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バタフライ&ローゼス・ガーデン  作者: 池田 和美
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バタフライ&ローゼス・ガーデン・1-1

登場人物紹介

中村(なかむら)公一(こういち):私立清隆学園高等部に通う一年生。事故に巻き込まれて、別の世界へと行く。

ジュン:公一が行った別世界で出会う少女。

シロー:公一が行った別世界で出会うオッサン。

ヒメ:公一が行った別世界で出会う少女。右足が不自由。

ヒカル:公一が行った別世界で出会う。

リュウタ:公一が行った別世界で出会うオッサン。料理人。

シンゴ:公一が行った別世界で出会うオッサン。極度の外出恐怖症。


ルーク:別世界のキーパーソン


藤原(ふじわら)由美子(ゆみこ):今回は出番なし。

郷見(さとみ)弘志(ひろし):別シリーズの主人公。今回は隠れキャラ。

不破(ふわ)空楽(うつら):上に同じ。

権藤(ごんどう)正美(まさよし):上に同じ。

佐々(ささき)恵美子(えみこ):生徒会(裏)投票にて『学園のマドンナ』に選出された美少女。

御門(みかど)明実(あきざね):別シリーズの登場人物。今回は隠れキャラ。

左右田(そうだ)(まさる):公一のクラスメイト。

海城(かいじょう)アキラ:別シリーズの主人公その二。今回は隠れキャラ。

新命(しんめい)ヒカル:上に同じ。

小野(おの)勇士(ゆうじ):別シリーズの主人公その三。公一のクラスメイト。

猪熊(いのくま)修也(しゅうや):上に同じ。





「はい、日直」

 担任が顔を向けると、今日の日直である女子生徒は機械的に声を出した。

「きりー、れいー」

 とたんにドヤドヤと室内が喧騒に包まれた。

「センセー、さいならー」

 幾人かの女子生徒は、荷物を揃えている担任へ声をかけて、真っ先に飛び出していく。おそらくこれから部活動があるのだろう。

 いつもの放課後の景色を、一人の男子生徒は、机に突っ伏したまま眺めていた。

 体格は、これといって鍛えている様でもなく、清潔感はあるがお洒落に気を使っている様でもない。背も高からず低からず、肉づきも太っているというには問題があるし、痩せているかというと、そうでもない。中肉中背という表現がぴったりくる少年だ。

 そんな彼の唯一の特徴は、ちょっと長めにした髪の毛だった。まあ長さの方は不精をして伸びてしまったというところなのだが、その髪質である。ゆらゆらと軽い曲線を描いているのだ。幼稚園の時に一緒に遊んでいた女の子から「まるでオソバみたいだね」と言われたのが軽いトラウマである。

 彼は、次々とクラスメイトが放課後となって、クラブや友人との約束など、それぞれ活動的に動き出しているのに、まだ机に突っ伏していた。

「おい」

 動きの無い彼の背中をつつく者がいた。

「んあ?」

「起きてるか、中村? 学活終わったぞ」

 つついたのは、一つ離れた後ろの席に座るクラスメイトであった。

「起きてるよ、小野」

 中村と呼ばれた彼は、忌々し気に上体を起こして振り返った。呼ばれた名前は、もちろん彼の苗字だ。彼を…、中村(なかむら)公一(こういち)を起こしたのは小野という少年だった。嫌々体を起こして首を巡らせて話しかけてきた相手を視界に入れた。

 着ている物は紺色のブレザーに同色のスラックス。胸元には臙脂色のネクタイ。この清隆学園高等部で制服に指定されている服装である。ただボタンは、ジャケットの下に着たワイシャツまでだらしなく外し、ネクタイなんかもまるでぶら下げるように緩く結わいているだけだ。

 まあささやかな思春期の反抗期と言うヤツだ。なにせ公一自体も同じようにだらしなく制服を身に着けているため、彼に対して偉そうなことは言えなかった。

 少年は微妙な顔をして立っていた。

「おまえ、そんなんで大丈夫なのかよ」

 肩にかけた荷物の位置を直しながら訊いてくる。それに対して公一は眉を顰めた声で言い返した。

「なにがだよ」

「成績だよ。ガッコ来てから、ずーっと寝ているだけじゃん」

「大丈夫だろ」

 いちおう強気でこたえるが、彼の成績は中の下といったあたりで低迷していた。

「ま、大丈夫ならいいけど。この二組から落第者なんて出て欲しくないからよ」

 いまだ中学生の気分が抜けないが、高校ともなれば成績次第では落第や退学だってありうる。しかも彼らの通う清隆学園高等部は、それなりにレベルの高い学校なのだ。

「準備できたよ、ユウジくん」

 話しかけてきた少年の隣から、荷物を小脇に抱えた女の子が立ち上がる。いや女の子に見えたが、着ている物が男子用の制服だ。この子が間違いなく男であることは、いつだか休み時間に行った便所で出くわした時に確認済みだ。

 その容姿が災いして、上級生のグループからイジメを受けていたクラスメイトである。いま公一に声をかけてきた少年の尽力によって、そのイジメは鳴りを潜めたようだ。

 それ以来、彼らはペアで行動していることが多かった。どうやら同じ部活に所属したようだ。

「よし、んじゃ行くか。シュウ」

 横に並んだ様子は、出来たばかりの恋人の様だ。それもこれもシュウと呼ばれた同級生の女顔がいけないのだが。

 クラスの女子の何人かは、変に熱い視線を送るコンビである。

(まあ、助けた相手を、いまさら袖にするのも変だけどよ)

 二人の様子を見て公一は思った。

(誤解されても、仕方ねえんじゃないか?)

 だがしかし、いじめられっ子を助けるような少年であるからこそ、先ほど公一へかけたような言葉が出て来るのであろう。

(成績の心配は、担任と、お袋で間に合ってるっーの)

「オレたちはこれから部活だけど、おまえも来るか?」

「部活?」

 面倒くさそうに公一は、二人が所属している部活を思い出した。

「刀剣研究部だっけ? いいよ、おれは」

 手を横に振って否定した。

 公一はどこの部活にも所属していなかった。いや清隆学園高等部では全ての生徒が何かしらの部活に入るように校則で規定されているので、どこかの部活には所属しているはずだ。だが公一は、自分で入部届を出したはずの部活の名前すら憶えていなかった。

(たしか憲法研究会だったか?)

 かつては護憲派の学生たちが根城にし、教職員との対立の象徴でもあった由緒正しき部活動である。研究会という名前だが予算はちゃんと割り当てられている、しっかりとした団体だ。しかし安保闘争から幾星霜、学生運動どころか大人たちの運動さえ下火になっている今は、幽霊部員たちの巣窟であった。

「せっかくの高校生活なんだから、部活もいいもんだぜ? 女の子と知り合う機会にもなるし」

 ニカッと爽やかに笑ったお節介の横で、不安そうに美しい眉を顰める人物がいた。

「ユウジくんは部長さんがお目当てなの?」

「いや、そーゆーわけでは」

 まるで恋人の浮気を心配する女の子だ。しどろもどろになった少年は、引けた腰で言った。

「部長はシュウに任せるよ」

「なんで?」

「ほら、アノ人。アレがアレじゃん」

「あ~、まーね。アレだしね。でも、そんな女性(ひと)をボクに押し付けるつもりなの?」

 プクッと頬を膨らませた様子は、クラスにいるどの女子よりも可愛かった。

 まあ、そんな二人の会話で、その部長とやらがどんな人物なのだろうか想像はついた。

「誘ってくれてアリガトよ。まあ、今日は新刊の発売もあるし、別の機会に」

「そうか? じゃあ、またな」

 刀剣研究会の二人は、そのまま部長の噂をしながら教室を出て行った。

 公一の少ない趣味の一つに、読書というのがある。といっても純文学やら推理小説などではない。巷に溢れるライトノベルというジャンルが好きだった。なに、深い理由は無い。余計なことは考えずに読めるのがいいのだ。この趣味は公言しており、同好の士を複数人学内に見つける事ができていた。

 そして重要な事だが、今日は新刊の発売日ではない。それとない勧誘を断るための方便だ。だいたい公一は新刊で本をあまり買わないのだ。最近の古本は綺麗なままで売られているので、新旧に関してそう大して気にならない。もちろん古本だと人気のタイトルなど入荷まで時間がかかり、手に入れるのは世間より半年も遅れることもある。だが、お小遣いの節約ができるという大きな旨味は代えがたい事実だ。

 つまり趣味は読書でライトノベルを読んでいますとはいっても、その程度の緩やかなファンでしかないのだ。

 趣味がそんな程度で、彼女どころか一緒に遊ぶ女の子すらいない。もちろん女性に興味が無いと言えばウソになるが、他の男子の様にシャカリキになって異性を求めたりもしなかった。まあ読んでいるライトノベルの主人公にありがちな、可愛い子ちゃんだらけのハーレムに憧れが無いと言えばウソになるが。

 つまり(テストの点数が)無い(入れ込んでいる趣味も)無い(彼女も居)ないの三重無なのだった。

「帰るか」

 ズボンの後ろポケットへ放り込んでおいたスマートフォンを取り出し、画面を見て着信などが無かったかを確認した。

 クラスの中を見回すと、一番後ろの席に座る一人以外は、もう自分だけしか残っていなかった。

 その公一を除くと最後に残ったクラスメイトがゆらりと立ち上がると、こちらへやってきた。

(な、なんだ?)

 公一と、その細い銀色のフレームをした眼鏡をかけた男子とはあまり親しくなかった。まあ朝に会ったら「よう」ぐらいの挨拶は交わすが、それもクラスメイトだからという理由だけで、一緒に遊ぶどころか、授業などで同じ班にすらなったことはなかった。

 自分では人付き合いは普通の方だと思うが、名前を知っている程度の相手だ。

(たしか、ソウダとかいったか?)

 近くに座る女子同士で、歌も芝居もやる某マルチタレントに似ていると噂していたので、名字ぐらいは覚えていた。

 そんなソウダであるが、クラス内では浮いた存在であった。なにせ紺色のブレザーが制服のはずの清隆学園高等部において、黒い学ランを着て来るので悪目立ちをするのだ。

 また素の顔はいいのだが、どこか無表情で何を考えているのが分からないところもあった。

 その彼が、何とも言えない所作でやってくる。強引に擬音をつけると「ぬめっ」とした動きで、どこか嫌悪感すら湧いてくる動きなのだ。これも面はいいのにクラス内で人気が低い原因の一つだ。

 待つ必要も無いと公一は荷物を纏めて席から立ち上がった。

「ねえ、キミ」

 無視して教室から出ようとした背中に声がかけられた。

「?」

 つきあいで半分だけ振り返ると、無表情なソウダの顔が意外に近くにあった。

「わっ、脅かすなよ」

 その場で飛び上がるほど驚いた公一に、愛想笑いなのか頬を歪ませてみせて、ソウダは話し始めた。

「今日は気を付けた方がいいよ」

 無感情な平坦な声で話されても、不気味さが増すばかりであった。

「は?」

 言われている意味が分からず、公一は眉を顰めた。

「何に気をつけろって言うんだ?」

「キミの座標点が、この時空から消えかかっている。ひょっとすると…」

 言葉を切ったところで笑顔をソウダは作り直した。

「ひょっとするかもねえ」

 どんな笑顔を見せられても、ソウダの細面に浮かぶ表情には嫌悪感しか湧いてこなかった。

「なんだよ? あ? インネンつけようってか?」

 変な相手の変な物言いに、公一は一層表情を厳しくした。学力も中の下ならば体力だって中の下な彼だが、男としてバカにしてくる相手をそのままにしてはおけない。まあ、ソウダは身長こそ公一より高いが、棒のように痩せているし、何か内臓系の病気でも抱えているのではないかと思えるぐらい顔色がいつも悪いので、ちっとも荒事に向いているように見えない事もあるのだが。

「そんなことないよお」

 ゆっくりの噛み締めるようにソウダは告げると、またゆっくりとした、そしてどこか粘着系の物体を想像させる動きで、公一よりも先に廊下へ出て行った。

「ちょっと待てよ!」

 もう少し何か言ってやろうと、その細い背中を追いかけて公一も教室を出た。



 しかし、廊下のどちらを向いても、もうソウダの姿は無かった。

 曲がり角など無い廊下である。

 校庭に面した側に窓ガラスが並ぶが、ここは三階なので出入りができるとは到底思えない。真っすぐ行った先は、どちらも階段室となるが隠れられる壁などは無い。理論上は階段へ飛び込めば視界から消える事はできるが、今の短い時間にそこまでできる人間が居るとは思えなかった。

 隣の教室にでも入ったかと覗いてみた。

 片方には二人の女子と話す白衣を着た男子、もう片方にはソウダとは違う銀縁眼鏡をかけたヤツと、眠そうなヤツ、そしてシュウのような女顔の三人組が駄弁っているだけであった。

(意外にすばしっこいのな)

 隣のクラスに居ないという事は、結構な距離をソウダは走ったことになるはずだ。それ以外に可能性は無いだろう。

(ま、びびったって事だよな)

 自己満足な勝利宣言を心の中だけでして、公一は帰る事にした。



 教室のあるB棟を一階までおりて、隣のA棟一階にある生徒昇降口で靴を履き替えた。

 いちおう学園推奨の革靴が制定されているが、公一はスニーカーを選んでいた。

 外に出て、周囲を確認する。自転車置き場は校舎の裏の方に当たるが、そちらには用事が無かった。

 彼が通う清隆学園高等部の外側は、まるで要塞のような壁で囲まれていた。まあ車寄せ程度のスペースの向こうにはちゃんと校門が開いているので暗いということは無いのだが、異様であると言えば異様であった。

 校門を出たからと言って、そこは一般道ではない。清隆学園は幼年部(幼稚園)から大学まで揃っている大きな学校法人で、多摩丘陵へ移転した大学の文学部や、一部の施設以外は全て一つの敷地に集まっているのだ。合格後にあった新入生向けのオリエンテーションとやらで、昔は戦闘機の基地だったとか何とか聞いた気がした。それを創設者のナントカさんが「平和になったこれからは、勉学が必要」と政府に働きかけて、この広大な土地を払い下げてもらったとか。その他にも「我が学園は文武両道で…」とかご高説を賜った気がするが、公一の脳細胞に、これっぽっちも残っていなかった。

 まあ高校進学に成功した今は、のんびりとやっていこうと漠然と思っているだけである。そのうち大学進学など進路で悩むことになるはずだが、未来はその時の自分自身に任せるつもりであった。

 学園の敷地を縦断している中央通りと平行にのびている桜並木を東へ。このまま進めば、いずれ大型トラックが行き交う国道にぶつかるはずだ。そこにはズバリ「清隆学園前」というバス停があった。

 が、公一の足はそちらにも向かなかった。

 高等部を囲う高い塀沿いに、裏へと回る砂利道にと入って行く。たまに運動部がランニングで使用する以外、まあ内緒話か何かする他に生徒はあまり立ち入らない場所だ。

 学園の敷地と、一般住宅との境目を走る砂利道には「チカンに注意」の立て看板が立っていたりした。

 ポツリポツリと立っている街灯の一つへ近づくと、その裏へと公一は入った。

 脇を流れている農業用水と道路の境目に、猫の額ほどの空き地があり、そこに一台のスクーターが停めてあった。

 そのシートへ通学バッグを乗せると、公一は上着を脱ぎ始めた。

 いや立て看板が注意を喚起するチカンの正体が彼でしたというわけではない。公一にとってこの紺色のブレザーは安っぽいサラリーマンを連想させる服なので、いつまでも着ているのが嫌なだけだ。

 制服から出したスマートフォンを、ハンドルの下にあるポケットへ放り込み、スニーカーを脱いでズボンもおろした。忌々しくネクタイを剥ぎ取ると、ワイシャツまで脱いだ。

 脱いだ一式は通学用バッグへと押し込んだ。このままではボクサータイプのパンツに、Tシャツという、外を出歩くには問題のある格好である。が、心配ご無用である、制服の代わりにバッグからスウェットの上下を引き摺りだした。

 鼠色をした安物のソレに着替えて、靴を履き直す。これでドコから見ても公一は「学校帰りの高校生」には見えなくなった。まあ「帰宅後に野暮用で出かけた高校生」ぐらいの風体だ。

