま、カウンターの裏側に回り、ショーウィンドウの鍵を探す。鍵はすぐに見付かった。店員が持ち歩いていなかったのは、幸運としか言いようがなかった。
アンリエッタはカウンターで盗品を隠すための袋も用意すると、急いでショーウィンドウに近付き、鍵を聖剣を留めている金具の鍵穴に差し込んだ。かちり、と音がして留め金は外れる。アンリエッタは聖剣を掴むとすぐさま武器屋から飛び出た。いつ店員が戻ってくるかわからない。一刻も早く武器屋から離れることが重要だった。
袋に包んだ聖剣を両手でしっかり握ると、居もしない泥棒を追いかけて行った店員と真逆の方向に走り出す。アンリエッタは足がもげるほどの速度で走り続けた。真っ直ぐに聖剣を持って帰ることはできない。万が一、容疑をかけられた時に持っていては、没収された上で捕まってしまう。ならば、どこかに隠さなければならなかった。
目からは涙がこぼれ落ちている。聖剣を手に入れた嬉しさなのか、盗んでまで手に入れた罪悪感なのか、アンリエッタ自身にもわからない。しかし、この聖剣が彼女の人生を切り開く奇跡の剣であることを、罪に汚れた身でありながらアンリエッタは神に祈った。
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翌日、近くにダンジョンが出来たという発表が冒険者ギルドを通じて街中に浸透し、トゥルスの街は騒がしくなった。
ダンジョンは死の砂漠が広がることの予兆である。……放っておけば、ダンジョンはやがて死の砂漠を生み出し、砂漠は街を飲み込み、砂漠から現れる特異な魔物は街の住民たちを皆殺しにしてしまう。
ダンジョン発見のニュースを聞いたアンリエッタは運命じみたものを感じていた。
ダンジョン攻略は砂漠化を止めるだけではない。ダンジョンを最初に攻略することができれば、踏破した冒険者の特権としてダンジョンに使われていた魔力結晶の一部を手に入れることができる。それは、つまり父親の病気を治せるかもしれないという希望だった。魔力結晶があれば、通常よりも高度な治療魔術を行使できる。父親の病気を回復させることができるかもしれなかった。
それと仇討ちだ。死の砂漠を振りまく魔族に、父親が受けた怪我と病気の苦しみを償わせてやろう、という暗い決意がアンリエッタの心に湧き上がっていた。
アンリエッタは盗んでしまった聖剣の贋作に意味を見出す。……私は、この聖剣でお父さんを救って、魔族に正義の鉄槌を食らわせるんだ、と。
アンリエッタは冒険者になる決意を固めて、冒険者ギルドの門を潜った。