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ささやかな一悶着はあれど、授業は何事もなく進んでいく。火属性の純一や水属性のシャオファン、緑属性の皇凛や土属性のシルヴィーも難なく成功させていた。
そのシルヴィーがまた、ほらどうだ凄いだろうと言わんばかりに踏ん反り返っていたわけだが…いや、だからどうしたって感じなんだが? 張り合いの対象にされているロイドですら、普段通り蒼実の隣にいるだけだし…安定の無関心でした。
可哀相ではあるが、正直どうでもいい。そんなことよりも、次は俺達の番なんだよなぁ。それが一番の気がかりだ。
「次、闇属性。前に出ろ」
遂に来てしまったかと、一瞬心臓が跳ねる。鼓動の音が周りに聞えてしまうんじゃないかというほど煩い。落ち着け、落ち着くんだ…
瞼を閉じ、何度か深呼吸する。
闇属性や光属性は、他の属性よりも魔力が高いから、力のコントロールが難しい。ほんの少しの集中力の切れ目が、正に命取りなのだ。
だからこそ強い精神力と抑制力を求められる。常に力の暴走の可能性を考え、その恐怖に打ち勝たねばならない。
だけど…
今のところ、術の成功率は五分五分。決して高い方ではないが、闇属性であることと年齢を加味すれば、高い方だとラクター先生は言ってくれる。それも偏に、同じ闇属性にして人生の大先輩にもあたるシュレンセ先生の親身なアドバイスのおかげだ。
特に精神面に関しては、それが出来てさえいれば魔力量を間違えたとしても安定するのだと教えてくれた。
心を落ち着かせるのだ。心を…
深呼吸と自己暗示でいくぶんか落ち着いた精神に、更にもう一度最後の深呼吸。ゆっくり瞼を開いて、腹を括った。
「魔窟に揺らぐ陽炎…魔物も屠る闇の焔…伏して我が前に姿現せ!」
黒炎の揺らめくイメージを連想する。今の実力では、どこまでイメージ通りに出現させられるのかは未知数。落ち着いて、数メートル先に微かに揺らめく黒炎を連想する。
現にそれが現れた時、成功したんだとほっとしたのだが。
揺らめく黒い炎は、一気に2メートルほどの巨大な火柱となって燃え上がり、それが徐々に獣の姿へと変化していく。完全なる獣となったその瞬間、空に向けて、おぞましいまでの雄叫びを轟かせた。
なん…なんで?
これは、俺の呼んだ黒炎じゃない。黒炎の化身・ブラックウルフだ!
首を左右に揺らしながら、ブラックウルフは再び吠えた。その瞳は、野生の獰猛さを持ってぎらついている。
俺を捉えたその瞳に、体を強張らせて怯えてしまったのは大失敗だった。
ブラックウルフに限らず、自らを召喚した者にその資格がなければ、ほぼ間違いなくその召喚獣は召喚者に食らいつく。例え召喚し慣れた獣であっても、召喚者に問題ありと分かれば同じこと。故に、召喚系は非常に難しく、召喚系の魔法使いはほとんどいないのだ。
中でもこのブラックウルフは、姿形はほぼ人狼と変わらぬ姿だが、彼等よりも獰猛かつ残忍な黒炎の化身であり、常に召喚者を殺める隙を狙っていると言われている。だからこそ、決して気を抜いてはいけない。望むべくして召喚したわけではなくとも、堂々としていなければいけないのだ。
黒炎が『地獄の焔』と称されるのならば、その化身でもあるブラックウルフの性格なんて、あえて説明するまでもなく…
口から黒炎を吐き、触れたものすべてを灰すら残さず焼き尽くすと恐れられる絶望の業火の化身。そんな獣がここにいること自体、俺にはわけが分からなかった。
だって、俺が呼んだのは黒炎なのだ。ブラックウルフではないのだから。
それなのに何故、と混乱する頭は完全に思考が定まらない。目が合ったまま身動きできない俺には、勿論ながらあれを止める術などない。
そもそも、あんな代物をどうにか出来るほど、力をコントロールできないのだ。一体、どうすればいいんだ?