 楽な格好なのはいいが、ポケットが浅くてスマートフォンが入らないのが難点だ。手に持つなどしなければならないからだ。

 バッグ脇のポケットからカギを取り出すと、スクーターのシートを開け、ラゲッジスペースに納めていたヘルメットと荷物を交換した。

 ヘルメットは車体と同じ白色であった。それを被るというか引っかけるように頭へ乗せた。

 それから当たり前だが、シートのロックを確認し、カギをシートからハンドル下のキーホールへと移し、ハンドルロックを解除した。



 スクーターに跨った光一は、足で漕いで砂利道へと乗り出した。左右を確認するが、やはり通行人どころか猫の子一匹通りかからなかった。

 スイッチ長押しでエンジンを目覚めさせ、学園の奥へと続く方向へハンドルを向けた。

 もちろん校則違反である。

 清隆学園高等部では、基本的に徒歩もしくは自転車通学に限ると、生徒手帳にも書かれていた。それは禁止事項の所にも明示されており、自動車、自動二輪車、原動機付自転車、果ては飛行機に至るまで例が挙げられており、つまり動力を使用する乗り物は通学に使用できないとされているのだ。

(まあ、飛行機は冗談だよな)

 例外として動力は使用していないが人力飛行機は使用不能であるとの但し書きを思い出す。何代前の先輩が制定した校則だか禁止事項だか知らないが、随分と洒落っ気がある内容であったと、公一は思い出していた。

 なぜ公一が禁止されているのにも関わらずスクーターで登校したか。まあ便利であるというのが一番の理由なのだが、四月生まれ故に他人よりも早く免許取得ができ、少々彼に甘い祖母が、中古とはいえ状態のいいスクーターを入学祝と言って買ってくれたからである。つまり今は乗るのが楽しい時期なのだ。

 ぺぺぺと軽い音をさせて砂利道を進む。学園を半周したところに小さな脇道があり、そこから細い農道が「野暮用」の語源となった神社の方へ続いていた。

 田んぼと梨畑、それと雑木林の名残が続く農道を行くと、複数回農業用水を欄干も無い小さな橋で渡ることになる。直角と言えない曲がり角を何回か折れると、学園の近くを走る中央自動車道と国道を繋ぐ広い道が行く手を遮った。

 ちゃんと信号を守って停車したところで、先程のクラスメイトとの会話が思い出された。

「今日は気を付けた方がいいよ」

 不気味で平坦な声が脳内に再生された。

 国道と中央道を繋ぐ道だから、車通りは結構ある。目の前をよぎっていく大型車を眺めながら公一は肩を竦めた。

(事故にでも遭うって言うのかねえ)

 そう思った瞬間、都市間輸送を担っている大型トレーラーが「ぶほおおおおお」と長くクラクションを鳴らした。脇道で信号を待つ公一の腹へズンと響く音量だ。

 トレーラーの重低音に追い散らされた格好になった軽自動車が、対抗するように「びいいい」と鳴らし返したが、まるで子猫が人食い虎に対して虚勢を張っているような感じしかしなかった。

 そんなささやかな交通トラブルを目の前にして、公一は考えを改めた。

(ま、貰い事故ってのもあるしな)

 やっと自分に向いている信号機が青になった。こんな脇道へあまり時間を割いていられないのか、すぐに同じ方向を向いている歩行者信号は点滅を開始していた。

 公一は慌ててスロットルを開くと、大通りを渡り、反対側の農道へと飛び込んだ。

 貰い事故もなにも、こんな細い道ばかり走っているので、対向車も抜かしていく暴走車もいない。たまに農地に入っている農夫の軽トラックが傾いで停まっているぐらいだ。

 それでも一応、普段は無視してしまう一時停止の標識を守った公一は、登り坂へとスクーターを向けた。東京都はいえ農地ばかり広がる清隆学園周辺部であるが、河岸段丘を上がれば住宅地が広がっていた。



 ここからは清隆学園がある自治体の隣にある文教都市となる。こちらにも複数の大学をはじめとした色々な教育施設が建っていた。

 公一の家は、そんな町を入ったところにあった。ちょっと曲がれば別の小学校。こちらには市立の中学校と、都市計画によって造られた直角に交わった道が碁盤のように入り組んだ町並みだ。

 そんな道であるから、一時停止と一方通行がめちゃくちゃ多い。自転車ならばそれらは無視してもあまり怒られないが、スクーターとなれば話は違う。たまに警官が未使用の違反切符を束にして持って、角に隠れるように立っていたりするから余計に厄介だ。

 しかし公一にとって慣れた道である。だいたい危険な場所は把握しているつもりであった。

 今も、角の住宅が高い壁を建てたせいで見通しが利かなくなった交差点で一時停止したところで、白いワンボックスがガーッと目の前をよぎって行った。

(主人公が交通事故に出くわすとか、ラノベの導入部で定番だもんな)

 ブラック企業で酷使され、疲れ果ててうっかり赤信号で横断歩道を渡ってしまうとか、今みたいな半ば暴走しているワンボックスが歩道に突っ込んで来るとか、自分がよく読むライトノベルの設定を思い出していた。

(ま、貰い事故も、注意していれば大丈夫だろ)

 細い道を抜け、一方通行で回り道をさせられたが、見慣れた界隈へと辿り着いた。

 追い抜き禁止の黄色い線が書かれた対向車線のある道を、もうちょっと行けば自宅である。

 その行く手が塞がれていた。

 いや大した理由ではない。交差点の角にある雑居ビルが解体中で、今日は道を片側通行にして、解体に使用する器材の搬入をしているのだ。

 公一の家では、ここを壊した後に何が建つのかなと話題になっていた。公一はコンビニが入れば便利になるなと言った記憶がある。母親は同じ商店でも品ぞろえが豊富なスーパーが希望のようだ。

 顔だけは申し訳なさそうにして、赤い棒を横にして上げる警備員が、停車した公一へ頭を下げた。

(さて、今日は帰ったら何をしようかな)

 授業の予習復習なんて最初(ハナ)から考えていない。ゲームをやるとしても、そんな大作ゲームに今は取り掛かっていないし、読書だって教室で言い訳に使ったぐらいだ、読みたい本があるわけでもなかった。

(ま、動画をチェックして…)

 複数の動画サイトを回るかと思ったところで、物凄い爆音がした。

 首を竦めて聞こえてきた背後に振り返る。すぐ視界一杯に、車のフロントグリルが目に入った。

「え」

 血相を変えたドライバーが、慌ててハンドルを切っているのがスローモーションのように見られた。

 右へ傾いだワンボックスが、公一のスクーターをギリギリでかわし、反対車線へと飛び出した。

 どうやら直前まで居眠り運転かなにかしていて、いま停まっている公一のスクーターに気が付いたようだ。ブレーキ音を盛大にさせているが、それでも止まれそうにないのでハンドルをこじって、進路を変えていた。

 反対側まで行ったワンボックスは、解体中のビルの反対側にあたる住宅の壁へと突っ込んだ。

「おい!」

 公一を止めた警備員が壁に突っ込んだワンボックスへ怒鳴り声のような物をかけた。

「危ないぞ!」

 今度は、道に停めたトラックから器材を下ろしていた作業員が声を上げた。見ると反対側からもワンボックスがやって来る瞬間だった。運転手が血相を変えてフルブレーキをかけたが、壁に突っ込んだワンボックスの後部と、あっけなく接触した。

 弾かれた二つの車体が回転し、最初に暴走したワンボックスが公一のスクーターの後ろを掠め、反対側からやってきたワンボックスは、警備員の立っていた場所へと横滑りしてきた。

 若い警備員は、よほど運動神経がよかったのか、公一の方へ飛び込むようにジャンプして、自分に向かって来た車体をギリギリで避けた。

 ガッシャンと大きな音を立てて、工事現場を覆う足場へと警備員を轢き殺しかけたワンボックスが突っ込み、ちょっと遅れて最初に暴走した方のワンボックスが続いた。

「⁉」

 一連の事故で、ほとんど首を竦めているしかなかった公一だが、周りの惨状に比べて、奇跡的に無傷であった。彼のスクーターを挟むように二台のワンボックスが通り過ぎたが、普段の行いが良かったのか、それとも若くして命を終わらせるのを神仏が哀れに思ったのか、まるでバリヤを張ったように、事故前と変わらずに立っていられた。逆にちょっとでも前か後ろに動いていたら、どちらかのワンボックスに潰されていたかもしれなかった。

「ふ、ふう」

 もう大丈夫だろと、一旦は瞑った瞼を恐る恐る開く。間一髪で助かった警備員もアスファルトから立ち上がり、公一と顔を見合わせて微笑んだ。

「ヤバイ! 逃げろ!」

 その心の隙を狙ったかのように大声がかけられた。先程の作業員だ。警告を発した彼は、すでにトラックから飛び降りて走り始めていた。

「は?」

 声の方向を向いてから、迫る気配に反対側を振り返った公一は呆然とした。

 どんどんとビルの壁が大きくなっている。いや近づいている…。

「崩れるぞ!」

「ええっ」

 腰を抜かしたように四つん這いで逃げる警備員。彼の背中を追おうとして、アクセルを開いたが、スクーターがエンストしていたことに気が付く公一。慌ててシートから転げ落ちるように走り出したところへ、二台のワンボックスが衝突した衝撃で崩れたビルの壁がやってきた。

「マジか!」

 自分の叫び声が最後の記憶だった。



「…今日夕方、K市のビル解体工事現場より『車が二台突っ込んだ』と一一〇番通報がありました。警察が現地に駆け付けると、K市中央二丁目にある解体作業中のウチサイトウビルにワンボックスカ二台が交通事故の上、衝突。その衝撃で道に面したビル外壁が倒壊しており、瓦礫が道路に散乱して通行の出来ない状態となっていました。二台のワンボックスの運転手が一時閉じ込められましたが、消防によって救助され、病院へ搬送されましたが軽傷だった模様です。目撃者によると、他にも外壁の倒壊に男性が一名巻き込まれたという情報もあり、現在消防が確認中です。次のニュースです。季節の便りが届きました…」



 気が付くと公一は広い空間に居た。

 地面というか床は、大きな白と黒の市松模様が、見渡す限りに広がっていた。

 壁や天井は無く、上空は綺麗な夜空だ。

 夜空だというのに不思議な事に見通しは昼間のように利き、星々の間に白い雲が湧いているのが見えていた。

 雲だけが視界を遮るが、後は地平線まで何も無かった。もしかしたらドーム状の建物の中に投影された映像かもしれないと思えるほどだった。

 ただ涼しげな風が吹いて来たので、どちらかというと外だと判断できた。

 公一が外と言い切れない理由は、目の前に立っている大きな振り子時計のせいだ。

 有名な童謡に出て来るような、公一が見上げるような大きさのホールクロックである。

 かつて白かっただろう文字盤は薄く黄色く変色しており、九時四十分を少し過ぎたあたりで止まっているようだ。

 黒檀らしい本体に埃汚れなどは見られないが、要所に彫刻された動物や植物の造形が欠けていたりしていた。

(こっちは狼かな? こっちは山羊? 子供が七人だったら、七匹の子山羊なのに)

 痛んだ彫刻を見て公一は思った。

(普通、こういう高価そうな装飾品は、大きなお屋敷の広間などに設置されている物なんだろうけど、壁も柱も天井も無いここは室内と言えるのかな)

 ついそう思って、もう一度周囲を見回した。

 やはり、どこまでも続く市松模様の地面(床?)に、夜空である。

 そんな不思議な空間で、公一は一人ぼっちではなかった。

 目の前にあるホールクロックの足元に、柔らかそうで、とても大きなクッションが置いてあった。

 その黒い色をしたクッションに埋もれるようにして、公一と同年代程の女の子が寝そべっているのだ。

 うつ伏せなので長い黒髪が背中を隠しているが、どうやら黒いパーカーのような物を着ているようだ。

 サイズがだいぶ大き目のそれが隠したヒップからは、目に毒なほどの白い肌を見せる両腿が伸びているが、すぐにパーカーと同色のオーバーニーソックスで隠されていた。

 靴は履いておらず、パタパタと意味もなく脚は振られていた。

 簡単に説明するならば「お休みなのでダラしなく過ごしている無防備な女子高生」といったところだ。

 なにやらタブレットのような物を熱心に見ていた顔が、ふとこちらを向いた。

「⁉」

「や、やあ」

 公一を見て硬直した彼女に、とりあえず声をかけてみた。

 彼を見て驚いた顔を一言で表せば美人であった。公一の隣のクラスに居る『学園のマドンナ』に選出された美少女とタメを張れるぐらいだ。

 まるで白い紙のような肌に、黒い髪。切れ長の目には並んで反った睫毛が並んでいた。唇は、これはお化粧なのだろうか、形は良いが黒色であった。口紅にしてはちょっと悪趣味に思えた。

 その顔には、冗談だろと思うくらいの大きい丸眼鏡がかけてあった。

 黒いクッションに黒い服装だから一層白い肌が際立ち、また太く黒いフレームをした眼鏡が驚きで少しずれたのも、魅力を半減させるどころか人間味を感じさせて、ぐっと彼女を引き立てていた。

 ただ人間では有り得ないような瞳の色を彼女はしていた。大きく分けると緑色という事になるのだろうが、少しけばけばしい発光色が混ざったような、金属的な色合いが混じった瞳なのだ。

 頬には、その瞳と同じ色をした液体が流れていた。もしかしたら彼女の涙なのかもしれないが、いま浮かべている驚きの表情とはまったく関係が無さそうである。

「驚いた」

 彼女は口を開いた。

 美しさに似合った耳に心地いい声であった。鼻にかかったような感じもしないので、少なくとも泣き声ではなかった。すると頬の緑色の液体は涙では無いのだろう。

 声の響きからすると本当に驚いているようだった。

「こんな所にヒトが来るなんて」

「こんな所?」

 公一は周囲を見回した。

 先程と変わらず、市松模様に夜空、そして幾ばくかの雲だけだ。雲の位置や形、量などは、先ほどに比べて少し変化していた。この通り過ぎていく風に雲も流されているのだろうと推測できた。

 見回したことにより、自分がまだヘルメットを頭に乗せていることを自覚し、パチリと金具を解除して脱いだ。

「よいしょ」

 彼女はタブレットをクッションに置いたまま体を起こし、座り直した。

 先程見た通り、彼女は黒いパーカーのような物を身に着けていた。その左胸の所に、白い色で流星マークが入っていた。

 パーカーは結構固い生地で出来ているようで、布の擦れる音が高めであった。こちらに向いて座ったことにより、黒髪に隠されていた肢体が露わとなった。

 出るところが出て、引っ込むところが引っ込んでいる体型である。まあゴワゴワしていそうな布地のせいで、詳しい曲線の具合は分からなかった。少なくとも同じクラスのどの女子よりも、体の一部分が「ある」と主張しているのは間違いない。ワンピースのように大きい黒いパーカーと眼鏡以外に、これはファッションなのか分からなかったが、右腕の肩から肘にかけた辺りに、これまた黒い鎖が巻き付けられており、彼女の体の動きに合わせてチャリチャリと鳴った。

 体を起こした時に腿までを覆っている裾がスッと上がったので、つい視線が行ってしまったのは、公一が健全な男子高校生だからである。

(残念、見えなかったか)

 惜しがる公一の思考を表情で読んだのか、彼女はキッと彼を睨むと、左手を裾の所へ固定した。

 鋭くなった視線を眼鏡越しに受けて、公一はたじろいだ。やはり緑色をした液体を流し続けている彼女の目が、公一に危険を感じさせるほど剣呑になった。

(やっべ、怒らせたかな?)

