5.
じぃっとスヴェンを見る。この視線は、幻想界は駄目で夢現界なら姿を現せるのは何故なのかという疑問でもなんでもない。
「なんでしょうか主」
あ、主呼びになっちゃってる、との感想を抱きつつ思うのは。
「室内では靴を脱いでくれ」
君の足をがっちりホールドしている、現代の脱ぎ着し易さを考慮される以前の前時代的ブーツを脱いで下さい、の意を込めて足元を指差す。一瞬視線を下に向けたスヴェンは、室内で靴を脱ぐ文化というものを理解できないのか、以前のスヴェンのように首を傾げた。
本人にその意図はなくとも、まるで幼子のような仕草過ぎて、可愛さアピールのように見えてしまう。表情までも、以前のスヴェンのよう。
室内では靴を脱ぐのが日本の文化なんだ、というのを理解させるのに苦労させられたのは言うに及ばず。それ以外の日本の文化までも教えていて、あっという間に時間が過ぎてしまった。
俺の貴重な勉強時間が潰れた事実だけ残して……
「おはよ~」
「おはよう、大介く…どうしたの!?」
父さんの隣でテキパキと朝食の準備をしてたブランシェが声を上げる。まぁ、そういう反応が返ってくるのは想像できた。だって俺、明らかに寝不足でしょ?
いつもの如くクウィンシーに叩き起こされたわけでもなく自ら起きたのだが、何せ昨夜はスヴェンに日本の文化を教えていたら、深夜2時になっていたのだ。朝食当番の日の朝は6時起きだって言うのにな。
あからさまに寝不足な姿に二人はもう少し寝ててと言ってくれるけど、妙に目が冴えちゃってて眠れないんですよねコレが。今無理して寝たら、絶対遅刻する自信あるし。
スヴェンに教える過程で、先祖返りならぬ幼子スヴェン返りしてしまうので、その度に理解の範囲を超えたんだなと判断して噛み砕いて説明するという労力を繰り返していたら……時間が溶けた。純一みたいに、授業中に寝てしまうかもしれないと心配になってくるほど。
さすがに頭が回らないから手伝いだけは免除してもらい机に突っ伏すが、そんな状況でもクウィンシーは俺の頭を踏みつけては袖に噛みついて遊んで遊んでとせがむので休めない。
昨夜は都合よくぐっすり寝ててくれてたのに、その分元気が有り余ってて死ぬ!! 申し訳ないと思いつつ、百円ショップで見つけた猫じゃらしで手だけで遊ぶ。楽しそうなクウィンシーに、お前は本当にドラゴンなのかと聞きたい。本当は猫の生まれ変わりなんだろ?
大人になって、己が幼少期にされていた屈辱を理解できた時、きっと反抗期が来るんだろうなと思う。猫は飼い主を下僕と思っている節のある強者だけど、知能レベルで言えばドラゴンの方が圧倒的に高いのでこの扱いは酷すぎるというもの。
その時が来たら……うん、覚悟して置こう。
魔術学園の正門前が、摩訶不思議なことになっていた。いや、この世界の摩訶不思議はいつものことだけど。
あの輝く甲冑の一団は一体何だろう。学生の往来を邪魔しないように左右に佇んでいるが、その様が正に王様の往来を整列してお迎えする連隊の如くなのだが。
完全に顔まで覆い尽くしているので、これが一体何者なのか一瞬分からなかったのだが、今回の同行者にして護衛のヴェルモントさんの溜め息交じりのお言葉と、視界に捉えた人物のおかげで合点がいった。
「シンシア」
何故居るんだという心の声が聞こえた気がする。眼鏡をくいっと上げながら、彼は少し離れますねと言って彼女の方へ向かった。僭越ながら、俺の向かうべき方向もそちらなのですが?
シンシアさんと言えば以前、ルネッソ大陸で開かれた魔族会議にエンシェントが参加する際にお会いしたことがある。フルネームは確か、ラインハルト・シンシア・ジェノーヴァさんだったかな?