三度雄叫びをあげた、全身真っ黒の黒炎を纏う獣は、四足歩行のポーズを取って数歩駆け出し、その後、俺を目掛けて飛び上がった瞬間、遠くで悲鳴のような叫び声が聞こえた。
その時にはもう、俺の耳にはそれ以外の音は聞えて来なくて…
温もりが、瞼を閉じ恐怖に強張らせる身体を包み込む。何かを引き裂く鋭い音と、背中を強か打ちつけた後の圧迫感。獣の唸り声と、耳元の呻き声。
一体、何が起こっている?
恐ろしさで耳鳴りがする中、薄目を開けて確認した。
獣から俺を庇うように抱きしめ、一緒に倒れこんだラクター先生。その背中に鋭い鉤爪で受けた傷を残し、苦悶に喘ぎながらも俺を庇い続けていた。
更にそこへ、二度目の攻撃が振り下ろされるのが見えてしまい…もう、駄目だ。このままでは、二人共死んでしまう!
誰か…誰か、助けてくれ!
きつく瞼を閉じ、祈った。
『誰か』に救いを求めて…
『呼べ…』
それ以外の音もなく、凍りついたように世界は静止する。
風さえ吹かず、色すらなく…何もかもが、一瞬の時間だけを切り取って止まっていた。
『我が名を呼べ……』
もう一度、声が響く。霞の向こう側から聞えてくるような、辺りに反響してはっきりしない声。
どこか懐かしく、凛とした声が体中に響いたと認識するや否や…
「 」
音にならない言葉を口にしていた。それだけしか、俺には分からなかった。
その瞬間、急激に音が戻ってきて、痛みに悲鳴をあげる獣の叫びが耳を劈く。
やけにそれが遠退いていくなと思ったら、獣は数メートル弾き飛ばされて、地響きを鳴らしのた打ち回っていた。苦悶の悲鳴をあげながら、ゆったりと立ち上がった獣の右目の上から頬にかけて、先ほどまではなかったはずの大きな傷が存在しているのが見えた。
それらをただ唖然と見つめていたら、更なる殺意の視線を獣は向けてきた。今度こそ命を奪わんと突進してきた…のだが。
草を踏む足音が、傍で聞こえた。
それを見上げるより先に聞こえてきたのは、二人の友人の詠唱呪文だった。
「闇黒の刃…破壊の剣…千の鋼となりて、敵を討て!」
「たゆたう心…導け光神…淡く儚く、天光を燈して!」
二つの技が絡み合い、光と闇のコントラストが辺りを包み込む。
標的に向かって空から落下する無数の闇色の針と獣を包む光の帯が、まるでオーロラが如く七色の輝きを放って獣に襲い掛かり、その渦中で呻き声を轟かせ、悲痛な悲鳴だけを残して獣は消失していった。
やっと終わった…と安堵感から脱力した俺は、自分とラクター先生の体重を支えきれずに草むらに身を投げた。もう本当に、疲れきった…
微かな間だったが、心配顔の蒼実が慌てたように覗き込んで来るまで、ラクター先生の傷のことすら完全に忘れて安堵感と脱力感に襲われていた。
「大介くん、大丈夫!? ラクター先生も!!」
「俺は大丈夫…ラクター先生は、大丈夫ですか?」
「心配するな。かすり傷だ」
そう言いながらも、上体を起こす際に顔を顰めたラクター先生。痛みを耐えるその姿に、責任を感じずには居れない。俺のせいで怪我をしたのに、責めることのないラクター先生。ただただ、反省顔で意気消沈するしかない。
なんで避けることすらできなかったんだろう…と、後悔ばかりが募る。あまりに咄嗟のことでラクター先生も防壁を張れなかったらしく、こんなにも酷い怪我を負うことになって…
駆け寄ってくるシュレンセ先生の、慌てたような声が聞こえた来たのはそんな時だ。
「今、強い魔力を感じたのですが、皆さん大丈夫でしたか!?」
普段からおっとりしていて余程のことがない限り焦ることのないシュレンセ先生が、心配顔で息を切らせている。それを見るからにどれほど心配させたのかが窺えて…