「あ~、ここはアレだ」

 批難の声が上がる前に先制しておこうと、公一は裏返った声を上げた。

「この世とあの世の境目、そういうヤツだろ?」

「…はい?」

 意表を突かれたのか、怒りの表情は消え、目と口を丸くした顔になっていた。首をカクンと横へ傾げて眉を寄せた。

「っていうことは、おれはやっぱりアレで死んだってことかな?」

「…えーと?」

 表情が曇る相手に発言させまいと、普段の公一では考えられないほど饒舌に喋った。

「で、若くして死んだおれは選ばれて、別の異世界を救う勇者として転生する事になる。そういうことだろ、女神さま」

 バキューンと指鉄砲を彼女の胸に向けてみた。

「めがみ? わたしが?」

 一瞬キョトンとした彼女は、腹を抱えて笑い出した。

「初めてだよ~、女神なんて呼ばれたの。だってココではずっと一人だったからさあ」

「え? 生まれ変わりを司る女神さまじゃないのか?」

 公一の質問にケラケラ笑っていた彼女は、目元の液体を少し拭うと、ニッコリと微笑んだ。

「どういった思考過程を経て。そんな結論に至ったのかなあ?」

「ほら、おれがよく読んでいる…、読んでいたラノベとかだと、不意の事故なんかで死んだ主人公の前に女神が現れてさあ」

「らのべ?」

 キョトンとした表情をした彼女は、クッションからタブレットを引き寄せると、その表面を撫で始めた。おそらく公一が口にした単語を検索しているのだろうが、女神にしては即物的な反応であった。

「ああ、コレね。ライトノベルの略称かあ。ふむふむ」

 さっと黒い板の表面に、立体的に浮かび上がった複数の文章を斜め読みする。さすがに超常的な存在が使用するタブレットとあって、公一が見たことも無いような立体映像がその表面に浮かび上がっていた。

「そうかあ、じゃあ、そういうコトなんだろうなあ」

 何度も頷いた彼女の視線が戻って来た。その表情が再び険しくなる前に、公一は緩んだ彼女の腿あたりから視線を上げた。

「で? 生きたいですか? ええと、コーイチさん」

「もちろん」

 グッと拳を握った。

「せっかく憧れたシチュエーションに巡り合えたんだ。異世界ライフを満喫してやるぜ」

 公一の脳裏にはモンスターに対して無双をする自分の姿が浮かび上がっていた。右手には王者の剣、左手には勇者の盾。全身を包むのは光の鎧だ。その横には女の子たちの集団がいた。

(まず町で拾った奴隷の女の子だろ。それと、なぜか町を徘徊していて知り合いになった王女さまも鉄板だな。あ、あとケモノ耳を持った戦士の少女は外せないな。そうそう、いつも肩に座ってくれるような、羽の生えた小さな妖精の娘とかもいいよな。海賊あがりのいかにも「姐さん」と呼ばれるような豪快な女傑も捨てがたい)

 何のことはない、今までライトノベルで読んだ色々なパターンのヒロインを集めた「ハーレムパーティ」という奴だ。まあ健全な男の子だったら一度ぐらいは妄想する物だ。

「ふうん」

 だらしなくも目尻が下がった公一の顔を探る様に見ていた彼女は、つまらなそうに口を尖らせた。

 一瞬だけ険しくなった瞳が光ったような気がした。

「ま、キミが世界を変えるというのは、間違いではないようなんだけどなあ」

「そうだろ」

 今度は力瘤を作ってみせた。

「だから、はい」

 と、ヘルメットを小脇に抱えて両手を差し出すと、彼女は不思議そうな顔をまた作った。

「はい?」

「ほら、あるでしょ。勇者にしか使えない剣とか、槍とか」

「はあ?」

 彼女は広い世界を見回した。

「そんな物がどこにあるって言うの?」

 あるのは公一の身長よりも背の高い止まった時計だけだ。

「ええ? だって世界を救う勇者だよ? そのためのアイテムを女神から授かるんじゃないの? ほら魔法陣とかで召喚するから、今はココにないんだろ? ああ、そうだ盾だけとかはやめてくれ。なんか悲惨な目にしか遭わないような気がするから」

 ニコニコの笑顔でアイテムを要求した公一に、彼女は両肩を竦めてみせた。

「残念でした。ココには何もないの。あ、コレはダメよ。私の宝物だから」

 そう言うと彼女は手にしていたタブレットを両腕で抱きしめた。

「ええ。じゃあ女神自身を連れて行くパターンかな?」

「やーだ。私、ココから動かないんだから」

 ベーッと舌を出されてしまった。そのままプイッとそっぽを向かれてしまった。

「じゃあ、そうだな…」

 公一は自分の顎へ手をやって一所懸命考えた。

「まてよ…。コレはアレか? おれ自身が超人的な魔力やら戦闘力を手に入れて無双するパターンか?」

「魔力?」

 またキョトンとした顔をした彼女がこちらを向き、液体が流れ出続けている目を細めた。

「ヒトであるキミには、ソレは無理なようだけど?」

「ソレって、魔法の事か?」

「ええ」

 彼女の返答を聞いて公一はガックリと肩を落とした。

「魔法はやっぱり妖精の女の子とかが担当なのかあ」

「じゃあ…」

 ニマッと悪戯気に彼女が笑った。

「こういうのはどお?」

 人差し指を立てて、あくまでも提案という感じで言って来た。

「人類最強というのは」

「じんるいさいきょう?」

「そ」

 オウム返しに訊いた公一に、すまし顔で彼女は頷いた。

「腕力も、脚力も、なんでも人類最強」

「戦闘力もか?」

「ええ。大盤振る舞いでしょ?」

 液体を流す目でウインクされた。あまりにも魅力的な表情だったので、公一は自然と自分の頬が熱くなるのを感じた。

「じゃあ運とか、勝負事も最強ってことか?」

「ええ。それならイケそう?」

「ああ」

 グッと全身に力をいれた公一は、ガッツポーズを作ってみせた。

「最強ならアイテムが無くてもやっていけそうだ。そうだよ、だいたい剣とかだと盗まれる可能性もあるもんな。やっぱり頼れるのは己の体のみ」

 公一の頭の中に言葉が浮かんだ。

(おれの物語をラノベにするなら『異世界に行って人類最強で無双してみた』とかなんとかだな。アレ? 似たようなタイトルあったっけかな?)

「よし。最強いいね。ソレでお願いします」

 足を揃えて一礼する公一に、すまし顔で彼女は人差し指を立てた。

 その指先に光が宿った。

「じゃあ、いくよ。アジャラカモクレン、ヘモグロビン、テケレッツのパー」

 そしてやる気の無さそうに手を二回叩いた。

(なんか適当な呪文だなぁ)

 ちょっと不安になったが、ポワッと自分の体が光り出してビックリした。

「お? お? お?」

 自分の体を見回して驚いていると、彼女はのんびりと首を傾げた。

「うん、じゃあ、そろそろかな?」

 あんな変な呪文でも効き目はあった様で、公一の視界が揺れた。

「?」

「大丈夫だよ。ココから位相がずれて、普通の時空へと戻り始めただけだから」

 緑色の液体で頬を濡らしながらニッコリと笑う。そして少し寂しそうに言った。

「それじゃ妹たちをよろしくね」

 そこで視界が暗転した。



 次に公一の視界が晴れると、またまた不思議な世界だった。

「なんだ? ここは?」

 まず足元は、公一の拳ほどの石だらけであった。色はくすんだ白色で、それが遠くに見える同じ色をした山まで続いている様だった。その石が三六〇度、地面という地面を埋め尽くしているのだ。たまに黒い石があるらしく、肉にコショウをかけた程度に黒い色が点在した。

 傍らには一本の木。ただ山火事に遭ったように炭化しており、これまた黒色。

 空はと仰ぎ見れば、一面の曇りであった。明るさから昼なのだろうなと感じ取れるが、どちらの方向に太陽があるのかさえ定かではなかった。

 遠くの景色から自分の足元まで、すべて白と黒でできた世界だった。

「え? え? ちょっとまてよ!」

 虚空に向かって声を上げた。

「ファンタジーな異世界ライフが待っているんじゃないのかよ!」

 公一の声は、渡って来た風に消えた。どこからも返事は無かった。

「…さむっ」

 両腕で自分を抱くようにして、熱を奪われないようにしたが、鼻水が出て来そうだった。

 日本で言う冬ほどは寒くないが、風が冷たい。気温にして一〇度ぐらいで、スウェットの上下という公一の服装では、ちょっと凍みて来る寒さだった。

「ええ? 普通、冒険の最初の街とかに飛ばされるんじゃないのかよ」

 少しは暖が取れるかと、幹だけになった木のそばにしゃがみ込む。風さえ直接受けなければ、まあ何とかなりそうではあった。

 その風の音しか耳に入って来ない。そこまでしてようやく公一に絶望感が押し寄せてきた。

「かえりたい…」

 膝を抱えて丸くなっていると、冬でも暖かい自分の部屋を思い出した。

 こんな場所に一人だけ。呟いた言葉も風に消えていくだけだ。

「おい女神!」

 雲以外何も見えない空に拳を突き上げる。

「こんなの聞いてねえぞ! なんか助けろ!」

 怒鳴っても状況は変わらなかった。

 再び石の上を疾ってきた風がビュウと吹き付けた。

 さらに丸まると、洟がたれてきたのですすった。決して心細くて泣いたのではないと、言いたいが、実際は半々の感じであった。

「これじゃあ、夜になったら凍死じゃないのか?」

 公一はこれまで命の危機を感じるほど追い詰められた経験は、一回だけあった。それもこの春の出来事である。学年全体で「宿泊ホームルーム」だとかでバスで山梨へ移動している最中に、通りかかったトンネルが崩落した事故に巻き込まれたのだ。

 もう少しで公一が乗ったバスは、崩れたトンネルの天井に押しつぶされるところだったが、間一髪運転手のブレーキが間に合った。

 まあ、だいぶ肝を冷やし、バスに乗せていた荷物を失うことになったが、大人たちの避難誘導に従って無事に外へ出ることもできたし、クラスメイトに怪我人も出なかった。

 あれに比べるとヒシヒシと「ヤバさ」が実感できる状況だ。

 木の根元だけは少しだけ土があった。焼け落ちた木を労わる様に、これまた黒いコケが生えていた。

 気温だけではない、やがて腹も空くだろうし、喉も渇くだろう。しかし、ココには食べ物どころか水さえも無いではないか。いちおう足元のコケを観察してみた。

 海苔に見えなくもない。試しにひと千切り口に入れてみたが、とても苦かった。

「うへえ」

 慌てて吐き出すが、舌に貼りついていつまでも取れない。指を突っ込んで、なるべく剥がして捨てた。

「ど、どうする」

 段々と体が冷えて来るにつれて絶望感が増してきた。先程のビル倒壊の時は、あっという間だった。だが今度はジワジワと死んでいく事になる。それはそれで恐怖があった。

「どこかに移動するか?」

 立ち上がってもう一度周囲を観察した。木に登ればもっと見通せるかもしれないが、これだけ炭化していると公一が足をかけただけで崩れる事は間違いないだろう。回復の呪文どころか絆創膏すら無い今は、少しでも危険な事は避けるべきだった。

 三六〇度見て、もう一度見回した時に、風景の中に一本の棒があることに気が付いた。

「建物?」

 あまりにも遠くにあって、背景に溶け込んでいたようだ。こうして凝視すれば間違いなく人工物であることは間違いなかった。

「あそこに行こう」

 周囲を確認する。武器になりそうな物は、焼けたこの木の枝ぐらいしかない。それと、一緒にこの世界までやってきたヘルメットがある。

 防具としては心もとないが、無いよりはマシであろう。迷いもなく被ると、スクーターを走らせる時は適当にしていた顎紐を、真面目に締める事にした。

 空いた両手を焼けた木にかけて、その枝を折り取った。だいぶ炭になっていたせいか、あまり力は必要なかった。

 とても簡単だが、これで出発する準備は出来た。

 改めて公一は自分の体を見おろした。

 装備品。体はスウェットの上下。足元はスニーカー。頭にはキャップタイプの交通用ヘルメット。武器といえば、焦げた木の枝。

 女神さまのところで妄想した自分とは対極にあるような姿であった。

「ま、まあいいさ。なにせ人類最強の力なんだから」

 試しに握った木の枝を横なぎに振ってみた。

 ブンッと空を切る音がした後、先の四分の一ほどがちぎれて飛んで行った。砲丸投げの全国平均ほど飛んだ先に落ちて、カランと軽い音を立てた。

「ええと?」

 余りの鋭い剣筋に得物が耐えきれなかったというより、元々の強度が足りなかったという感じであった。

「最強なんだよな?」

 これ以上、木の棒が壊れるのも嫌なので、手刀を作って上下左右に振ってみた。

 なんかいつもと同じ感じがする。

 特別速くなった気もしないし、力が込められている気もしない。時々ライトノベルを読んだ後に物語の主人公になり切ってポーズを着けていた時と何ら変わらなかった。

「まさか…」

 ここに至り、公一の脳裏に嫌な考えが浮かんできた。

(あの女神が嘘を言った可能性が…)

 ちなみに公一は普通の中学から清隆学園高等部へ進学した。特段、空手やら柔道などの武道をやっていたわけでは無いのだ。

 目の前が真っ暗になりそうだった。

(と、するとココは…)

 もう一度周囲を見回した。

 一面の石と、一本の木。そして遠くに何やらの構造物。

「まさか地獄って事はないよな」

 声に出して言ってみた。

 誰からも返事は無かった。

「歩くか…」

 孤独感に苛まれながら、公一は先程見つけた目標に向けて歩き出した。



 石で覆われた地面は、とても歩きにくかった。しかも平らではなく、海の波のようにうねっており、公一の背よりも高低差があった。

 ちょっとうかつに体重をかけると足元が崩れるので、一歩一歩慎重に歩かなければならない。これも精神的にだいぶ負担がかかる物だった。

 もうだいぶ来ただろうと、そんな石の丘を登ったところで振り返って見た。

 意外に近くに、出発した焼け焦げた木を見つけて愕然とする。これが校庭のような場所ならば、一分もかからずに歩けるだろう距離に、ソレを見つけてしまったのだ。

 見通しが良くなったので前を見てみる。こちらはこちらで、全然近づいたような気がしなかった。相変わらず棒のような何かがあることだけが伺えるだけである。

 そしてまだまだ石が積みあがってできた地面は続いていた。

 心の中で何かがボキリと折れる音を聞いたような気がした。

「足、痛ぇえよぉ」

 底が固い靴ならばそうでもないのだろうが、公一の履いているようなスニーカーだと石の丸みを受けて撓み、足の裏へストレスがかかるのだ。

「はああああ」

 大げさでわざとらしい溜息をつくと、公一はしゃがみ込んだ。まだ歩き始めたばかりだが、精神が休憩を求めていた。

「すっかり騙された。あのクソ女神め。今度会ったら、タダじゃおかねえ」

(ちょっと待てよ…)

 嫌な考えが浮かんできた。

(このまま俺が餓死なり渇死した場合、またあの女神の許へ行く事になるのか?)

「うーん」

 知らず知らずのうちに唸り声が出た。

(死んだら女神の所へ行くというシステムなら、何度もアソコへ戻ることになるんだけど…。どうなんだろ?)

 考えこんでいたのがいけなかったのか、周囲の気配が変わっていたことに、公一は気が付くのが遅れた。

「?」

 なにかの気配がした。公一は首を巡らせて周囲を観察したが、風景に変化は無いように見られた。

 しかしそれも束の間であった。

「おおーん」

「うおーん」

 姿は見えないが、明らかに獣の声と思える物が聞こえてきた。しかも一方からではない。前からも後ろからも、横からもする気がした。

「うおっ」

 突然、石でできた地面の影から四つ足の獣が姿を見せて声が出てしまった。

 公一がしゃがみ込んでいる丘の隣にあたる高台だ。稜線に隠れて近づいてきたのだろう、一頭だけでなく五頭ほどが体を寄せ合うようにして、こちらを見ていた。

 一頭一頭が公一とほぼ同じ高さである。四つ足で後ろへ体が続いていることを考えると、全体では彼よりもだいぶ大きいはずだ。体毛は黒く長く、胴はとても太かった。長い尻尾と合わせて、大型犬をさらに大きくしたような見た目をしていた。ただ体毛が生えていない顔には、鱗がびっしりと生えているので、哺乳類かどうか怪しい物だった。

 図鑑でもテレビでも見たことが無いような獣であった。

「へ?」

 獣の顔には穏やかな物とは正反対の表情が浮かんでいた。黒い舌を垂らすように開いた口には、凶悪な鋭さを持った牙がズラリと並んでいた。

 ドロリと涎なのか毒液なのか、粘着質の液体がその口から垂れた。

 口の中は赤色かと思いきや、墨で汚れたように真っ黒だった。

「いぬ? おおかみ?」

 人間の問いに答えることなどないと分かっていても、つい訊ねてしまった。

 その五頭の内で、一際大きい個体が、口を窄める様にして声を上げた。

「おーん」

「くおーん」

「え?」

 それに答えるような声が真後ろでして、慌てて振り返った。

 反対側の稜線にも同じ姿をした獣が数頭、姿を現した。公一が確認した途端に、その内の二頭が谷へと駆け下り、公一の左右に分かれた。

 最初に顔をあわせたグループからも一頭ずつが左右へ坂を駆け下りて、公一の横へ回り込んだ。

 ヒイコラ歩いていた公一とは違う、まるで羽の生えたような素早い動きであった。

 分かれた四頭は、公一が座っている丘へと登って来る。ただ真っすぐに向かってくるのではなく、進路は曲線で、なおかつ大分距離をとっていた。

(囲まれた?)