「隊列を組んで何故ここへ?」
「実は、王の命令でエンシェント様を迎えに来たのだ」
ヴェルモントさんの質問に答えるラインハルトさん。
って、エンシェントを迎えに? 番竜であるエンシェントを? 学園の番竜を引き受けて以来、エンシェントがドラゴン王の招待を断っていたこともあって、迎えに来るようなことは今までなかったのに。
しかしラインハルトさんの表情を見るに、やはり断られたっぽい感じである。それを裏付けるように、門の上からエンシェントが覗き込んできた。
「まったく、あやつも懲りぬものよ。儂はここの仕事が気に入っておるんじゃ。魔術学園が門戸を閉ざさぬ限り、ここを離れるつもりはないぞい」
「そうは仰られましても、今回は火急的事態に御座います。是非とも、エンシェント様のお知恵をお借りしたいのです」
「それは構わぬが、それはここを離れねばならぬほどのことなのか? せめて3日も待てぬと?」
「はい」
週末まで待てないのかというエンシェントの質問に、出来ないと断言するラインハルトさん。真剣な表情からも、余裕のなさが伺える。
その表情からは深刻な事態なのかどうかは判断できないものの、エンシェントを迎えに来るほどの出来事があったことは確かなようだ。それも早急に。
「まったく、仕方がないのう。ダリウスに話してこんとな」
「既にお伝え済みです」
「ほう、周到じゃな。では、この老体に鞭打って行こうとするかの」
「それには及びません。どうか私の背にお乗りください」
「そなたの背に乗るほど耄碌しておらぬよ。運動がてらひとっ飛びするくらいが丁度良かろうて」
「重ね重ねのご無礼、失礼致しました。では、先導致します」
「おぬし、儂の軽口を全部悪いように取るのは悪い癖じゃな。からかい程度に受け取って貰えぬと、くそ爺になった気分じゃぞ」
そんなやり取りですら、いえ決してそのようなつもりではとラインハルトさん。もう、何も言わない方が良いかもしれませんよエンシェント。
エンシェントのからかいは、分かる人には分かる楽しい掛け合いで終わるんだけど、ラインハルトさん相手では駄目だった模様。どうも相性が悪いようです。
因みにこの隊列、エンシェントの代わりに置いていくつもりらしく、お二人と数名以外はそのまま残った。その数、約20。その半数はドラゴンの姿となって学園上空を旋回し、授業が始まる頃には全数が学園の外で警備に当たっていた。
エンシェント一人に対して20のドラゴンって、その警備力にかける差は一体何を意味するのか。それだけエンシェントに番竜としての実力があったということなのか。はたまた、ドラゴン族の誇りに掛けて充分すぎるほどの人員を割いただけなのか。
結局エンシェントは、その日以来魔術学園に戻っては来なかった。
数日すれば戻って来るだろうと安易に思っていた俺達は、当然ながら何が起こったのか心配になった。試験当日の護衛担当がカイザードとカヴァリエーレさんだったこともあり、質問の集中砲火を浴びることになったのだが。
「もう! 質問に答えないと、これ飲ませちゃうぞ!!」
「うへっ、くっせぇー!! なんじゃそりゃ!?」
完全に皇凛に掴まってしまった。憐れ、カイザード。
苦悶の表情を見せるのは魔族さん達だけでなく俺達もなのだが、ブランシェも辛そう。皆、嗅覚は人並み以上ですもんね。俺等以上に辛かろう。
あのカヴァリエーレさんですら笑顔を絶やさぬままに息を止めてるっぽいし、タイタンも視線を足元に向けて辛そう。因みにブランシェは俺の左腕に顔を押し付けて悶絶しており、クウィンシーやシャオファンも顔をマントに埋めて震えている。すまんな皆、こいつのせいで。
本当は俺も近付きたくないが致し方ない。ブランシェと背後にいるシャオファンに一瞬息止めててと伝えると、カイザードに詰め寄る皇凛の元に行ってその劇物を鷲掴む。そのまま窓の外へと放り投げてやりたいところを踏み止まって、視界に捉えた人物へ向かって投げた。
「李先輩!!」
「え? えぇ!?」
驚きつつもナイスキャッチした李先輩にホッとしつつ、俺は後は頼みましたと丸投げした。一体何事かと驚いたのは一瞬のこと、劇物の匂いからすべてを察した李先輩は、どんどん青ざめていく。しかしそれを皇凛が逃すはずはなく、好機とばかりに李先輩の元へと走って行った。
「全て解決しましたね」
「そうだね、見事な投球だったよ」
「マジ助かった! ありがとな大介!!」
カヴァリエーレさんの硬直した笑顔も元に戻り、カイザードの涙目も緩和された。何より、被害を最小限に止めるナイスなタイミングで通りがかってくれた李先輩の功績は大きい。
劇物を持ってくるなとあれほど言ったのに、何故寄りにも寄って試験当日に持ってくるんだあの馬鹿は。周りにこれだけ魔族が増えれば、嗅覚の鋭い彼等には悪夢でしかないわけで、それでなくともクウィンシーのことがあるので持ってくるなと言ったことをもう忘れたのだろうか。皇凛のことだから、普通に忘れてそう。
あの二人のことは放って置いて、試験会場に足を向ける。若干まだ周囲に臭いが残っているような気もするが、異臭の元凶がない分まだマシかと講堂へと足早に向かう。
一時間目の試験内容は、合同魔術試験である。学年関係なしに行われる詠唱呪文の試験で、詠唱呪文の短いものを一度に十人が横並びになって皆の前で披露して見せるものだ。
難しいことは何もないし、危険なこともない。それぞれの実力を見せ合うだけのものなので、日本人的に分かりやすく言えば体力測定をやっているようなものだろうか。まぁ、簡単なので余程のことがない限り失敗はしない。俺の魔力も安定し始めているおかげで問題はなさそうだしな。
ところで、李先輩は無事だろうか。今回ばかりは俺のせいなだけに申し訳ない気持ちになるが、さすがに試験中に飲んだりはしないだろう……皇凛に常識があれば、な。