特定の誰かに尋ねたものではないから、皆視線が合うと一応に首を振って無事を主張する。そのすぐ後に俺達の方へと不安げに視線を向けるから、視線の先の俺達を見つけたシュレンセ先生は見つけることとなった。
そしてラクター先生の容態を見て、慌てたようにこちらに近付いてくる。一体何があったのか、ここはやはり、ちゃんと俺が言うべきだろう。
「実は、俺の詠唱呪文が失敗して、黒炎じゃなくてブラックウルフを呼んでしまったんです。それでラクター先生が、怪我を…」
「そうなのですか。貴方は無事ですか?」
「はい…」
「そう、それはよかった。君達は大丈夫でしたか?」
「はい、僕もロイドも怪我はないです」
ほっと安堵の表情を見せたシュレンセ先生は、次いでラクター先生の容態を見始めた。
ヴァンパイアだから元々青白い顔なのは当然のこととしても、更にそれを青ざめさせ苦痛から荒くなる息遣いを前にしては、大丈夫とは言いがたい。
しかし、尚もラクター先生は大丈夫だと言うのだ。
「クラヴィス、大丈夫ですか? 傷を見せてください」
「私は大丈夫です、ウィリアス様。このくらいの怪我、自己治癒力で治せます」
「強がりはいけません。ブラックウルフの鉤爪の餌食となって無事でいられる者など、居るわけがないのですから」
それを聞いて、思わず胸が疼いた。俺の未熟さがこんな結果をもたらしたのだと思うと、尚のこと責任を感じずには居れず…
そんな俺の頭に、大きな何かが優しく乗せられる。暖かなそれが見た目以上に熱を持っていると感じた時には、その大きな手は頭を撫でていた。
普段の鉄壁の仮面には珍しく、慈愛に満ちた優しい笑顔がそこにあって…
「お前のせいではない。責任は感じるな」
「ですが!」
「誰も予測できないことだ。悔いても仕方ない」
でも…と、まだ何か言いたげな俺にラクター先生は苦笑する。
それを見ていたシュレンセ先生も、やはり俺のせいではないと説き伏せて…
「闇属性は、他の属性よりも暴走しやすいものなのです。闇であるが故に、深く暗く重い魔力でもある。そんな力をたった13歳の君が、使いこなせるはずはないでしょう?」
そうだけど…とまだ納得し切れてずにいると、シュレンセ先生は尚も語りかけた。
「誰が悪いだなんてことはありません。ただただ貴方に怪我がなくてよかった。それだけです」
心底ほっとしたように、優しく微笑みかけてくれるシュレンセ先生。その胸に抱き寄せて頭を撫でられると不覚にも泣きそうになってしまったけど、近くで蒼実がもらい泣きしているのをすする鼻音で聞いてしまうと引っ込んでしまった。
涙よりも羞恥心の方が優るとは…
闇属性や光属性は元々人には扱いきれない代物なのだと、生粋の幻想界生まれではないから魔力を安定させる知識がないから仕方がないのだと、慰められた。確かに、生粋の幻想界生まれ幻想界育ちのロイドにはこの世界での経験がすでにあったから差があって当然だけど…やはり、自分の失敗というのは許せないものだ。
苦々しく思う気持ちに気付いているのか、シュレンセ先生は少し身体を離して視線を合わせると…
「焦っても仕方がありません。ゆっくり自分の力を知って、使いこなせるようになりましょうね」
「はい…」
シュレンセ先生もまた、少年時代、何の魔法の知識もなく魔術を習得したのだと以前教えてもらった。その当時はまだ魔法使いや錬金術師の育成のプロセスが出来ておらず、ほぼ独学で学んだのだそうだ。
地道な努力の成果で錬金術師となったシュレンセ先生は、魔術と錬金術の融合を主な錬金術であると確立し、最古の錬金術師という異名を持つに至った偉大な人となる。