 ほぼ同じ高さに四頭が登ってきたところで、公一は自覚した。どうやら彼らの晩飯は、公一らしい、と。

 公一は武器を青眼に構えた。とはいっても焼けた枝である。あんな大型獣に打ちかかったら、一撃でこちらの武器がへし折れる事間違いなしだ。

「くおーん」

 また、最初のグループにいる大き目の個体が声を上げた。おそらく、この群れのボスであることは間違いない。声に呼応して、公一と四頭との距離が縮んだ。

「全身喰われても、生き返る事ってできるのかなあ」

 自分で疑問を口にしながらも、心の中では無理だろうなという自覚があった。

「だが、せめて一太刀」

 自分の実力と、包囲を狭めて来る獣を鑑みて、この窮地を脱せない事は間違いないだろう。だが、それだからといって諦めてただ食われるのは嫌だった。

 公一から噴き出した気迫のような物を感じ取ったのか、一旦包囲する四頭との距離が開いた。地面がまともなら走って逃げる事を試せたかもしれないが、石が転がっているだけのここでは無理だ。

「くおーん」

 獣たちのボスが叱咤するように声を上げる。四頭は揃ってボスを見てから、再び公一との距離を縮め始めた。

「くっそお」

 枝を握る両手に汗が滲んでくる。剣道なんかやったことが無いので、マンガのキャラクターが構えている真似でしかないが、ボーッと立っているよりはマシであろう。

 と、仲間に命令していたボスが、ソッポを向いた。釣られるように他の獣たちもそちらを確認するように顔を向けた。

「?」

 どうしたのだろうと公一が訝しむと同時に、小さな音が聞こえ始めた。明らかに風の音ではなく、何かの走行音だ。

 ここで獣から目を離すのも危険かもしれないが、好奇心の方が勝った。

 公一が、その音の方へ首を巡らせると同時に、幾分か離れた丘の稜線から、一台のバイクがジャンプした。

 バウンと過回転(オーバーレブ)しそうになるスロットルをさっと戻し、まだこちらとは距離がある丘に着地した。そして再びのジャンプ。

「なんじゃあれ」

 ジャンプして飛んで来るのは、公一が見た事の無いバイクだった。まず何より、タイヤが一つしかついていなかった。カウルは公一も見慣れたようなレーサーレプリカタイプの物が付いており、その風防に体を隠すように、黒いフードを被った小柄な影が跨っている。後部の跳ね上がり方もレーサーレプリカといった感じであった。

 だが本来エンジンがついているはずの、タンクとシートの真下には、太くて大きいタイヤが一つだけである。前後のサスペンションがついているはずの空間には、何もついていなかった。

 その動力付一輪車というべき乗り物に跨った人影は、背中の回していた棒状の物を小脇に抱え、その先端を突き出しながら公一の方へ落ちてきた。

「ぐるる」

 獣たちが唸り声を上げる。突然の乱入に動きが鈍った一頭へ、一輪車が上から体当たりをした。

「ぎゃん!」

 突き出された棒へ串刺しになった獣が悲鳴を上げた。

 そのまま一頭を串刺しにしたまま、一輪車は公一の横で停車した。

 サッと下りると、一振りで獣から棒状の物を抜いて、両手で構えた。

 黒い血で汚れた棒に見えた物。それは、一挺のライフルだった。それも洗練された自動小銃などでなく、公一の目から見て古めかしいレバーアクション式の物だった。母親が見ていた西部劇で公一も名前を知っていた。

(ウィンチェスターライフルっていう奴だ)

 ただ西部劇と違って、ライフルの銃口の下に、赤黒く光る刀身を持った銃剣が装着されていた。先ほど獣を串刺しにできたのは、その銃剣があったからだということが分かった。

「大丈夫?」

 振り返りもせずに話しかけてきた。

 公一に背中を向けているので、相手の風体は分からない。だが声の感じは、だいぶ若い。もしかすると同世代か、少し下の女の子に思えた。身長も自分と比べて、それぐらいの女の子の平均あたりしかなかった。

「ああ、助かった」

「まだよ」

 軽く腰を落としてウィンチェスターライフルを横に構える。一頭を失った群れであるが、まだあきらめずに包囲を解いていなかった。

「ぐるるる」

 先程までしていなかった唸り声を上げながら、包囲が狭まって来る。

 獣からしたら晩御飯のメニューが一品増えたことと、仲間の復讐が重なった程度の認識なのかもしれなかった。

 せめて彼女の背中ぐらいは守らないと、と感じた公一は再び焼けた枝を握り直した。

 ジャリと石を踏む音をさせて、女の子が一歩前に出ると、鋭くウィンチェスターライフルを横なぎに振るった。

 銃剣の刃は届かなかったが牽制にはなったようで、パッと包囲していた三頭の獣たちとの距離が開いた。

 チャリチャリと軽い金属音がした。ベルト代わりにしてはだいぶ緩く、彼女の腰の高さに黒い鎖が一巻巻いてあって、それが揺れた反動で鳴ったのだ。

 せっかくウィンチェスターライフルを持っているのだから撃てばいいのにと公一は考えた。しかし彼女が構えている物は、素人の公一が見ても機関部が故障しているのがわかった。レバーを下げて作動するボルト部分が割れており、薬室が半分覗けるのだ。あれで発砲などしたら暴発する事は間違いないだろう。

 だが、彼女に悲壮な空気は無い。どうやらこのウィンチェスターライフルを槍代わりにして、相当実戦を重ねてきたようである。

「どうしました? パム?」

 落ち着いた女性の声がどこからかした。

 慌てて公一は周囲を見回したが、他に人影は無かった。

「こちらパム。どうもこうもないよ。イヌに襲われているんだ」

 女の子が構えを解かずに虚空へ返事をする。ちょっと聞こえた空電の音と合わせて、彼女は通信機か何か持っているようだ。

「イヌ?」

 通信相手の女性訊き返した。

「イヌなんですか? 普通の?」

「ああ、そうだよ」

「それでは振り切って戻ってきてください」

「それが、ボクの他にも一人いるんだ」

「は?」

 驚いた声の後にしばらく時間があった。

「それは我々以外の者が居たということですか?」

「そう、イヌに襲われていたの」

 再び距離が近くなってきた獣を睨んで威嚇する。獣たちは諦めるつもりはないようだ。

「俺だ」

 先程までの女性の声と代わって、渋い男性の声が聞こえてきた。

「ソイツはナンだ? まさかヒトじゃないだろうな?」

「さあ、どうだか? もしかして幽霊かも。今は確認している余裕なんて無い。囲まれてるんだ」

「ちょっと待ってろ。ゴリアテで駆け付けるから」

「りょーかい」

 それで通信は途切れた。

「ぐうう」

 通信の内容を聞いていたわけでは無いだろうが、女の子がどこかとしていた通信が終わった途端に、あの獣たちのボスが唸り声を上げて、また遠くへ視線を移した。

「?」

 その視線の先を公一も追ってみた。

 すると煙を上げて、大きな影が稜線から姿を現すところだった。

「くおおん」

 新たな存在を確認した途端に、ボスが今までと違う声を上げた。

 無骨に角のある流線形をした車体。楔形の砲塔。そして太い砲身が回ってこちらを向き、砲口がただの円に見えた。男の子だから初めて見ても分かる、戦車だ。

「伏せて」

 女の子は手にしていたウィンチェスターライフルを自分の一輪車の近くへ投げ捨てると、公一に飛び掛かって来た。

「わわわ」

 真正面から彼女を抱きとめる形となる。そのまま地面へと倒れ込む形になった。

 背中が痛んだが、ただの地面よりは石同士が積みあがっている事で空間がある分、衝撃を緩和してくれたようだ。

「あ、あの」

 喋りかけた途端に嵐がやって来た。

 いきなり集中豪雨が始まったような音で周囲が満たされ、石が弾けて飛んで体に当たる。ビュンビュンと何かが大量に、しかも横殴りに通り過ぎ、その轟音の中に悲鳴のような物を聞いた。



 嵐は始まった時と同じように、唐突に終了した。

「もういいみたいだね」

 その声を聞いて、瞑ってしまった目を開く。公一の視界に美少女がドアップになっていた。

「ふへ」

 つい見とれて変な声が出た。フードに包まれているからそう見えているだけでなく、小顔で、目がクリッとしている。幼さが残る頬には、余分な脂肪が薄くついているが、それも女の子らしい丸さを表現していて、ちっとも魅力を損なっていなかった。

 鼻筋も通り、小さな鼻はチョンとイタズラでつつきたくなる程だ。

 強気そうな眉はお化粧で描いているわけでなく、もともとその形に生え揃っているようだ。

 そして唇。小振りなそれはまるでキスを待っているように瑞々しく見えた。

 瞳がちな大きな目は、深い海底へ繋がっているような大洋の色だった。

 見ているだけで公一の頬が赤くなってくるのが自覚できた。先ほど会話した女神も美人だったが、あれは少し浮世離れした美しさだった。

 天界の者と下界の者を比べて不敬と言うならば、別のアテが公一にはある。高校の隣のクラスに『学園のマドンナ』と呼ばれた美人がいた。その『マドンナ』よりも十倍はかわいい()だった。

 そう美人というより「かわいい」と呼ぶ方が自然な女の子であった。

「みんな遠慮なく撃つんだもん、大丈夫だった?」

 周囲に別の轟音が近づいてきてから、彼女は公一の上からどいた。被っていたフードを払うようにおろすと、短くしている黒髪が風にパッと散った。

 髪の上からヘッドセットをしていて、そこから音声が流れた。

「当たらなかったですか?」

「うん、ボクはへーき」

 頭に着けているのは通信機であるようだ。そこから流れて来る声は、再び女性の声に戻っていた。

 どうやら庇ってくれたらしい彼女が公一を見おろして、もう一度「大丈夫だった?」と訊いた。

「へ? ああ」

 やっと公一は理解する事ができた。突然現れた大型戦車が、機関銃か何かで獣たちを攻撃してくれたらしい。なんでこんな反応になるかも自覚があった。なにせ日本の高校生である。機関銃の弾幕に包まれるなんて初めての経験だったのだ。

 彼女が立ったという事は、もう安全なのだろうと公一も上体を起こした。そういえば命を懸けて握っていた枝はどこかにいってしまっていた。

 上体を起こして視界が開けたことにより、轟音の正体はすぐに分かった。あの戦車が、一輪車の横までやってきていた。

 エンジンの回転数はすぐに下がり、ドロドロと先程の獣とは違う種類の生き物が唸っているような音に変わった。

 戦車のハッチは開いており、そこから半身を乗り出して砲塔上に装備された機関銃に取りついている者がいるのが見えた。

 顔の半分は長く黒い髭で覆われており、鼻はダンゴのよう。目も丸く、頭には灰色のキャップを被っていた。少なくとも公一と同じ日本人ではない。着ている物は助けてくれた少女と同じ、黒いフード付きのコートであった。ただサイズが合っていないのか、袖を何重にも折り返しているのが見えた。

 周囲を警戒しているのか、石だらけの地面に座り込んでいる公一にはほとんど目もくれず、遠くを眺めるようにして見張っていた。

「よし。警戒を怠るな」

 その向こうから、似たような風体の男が姿を現した。短い手足に、太鼓腹のような丸い胴。やはり顎からは長い髭が生えていた。頭には制帽を被り、その下に彼女と同じヘッドセットをつけていた。着ている物は他の二人とは違い、リーファーカラーをしたロングコートであった。彼もサイズが合っていないのか、袖を折り返していた。

 制帽を一旦脱ぐと、耳にかけていたヘッドセットを首へと下ろし、砲塔の上からこちらを見おろしながら制帽だけを被り直した。

 ごつい手袋に、踏まれても凹みそうもない半長靴。わずかに見える脚は灰色の戦闘服に覆われているが、ここも裾は折り返してあった。あと腰に、これ見よがしにホルスターが吊ってあるのが見て取れた。

「ほお、たしかに初めて見る顔がいるな」

 髭面に似合った渋い声で話しかけてきた。公一は先ほど通信機から流れてきた男性の声と同じ物だと気が付いた。

「でしょ」

 女の子が戦車の高さ分、彼を仰ぎ見て言い返す。その声にはもう警戒心も鋭さも含まれていなかった。

公一は慌てて立ち上がると、頭を下げた。

「助けてもらって、ありがとうございます」

「ふむ。礼儀ぐらいは知っているようだ」

 よっこらしょと砲塔から車体へ、車体から足かけを使って地面へと下りて来た。同じ高さになって彼が公一の胸よりも身長が低いことがわかった。

 被っている制帽とコートの胸には、白い流星マークがあった。

「俺は、このゴリアテの指揮官(コマンダー)をしているシローだ。お前さんは?」

「おれは中村公一って言います」

「ナカムラさんね。お前さん、こんなトコで何してんだ? 荷物も持ってねぇようだし…。死に(はぐ)った口か?」

「死には…、はあ?」

 素っ頓狂な声が出た。

 目を丸くしている公一を放っておいて、女の子が横から声をかけた。

「機関銃で掃射なんてするから、食べられるところ、残って無いんだけど」

 近くに転がる黒い敷物のような物を指差した。体積も高さも違ってはいるが、あの邪悪な顔は、先程まで公一を包囲していた獣のどれか一頭に間違いない。

「食べる?」

 公一が面くらっていると、腕組みをしたシローが髭の下から、ぶっきらぼうに言い返した。

「緊急と判断したからだ」

 それから戦車が来た方向へ視線をやると付け加えた。

「だから台車も置いてきてしまった。取りに戻らんとな」

「このコだけは、イケそう」

 最初に突き殺した獣の死体の顎の下に右手をかけると、女の子軽々と片手で持ち上げてシローに見せた。

「ではジュンはそいつの解体に取り掛かれ。ゴリアテは台車を取りに戻る。ナカムラさんとの話はその後だ。あ~それから、後ろ脚だけにしておけよ。イヌには内臓なんかに、毒がある時があるからな」

「了解」

 ジュンと呼ばれた女の子は敬礼の真似事のように片手を上げると、一輪車の傍らに投げておいた自分のウィンチェスターライフルを取り上げた。

 シローが車体から砲塔へ上り、視界の向こう側へと消えた。

「よし、荷物を取りに戻るぞ」

 彼の声だけが聞こえて来て、戦車が轟音を立てて前進を開始した。砲塔で機関銃を構えているもう一人が笑顔を作ると、二人へ手を振って挨拶をした。

 戦車は丘を下りながら向きを変え、今来た方向へと戻っていった。

「コーイチだっけ?」

 機関銃を構えていた彼に手を振り返していた彼女は、目を好奇心に輝かしながら公一の顔を覗き込むように振り返った。

「ボクはジュンね」

「よ、よろしく」

「じゃあ、コーイチ、手伝って」

 ジュンは獣を捨てるように地面へ放り出した。反動で彼女が腰に巻いた鎖がチャリンと鳴った。

「手伝う? なにをすれば?」

 とりあえず話の半分は分からないが、自分はこの娘と行動を共にしなければならないようだ。

「解体よ。やったこと無いの?」

「かいたい? 無いけど」

 するとあからさまに溜息をつかれた。

「呆れた。今までナニ食べてきたのよ」

「え? ご飯だけど?」

「ゴハン? 何それ、美味しいの?」

 どうやらこれからの作業には役に立ってくれそうもないと判断したのか、とっとと背中を見せたジュンは、ウィンチェスターライフルをスリングで肩にかけると背中に回し、一輪車へ歩み寄った。計器盤の下にあるメインスイッチを切ってエンジンを止めると、カウルの中に装備していた鞘から、出刃包丁の親玉みたいなナイフを引き抜いた。

 どうでもいいことだが、彼女の一歩ごとに、腰に巻いた鎖がチャリチャリと鳴って小気味がよかった。

「もしボクたちと合流するつもりなら、憶えておいて損は無いよ」

 物騒な物を肩にトンと当てながら、公一を見取れさせる程の笑顔を見せた。ジュンは獣に近づくと、無造作に大振りでナイフを股関節へ振り下ろした。

 まるで薪割のような勢いでナイフを振るって二度三度と刃を食い込ませると、今度は先端を突き刺した。ゴリッと骨をこじる音をさせて関節を外すと、まだ胴と脚とを繋ぐ腱やら筋やらを、また薪割のような勢いで切断した。

「はい、まず一本」

 気安く足を掴むと持ち上げ、公一へ差し出してくる。

「持ってて。血が抜けるように逆さにしててよ」

 白い肉の断面から、ボタボタと黒い色をした血が垂れていた。

「はい」

 あまりの迫力に丁寧な返事となった。

 彼女と同じように片手で受け取ると、ズンと肩にきた。

「おおおお、重い」

 まるで彼女が持っている間だけ、誰かが後ろから支えていたような、そんなリアクションになってしまった。

「非力ねえ。ちゃんと食べてないんでしょ」

 馬鹿にするでなく、ちょっとだけからかう様な響きを声に混ぜてジュンは次へと取り掛かった。

 公一は両手で獣の足で一番細いところを持つことにした。ボタボタと切断面から黒い血が垂れていく。だが地面は石だらけなので血が溜まることなく石と石の隙間へと流れ込んで行ってしまう。

 もう一本も、同じ要領で切断された。ジュンは公一を振り返り、一本だけで難儀していることを確認すると、そちらは自分で持ち上げた。

 やはりジュンには片手で済む重さのようだ。しかもナイフを使っている様子からして右利きらしいが、いまは左手一本で持っていた。

 刃についた黒い血を、持ち上げた脚の毛皮へ擦り付けるようにして拭くと、ジュンは右手一本でナイフを一輪車へと仕舞った。

 ごく普通の日本の高校生から見ると、とてもワイルドだった。つい丁寧に訊いてしまう。

「これ、いつまで持っていればいいんですか?」

「そりゃ血が大体抜けるまで。まあ下ろしてもいいけど、そうすると地面に触ったところが固くなっちゃうんだよね。そしたら、そこはコーイチの分にするから」

 ニッコリと笑顔。

 公一にとって獲物の血が抜けるのが先か、それを持つ自分の握力が無くなるのが先かという問題となった。

「暇だから、おしゃべりしよ」

 公一の前で軽々と持ったままジュンが口を開いた。そこには警戒心がまったく見られず、むしろ無邪気な様子であった。

「コーイチは、どこから来たの?」

「ええーと」

 真面目に答えていいのかどうか悩む質問だった。正直に日本で事故に巻き込まれたら、変な広い世界で女神さま(疑い)の許へ飛ばされ、そこからさらにココに送り込まれていたと言うべきだろうか。

「ま、どこかから流れて来たんだろうけどさ」

 周囲を見回し、石以外は何もない風景を眺めた。

「見たところ乗り物も無いし、まさか歩いて荒野を渡るつもりだったの?」

「うん、まあ」

 答えた途端、ブルッと全身が震えた。戦闘の興奮が止んで、再び寒さを感じるようになったのだ。

「なに? 寒いの?」

「う、うん」

 ガクガクと頷いて肯定する。

「長袖着てるのに? ちょっと待ってて」

 ジュンは公一の目の前で、腰に巻いた鎖を解いた。それから胸に流星マークがある、パーカーのようなデザインの上着を脱ぎ始めた。真ん中のジッパーを下げると、中に黒いブラトップを身に着けているのが分かった。腰には、まるでどこかの学校で制服になっているようなプリーツスカートを履いていた。短めのスカートから伸びる足が眩しいほどだ。その足はシローと名乗ったドワーフと同じ半長靴で守られていた。

 ジュンは手に持った脚を落とさぬように持ち替えながら片方ずつ袖から腕を抜くと、パーカーを右手に、脚を左手に持って、公一の背後にまわった。右手一本で公一の肩へ羽織らせてくれる。

 ジュンの体温が残っていて温かい。それとただのパーカーに見えたが、やはりゴワゴワとする不思議な生地でできており、見た目より頑丈そうだ。さらに公一の鼻腔を(くすぐ)るように、ジュンの体臭がふんわりと漂ってきた。

「さ、さむくないの?」

 自分で言うのはなんだが、スウェット地とはいえ長袖長ズボンの自分と比べて、彼女は肩丸出しにミニのような丈のスカートである。ジュンは器用にも片手一本で鎖を腰へ巻きなおした。

「鍛え方が違うんじゃないの」

 ニッコリと笑う表情に、無邪気ささえ感じられた。

 再びエンジン音が聞こえ始めた。振り返ると、先ほどに比べてゆっくりとした速度で、ゴリアテと呼んでいた戦車が近づいてくるところだった。

「まあ、これから鍛えればいいじゃない。ボクも最初は可憐な乙女だったけど、いつの間にかにこんなだよ」

 ジュンはそう言って空いている右手で力瘤を作るような振りをした。ムキッと血管が皮膚を押し上げ、筋肉の存在が浮かび上がる、なんてことはなかった。相変わらず薄い脂肪に包まれた女の細腕であった。

 ポーズを取ってくれた彼女には悪いが、どこから見ても可憐な乙女に見えた。

 肌色成分が多い服装だから丸見えであるが、体つきは筋肉質(マッチョ)というより、やはり年相応にうっすらとした脂肪で覆われており、どこを触っても柔らかそうだった。

 日本から来た公一の目から見て、女子中学生ぐらいにしか見えないので、あれだけ軽々と獣の後ろ脚を持っているのが、何かトリックに見えた。

 ゴリアテが再び一輪車の横に停車した。今度は後部に、ゴリアテ自身と同じぐらいの大きさをしたリヤカーを牽引していた。それだけ大きいリヤカーであるから、トラックに使う様な大きなタイヤがついていた。荒野を走破しやすいようにするためか、前一つ、後ろ二つの三点支持となっていた。

 リヤカーには色んな物が積まれていた。大小の箱、弾薬ケース、ドラム缶だけでも二本はある。液体を入れる容れ物はそれだけでなく、色々な印で中身が分類されているらしいジェリ缶が多数載せられていた。

 それらは整然と並べて積まれていたが、そうでない物もたくさんあった。一番目立つのは、中央に立つ、ゴリアテの主砲上にも装備されている重機関銃であり、それは重心の関係か空を向いていた。他にも、いま公一は難儀している獣の後ろ脚だったり、何かの毛皮だったりが、ロープや紐で箱へ、ぶら下げられていたりした。

「これも吊っちゃおうか」

 ジュンに導かれて、他にも三本ぐらい獣の脚が吊ってある所へ近づいた。獣の種類は複数あるようで、いま持っている足の裏が肉球になっている物の他、蹄だったり指が生えていたりした。まあ明らかに人間の物と思える物が無くてホッとする。

「持ってて」

 ジュンは自分の分を公一に押し付けると、台車に足をかけて箱の上へと上った。ジュンが腰に巻いた鎖がチャリチャリと音をさせて、見えなくなった彼女の場所を教えてくれた。

「は、はやくしてくれ」

 一本の重さにすらヒイコラ言っていたのに、倍の重さではそう耐えられる自信はなかった。

 見る間に目の前へロープが垂らされた。ジュンは飛び降りて来て、手早く一本に脚を結びつけた。反対側にあたる端をギューっと引っ張って上に上げると、手元に残った長さは台車の下の方へと結びつけた。

 次に公一が持っていた分が同じように吊るされた。

「よし。全員下車」

 エンジン音が止んで、シローの声が響いた。すると台車を牽引するフックの横にある後部ドアが上下に開き、そこからゾロゾロと複数の人影が出てきた。



 全員がシローのような男かと思ったら、どうやら違うようだ。

「せいれーつ」

 腕組みするシローの前に、横一列に並んでみせる。ジュンもいつの間にか列に加わっていた。

 シローが手招きをして公一を呼んだ。ちょっと引けた腰で彼の横へと並ぶことにする。

「俺たち最後の大隊(ラストバタリオン)を構成する、ゴリアテの乗員(クルー)を紹介するぜ」

 機嫌がいいのか悪いのか、ちょっと迫力のある声で言って来た。

「はあ、お願します」

 公一は被っていたヘルメットを外し、小脇に抱えた。

「まず、お前さんの名前だ。もう一回頼むぜ」

「えっと、おれは中村公一と言います。助けていただいて、ありがとうございました」

 腰を折ってちゃんと礼をした。自分の命を助けてくれた人たちに頭を下げる事に抵抗感はなかった。

「よし。次はコッチだな。まず射手(ガンナー)のヒメだ」

 向かって一番左に居た少女が頭を下げる。他の人とは違って、黒いジャンパーに袖を通し、下には灰色の戦闘服を着ていた。ジャンパーの前を閉じていないので、ジャンパーと戦闘服の両方に、シローと同じ流星マークが入っていることが分かった。

 体格は公一と同じぐらいであった。日本で言うならば高校生か、もしくは大学に入りたてといったところか。頭にはハンチング帽のような物を被っているようにも見えたが、多数の筋が額と帽子の間を渡っており、癒着しているようにも見える。違和感があると思ったら、いっさい髪の毛が生えていなかった。

一番の違いは、肌が人間では有り得ないような灰色であることだ。目だって白目がなく眼腔の中は真っ黒であった。

 その他の特徴として、ズボンの右足からは、木の棒が出ているところだ。そちら側の足は、膝よりも下は何らかの理由で失われ、その棒を義足の代わりとしているように見えた。左足だけはシローと同じデザインの半長靴を履いていた。

「ヨロシク」

 口を開くのが億劫と言うより、喋るのが得意では無いといった雰囲気の挨拶だった。声の質は、彼女の異貌と対照的に普通の女の子と大して変わらなかった。

「ど、ども」

 ガンナーということは、先程の獣たちを撃ち殺してくれたのだろうから、さらに頭を下げる事へ迷いは無かった。

「ブリガを見るのは初めてって顔だな」

 意識していなかったが、必要以上に観察してしまっていたようだ。シローが少々驚いた声で訊いてきた。

「ぶりが?」

 聞き慣れない単語を返すとシローが説明してくれた。

「キノコ人間のこった。ヒメは最後に残ったブリガだからな、珍しいっちゃ珍しいか」

「キノコ…」

 そう言われて、あの頭に被った物は、もともと頭にくっついているキノコとしての傘であると合点がいった。

(ああ、やっぱり異世界だから、戦車が出て来ても異種族とかいるんだ)

 公一はそう捉えて納得することにする。

「つぎは…」

 シローが間を開けて立っている次の人物ではなく、ゴリアテの方へ顔を向けた。片手を口に添えて大きく息を吸った。

「おいシンゴ! 出てこいって!」

 怒鳴り声に対して、小さな声で返事があった。

「外は嫌いなんだよ~」

 とても情けない蚊の鳴いたような声である。

「ち。まあ、後で飯時にでも顔をあわせてやるが、本当なら運転手(ドライバー)のシンゴがココに立っているはずなんだ」

 そう言うとシローは、ヒメと、その隣の人物との間に開いた一人分の空間へと行き、いない人影を示すように自分と同じぐらいの背格好を、何もない宙を撫でるようにして示した。

「極度の外出恐怖症(アウターフォビア)なんで、まあ許してやってくれ」

「それは構いません」

「シンゴは俺と同じドワーフなんだ」

 横に戻って来たシローにそう告げられて公一は納得するところがあった。

(たしかにドワーフと言われて違和感のない姿をしているな)

 シローはライトノベルの挿絵で描かれるような、これぞドワーフだというような風体をしているのだ。身長は公一の胸ぐらいのくせに、その体重は、公一の倍はあるのではないかと思えるぐらいに太っていた。髪も髭も黒色なのは意外だが、どちらも量が豊富であった。顔の真ん中にダンゴ鼻、黒い目は鋭いが、どこか優しさを感じられそうな気がした。

「次はヒカルだ」

 ヒメから一人分離れて並んでいる、前で指を組んで佇んでいる人物へと移った。

「えっと」

 公一は戸惑った。ヒメは傘以外全身灰色なのだが、いま紹介された人物は全身白色だった。一見すると背の高い成人女性に見える姿をしているが、長い髪の毛も、ロングドレス風の服も、目も鼻も全部白色なのだ。しかも口が無いように見えた。

 黒眼すらなく、ラッパ状に開いた袖から覗く手まで白色である。

「ああ、やっぱり変に思うか? ハッティフナットに名前を付けているなんて。でも彼女だって間違いなくゴリアテのクルーだぜ」

「こんにちは」

 白色の目が柔らかく形を変えた。どうやら微笑んだようだ。

「正確には端末番号八一九〇・九七三五・一四一四・三八七八となります」

 どうやらこの雰囲気だと、番号で呼ぶのが正式で、ヒカルというのはシローたちが後からつけた呼び名のようだ。

 声は聞き覚えがあった。ジュンと通信機で連絡を取っていた相手だ。

「ヒカルにゃ通信手(コミニュケーター)を任せている、適材適所だろ。その次は装填手(ローダー)のリュウタだ」

 ヒカルの横に並んでいたのは、先ほど砲塔の上から手を振ってくれた人物だった。

「よう。アンタ変な格好してんなあ」

 にこやかな笑顔で話しかけてくれる。どうやら同じドワーフでも、シローやシンゴのような、初対面の相手だと取りつきにくい性格では無いようだ。

 黒い髪は巻き毛で、長く伸ばした髭は三つ編みにされていた。太鼓腹の丸い体を、これまた黒いフードつきのコートで包んでいた。ただコートからはみ出している袖や裾が他の者が着ている物とは違い、ゴムで絞ったようなタイプであった。

 それとシローと違うのは、頭に野球帽みたいなキャップを被っているところだ。挨拶の時に脱いだキャップを再び被り、ちょっと動かして具合を調整していた。

 変な格好と言われたが、確かに戦車から出てきた者が戦闘服を着ている事には違和感が無いが、石だらけの荒野でスウェットにヘルメットという姿は、変に違いなかった。

「リュウタだ、よろしくな」

「リュウタは料理人(コック)も兼ねてる。食えない物があったら言っておけよ」

「とりあえず食べられない物は無いと思います」

 どうやらこのグループに混じることができれば食事にはありつけるようだ。先程、周囲を見回して何もなかった時の絶望感と比べてしまう。とはいえ、あんな獣の肉を食べたことが無いので、もしかしたら口に合わないのではないかと不安にはなった。

「で」

 シローが目を向けると、ジュンが得意そうに胸を張った。男の子よりは膨らんでいるが、成人女性に見えるヒカルや、女子高生ぐらいのヒメと比べて、とても慎ましい物しかなかった。いちおう袈裟懸けに背負ったウィンチェスターライフルのスリングが斜めに走っており、ささやかな谷間を強調していた。腰の方は緩く巻いた鎖がくびれの方を強調していたが、何にでも限界という物はあった。

「ジュンは自己紹介したのか?」

「名前の交換ぐらい」

「そうか、彼女は偵察員(レコン)をしてくれているジュンだ。おそらく、お前さんと同じエルフだよ」

「え? エルフ?」

 つい素っ頓狂な声が出てしまった。ライトノベル等に出て来るエルフとはだいぶ外見が違うから当たり前だ。前から見ても後ろから見ても、人間の女の子に見えるのだ。耳だって長くはない。いや、いまは通信機であるヘッドセットを被っているから見えないだけであろうか。

(エルフって、耳が長くって、もっとスタイルにメリハリが利いている物だと思ったんだけどな…)