不老不死なシュレンセ先生にとって、それとはまた別の苦悩があるのだが、そのことも含めて、俺の心情にいつも配慮してくれる。
だからこそ一言一言に、こんなにも安心するんだろう。
その後、終礼も間近ということで授業を終えることとなった。
一遍のわだかまりを残しつつも、次の授業が行われる教室へと向かって行く俺。その間も皇凛を始めとする友人達の心配を受けつつ、ラクター先生の怪我を心配していた。
前にアイガン先生の授業でブラックウルフのことを習った時、ブラックウルフの爪や牙には猛毒あり、早期の治療をしなければ死に至る可能性もあると習った。
ラクター先生はヴァンパイアだから、死に至ることはないかもしれないけど、一概にないとも言い切れず…
心配でなかなかその場を離れなかった俺に、私が治療に当たるから大丈夫ですとシュレンセ先生は言っていたからきっと大丈夫なはずだけど…心配なものは心配だ。俺のせいなんだし…
それは友人達も察しているようで、特に皇凛は、タックルの勢いで背後から俺に乗っかってくるわで…首、絞まってるから!
苦しげに訴えても離してくれず、少しでも楽になろうとへたり込んだら…
「おはよう皇凛。皆も」
と、死にかけな俺が見えているはずなのに不釣合いなほど温和な笑顔でにっこりご登場したのは李飛鳴先輩。相変わらずの鈍感さ、空気の読めなさで、この重苦しい雰囲気の中に平気で飛び込んできた。
いつも何かと言って皇凛の実験台にされる辛い体験を強いられ、それによって涙を禁じ得ないほど可哀相な目に合っているはずなのに、どうしてこの人はこんなにも学習能力というか自己愛というものを捨て去ってしまえたのだろう。今朝だって死ぬような思いをしたであろうに…
皇凛の従兄弟にしてこんな子悪魔を愛しちゃっている悲劇の人、李先輩の深すぎる愛には本当に舌を巻く。決して目立つほどの美形ではないが、非常に真面目で、成績優秀、温和な優等生な李先輩。
しかしせっかくの優等生も、皇凛のせいでいつも出席日数だけはギリギリという事実。俺だったら、とっくの昔にキレている。
まぁ、先輩の場合は惚れた弱みとかそういうものだから仕方がないのだが…理解は、出来ない。今だって李先輩、不気味なほどにいい笑顔でにっこりしている皇凛に思いっきり騙されていて…なんだもう復活したんだつまらない、という意味だとは気付いていないようだ。
そんなブラック皇凛の姿に、盲目的な李先輩は気付くことはない。
「おはよう飛鳴。もう大丈夫? 昨日渡した薬、失敗してたみたいで…ちょっと、心配だったんだ」
「心配…してくれたの?」
心配の一言に感激する李先輩だが、残念ながら貴方が思っているほど、皇凛は純粋無垢ではないのですよ。
その証拠に…
「そりゃあ…するに決まってるじゃん。飛鳴のこと、大事だもん」
「皇凛…」
これらの掛け合いのすべてが、己の望む結果への布石なのだから…
決まってるじゃん発言に、更に感激を深める李先輩の瞳はキラキラと潤んでいる。まさに、惚れ直したと言わんばかりにうっとり笑顔の先輩に、当の皇凛の方はというとそうではなく。
「ありがとう…もう、大丈夫だから」
「そう? それは良かった」
俺を巻き添えにした状態で、勝手に二人だけの世界を作られるのは傍迷惑だ。しかも、まださっきの授業のショックから抜け出せてないのに、こんなやり取りを間近で見せられるなんて…
取り越し苦労ならいいのだが、皇凛の思惑に、これでまた実験が出来るぞという意図がある気がするのは果たして俺の気のせいなのか…
ただただ、強く生きてください李先輩と心の中でエールを送っては、彼の幸福な未来を願い合掌するしかことしかできなかった。