 ちょっと幻滅しながらもジュンを観察してしまう。何度見ても人間の中学生ぐらいにしか見えなかった。

「彼はエルフではないと思いますが?」

 異論はヒカルから上がった。

「そうなのか?」

 シローが訊いて来た。真っすぐ訊かれてしどろもどろになってしまった。

「ああ、ええ。うん、はい。おれはヒトなんですか…」

「ヒト!」

 シローを含めて六者六様に驚いた。シローとリュウタは分かりやすく顎を落とし、車内から駆け出してきたもう一人のドワーフが居たが、あれがシンゴであろう。ヒメは一歩乗り出して、ヒカルは大きく瞬きをし、そしてジュンは口に手を当てた。

「お前さん、ヒトなのかあ」

 驚いた表情のままシローが歩み寄ると、公一の肩を叩いた。

「じゃあ苦労したんだなあ」

「は?」

「それともアレか? 噂に聞くプラントから出てきたばかりなのか?」

「ぷらんと?」

 聞き慣れない言葉にキョトンとしていると、さらに衝撃的な一言が飛び出した。

「俺が最後に看取ったルナが最後の一人だと思っていたんだが、絶滅していなかったんだなあ、ヒト」

「ええっ!」

 絶滅という言葉に公一が飛び上がって驚くと、シローは腕組みをして感慨深げにうなずいた。

「まあ、ウチのキャラバン以外、どこかで誰かが生き残っているって思っていたが。まだいるんだなあ、ヒト」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 慌てて確認しようと公一は早口になった。

「ココは? この世界はなんなんだ?」

「は?」

 眉を顰めるシローに、もう一度訊いた。

「この世界は異世界じゃないのか?」

「イセカイ?」

 ピントが来ていない顔でシローは首を捻った。

「ほら、世界の呼び方があるんじゃないのか? デアブランデとかイクスフリアとか」

 版権的に色々とギリギリな事を口走る公一の前で、シローはヒカルを振り返った。

「ヒカル。現在位置は?」

「緯度経度で示しますか? それとも地名で示しますか?」

 大真面目に訊き返すヒカルに、シローは片方の肩だけすくめた。

「大雑把でいいや」

「それならば簡単です。ここは東京都国立市です」

「くにたち⁈」

 頭をガーンと殴られた衝撃のような物を感じ、公一は仰け反った。

 そして自分の前に並ぶ面々をもう一度確認する。シローにヒメ、ヒカル、リュウタ、ジュン。それとゴリアテの後部ドアから顔を出しているのはおそらくシンゴだろう。確かにドワーフだのエルフだの言っている割に、名前が和風であった。

「なに言ってやがる」

 シローが腕組みをしてみせた。

「だいたい喋っているのが日本語じゃねえか。おかしいと思わなかったのか」

(言われて見れば確かにそうだ!)

 シローの指摘に、また衝撃を受ける公一。

「え? じゃあココは異世界じゃないのか?」

 公一の質問に、ヒカルが明確に答えた。

「一一〇年ほど前に私へ『この滅びた世界を<バタフライ&ローゼス・ガーデン>と呼ぼうじゃないか』と提案されたヒトがいました。彼を名付け親とするなら、この世界はそう呼ばれるべきかもしれません」

「滅びた世界?」

「はい。最終戦争を経て、地球で生き残っている知的生命体は、ドラゴンを除けば、この場にいる者だけかと」

「さいしゅうせんそう…」

「まてまて」

 さらに呆然自失となる公一へ、シローはまず仲間を振り返った。

「話しが長くなりそうだぞ。とりあえずココにテントを張って、野営の準備をしろ」



 シローは矢継ぎ早に乗員へ指示を飛ばし始めた。

「野営の準備をしろ。今日の当直は誰からだ?」

 シローの質問に、ヒメが黙って手を上げた。

「よし。じゃあ警戒線は二重、テントは三つだ」

「メシはどうする?」

 にこやかにリュウタが手を上げて訊いた。

「ナカムラさんに出会えたんだ。メデタイってことで、いつもより肉を使ってもいいか」

「そうだな、許可する」

 シローの判断に、リュウタは腕まくりをしてみせた。

「じゃあ、いいところを焼いちまうか。どうせこのままじゃ固くなっちまうからな」

 その言葉が合図だったように、それぞれが動き出した。ヒメはゴリアテへと戻って行き、ジュンとリュウタはリヤカーから荷物を降ろし始めた。

 二人は、あっという間にドーム型テントを三張り立てた。入り口にはデカデカと「い」「ろ」「は」と平仮名で書いてあった。

(まさかと思ったけど…)

 テントに書かれた平仮名を見て「最終戦争後の日本」とフェイントをかけて置いて「やっぱり異世界でした」というドンデン返しを諦めることにした。

 相変わらず風があるが地面が石しかないので、テントを設営している二人は、雨風避けであるタープをピンと張るために、支持するロープを適当な石に結び付けた。

 それからリュウタはゴリアテの風下になる場所の石を、馬蹄状に積み上げて風よけを作ると、そこへコンロを設置した。フライパンやら鍋やらも台車から持ち出して来れば、豪邸のシステムキッチンとは言えないが、キャンプ料理ぐらいはこなせる調理場として十分だった。

 ジュンは、レンガほどの器械と、数本の棒を持って離れた場所へ歩いて行き、その器械の設置を始めた。

「おう、じゃあ話を聞こうか」

 シローは、さっそく完成したテントの一張りに、まだ半ば呆然としている公一を誘った。



 シローを先頭に、一張りのテントへと入る。後ろからヒカルが静かに後についてきた。

 地面には何も敷いていないが、いつの間に用意した物か、折り畳み式のコット(アウトドア用のベッド)まで備えてあった。

 テント内には明かりが用意されていなかったので薄暗かった。

「ま、座れ」

 自分はディレクターズチェアに腰を下ろしたシローが、対面となるコットを示した。

 そこへ公一は力なく座り込んだ。手にしていたヘルメットを抱え込むようにする。

「ヒカル」

「はい」

 シローに呼ばれて、彼女が頷くと、なんとヒカルがポワッと淡い光を放ち始めた。

「ふへ?」

 まるでホタルのような優しい光の中で、公一の顔が驚きの表情で固まった。

「まず、話しを整理しやすくするために、俺が質問者だ。いいか?」

 シローの射貫くような目で見られ、公一はガクガクと頷いた。

(体も服も、髪まで光るなんて、どんな原理だ? でも質問は向こうからって言われたからなあ)

 そんな事を考えていたのがいけなかったのかもしれない。シローはあからさまに舌打ちをしてから口を開いた。

「返事は?」

 半ば怒鳴り声を浴びせられ、公一は慌てて背を伸ばした。

「は、はい」

(こえ~、土屋先生より迫力ある~)

 清隆学園高等部において、体育担当で、生徒の生活指導もしていた男性教師より迫力があった。

「後で、お前さんも質問する時間は用意する。それなら不公平ではないだろ?」

「はい」

「よろしい。では、まず所属と階級名を」

「しょぞく?」

 そんな質問は生まれて初めてだった。

「まさか、どこにも属していませんでしたとか言うんじゃないだろうな?」

 ギロリと睨まれて体に震えが来た。

(所属っていう事は、自分がいた学校を言えばいいのかな?)

 さすがに公一だって「どこの学校」と訊かれた事ぐらいはあった。

「がっこう…、清隆学園高等部の一年二組の生徒でした。部活は憲法研究会に入っていたけど、ほとんど幽霊部員で…」

「身分証は?」

 慌ててポケットをまさぐるが何も入っていなかった。

(あ、そっか。生徒手帳や免許証なんかは制服のポケットに入れっぱなしだ)

 こんなことになるまでスクーターへ跨っていたことを思い出した。制服はバッグに詰めてラゲッジスペースへ押し込んでいた。スマートフォンですらスクーターのポケットに入れっぱなしにしていたので、何も身に着けていなかった。これは公一が着ていたスウェットのポケットが浅いのが原因だった。

「ヒカル」

 確認するようにシローがヒカルへ視線を移した。唯一立ったままだったヒカルが淀みなく答えた。

「記録では確かに清隆学園という学校法人が存在したようです。もちろん最終戦争で破壊され、今では遺構すら残っていませんが」

「学校って何だ?」

「子供に対して教育制度の中核的な役割をする機関。または、その施設のことです。戦前は各地に存在し、日本では六歳から小学校、中学校、高等学校、大学へと進学し、そこで色々な事を学んだヒトは、大人として社会への貢献を求められました」

「ふうん。そこでナカムラさんは教わる方だったってことか?」

「はい、その通りです」

 公一が口を開く前にヒカルが答えた。

「つまり教育隊みたいなもんか?」

「大雑把ですが、あながち間違いではありません」

 シローの確認に、ヒカルは頷いて答えた。

「ふうん」

 ちょっとだけ軽蔑するような目をしたが、すぐにその表情は消えた。

「で? その大昔の学校とやらに所属しているはずのナカムラさんは、どこから来て、どこへ行こうって言うのかな?」

 シローからは猜疑心の塊のような声が出た。

「大昔って、どのくらいです?」

 信用していない目で見られて哀しくなった公一が訊くと、シローの眉が顰められた。

「質問はコッチからって言ったろ。どのくらいだ? ヒカル」

 それでも物知りらしいヒカルに訊ねてくれた。

「それこそ最終戦争の時ですから、一四〇年以上前です。正確に建物や施設が破壊された記録は残っていません。ですが、学校法人としての団体活動を停止した日時の記録は残っていますが、必要ですか?」

「いや、いらね。それにしても一四〇年ね。ほーう」

 面白くなさそうにシローの右眉だけが額の方へ上がった。

「その学校とやらは、とっくのとうに無くなっているみたいなんだが? どう説明してくれるんだ?」

「ちょっと失礼」

 テントの外から声がかけられた。怖い顔になって乗り出していたシローが体を引き、出入り口に向かって怒鳴り声を上げた。

「なにかあったか?」

「ボクのコート、そろそろ返してくんないかなあ」

 首だけテントの中に入れてきたのは、ジュンであった。

「あ」

 慌てて自分の体を見おろし、彼女のコートを羽織ったままだった事に気が付く公一。

「代わりにさあ、在庫から古着を持って来たよ」

「そうだな。着替えた方がよさそうだ」

 シローも納得して、大きく頷いた。

「そんな服じゃ、転んだだけで怪我しそうだしな」

「ども」

 許可に感謝してジュンがテントに入って来た。背中には公一を守って戦った時に使用した壊れたウィンチェスターライフルを背負い、手には布の塊を持っていた。やはり腰に巻いた鎖がチャリチャリと音を立てていた。

「細かいサイズは分からないけど、どうせこんなのしか残ってないし」

 ジュンはコットの上へ、灰色をした戦闘服の上下と、自分とお揃いのコートを並べた。ベルトは彼女が巻いているような鎖を渡されるのかと思ったが、自在な位置で止まるフリーサイズの物が用意されていた。シローも同じベルトを巻いているが、それと比べて公一に渡されたのはまだ新品に見えた。

「着ちまえよ」

「それでは失礼して」

 立ち上がりながら遠慮がちにテントの中を見回した。

(見られながら着替えるのも恥ずかしいなあ)

 チラリとジュンを見るが、出て行く気配はない。こういった公一の常識が通じそうなヒカルも動くつもりは無いようだ。

(あ、そっか)

 一瞬スウェットを脱ごうと手をかけたがやめて、その上から重ね着する事にする。なにせ公一にとっては薄ら寒い気温なのだ。重ね着して丁度いいぐらいのはずだ。

 公一の着替えを眺めていたシローが、ジュンへ注文をつけた。

「靴も探してやらんとな」

「ええ? あるかなあ合うサイズ」

 面倒くさそうにジュンは口を尖らせた。

「合わなければ足の方を合わせろ」

 冷たくシローが言い放った。

「…」

 シローの暴言に、苦い物を噛んだような顔になって公一が振り返ると、指差されてしまった。

「残念だが、補給は無いんだ。ある物で何とかするしかない。どこにも補給部隊なんていねえんだからな」

 それでも視線を外さない公一に、シローが現実を突きつける。

「もう世界は滅びたって言ったろ。靴を作ってくれるヒトも、服を縫ってくれるヒトも、もう一〇〇年以上前に死んじまったんだ。それとも、ナカムラさんはそういうことができるのか?」

「いや、できないけど」

「じゃあ、なんならできる?」

「ええと」

 そう面と言われて公一は口籠ってしまった。なにせココへ来る前は学力だって体力だって平均より少し下だったし、特技なんてありもしなかった。朝に起きるのだって母親の怒鳴り声が目覚まし代わりだったし、三度の食事だって母親に用意してもらっていた。食事の材料を買う原資は、もちろん父親が働いて稼いでくれた金である。公一はただ学校に行って暇つぶしのように授業中は寝て過ごし、そして家に帰ってはゴロゴロしていた。

 平凡な昨日の上に今日があり、そして平和な明日が来ることを疑いもしなかった毎日。そんな過去の日本にあった平穏は、ココには無いのだ。

「なに泣いてんだよ」

 ジュンが優しく声をかけてくれた。気が付いたら涙が流れていたのだ。

「だらしないなあ、シャンとしろよ」

 口ではそう言いつつも、指で頬を拭ってくれた。ジュンの暖かい指先に、我に返る公一。泣いていてはいけないと自覚が出てきた。

 それに、いまさら時代遅れの男尊女卑とか言われるかもしれないが、男として泣いている姿を見られるのも恥ずかしい。

「ちょっと凹んだだけだ」

 慌てて拳で涙の残り滓を拭い、ぐっと奥歯を噛み締めた。

「で、どうだ? 似合うか?」

 その場でやっこ凧のように両腕を広げて見せる。灰色をした戦闘服の上に、ジュンとお揃いの黒いパーカーという姿になって、やっと体が暖かくなってきた。ヘルメットを被るかどうか悩んだが、今はコットの上に置いておいた。服のサイズは少し大きかったので、袖や裾を一回だけ折って大体長さの帳尻があった。

「うん、いっちょまえになった」

 自分のコートへ袖を通したジュンが、腰に鎖を巻きなおしながらニッコリとした笑顔を見せてくれた。

「あとで手袋とかも探さんとな」

 これはシローだ。

「ええー」ジュンがうんざりとした声を上げる。

「それも探すの? 探すの面倒臭い」

「靴も探すんだろ。ついでに俺の靴下も頼むぜ」

 そういってシローは半長靴を脱いだ。ごつい外見の割に機能的なようで、金具をパチリと外すだけで脱げるようになっているらしい。

 持ち上げた右足の親指が、こんにちはと顔を出していた。

 ピョコピョコと動かすさまが滑稽で、空気が少し和んだ。

「後でね」

 ウインク混じりで答えるジュン。

「早くしないと、世界が終わっちまうぞ」

 シローがご機嫌斜めな声で言うと、ジュンがキシシとまるで小学生男子のような笑い声を上げた。

 公一がキョトンとしている事に気が付いた彼女は、笑いの残滓を残したまま説明してくれた。

「今のは、ゴリアテで最近流行ってる冗談なんだ」

「は?」

 何が冗談だったのか分からずに、公一は目を丸くするばかりだ。

「世界が終わっちゃうぞってやつ」

「あー」

(もう終わった世界なのに、いまさらそんな変な事を言うから変だと思った。早くしないと世界が終わるねえ…)

 あまりセンスのいいジョークとは思えなかった。

「で、話しを戻すか。ナカムラさんはドコから来たんだ? 噂に聞くプラントからじゃないのか?」

 靴を履きなおしながらシローが訊ねてきた。

「そのプラントっていうのには心当たりはないんだけど…」

 寒い中で服まで提供されたのだ、包み隠さず話してしまっていいだろう。公一はコットに座り直すと、シローに真正面を向いた。

「おれは西暦二〇××年の日本から来たんだ」

「は?」

 ジュンが分かりやすく、そしてシローが引き攣るようにして、顔をポカンとさせた。

「ちょい待ち。ヒカル、今年は何年だ?」

「現在ですか? 西暦で言いますと、二五〇四年の五月六日火曜日になります。時刻も必要ですか?」

「いや充分だ」

 断ったシローが視線を公一に戻した。

「俺にはどうもお前さんが五〇〇歳近い爺さんには見えないんだが?」

 二五〇四年と聞いて気が遠くなりそうになる公一。

(えっと、未来から来たネコ型ロボットが造られたのが、二一一二年の九月三日だから…)

 聞かされた西暦のトンデモない数字に、自分が小学生の時には、毎年春休みになると母親に映画館へ劇場版を観に連れて行ってもらった『少し不思議な』アニメ作品の主人公である子育てロボットを思い出した。それよりもさらに未来という事だ。

 そこまで思い出してから、自分がシローにからかわれたのではないかと気が付いた。

(爺さんって…)

「だから来たって言ったろ」

 語気が荒くなりそうになったが、慌てて自重した。

「そこで事故に巻き込まれて、気が付いたら広い場所にいたんだ」

「事故? 巻き込まれた?」

「ああ、えーと。車がビルへ突っ込んで、その衝撃でそのビルが崩れて下敷きになったんだ、おれ。そしたら…」

「この荒野にいたってか?」

 信じられないというように、また右眉だけを額の方へ上げるシロー。

「いや。いきなりコッチまで来てはいないんだ。広い場所って言っても、ココじゃない。まず行ったのが、白黒の床がどこまでも続く世界で、星空が見えてた」

 公一の説明を聞いてジュンが息を呑んだ。

「そこに、これと同じ…」と、自分が袖を通した、胸に白い流星マークのあるコートを、袖を摘まみ上げて示し「同じコートを着た女がいて『生き返りたいか』って訊かれたんで、人類最強にしてくれるんだったらって」

「その女の人って、泣いてた?」

 ジュンに見つめられながら訊ねられた。

「あ~、アレは泣いてたのかなあ。緑色だったけど、あれ涙なのか?」

 驚いた顔のジュンは一歩下がると、ヒカルと顔を見合わせた。

 ヒカルが一つ頷いた。

「よく殺されなかったわねえ」

 ジュンから感心する声が出た。

「は? 殺される?」

「そいつは『魔眼持ち』のドラゴン『ビショップ』よ」

「どらごん?」

 ドラゴンと聞いて公一はキョトンとした。彼が読んでいたライトノベルに出て来るドラゴンとは、翼の生えた恐竜のような姿をしているのが一般的だったからだ。たまに人間に化けたドラゴンというキャラクターも居た。が、そういう者は手足や胴体、顔など五体が人間そっくりになっても、頭に角だったり、背中に翼だったり、ドラゴンの特徴を持ち続けていることが多かった。

 対して、公一が女神と間違えた女は、ただの女子高生に見えた。

「そ、『魔眼持ち』の『ビショップ』」

「魔眼⁈」

 その単語自体はライトノベルに出て来るので馴染みがあった。

「一睨みでヒトの命を奪うなんて、朝飯前どころか、アクビついでに出来る程の魔力持ち。ついでに言えば、暇つぶしにヒト一人平気に殺せるヤツ」

「うへえ」

 公一はキッと彼女に睨まれた事を思い出した。もしかしてあの瞬間が、ここ最近で一番の命の危機だったかもしれないのだ。

「あんな美人だったのに、そんなヤツだったなんて。女神なんて呼んで損した」

「いや、そう呼んだから殺されなかったんじゃない?」



「ハックション!」

 雲の流れる夜空に、彼女のクシャミが響き渡った。



「じゃあ、あいつが魔法で俺をこの世界に送り込んだってことか? 五〇〇年の時間を越えて?」

 公一が眉を顰めて三人に訊いた。シローからは答えが戻って来るとは思えないが、他の二人ならば知っていそうだ。

「あ~」

 ジュンが言おうか言うまいか迷う声を上げた。それを見て取ったヒカルが告げた。

「『ビショップ』はドラゴンの中でも一番の魔法使いです。特に時空の隙間へと移動する能力があったことが知られています。よって可能性を訊かれたら、それはあると答える事ができます。が『ビショップ』の性格からして、ありえないとも言う事ができます」

「…」

(えーと?)

 公一はちょっとだけ考えた。

「で? ドッチ?」

「さあ」

 ヒカルが首を捻ってみせた。

「じゃあ、なんでおれはこの世界に来たんだよ」

「一番考えられる原因は『ビショップ』の魔法ですが、現在のところは不明というのが正解ではないでしょうか」

 ヒカルに告げられ、公一の肩が落ちた。

「じゃあ、あいつを見つけ出したとしても、元いた時代に帰る事は無理なのか?」

「おそらく」

 ヒカルに告げられ頭の中に家族の顔がよぎった。

(こんな形でお別れになるとは思っていなかったなあ)

 祖父母などの身近な親戚ですら、交通事故や病気、老衰などの原因で失ったことが無かった公一である。もう二度と両親に会えなくなるという実感が全然湧いてこなかった。

(いや、ポジティブに考えろ、おれ)

 力を取り戻し、顔を上げてジュンを見た。苦笑いのような物が浮かんだ。

「でも、人類最強の男って言われたし」

「彼女なりの『小粋な会話(ジョーク)』でしょ」

 呆れたような声でジュンが指摘してきた。

「は?」

「最強も何も、ヒトはもうキミ一人しかいないんだから、一番なのは当たり前じゃない」

「ああ…」と手をポンと叩いてから怒りがこみ上げてきた。

「なんじゃそりゃ。じゃあ最弱でもあるって事じゃんか!」

「そうなるねー」

 少し笑いをこらえたような表情を見せ、ジュンは公一の肩を叩いた。

「がんばれ人類最強」

「うがあっ」

 とりあえず当たる相手がいないので、吠え声だけをあげる公一。

「『ビショップ』って言やあ…」

 公一がそれ以上暴れ出す前に、テントを見上げていたシローが口を開いた。脳の中にある情報を引き出そうとしているのか、ちょっと渋面になっていた。

「あれだ。『何もしなかったドラゴン』だ」

「そう、それ」

 ジュンが指差してうなずいた。

「なにもしなかった?」

 意味が分からず公一が聞き返すと、三人が揃って頷いた。

「うん。何もしなかったんだよ」

 何を指しているのか分からず、公一はただキョトンとするだけであった。頭の中で緑色の涙を流しながら微笑んでいた彼女の姿が蘇るばかりだ。

「そうだ、これ」

 彼女の姿を思い出した公一は、自分も袖を通した服の胸にもついている白い流星マークを指差した。

「このマーク、どういう意味だ? あの女も着てたけど」

「ただ部隊章(インシグニア)だよ、中央司令軍の」

 つまらなさそうにシローが答えた。

「もう軍隊なんかとっくに無くなっちまっているが、コレしか無いもんでね」

「正確に言いますと、ドラゴンを含む最終戦力だった中央司令軍が採用していたインシグニアとなります。最終戦争終盤で、物資を確保していたのが中央司令軍のみとなっておりましたので、現在手に入るほとんどの物には、そのマークが入っています」

 ヒカルが補足した。

「ドラゴンを含む?」

「ああ。俺たちは、お前さんらヒトと違って、兵器だからな」

 シローは面白くなさそうに言った。

「俺たちドワーフは車両や機械の扱いに長けるから、その乗組員さ。ヒメのようなブリガは歩兵だ。なにせキノコだけに促成栽培できるからな、数で勝負の歩兵にゃピッタリってわけだ」

「へいき…」

(驚いてるだけじゃいけない)

 呆然としそうになるところを、公一は自分に喝を入れた。

「ええと?」

 何でも答えてくれる役割らしいヒカルを見ると、意を汲んで説明してくれた。

「戦前に発達した遺伝子工学や生物工学により、ドワーフやブリガ等は開発されました。もちろん知性などは人間に劣ることはありませんが、特殊な事情で造り出された生命である事には変わりありません」

「エルフは?」

 チラリとジュンを見る。照れたのかジュンは後ろ手でモジモジとしていた。

「エルフは、ヒトの改良種として生み出されました。よって人間より長命で、病気やケガなどで死ににくくなっています」

「じゃあ、おまえさんは?」

「私ですか?」

 白色に発光している目を瞬かせるヒカル。若干光量が変わった気がしたのは、人間で言うところの「目を丸くした」というところか。

「私たちハッティフナットは生命ではありません。二一世紀初頭の常識で説明するならば、ロボットというのが一番近いかもしれません」

「ロボット?」

 とても仕草が柔らかで、機械で出来た体には思えなかった。白色一色なのはさすがに見慣れないが、腕や脚にシリンダーやモーターが仕込まれている様には見えない。もしロボットだとしても、生命に近い構成をしていることが察せられた。

「戦前は主な施設や街角に立ち、人々の生活の役に立つために活動しておりました。情報の検索などもその一環です」

「へええ、あれだ。スマホみたいなもんか?」

 公一の質問にしばし返答が遅れた。もしかしたら「スマホ」という単語の検索を行っていたのかもしれない。

「たしかに似たような物かもしれません。ただ私たちは公共の物で、個人の所有物ではありませんでしたが」

「じゃあドラゴンって何だよ」

 当然の質問が出た。

「究極の兵器です」

 即答であった。

「熱核攻撃にすら耐え、どのような要塞でも破壊できる力を持ち、科学の範疇に無い『魔法』という能力まで獲得し、その活動範囲は地上だけにとどまらず、海中、空中、地中。果ては宇宙空間にまで及びました」

「うちゅう…」

 生物が真空に出る事が想像できなくて、公一がまた言葉を失った。ジュンが何か言いたそうに自分の頬を掻いているが、結局なにも言い出さなかった。

「はい。低軌道ですが、宇宙空間にまで進出し、あらゆる敵を排除しました。それにより劣勢だった戦況は挽回したのです。ある時点までは、ですが」

「ある時点?」

「裏切りやがったんだよ」

 シローが忌々しく言葉を吐き出した。その荒々しさに、ジュンが首を竦めた。

「シロー怖い」

「うるせ」

 ジュンの批難の声を一斬りで跳ね除けた。

「うらぎる?」

 公一の眉を顰めた声に、機嫌の悪い声のままシローが教えてくれた。

「敵を滅ぼした後、なにを考えたのか分からねーが、今度は味方を攻撃し始めたんだ」

「うへえ」

 変な声が出た。

(ラノベでドラゴン退治と言えば鉄板の展開だけど、ああいう主人公は神さまからチート能力を貰っていたりするもんなあ。せいぜい人類最強の俺には無理だな)

 今の公一には他人事のように分析できた。なにせ、ドラゴンに劣るだろう獣に囲まれただけでアレである。自分の実力は把握できてしまった。

「ドラゴンは全部で八人いました」

 ヒカルが伝説を口にする語り部のような口調で話し始めた。

「その内『世界を滅ぼしたドラゴン』が五人。『何もしなかったドラゴン』が二人。そして『守るために戦ったドラゴン』が一人いました」

「あ、それでも味方してくれたドラゴンは居たんだ」

 胸を撫で下ろす公一。

「でも、結果はこのあり様だぜ」

 荒野を示しているのか、シローが顎でテントの出入り口を示した。

「ドラゴン同士の戦いは、それは激しい物でした。なにせ最強の生物同士の戦いです。それにより、地球の全表面は地殻まで掘り返され、このような砕けた石の荒野が広がる星となったのです」

 シローの言葉を受けるようにしてヒカルが説明を続けた。

「私も高崎駅前で皆さまのお役に立つ仕事をしておりましたが、戦乱により民間人が収容されたコロニーへ移動し、そこがドラゴンに破壊された後は、キャラバンに参加してココまで参りました」

「きゃらばん?」

 急にSFめいた説明の間に、高崎なんて知っている地名が出て来て拍子抜けするが、耳慣れない単語を訊き返した。

「こんな世界じゃあハタタだっけ? 食べ物を育てることもできないだろ」

「シロー、それを言うなら田畑です」

「そうそれだ。だから俺たちみたいなドワーフの生き残りと、まだその頃はたくさん居たヒトたちで大きなグループを作って、トラックや装甲車に分乗して、根無し草の生活さ。今日はあっちのオアシス、明日はそっちの泉ってな具合にさ。同じところに居たら井戸なんかあっという間に枯れちまうからな。ま、俺は戦後生まれだから、コロニーとやらも廃墟でしか見た事が無いがな」

「そのヒトたちはドコに?」

「だから、みんな死んじまったって」

 シローが肩を竦めてあっさりと言った。

「病気だったり、怪我だったり。お前さんみたいにイヌに襲われたり、ヒト同士で争うこともあったがな」

「はあ」

 こんな滅んだ後の世界でも醜く争うなんて、ヒトの本性が知れるというものだ。いや、こんな世界だからこそかもしれないが。

「なんだよ質問はコッチって言ってたけど、いつの間にか逆になってるじゃねえか」

 シローは足を投げ出すと、不貞腐れたように背もたれへと上体をあずけた。

「あ、ごめん…、なさい」

 素直に謝る公一を、ちょっとだけ睨みつけてくる。そのごつい肩にジュンが手を置いた。

「シロー、リラックス、リラックス」

 そのままジュンがシローの肩を揉んでやる。公一から見ると、パパにお小遣いをねだる中学生の娘というような姿だった。

「もういいぜ。先にソッチの質問を終わらせちまおうや」

 マッサージを受けながら、やる気が失せた声で、シローは手を横に振ってみせた。

「本当に、ヒトはもう居ないの?」

「もしかしたら残っているかもしんねえが、見かけねえな」

 シローの乱暴な言い口に、ヒカルがまた補足した。

「ハッティフナットのネットワークにも引っかからないので、ヒトの絶滅は間違いないかと思われます」

「ネットワーク?」

 気になる単語がまた出てきた。

(こんな未来なんだから、ネットも相当進んでんだろうなあ)

「はい。私たちハッティフナットは、いまだ全地球規模の相互通信網を失っておりません。私は、シローたち生き残りと行動を共にしていますが、別の個体もまだ存在しております。あるモノは戦乱においても壊れずに残った遺構の管理をし、またあるものはデータを更新するために生物の研究などを続けております。なにせ最終戦争で地球上に存在したあらゆる生物の遺伝子は汚染され、生態系は全く変わってしまったので」

「たしかに…」

 石だらけの荒野を走って来た獣を思い出して公一は眉を顰めた。あんな獣が存在するなんて教わったことは無かった。

「ヒトが生存していれば、私たちハッティフナットと接触して来ると考えられます。なぜなら、その方がこのような世界でも生活していくことが楽になるからです」

「なるほどね」

 公一は納得して頷いた。

(たしかに荒野で一人ぼっちだった時、スマホが使えてりゃあ、あんなに不安にならなかっただろうしな)

「ちょっとまてよ」

 頷いた事で脳の回路が別の所に繋がった。

「植物が無いと光合成されないから、酸素が無くなるんじゃあ」

 なにしろ見渡す限りの荒野である。遠くに見えた山のような存在にも緑を見つけることはなかった。

「はい。その恐れは十分にあります」

 簡単に肯定するヒカル。

「うげ」

 そう言われると息苦しくなってきたような気がした。自分の首に両手を当てる公一を、おかしそうに見おろしながらヒカルが補足した。

「わずかですが森林地帯は残されておりますが、最終戦争の前に存在した森林面積と比べようが無い程小さいものです。ですが、同時に生物の大量絶滅も起きましたので、地球の総大気量から計算して、まだ一〇〇年単位で余裕があるかと」

 普通に地上にいるだけで窒息してしまう恐れが無い事にホッとする公一。

「それと現在研究中なのですが、海があった場所から酸素が噴出している箇所が複数存在します。それにより現在も大気組成は戦前とそう変わることはありません。その酸素の発生源は、元の海水が分解されているのか、それとも何らかの光合成をする生物が潜んでいるか、その両方か。別の理由も考えられますが、現段階ではどれなのか確認はされておりません」

「えっと、海も無くなっているの?」

「はい。大洋はすべて失われたと言って間違いないでしょう。ただ太陽や月の潮汐力で水が滲み出してきて、定期的に湖のようになる箇所が複数確認されているので、石の下に隠れていますが、水自体は大量に存在すると思われます」

「なんだよ、ナカムラさんは学者先生か? コウゴウセイ? なんか色んなことに詳しいじゃねえか」

 シローが茶化すように口を挟んできた。

「いや、このぐらいは常識の範疇かな」

「悪ぃなあ、その常識も吹っ飛んじまった後なんでな」

 ちょっとむくれるシロー。

「でも、俺たちよりも物知りじゃねえか。よかったな、できることの一つや二つはありそうだ」

「はあ、まあ」

 どうやら湾曲的にではあるが褒められたようでもあるし、馬鹿にされたようでもある。どっちにとって良いか分からないので、公一の返事も曖昧な物になった。

「で、だ。コッチの質問がまだ一つ残ってる」

 やる気のない顔から再び怖いほどの表情へと戻った。ふんぞり返っていた姿勢から、公一の方へ乗り出してきた。

「その学者先生に質問だ。プラントの場所は知らねえか?」

「プラントというと、工場とかのこと?」

 また同じ質問に困った顔をした公一は、またヒカルを見る。彼女は一つ頷いた。

「戦前には、植物や農地、生産拠点などの意味がありました。しかし今では、彼らドワーフなどの亜人をヒトから合成させて作った施設を意味します」

「ヒトからドワーフを作る?」

「といっても個人を変質させるものではないようですが。大量に蓄積した遺伝子情報から新しい生命を合成し、生み出すことのできる施設と言った方が分かりやすいですか? 私たちハッティフナットがその情報を持っていないのは、おそらくプラントは軍の施設の中でも秘密性の高い物だったからでしょう。私たちのネットワークの外に存在したようです」

 公一はヒカルの説明が自分の脳で咀嚼される間だけ時間を取った。

「そのプラントっていうのは、本当に知らないんだ。だっておれは大昔から飛ばされて来たんだぜ」

「いやよ、その大昔にでも、すでにプラントになりそうだった建物とかあったんじゃねえか?」

 食い下がって来るシロー。その必死さに公一は知らずにコットの上で仰け反ってしまった。

「シロー」

 困っているとヒカルが助け舟を出してくれた。

「彼が元いた時間から最終戦争まで、ざっと三五〇年あるのです。そんなに長い年月では、想像すら難しいでしょう。企業も創業や倒産を繰り返すでしょうし、科学的な常識すら変わっている可能性すらあります」

「んな難しい事を言われても、俺はわかんねえよ」

 不機嫌になったシローは黙らせるようにヒカルを睨むと、その剣呑な目つきのまま公一を見た。

「で? 心当たりはねえか?」

「う、うん。ないな」

 気を呑まれた公一の返事に、シローは大きな溜息をついた。

「そうか。わかった」

 ガックリとシローは肩を落とした。

「ええと…」

 こんなにあからさまに消沈されると、公一の方が悪いことをしてしまった気になって来た。

「で? ナカムラさんは、これからどうするつもりだ? アテはあるのか?」

「まったくない」

 正直に答えるしかなかった。こんな世界に放り出されて、明日から生きていける自信すらなかった。おそらくシローたちのグループに加われなかったら、野垂れ死にであろう。すでに獣に襲われたことで充分に自分の実力は分かっていた。

「もしよければ、仲間に加えてもらいたいんだが」

「それは構わねえ」

 沈んだ声のままシローが言った。

「もう世界は滅んじまったんだ。一人だけで放り出して見殺しにするなんて、寝覚めの悪い事は、俺もしたくねえぜ」

 肩を落としたままのシローはディレクターズチェアから立ち上がると、もう公一を見ようともしなかった。

「俺は野営の準備が出来たか見回って来る。ナカムラさんは、今日はお客さんだ。このテントでゆっくりしているがいい」

「それはどうも」

 ここは礼を述べておくべきと思い口にすると、少し厳しい声が返って来た。

「ただ、明日からは色々と働いてもらうからな。まあ半人前って事で、しばらくはジュン、お前と一緒に行動しろ」

「りょーかい」

 ジュンが可愛らしく敬礼した。それに合わせてチャリンと鳴ったのは腰の鎖だ。可愛らしい容姿とは似合わない仕草ではあるが、背中のウィンチェスターライフルと相まって、少年兵といった雰囲気だった。

「タダメシ喰らいは要らないってことだ」

「わかってきたじゃねえか」

 公一が言い返してきた言葉にニヤリとすると、シローはテントを出るために出入口に垂れているタープを捲った。

 一瞬だけギョッとしたシローは、大声を出した。

「お前ら! 準備は終わったのか!」

「うへえ」

「…」

「ひょ」

 どうやらタープの向こうで、いつの間にかゴリアテの乗員全員が聞き耳を立てていたようだ。

「ヒメは当直だろうが! こんなトコにいないで、任務を遂行しろ。シンゴてめえアウターフォビアはどうした? 治っちまったか? リュウタ! 肉は焦げてないだろうな! まったく…」

 シローの気配は、そのままブツブツ言いながらテントから離れていった。



 シローの怒鳴り声を面白そうに聞いていたジュンのクリッとした目が公一へ向いた。

「じゃあ、まずは。ボクと一緒に靴でも探す?」

 チョンと前に一歩飛び出したジュンが訊いて来た。足元の石がザリッと音を立て、腰に巻いた鎖がチャリンと答えた。背中のウィンチェスターライフルも金属音を立てたが、まるで鈴が鳴った様だった。

「ああ、うん」

「その前に」

 ヒカルが立ち上がろうとした公一を制した。

「ナカムラさんは、APOを接種していますか?」

「えーぴーおー?」

 キョトンとする公一。聞き慣れない単語であった。

「簡単に言うと、予防接種です」

「えーと」

 公一が、法律で決められていた予防接種などを、何歳で何回受けたかといった情報は、彼の家では母親が細かく母子手帳につけていた。それに任せて公一自身は詳しく覚えていなかった。

「BCGはやったよ」

 左の肩先の辺りを示して、これだけは覚えている予防接種の名前を口にする。

「ナカムラさんは年齢的に受けていない可能性の方が高いです。年齢的…」

 ヒカルは自分の言葉に眉を顰めるような動作をした。

「時代的と言った方が適切ですか? ナカムラさんがいた時代よりも後世に認定された接種薬のはずです」

「その注射を受けておかないと、なにかマズいの?」

 当然の質問にヒカルが頷いた。

「はい。自己アレルギー症やマリヤ・エコー氏症候群、俗に自殺病と呼ばれるノイエ・ルージュ神経変性疾患などの感染症を防ぐための混合ワクチンになります」

 どれも聞いたことが無い病気であった。しかも、どれも凶悪そうな名前である。

「えっと、それって、かなりマズいんじゃ…」

 腰が引けた公一がおずおずと訊ねた。

「はい。かなりマズいです」

 公一の言い方を真似るようにヒカルが頷いた。

「じゃあ、はやくそのAPOだっけ? 打ってくれよ」

 慌てて腕まくりを始める公一。

「それが…」

 ヒカルはジュンと顔を見合わせた。

「最終戦争で医療機関なども当然破壊されており、それには製薬会社も含まれています」

「それじゃあ手に入らないのか?」

 また襲って来た絶望感に公一が顔色を悪くしていると、もう一度二人は顔を見合わせて頷きあった。

「注射はあるよ」

 これはジュン。

「じゃあ、お願いする」

「しかし製造されてから一四〇年ほど経っていますが、それでよろしいですか?」

 確認したのはヒカルだった。

「へ?」

 二一世紀の日本では、薬の使用期限なんていう物は、普段気にもならなかった。が、さすがにタイムスケールがデカすぎた。公一の家ではパンの消費期限は一日ぐらいすぎてもOKとされていたが、牛乳に関してだけは賞味期限を過ぎると捨てる事になっていた。理由は単純で、公一の母親が若い時に、ちょっと古くなった牛乳に当たって、それはそれは酷い目に遭ったかららしい。

(牛乳に当たると上から下から忙しいんだから、とか言ってたなあ)

 もう会うことも無いだろう母親の声が脳内に再生された。つい感傷に浸りそうになるが、いまは後だ。

「それって、効くの?」

 牛乳と違って相手が医薬品では勝手が違うだろうと、公一は確認する事にした。

「保存状態によります。状態の良い物であれば一〇〇パーセント効果を発揮するでしょうし、悪い物だと副反応が出て、最悪ショック症状で死亡する可能性もあります」

「ええ?」

 公一は座ったまま飛び上がって驚いた。

「死ぬ?」

「はい」

 それが何でもない事のように頷くヒカル。

「保存状態って、外から見て分かる物なの?」

「製造年月は分かるようになっていますが、ワクチンがダメになっているかどうかまでは分かりません」

「じゃあ打ってみないと分からないって事?」

「そうなります。ですが状態の悪くなった物は全体の三割ほどですので、罹患の危険性と比べた場合、接種をお勧めするのですが」

(というと残りの七割が当たりってことになるぞ。えっと前にテレビで見た事あるな。天気予報の的中率って、そのぐらいだったはず)

 公一は腕組みをして考えた。天気予報程度の確率に命を懸けるかどうか、これは悩みどころである。

「接種しておかないと、確実に罹患するでしょう」

 ヒカルが念を押すように言った。

「…、どんな病気なんだ?」

「詳しく症状を述べますか? それとも簡単に告げますか?」

(まさかブクブクと紫色の泡になって消えるなんていう病気じゃないだろうけど、そんな物聞きたくないなあ)

「死ぬ病気なのか?」

「はい。それも、だいぶ苦しんで」

「じゃあ打ってくれ」

 脊髄反射のように即答した。

 どのように感染するか分からないが、うじうじ悩んでいる間にその病気になるかもしれない。ならば七割にかけた方がマシであろう。

「了解しました。ではジュン。医療パックを持って来て下さい」

「わかった、じゃあ待ってて」

 見る間にジュンが、腰の鎖を鳴らしながらテントを飛び出して行った。それを見送ったヒカルが、顔を巡らせて公一を見た。

「な、なに?」

 何か言いたそうだという雰囲気は分かった。

「私が推測したよりも、一〇秒は早いご決断だったので」

「注射の事?」

「はい。いったんは涙を見せるなど、メンタル的な弱さを見せた、貴方なので」

「言うなよ、恥ずかしい」

 公一の頬が赤くなった。

「でも、その注射で死ぬかもしれないんだよな」

 自分で決断した割に、遅れて怖さがやってきた。だが、いま決断力を褒められたばかりなので、撤回もしたくなかった。

「もし副反応で死んだら、ちゃんと記録しておいてくれよ。『人類最後の男、中村公一。予防注射で死ぬ』って」

「私たちハッティフナットは、このままトラブルが無ければ半永久的に活動が続く能力がありますので、滅びるとしたら地球が太陽に呑み込まれるという七〇億年後の事でしょう。その最期まで語り継いでいくことを保証します」

「ちなみに、おれの前に死んだ最後のヒトって?」

「女の方でした。死因は老衰です」

「そっか」

 あまり聞いても楽しそうではない話題なので、そのくらいで切り上げる事にする。

「右の方がいいかな? それとも左?」

 すでに捲り上げた右袖を示して訊いてみた。

「ええと、接種はココ…」

 ヒカルが背中を見せ、白く長い髪の毛を寄せて、うなじを出した。

 ちょっと色っぽかった。

「この首の後ろへ経皮接種いたします。皮下接種または皮内接種ではないので、腕を出さなくても結構なのですが」

「…。そんな難しい言葉で言われても分からないよ。もうちょっと説明して」

 専門用語を並べられて理解できなかった公一が口を尖らせると、ヒカルは前を向きなおした。

「経皮接種は、皮膚にわずかな傷をつけて、ワクチンを吸収させる方式です。先ほどナカムラさんが口にしたBCGで行う様な方法です。皮下接種は注射器でワクチンを体内へと送り込む方法、皮内接種はそれよりも浅い部位の皮膚に注射する方法です」

「APOは経皮接種…。というと、じゃあ痛くないんだ」

「はい」

 大きく頷いたヒカルを見ていた目が細くなった。

「なにが嬉しいの?」

 どこかヒカルの声が弾んでいるような気がしたので確認してみた。

「ええと、久しぶりだったもので」

 照れたように体を捩るヒカル。

「なにが?」

「『もうちょっと説明して』という奴です」

「?」

(テントに入ってから何度も色んな事訊いたぞ? なにか今までと違ったか?)

 彼女の正体がロボットのような物と聞いたが、今はその成人女性に見える外見のままの仕草であった。

「他愛のない、こちらのこだわりですよ」

 どうやら公一が訝しんでいるのに気が付いたようだ。照れた声のままで言い訳のような事を口にした。

 遠くから鎖が鳴るチャリチャリという音が近づいて来た。

「持ってきたヨ~」

 バサリとテントの出入り口に垂れているタープを捲りながらジュンが戻って来た。

 注射と聞いてどんな物かと見てみれば、まるで小学生が使う様なランドセルのような荷物であった。もちろん革製などでなく、プラスチックで作られたハードパックだ。

 全体は白く塗られており、真ん中に大きく描かれた赤いバツ印は、公一が暮らしていた時代と同じ意味であろう。

 ジュンは手に提げてきたそれをコットの上に置いた。背中にはウィンチェスターライフルを背負いっぱなしだ。

 医療パックのまるでハッチのような構造をした蓋を開くと内部を見る事ができた。細かい棚が並んでおり、真ん中に拳銃のような器具が収められていた。

 公一が覗いている間に、ジュンとヒカルは場所を交代し、ヒカルがその拳銃のような器具を取り上げた。

 棚は五十音順に分類されており、すでに空になっているところもある。五十音の棚の下にアルファベット順の棚があり、ヒカルはAPOとラベルが貼られた棚を開いた。

 棚の中には単五電池ほどの円筒形をした容器が転がっていた。内一つを躊躇することなく取り上げる。円筒形の表面には「APOワクチン」と書かれたラベルが貼ってあった。薬品の名前の下に四角い枠が書いてある。そこに「この枠の中がピンク色の場合。使用期限切れなので廃棄の事」と書いてあった。ちなみに枠の中はピンクなんてものではなく、真っ赤を通り越して黒ずんでいた。

「う」

 説明はされていたが、やはり嫌な気分である。

 ヒカルはその拳銃のような器具のスライドを引き、容器を収めるとカチリと音がするまで押し込んだ。

 どうやら準備完了のようだ。

「では、いいですか?」

 ヒカルが器具を構えて訊いて来た。

「おう。ズバッとやってくんな」

(こうなったら男は度胸だ)

 公一はヒカルに背中を見せるため、コットの上で座ったまま回れ右をして、足を反対側へとおろした。うなじを晒すために俯いて待つことになる。

 まるで江戸時代の斬首刑を待つ罪人の気分を味わいながら、ヒカルの処置を待つことになった。

「大丈夫ですよ」

 気休めなのか、軽い声でヒカルが言いつつ筒先を公一の首へと当てた。

「七割の確率なのですから」

「ちょちょちょちょ」

 ピタリと当てられたその器具が意外に冷たくて、公一は蛙のように飛び上がった。

「ちょっと待ってくれ」

「好きなだけどうぞ」

 構えていた器具を上に向けるヒカル。それを見てジュンが笑い出した。

「打つ直前に言うんだもん。そりゃあ縮み上がっちゃうよ」

 ケラケラと明るい笑い声に救われるような気分になった。ヒカルのところからわざわざ顔を覗きこみにやってきた。

 ジュンの興味深そうに覗き込んでくる顔と、相変わらず立っているヒカルを見比べて、公一は声を上げた。

「ショック症状なんだろ? じゃあ、万が一のために、遺言を残させてくれ」

「万が一ではありません」

 ヒカルが断言する。

「三〇パーセントの確率です」

 そのセリフを聞いて、公一は溜息をついた。

(なんか人間のような気がして来たけど、こういう返事が出るってことは、やっぱりロボットなんだなあ)

「録音機能を作動させますか?」

「いや、そこまではいいよ」

 公一は遠くのヒカルから近くのジュンへ顔を向けた。

「ありがとな、あんな獣から助けてくれて」

「えっと…」

 心からの言葉にジュンの頬が薄ら赤くなった。

「もしこれで死んじまったら、せっかく助けてくれたのが無駄になっちまったって事で、ごめんな。それと平気だったら、これからよろしくな」

「う、うん。大丈夫だって。七割でしょ。七割なんだから」

 ちょっと強めに肩を叩いてくれた。

「こんな荒野のド真ん中でボクたちが出会う確率より、遥かに高いだろ。そんな運を信じろよ」

「そらそうだ」

 ジュンの笑顔で心がほぐれた。コットから飛び上がってテントの端まで行っていた公一だったが、ヒカルの前に戻って来ると、今度は石の地面へ直接正座してみせた。

「じゃあ、よろしく」

 前に屈むようにして首を伸ばす。その首筋に冷たい筒先が当てられた。

「それではいきます」

 器具のトリガーが絞られた。




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